ステージ19 ジャン、無双する

「勇者ジャン?」


 このゴーレムと妖精たちの戦いの光景は、アフシールJr.の魔力により逐一伊佐家に届けられていた。その中で魔王と戦う妖精たちを襲うゴーレム――――あの五部倫太郎の魂が込められたらしいゴーレムを背中から一刀両断にした一人の青年。それがあの妖精たちが主と仰ぐ「勇者ジャン」らしい――――と言われた所で一般的な日本人である伊佐家の人間にはすんなりと納得する事はできなかった。


「でも叔父さん、あのお兄さんがあの悪い奴をやっつけちゃったんでしょ?」

「いい人じゃない」

「………………」


 雄太は、深くため息を吐きたかった。あまりにも子どもたちには刺激が強すぎるビジュアル、そして言葉遣い。自分一人ならともかく親として、教育者としてどうしてもすんなりと受け入れられない怖さ。そしてそれ以上に、自分の教え子があんな事をしている現実が雄太には重たかった。

 あまりにも唐突な存在であったことは間違いない。だが、それでも「不破龍二」という人間は自分の生徒だった。こんな奇妙な世界に連れ込まれ、はるか遠くの景色を見せられる力を与えられ、数多の怪物を使役しているのを見せられてなお、雄太は龍二を信じたかった。


(「俺は臆病者だ。だからクラスの生徒たちを、いやそれより少ない家族を全員守りきる自信もない。ましてや自分の身も守りつつとなるともっと自信がない。それでも俺は生徒に自分の可能性を目一杯引き出してもらうまで守り切らねばならない、少なくとも俺の目の届く内は」)


 可能性などと言うありきたりな言葉ではダメかもしれない。でもこうしてある意味無限と言うか未知の力を見せつけられてしまっては、他の子どもたちも同じようにできるのではないかと言う思いを抱かざるを得ない。その可能性をまったく発揮できないまま死んだ人間をよく知っている以上、もう誰も同じ目に合わせたくなかった。ほぼ喰うため自立するために選んだ教師と言う職業であったが、それでも十年の間に公私ともいろんな思いをして来た。

(「おい龍二、お前の望み、お前のやりたい事はわかった。だが俺はその望みを否定はできない。お前の生まれ故郷と俺たちの世界では違う常識があるのだろうな。その常識、その立場からもってすればお前の望みはわからなくはないそれなのかもしれない。それをこの世界の存在である俺が頭ごなしに否定する理由もない。だが、肯定もできない。その後の答えをまだ聞いていないからだ」)

 父親に代わって、故郷の世界を治める。そう言えば体はいいが、要するに父親の模倣に過ぎない。その先に一体何があるのか。復讐は何も生まないとか言うが、すべての後先を見失っての行いは復讐に限らず何も生まないだろう。世界征服と言う言葉は大きいが、それをできる力のある人間はいない。いや不破龍二ことアフシールJr.ならばできるかもしれない、しかしその後はどうなるのだろうか。その答えを聞かない限り、聞いて納得させられる物ではない限り認める訳には行かない。


「兄さん水持って来ようか」

「総司、缶コーヒーをくれ。ブラックコーヒーがあっただろ」

「兄さん!」

「俺なりの戦い方だ、お前も飲むか」

「……ああ。父さんも」

「頼む」


 雄太、総司、そして康次郎の成人男子三名は、魔王の贈り物であるブラックコーヒーの缶を開け、一息に啜った。教師として、親としての戦い。あくまでも不破龍二と言う存在と向き合うことを決めた雄太とそれに付き合う父と弟の後ろで久美は祐樹と由紀を抱き、玖子は若干苦しそうな寝息を上げ始めていた。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「久しぶりだな、勇者ジャン。僕だ、アフシールJr.だ」

「どうしてまたこんな事を」

「複雑な理由など何もない、お前を倒すためだ。それにしても、今のお前はかつてとは比べ物にならないほど強大であり、凶悪だな」


 アフシールJr.は崩れたビルの屋上に立ちながら、ゴーレムの死体とジャンを見下ろしていた。アフシールJr.がジャンを直接見たのは二度目であり、初回はアフシールの死に際に援護に入ろうとしてちらりとその姿を見かけただけであるから事実上これが初対面である。


「凶悪か、そうかもしれない。今の僕の力は、こんな化け物を一撃で倒せるほどになってしまっている。この力、できれば使いたくないんだけど」

「実にお前らしいね。その姿勢のまま、父さんを倒したんだ。怖いよ、本当に怖いよ」


 ジャンの顔にも言葉にも、自信がない。弱々しいと言えるが同時におごり高ぶりがないとも言え、その言動に勝手に騙されて自滅同然に敗れた相手は少なくなかった。その上に逃げる事をまったく不名誉としない物だから、ますます厄介であった。その事が父の敗因の一つだとさえアフシールJr.は思っている。


「どうしてお前はそうなんだい? その結果僕に逃げる時間を与えちゃったんだけれど」

「魔王が、そうあっけなく倒れる訳がない! 必ずやまた更なる力を出して来ると思ったから!」

「それは性格かい?」

「体験だ!」


 伊佐新次郎と言う一般的な日本人の男性が、テレビゲームをやる事は全然珍しい話ではない。そのゲームを最後まで進めてラスボスと戦い、倒したと思いきやラスボスの別形態が現れてさらなる戦いを強いられると言う体験をした事もあった。そんなまったくどうでもいいはずの事を、アフシールとの戦いの時に伊佐新次郎が思い出したのは彼の前世の数少ない思い出だったからだろうか。

 兄と弟と、仲良く騒ぎながら進めたゲームソフト。十分以上かけてラスボスを倒したと思いきや出て来た今までのは前座だと言う大魔王からの言葉。本気の本気になったラスボスにアイテムの尽きていた「ゆうた」たちはなすすべなく敗れ、レベル上げとアイテムの補給のためにクリアが十日以上遅れたのはいい思い出であった。そしてラスボスが変身する事などさほど珍しくもない事をクラスメイトたちから知らされて笑われたのも、決して悪い思い出ではない。


「勇者ジャン、いやあえて伊佐新次郎と呼ばせてもらおう。今お前が斬ったゴーレム、そのゴーレムにはお前をはめた五部倫太郎とか言う男の魂が入っていた。それをお前は斬ったんだよ、殺したんだよ」

「魂を手に入れるには殺すしかないんだろ」

「第一に怪しまれるしそれに能力の制限もあるからむやみやたらに乱獲はできない、けど必要な魂は十分に引っこ抜ける。元々お前のしもべのせいで自殺してもおかしくないほどに追い詰められていたから、そのまま殺して魂を奪うのは簡単だった。力も簡単さ相応みたいだったのは残念だけどね」


 おしゃべりの間に、ジャンは転移魔法を使ってアフシールJr.のいるビルの屋上へと飛び込んだ。アフシールJr.は舌を動かしたまま飛び上がり、口を閉じると同時に屋上のジャンへと空飛ぶ魔物たちをけしかけた。

 数匹のハーピーに、二匹のガーゴイル。そして一匹の翼竜。どんなに強そうに見えても中の魂の力により見かけ倒しだったりその逆だったりする事があり、そのやり方でアフシールは多くの勇者たちを破って来た。


「さあ、一斉に攻撃をかけるんだ!」


 ハーピーの爪、ガーゴイルの鎌、そして翼竜が火を吐きながら迫って来る。鉄筋コンクリートのビルが崩れ、焼け、黒く染まって行く。ある意味袋小路に入ってしまっていたジャンだったが、それでもまったく動揺の色はなかった。自身の瞬間移動の魔法で翼竜の上に移動するとその首を叩き落とし、そして離れた道路の所に着陸。そうやって視点をずらした所に、ジャンの姿を確認したトモタッキーの雷攻撃が炸裂して大半の魔物が消し炭になった。


「ハーウィン、もう待ったんだから!」

「俺とした事がやっちまったぜ、予想外にディアル大陸に送り込まれてた魔物の数が多くてな」

「見た目で強さが分かりませんからね」


 雑魚ばかりだとしても数が多ければ厄介だし、何よりディアル大陸に魔物を残すわけには行かない。ハーウィンから連絡を受けトモタッキーたちの下へ向かおうとしたジャンの下に一匹のスライムが現れ、次々とジャンとリシアに襲い掛かった。幸いにも全ての相手が鎧袖一触の雑魚だったが、その発生地が分からない以上うかつに動く事はできなかった。かつての魔王の城だろうと言うヤマカンが的中したおかげで足止めを諦めたアフシールJr.の手により魔物のディアル大陸への流出はなくなったものの、逆流した魔物たちがこのトライフィールドにあふれ返っていた。


「さすがだな、一番強そうに見える魔物を狩りに行くとは」

「見える、なんだなやはり」

「そう、本命はあそこのハーピーだった。お前から金貨数枚分の現金を搾取したあの悪辣な輩だ。もしそこの妖精によって精神を砕かれていなければもっと強い魔物になれたのにな……」

「ごめんなさいと言うひとことが欲しかっただけです!」


 依田美代子と言う人間の魂を突っ込まれたハーピーは、トモタッキーの攻撃を受けて瀕死の状態になり、そして誰からも顧みられないままガラスの飛び散った地面の上で息を引き取った。本来の目的であるはずの勇者ジャン、ある意味で自分の人生をぶち壊した存在への攻撃及び復讐もまともにできないまま、勇者ジャン伊佐新次郎のしもべにより完全に死んで行く。因果応報と呼ぶべきかもしれないが、それにしても痛々しい最期だった。しかもそんな悲惨な最期を、精神崩壊からの突然死に続き二度も経験している。


「お前の世界の電話とやらも便利な物だな、ただ僕の魔力にはかなわない」

「どういう意味だ!」

「お前みたいな成人男子ならともかく、六歳児にこんな言葉を聞かせる訳には行かないだろ? 魔力にはそれができる」

「まさか!」

「まさかと言いながら薄情だねえ、何か言う事はないのかい?」

「何を今更!」


 ジャンの眉毛が大きく跳ね上がった。ハーウィンからこの世界・トライフィールドの事はある程度聞かされていた。その人間のいないはずの世界の六歳児、それが意味する答えはまったく難しくない。アフシールJr.が、どこかから六歳児を連れ込んだという事だ。アフシールJr.は右手から魔力を込めた球を放ちながら飛び回り、小さく笑った。

 そしてその六歳児が何者なのか、ジャンもわかっていた。結局自分はためらいとつまらない経験から、魔物たちを倒し切れなかった。そのツケを自分だけではなく次の世代にまで押し付けてしまったのかと言う罪悪感はあったが、それでも今はその次の世代たちを守りたかった。その剣の冴えは衰える事はなく、刃の光は薄暗い灰色のコンクリートジャングルを照らす。大時代的かつ非日本的なその剣の輝きが、わずかに赤い色をまといながらアフシールJr.へと向けられる。


「ハハハハ! そうだ! そうだ! もっとあがけ! 消耗しろ! そして僕におとなしく膝を折れ!」

「黙りなさい!」

「お前らでは無駄死にだ、引っ込んでいろ!」

「コーファン、回復を頼むよ!」

「はい……」

「畜生…………あの野郎好き勝手言いやがって!」

「ハハハハハハハハ!」


 アフシールJr.の高笑いに、コーファンの罵声とトモタッキーの救援要請とハーウィンの唸り声が重なる。三人とも、アフシールJr.への憤りを隠そうとしていなかった。

(やはり妖精たちは大した事はないか、妖精たちは……だが!)

 だがジャンはあくまでも冷静に、かつ着実に目の前の敵を倒している。ヤクザたちの魂を狩って集めたコボルトたちも、おおむね良くて二太刀で倒されている。何十人で取り囲んでも魔力で距離を取られて一対一に持ち込まれ、かすり傷も与えられずに倒れてしまう。

(もうそろそろ財宝を取り出すか、いやまだ……!)

 切り札を切る時はいつか、アフシールJr.は悩んでいた。魔王と言う軍団の長として、あるいは今まだ戦力があるうちに切り札を切るべきか、それとももう少し疲弊させるべきか。アフシールJr.は笑い声を上げながら、タイミングを探していた。


「まずインキュバスだけでも倒さなければ!」

「そうですねまずは」

「させるかよ!」


 緑色の羽をしたガーゴイルが妖精たちにとびかかる。うめき声を上げながら、長く鋭い鎌を振り回し信号機をも切り裂こうとする。


「ガーゴイル!ジャンには構うな!その派手な髪色の連中を殺せ!」


 もし妖精に先手を打たれてなければ強い魔物が出来たはずの魂、富良野久太郎の魂を突っ込んだガーゴイルは紫色の硬質な肉体をのろのろと動かしながら、しかし鎌だけは素早く振っていた。ハーウィンが後方に回り込もうとすると、ガーゴイルは鎌を高く上げて真っ黒な壁を作った。ハーウィンがあわててブレーキをかけて後退すると、黒い壁はみるみるうちに大きくなりやがてガーゴイルの背後をすべて覆う大きさになった。


「これで後ろは取れまい!ああインキュバスならその向こうの喫茶店とやらにいるぞ」

「勇者様に頼るしかないのですか!」

「勇者様!」

「わかった!」


 ハーウィンの力を受けた勇者ジャンの前に、あのガーゴイルがどれだけ抵抗できるかなど知れている。でもそれにより少しでも時間が稼げれば、決断ができれば良い。その勇者の勝利、インキュバスの無事が何を意味するか。アフシールJr.は口からの笑い声と魔力の放出を控えると同時に、内心でこれまでよりずっと大きな笑い声を上げた。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※




「あれが……新次郎なのか?」


 アフシールJr.の言葉を半強制的に聞かされていた伊佐家の長男・雄太の口から、新次郎と言う名前がこぼれ出した。五部倫太郎と言う名前が出た時点で、まったく覚悟がなかったと言う訳でもない。だがその五部の魂が入れられたゴーレムを一撃で斬り倒した銀色の鎧兜を身にまとい盾と剣を持った青年が、一年前に死んだはずの伊佐新次郎と言うのは信じられなかった。

 あまりにも突然の、そして生きている間はありえないと思われていた再会。ジャンと伊佐新次郎は、外見としてはまったくの別人だった。一つ持つだけで数キロはくだらないはずの剣や鎧を身にまとえるような膂力などないはずの新次郎が、それを棒きれやTシャツのように軽々と使いこなし、着こなしている。


「間違いねえよ雄太兄さん」

「総司」

「あれは兄貴なんだよ!」

「兄貴……」

「兄貴が帰って来たんだよ!」


 雄太が逡巡する中、総司は窓枠に手をかけながら興奮した様子で叫んでいた。中学校頃まで呼んでいた兄貴と言う言葉で新次郎を呼び、子どもの頃に戻ったように笑っていた。


「証拠は」

「父さんにはわからねえのかよ、あれは間違いなく兄貴なんだ!」

「うう……」

「おばあちゃんどうしたの」

「さっきより苦しくなってる気がするけど」

「私が何とかするから」


 雄太が窓の外を指してはしゃぐ総司に押されて黙ってしまった中、泰次郎は首をひねり玖子は苦しそうにうめき、祐樹と由紀は玖子を心配し久美は押し入れから毛布を取り出して玖子にかけた。

「(なあ、お前はあれが新次郎だと思うか)」

「(私は……そうだと思います)」

 毛布を掛け終わった久美は子どもたちを守りながら雄太の隣に立ち、お互い目線を交わし合った。そして雄太は久美が総司と同じ認識であった事を知り、総司の手を強く握りしめる事によって総司に了解の意を示した。


「兄さんもわかってくれたか!」

「根拠なんか……ないけどさ」

「あの人が死んだら、私たちも危ないかもしれません!と言うか、他に運命を誰に託すんですか!」

「そうか……わかった」


 改めて、ここが自分たち六人だけしかいない世界であることを伊佐家の人間は思い知っていた。いやジャンが増えたが、それでもたったの七人。その孤独な世界で自分たちが出来る事は、そのジャンに願いを託す事だけ。その眼前の現実と向き合うと共に、アフシールJr.の言葉と言う証拠に乗っかる事にした。


「兄さんは信じてるのか?」

「ああ」

「それはどれをだよ」

「全部だ」

「兄さんはやっぱり教師だな、俺とは違うよ」


 アフシールJr.が口から出まかせを吐かないと言う証明は誰にもできない。異形の姿をした魔王を名乗る存在、その名前にふさわしい力。その上に現在進行形で飛んで来る「魔王」らしい言葉。それでもなお、雄太は「不破龍二」を信じていた。青臭い事を言えるような年齢ではないはずだが、龍二を見ていると不思議とそういう気持ちになって来る。

 何とでも言わば言え、自分は自分の道を行く。世間が悪だ愚かだと言おうとも知った事かい、そういう生き様をあの教え子はしていた。確かに人間の基準で行けば実に非道な真似をしているのだろう、でも彼には彼の基準がある。杓子定規に自分たちの基準を当てはめ続け、彼の持つ基準を歪めるのが果たして正しいのだろうか。可能不可能とか以前に、なぜかしてはならないと言う気分になっていた。

(殺すに値しないと言うお前の言葉、受け取っておこう。だがうちの弟は強いぞ、お前に勝てるのか?)

 新次郎に対するわだかまりもあった、あの世で再会したらいくらでも言ってやろうと思った。でもこうして今この世で再会した今、そんな物は吹き飛んでいた。甘ったるいのはわかっていたが、それでも半月あまりの師弟関係と言う以上の信頼感、絶対に自分に手は出さないだろうと言う奇妙な信頼感が生まれていた。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 主人がそんな奇妙な信頼感を受けている事など知らないインキュバスは、マスターも客もいない小さな喫茶店で出入り口のそばの椅子に座りながらじっと念じていた。


「さあ、暴れろ伊佐新次郎!斬れ、さらに斬るのだ…………」


 甲冑と剣と盾を身に付けた伊佐新次郎、要するにジャンが魔物たちを斬り倒して行く。一人、また一人と死体が積み重なり血が吹き出て行く。悲しい話だが、現実とあまり変わらない光景でもある。

(悪夢から覚めるのは吉事、されどその先に待つ現実が悪夢と一致していた時の苦しみはその幾倍……それで悔いるようならば財宝ではない)


 三十三歳の伊佐新次郎が、ビジネスマンとして出世をして行った。きれいな一人の妻(サキュバスを手本にして作った顔)と息子と娘を連れて帰り、家族の話をしてくれる。家族団らん、人生の勝利者としての空間にいる自分。楽しい楽しい、理想の老後。自分の努力が何ひとつ無駄にならなかった証のような世界。

 しかしそんな楽しい夢はいきなり消え失せ、伊佐新次郎は顔だけそのままに鎧兜を身にまとい剣と盾を持ち、窓の外から飛び出して行く。そして数多の怪物を無慈悲に切り刻み、その体を血に染めていく。その傍には三人の美女が控えている。彼女たちは新次郎をまったく止める事もなく、むしろその味方をしている。


「悪夢を見せるのは本意ではない…………とは言え全てはアフシールJr.様のため。どうかお許しいただきたい物だ」


 可愛い可愛い息子の新次郎が、次々と敵を斬って行く。魔物だけならばまだしも、人間さえも。それもわかりやすい犯罪者やヤクザではなく、一目悪人に見えないような人間たちを。それがかつて現実の彼に冤罪を着せたり、幾十万の大金を貢がせたりしたような女である事など知る由もなく。あまりにも野蛮で、悪辣で、一方的な殺戮。自分やアフシールJr.、他の魔物たちがした全ての破壊を、インキュバスは夢の中で伊佐新次郎のそれに作り替えていた。こういう場合相手に信頼感があるとうまく行きにくいのだが、驚くほどすんなりと話は進み続けた。

(我が妻であればもっとうまく行ったのかもしれない、それでも女性の夢に入る事は苦手だったようだが……)

 淫魔であり夢魔である身として、人間の夢の中に入り込み操る事には慣れているつもりだった。また相手を眠らせる事も得意のつもりだった。だが、あくまでも異性向けだった。サキュバスでさえも苦戦していた物を、今ここで同性に使う理由もなかった。もし財宝が同性であったとしたら、蜂起を諦めて時を待つように言ったかもしれない。でも異性であった以上、これ以上時を待つわけには行かなくなった。吉か凶かなどもうわからない。


「斬ったか、そうか雇い主をも斬ったか!食い扶持を与え続けていた存在をも斬ったか!」


 また一人、かつて自分を苛んだ存在を斬った。現実ではガーゴイルの姿だが、彼女の夢の中ではただの人間である。そのただの人間を真っ二つにする息子の姿、理想と180度離れたその姿がどれほど彼女にとって醜く映るか、そしてどれほど彼女の心を苛み憤りを膨らませるか。

(これは最後の賭けだ、良心の呵責に苛まれればこちらの負けは確定だ! でも、どうせこの魂はもぎ取らなければならない、なるべく活性力のある存在として!)

 どんな魂でも、死ねばその瞬間から活力は落ちる。活力ある魂を注ぎ込めれば強くなる。だがそれ以上に魂としてどれだけ悪辣であるかが優先であり、活力の多寡は二の次に過ぎない条件だった。


「うう……」


 うめき声が、インキュバスの耳に入った。無力感に押しつぶされそうな魂、いくら手を尽くしても何もできないと言う無力感。それこそが今のインキュバスには必要だった。だからこそ自分はこうしている。インキュバスは観葉植物と飴色の照明の中で、勇者と戦い続けていた。







 そのスーツを着た魔物が椅子から立ち上がったのは、決して仕事が終わったからではない。この場に悠長に座り続ける余裕がなくなったからである。


「見つけたよインキュバス!」

「トモタッキー、追いついたか」


 先ほど振り切ったはずのトモタッキーの追撃が、彼の孤独な戦いに終止符を打った。ガラスにはトモタッキーの出した氷のかけらが突き刺さり、割れたガラスと混ざってきれいな喫茶店の床を危険な場所にしていた。


「それにしてもこんなきれいな場所を危険地帯にするとはね」

「お前がいるところは危険地帯よ!」

「やれやれ、勇者ジャンに仕える女性と言うのは貞淑でなければなるまい。ジャンの名前にもかかわるぞ」

「うるさいわよ、この紳士気取り!」


 出入口のドアを押して店を出るインキュバスのしぐさは、確かに紳士のそれだった。一方でトモタッキーの荒々しい攻撃や粗暴な言葉遣いに、淑女の影はない。笑みを崩さぬまま飛び上がって行くインキュバスに対し、トモタッキーは顔を真っ赤にしながら相手を殺すが為だけに映像を描き出して行った。

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