天才tinko VS ひよこ餅(おそらく)

 南国けんじが多分ひよこ餅。海が多分asuka。

 おでんwikiより




 あ

 1 :あ:2011/08/11(木) 04:26:56

 あ


 2 :まんてぃす:2011/08/11(木) 04:28:20

 >>1

 あ は俺だ

 まんてぃす様だ

 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハ(笑)

 暇だから誰か相手しろ


 3 :名無しでござる:2011/08/11(木) 06:18:00

 >>2

 お前暇なんだろ。なすべき用事もなくて、自由な時間があるんだろ。

 それなら何か一つぐらい頭をよぎった疑問とか掲げられねーわけ?

 なーんにも考えずに生きているわけじゃないだろ。何かしら思ったことがあるだろ。

 どうしてそれを書かないんだよ。どうしてお前はそうも他人任せなんだ。

 ちょこっと考えれば済むようなこともお前にはできないのか。

 恥ずかしいと思えよ。それかいっその事パソコン壊して勉強に発起しろよ。

 お前じゃ相手にされないか、ボコボコにされるか、どちらにしろ惨めで可哀想な結果に終わるんだから、そっちの方が懸命だって。

 何でそんなに偉そうで投げやりなんだよ。おんぶに抱っこか。喧嘩しようってーのに甘えすぎだろ。

 もっとマシな発想はなかったのか、凡愚よ。もっとマシな手段はなかったのか、愚図よ。


 4 :天才tinko:2011/08/11(木) 23:53:08

 喧嘩城はやさしい掲示板なので、自分が思いついた脈絡の無い疑問をどんどん書き込んでくださいね!


 喧嘩城では喧嘩を「智恵+論理=知識」という形で捉えています。

 通常は「知識+論理=智恵」ですが、これの逆算を試みる所が喧嘩城!なんですよ!


 5 :sue:2011/08/12(金) 01:05:31

 haihai sense-


 >>4 no shiki no imiga sappari wakanneeyo kusoga


 6 :海:2011/08/12(金) 06:02:13

 前者と後者で知識の意味が違ってくるような気がするの

 だって、同じだったら大変なことになってしまう

 言いたいことは何となく分かるけど、不足気味ですの


 7 :天才tinko:2011/08/12(金) 17:13:17

 知識は同じ意味だよ。同じじゃなかったら、式にしても対比の意味を成さないじゃん。あほか。



 知恵はクレーム(主張・思いつき・気づき・閃き)

 論理はワラント(主張と証拠を結びつける理屈)

 知識はデータ(証拠)の事


 8 :sue:2011/08/12(金) 17:39:32

 それぞれ同じ意味なら


「知識+論理=智恵」と「智恵+論理=知識」で


「智恵+論理+論理=智恵」とも表現されちゃうんだけドドドドどどんまい


 とにかく言いたいことがわかりづらい


 9 :天才tinko:2011/08/12(金) 17:48:30

 >>8

 え?なんで?

 オマエふつーに間違えてない?w

 意味わかんないぞ・・・


 どっかにデータ・クレーム・ワラントについて書いたんだけど

 普通は証拠を基に論理を適用させ、主張(知恵)を作るけど

 知恵(主張)ありきで、それを成り立たせる論理を組み立てていけば、適切な証拠が見つかるはずだ。という、わかりやすい逆説だよ。


 10 :sue:2011/08/12(金) 18:27:24

 いやいや、式の意味が分からんわけだが。言いたいことは漠然とわかるけどさ。


 そして君が言いたいのは逆説じゃなく帰納と演繹の話でしょ。


 言葉にせよ式にせよ本来のものより多くの意味を持たせて話すと相手は誤解を起こすよ。


 11 :天才tinko:2011/08/12(金) 19:38:10

 帰納と演繹の話とは全然違う。

 データ・クレーム・ワラントは帰納とか演繹じゃないから・・・

 なんていうんだろ、これを説明するには、データ・クレーム・ワラントを1から説明し直さないといけないw

 言いたいのは「1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現」だから、やっぱり逆説であってる。


 オレは基本的に言葉を本来のものより多く意味をもたせる事は絶対しないよ。

 むしろ、書きこむ時は常に「どこまで言及したらいいかな・・」を考えてる。できるだけ簡潔に言い表せるようにしてる。昔は意味を複雑な言い回しにしたり付け足したりしてたけどね。喧嘩だっら今でもそういう事もするかな。


 なんで、「智恵+論理+論理=智恵」とも表現されちゃうって思ったのかが知りたいw

 まったくわからん・・・


 12 :海:2011/08/12(金) 19:52:00

 同じじゃないと意味を成さないのは当たり前だよ。

 でも、同じにしちゃうと何となくしか伝わってこないなって話だったの。

 今はちょっぴり進展した気分。してないかもな気分。


 厳密に言うとクレーム=論証責任、データ=クレームを裏付ける事実、ワラント=データを挙げる根拠、なのね。

 事実(データ)が主張(クレーム)を支える根拠となるには、理屈(ワラント)が不可欠なの。周知の事実なら省略してもいいけど。

 データだけ突きつけられても「その事実がどう関係しているの」ってなっちゃうから、

 それだけじゃ証拠にはならないことがあるから、意味は厳密にしないといけないの。

 証拠とするのには、ちょっと無理があるかなって思うんだ。

 何でかって言うと、主張と理屈を使用して、事実をでっち上げることは可能かもしれないけど、本当に正しい事実が見つかるとは限らないでしょ。

 だから、データを証拠とするのは言いすぎだと思うの。だって、それが正しいかってことがその時点で証明されてるわけじゃないんだから。


 でもね、言いたいことは分かった気がするんだ。

 数学的な考え方をしよう、ってことだよね……?違うなら、ごめんね。


 13 :海:2011/08/12(金) 19:56:49

 本当に正しい事実が見つかるとは限らない、じゃなくて

 本当に正しい事実かどうかは分からない、の方が分かりやすいかな

 後者で受け取ってくれると嬉しいの


 14 :sue:2011/08/12(金) 20:08:37

 >>11

 データクレームワラタってのは知らんからよくわからんけど

 智恵という一定の事実・現象やらの主張を元にそれを論理的に推考して

 その理屈とかの知識を実証的に見つけ出す過程はすごく演繹法に似てると思う。

 まぁ>>11の時点でやっと逆説的な主張をしてたんだなってことは分かったわ。

 少なくとも>>9の説明はパラドクス的じゃないでしょ?


 >なんで、「智恵+論理+論理=智恵」とも表現されちゃうって思ったのかが知りたいw


 これは中学生が連立方程式とか解くときによく使う解法をそのまま流用しただけだよ。


 15 :天才tinko:2011/08/12(金) 20:15:55

 ごちゃごちゃ書いてあるから、また説明し直さないといけないのかと思ったが

 >>12その解釈であってるよ!

 >事実(データ)が主張(クレーム)を支える根拠となるには、理屈(ワラント)が不可欠なの。

 その通り!


 >何でかって言うと、主張と理屈を使用して、事実をでっち上げることは可能かもしれないけど、本当に正しい事実が見つかるとは限らないでしょ

 でも、この部分はイマイチ。まず2つのアプローチがある。

 1つは「実際は喧嘩だから事実(証拠)が本当に正しい必要はない」という事。これは便宜上、仮定や前提としての「事実」を成り立たせればよいものだし、それを成り立たせてしまう話術が喧嘩の一部でしょ、と思ってる。それどころかデータが真っ赤のウソだったり、”こうあるはずだ”という推測に基づく法則であっても別にいい。問題は、それを「データ」として相手に受容させる事ができるか、という問題でしかない。

 2つめは「そもそも正しい事実(証拠)ってなに?」という問題。

 例えば、主張と論理から導き出した仮定の事実があり、それとまったく同じ事を示す具体的な新聞記事があったとしても、その新聞記事を「本当に正しい」と誰が言えるのか?誰が判断できるのか?という問題になってしまう。

 喧嘩においては、この「正しさ」の大部分をワラント(論理)で補うものであり、同時に分析し推論し理解する部分でもある。

 ただ、あくまでデータ(事実・証拠)としての「正しさ」は「ある程度信頼できる情報源かどうか」という判断に留めて問題ないと思うけどね。


 喧嘩は複合的だから、データが個人体験や、あるいは偶然見つけた喧嘩相手との共通体験や、あるいは感情。そんなものに根ざす事もあるし、クレームが「オマエはバカである」みたいな、冷静に考えれば「なんだそれ」って主張に徹してる場合も多々ある。

 ただ、それらが正しいかどうか、とかじゃなく。相関的な構造が、このデータ・クレーム・ワラントで成り立っているのは間違いない。

 そんでもって一番のキモは、どういうワラントを組み上げるかが重要になるわけ。要するに「なぜ相手をバカだとするのか」という事。その組み立て方そのものによって、相手から負の感情を導き出し、その導きだした負の感情という事実そのものをデータとして扱ってしまうような場合だってある。

 問題は、それぞれが、こういう図式を見抜けているかどうか。だけどね。


 16 :天才tinko:2011/08/12(金) 20:22:09

 >>14

 ああ・・なるほど・・・連立方程式か・・そういうのはサッパリなんだ・・・


 演繹法と似てるけど演繹法とぜんぜん違うのは、データ・クレーム・ワラントは証拠と主張ありきなんだよね。

 極端な話、証拠と主張になんら関連性がなくてもワラント(論理)で無理矢理結びつけちゃえばおっけー。

 ただ、無理矢理、結びつけたものは道理がなってないから脆くて弱い理屈になっちゃうけど


 なんていうんだろう。データ・クレーム・ワラントは、あくまで「主張をわからせる手段」であって、「この主張は、この証拠とこんな関連性がありますよ~だからこの主張は正しいんですよ~」みたいな話。

 演繹法にあるような「結果(主張)を導く手段」ではないんだ。そこが演繹法と決定的に違う所。


 17 :名無しでござる:2011/08/12(金) 20:25:41

 >これは中学生が連立方程式とか解くときによく使う解法をそのまま流用しただけだよ


 そうだとしてもならない


 18 :名無しでござる:2011/08/12(金) 20:35:43

 ↑前提が違うから 前提が違うのに連立は普通しないと思われ


 演繹というよりはアブダクションと思うよ


 19 :sue:2011/08/12(金) 20:39:47

 >>17-18

「それぞれが同じ意味なら」ってちゃんと書いてるだろ見落としてんじゃないよドアフォウ


 20 :sue:2011/08/12(金) 20:41:39

 >>16

 ああ目的が違うから全然違うって言ってたん?

 ならかみ合わんわけだ。

 俺は特性についてじゃなくて態様について語ってたんだから。おkはあくわかりましたぁ


 21 :名無しでござる:2011/08/12(金) 20:45:55

 >>19

 おれを阿呆というとこわいよ


 22 :sue:2011/08/12(金) 20:47:07

 ひぃいぃい・・ごめんなさぁぃ(裏声)


 23 :海:2011/08/12(金) 20:51:53

 >>15

 これで間違った解釈だと言われてたら思考迷子になってたの。


 えっとね、事実を的確な情報だとして提供できなかったから、事実を裏付ける根拠が疎かになっていたから、

 相手に伝わらなかった。だから、それは「事実ではない(または事実ではなくなった)」から、そもそも

 データと呼べないと考えてそう言ったの。だって、そうじゃないと何でも疑って事実無根を提唱していても進行しないじゃない。

 疑うことにもまた、データやワラントが必要となってくるでしょ。


 ずっと、ひっきりなしに「ソース出せ。事実とは限らないじゃないか」なんて喚く人が居たとしても、

 それこそ「その疑念の根拠は何なんだ」ってなってくるし。


 24 :南国賢二:2011/08/13(土) 00:48:39

 連立方程式というより代入では


 25 :南国賢二:2011/08/13(土) 00:51:38

 ああ、失礼。

 連立方程式の解法の中での、代入だね。


 26 :天才tinko:2011/08/13(土) 12:47:00

 >>18

 アブダクションをよく知らないけど、ウィキみた感じだと、たしかにアブダクションのが近い感じだと思う。


 >>23

 言ってる事がよくわからんが

 つまり「まず主張をする側、話をふる側が、最低限のデータの根拠を保証しておかないといけない。じゃないと、根拠のない主張に対して、根拠を唱えた反論をしろ。みたいな言い分をされた時、それはあまりにもフェアじゃないから」みたいな事でいいのかな?


 この解釈で話をすすめるけど、それは言い分としては正しいよ。それは”ディベート”をする上では正しい。

 だけど上記のとおり、喧嘩だったらデータの正しさは実はいらないんだ。問題はデータ・クレーム・ワラントの相関関係を利用して、相手にいかにありもしないデータを信じさせるかという話。


 27 :海:2011/08/13(土) 15:35:58

 >>26

 あー、ごめん。分かりづらい文章だって後で気づいた。言い直すね。

 データを示された側が、「これは嘘のデータだ」と解釈した時点で、

 その状態が続く限り「これは事実とは限らない」となってしまう考えがあるでしょ。

 そして、その「事実とは限らない」主張をするにもまた、データや理屈が必要になってくるよね。

 だから、どれが正しいか正しくないかは別として、疑義をはさむ側にもそういったものは必要でしょ。

 そういったものがキチンとできてないものって、そもそもデータと呼べないんじゃないの?ってこと。


 あぁ、何かこの当たり前のような疑問にまで辿り着いたところと>>26を見たところでちょっと思いついた。違うかもだけど、

 ワラント(理屈)とクレーム(主張)を利用して、さもデータ(事実)が正しいかのように錯覚させる領域にまででっち上げ(作り上げ)ちゃおう、

 ってコンセプト(スタイルって言った方がいいのかな)が喧嘩城での喧嘩の在り方(目指す所?)ですよ、ってこと?


 28 :南国賢二:2011/08/13(土) 18:53:16

 > 厳密に言うとクレーム=論証責任、データ=クレームを裏付ける事実、ワラント=データを挙げる根拠、なのね。

 > 事実(データ)が主張(クレーム)を支える根拠となるには、理屈(ワラント)が不可欠なの。周知の事実なら省略してもいいけど。

 > データだけ突きつけられても「その事実がどう関係しているの」ってなっちゃうから、

 > それだけじゃ証拠にはならないことがあるから、意味は厳密にしないといけないの。


 ワラントを「論理」や「理屈」と形容するのに少し抵抗があります。

 なぜなら、後述の理由により「ワラント=データを挙げる根拠」を

「論理」や「理屈」と称すると無用な混乱を引き起こすことが懸念されるからです。

 (と、いうより間違っている気がしますが・・・)


 そこで提案があります。 

 そもそも天才tinkoのいうデータ・クレーム・ワラントは

「トゥールミンの議論モデル」が出自だと思うのですが、

 それに準拠し「データを挙げる根拠」を「論拠」としませんか。


 正確には「隠された根拠」,「明示されない根拠」,「潜的な根拠」と訳されるのですが

 トゥールミンの議論モデルを紹介する本では大抵それを「論拠」と訳しており、

 論拠は根拠に含まれる一部であるとされています。

 その根拠の一部である「論拠」を、「論理」を構築する上での「論理」や「理屈」とすると

 やはり意味的に通じにくいし、間違っているのでは? と感じます。


 (できれば、何でワラント等の意味を参照しているのか教えてくれませんか)


 29 :南国賢二:2011/08/13(土) 18:53:48

 以上を踏まえて、


 > だから、データを証拠とするのは言いすぎだと思うの。

 > だって、それが正しいかってことがその時点で証明されてるわけじゃないんだから。


 海は「データ(証拠)の信憑性如何でデータ(〃)の有効性が疑われる」

「だから、そんな信憑性もないもの(あるいは信憑性を確認されていないもの)を証拠としては扱えない」

 といっているわけですが(たぶん(ワラ )、また、もちろんその切り口もありだとは思いますが、

 その「正しさ」をめぐっての>>6にあまり意味はないと思います。

 それは天才tinkoの「喧嘩だから」とはまた違った切り口で、「データ」自体に内在する意味がないからです。


 どういうことかを説明するために、3つ例を出します。


 ①『本人が自白した』という同一の「データ(根拠)」があったとしても、

『A:自白に信憑性がある(犯人しか知りえない情報をもってたり)』,

『B:自白は警察によって強制されたもの』という違った「ワラント(論拠)」をもとに、

『A´:彼が犯人だ』,『B´:彼は無実だ(犯人とはいえない)』と、違った「クレーム(主張)」が導ける。


 ②当時富国強兵の旗本に軍事国家を推し進めた国を批判する生活綴方運動で多数の学者が検挙された。

 そこで『検挙者は約130名、起訴者は約90名、実刑1名』だったことを根拠に、

 実刑はたった1名であり、いかに国が起訴内容の中で捏造をしたかを示し軍事国家の暴挙を批判する声もあげられたが、

 同一の根拠により、これだけの検挙者・起訴者の数の中で実刑がたったの1名であるのだから

 官憲の圧力に折れることなく司法は公正な判決を言い渡したとして、体制の擁護も行える。


 ③ネット内で批判されているマスコミの(恐らくは)恣意的な選出のもの行われた偏ったアンケートでの世論誘導。


 ①②は、データに信憑性があろうがなかろうが、それに意味付けするワラントによってクレームが変化すること。

 そして、データは決して客観的に独立してあるのではなく、先行する主張とそれを結びつける論拠によって性格が変わること。

 ③は、たとえ恣意的な選出にせよ、アンケート内の数字を弄らない限り、そのデータは(見かけの上で)正しいといえること。

 また、そもそも天才tinkoはトゥールミン用語にならってデータを証拠といった、といくらでもいえそうだ。


 いえ、別に割って入って間違ってると糾弾するのが目的でなく、こんな考えはどうですか、

 程度のことですので、あまり気にしないでください海くん(さん、かな?)。


 えっと多少は


 > 問題はデータ・クレーム・ワラントの相関関係を利用して、相手にいかにありもしないデータを信じさせるかという話。


 データはソースの確認をするだけで信じる信じないを判断できますから、

 それより論拠の効果的な使い方で、そのデータの扱い方を分けで訴求力を強める遊びのほうが楽しくありませんか? 

 みたいな意見もありますが。


 ところでこれを読んでるかわかりませんが>>4に則って質問させてもらいますが


 > 普通は証拠を基に論理を適用させ、主張(知恵)を作る


 「適用」とはなんですか?根拠と主張をつなぐ、くらいの意味でいいですか?


 30 :南国賢二:2011/08/13(土) 19:02:25

 ああ、>>29でいってるのは


 > 知恵(主張)ありきで、それを成り立たせる論理を組み立てていけば、適切な証拠が見つかるはずだ。


 (他にある)「適切な証拠」どころか、同一の証拠(データ)でさえも、

 主張(クレーム)先行であっても論拠(ワラント)の選択によって喧嘩城の試みは果たせますよ、

 というかんじかな。


 31 :海:2011/08/13(土) 20:58:54

 根拠は議論にとっての理由付けだよ

 理屈は理由付けそのものだよ

 だから、間違ってる気がしないんだ


「>普通は~」「>知恵~」はぼくが言ったのかな

 見返したけど見つかんなかったや

 ぼく自身は、事実は事実だし、理屈は理屈だし、主張は主張だと思ってるし

 それらを無理矢理綯い交ぜにして試みようとは思ってないし

 結局何が言いたいのかを知りたかったような心持ちだったわけ

 ぼくは楽しめないけど、あなたが楽しいと思うのなら楽しむがいいの


 32 :天才tinko:2011/08/14(日) 04:46:46

 >>31

 事実は事実って思ってるのは、すごく盲目的な事なんだよね、単純に。

 なぜ、事実を事実と思えるの?って話。 昔は、地球が丸いとか、人間は猿から進化したって事を”本気で”信じない人がわんさかいたし。それらを信じない事こそが「事実は事実」だと思ってたわけ。

 もっといえば、今でもアメリカの原理主義のキリスト教徒の一部は、本気でこれらを信じていない。

 つまり、フラットの会話の中では、語り手がどういう主観を有しているかという事が、語っている情報そのものに非常に強く影響を及ぼすんだよ。

 あなた自身が「事実は事実である」と思ってるのは、小さい頃から「大外の教授の言う事は間違っている事は少ないし、新聞に書いてある事にも間違いが少ない」と信じている。という感情が「事実は事実」だとできる根源でしかないの。

 これを学問的な議論にするんだとすれば、学問では公理と定義がキッチリ決まってるわけ。「こっから先は、あえて疑わない事で、学問を発展させよう」という出発点は、どの学問にも必ずあるんだよ。数学において1の文量は必ずしも一定ではない、だから1という数字は信用できない、という議論はなされないわけ。1という存在を公理として物事を相関的に知識体系へと組み立てていく学問だから。

 そういうい意味で、喧嘩も「情報が相関的に影響を及ぼし、それは時に語り手そのものへも影響を及ぼす事で、論理を制する」というアプローチをするわけ。平たく言えばちょっと複雑な感情論だよ。

 まず、ここを理解するためには、そもそも人は「主観」という「自分が信じている前提」の上で生きているって事を論じないといけないし、それに基づいて「対話」がいかに不安定なものであるかを論じて、

 最終的に、独立した言葉が、語り手の情報世界(自分の持っている前提)にどういう影響をあたえるか、という所までを語りなおさないと

 データ・クレーム・ワラントを使って喧嘩を読み解く事はできないかもしれない


 33 :天才tinko:2011/08/14(日) 05:05:58

 >> 「適用」とはなんですか?根拠と主張をつなぐ、くらいの意味でいいですか?

 いいです。


 表現があやふやなのは「あえて」で、それはなぜかというと、トゥールミンロジックを正しくまるまる適用させて喧嘩を解釈しているわけではないから。

 トゥールミンロジック的な発想と、要因の相関関係によって、相対的に喧嘩を表現してるだけだから、表現したい要因の位置関係さえわかれば、呼び方はなんでもいい。

 喧嘩において、ワラントに位置するものは、その通り論拠だったり、あるいは理屈だったり、論理だったり、考え方だったり、いろんな性格のものに変わる。

 クレームに位置する主張も、たんなる「オマエはバカだ」みたいな主張から、「オマエの意見をまとめると、こういう法則が見出させる。その法則とオマエの言っていた、**の部分が矛盾してる」みたいな特徴を抽出して言い返す場合もある。

 クレームにおいては、固定的ではない応用で生まれる知識・分析という意味合いにおいて知恵と表現してる。

 データは証拠、辞書で調べた言葉の意味、あるいは相手が過去に行った言動なども踏まえて、固定的な情報という意味で知識とした。


 34 :南国賢二:2011/08/14(日) 07:17:47

 > 根拠は議論にとっての理由付けだよ

 > 理屈は理由付けそのものだよ

 > だから、間違ってる気がしないんだ


 > ぼく自身は、事実は事実だし、理屈は理屈だし、主張は主張だと思ってるし

 > それらを無理矢理綯い交ぜにして試みようとは思ってないし


 申し訳ないんだけど、海くんが何を言っているのかわからない。

 きみの中で“A”と“Aそのもの”にどういった性格分けをしているかなんてこちら側には皆目見当もつかないから、

 その後、順接で結んで「だから、間違ってる気がしない」などと意思表明をされても、

 いや、だから以前が説明の体をなしていないよ・・・とか、きみがそんな「気」がするかにこちらは頓着なく、

「無用な混乱を引き起こすことが懸念されるから」、この場で使う語について統一した見解をもったほうがいいのではないか、

 といっているのです。

 このことは双方にいえることですが、なぜ特に君にいっているかというと


 > 厳密に言うと(中略)、なのね。

 

 以上に起因します。

 きみに「厳密」な意味合いで使う意思があるのならば、

 間違った使い方、すくなくとも誤解を招きかねない使い方ではなく、

 もともとの意味にしませんか、いえ、そうしてしかるべきだと申しているのです。


 そこでなぜ、きみ「個人」が「間違ってる気がしない」というのか理解できない。


 その「厳密」というのはどこかしらの出典があるはずで、

 そして出典の定義が正しい、あるいは前提としてと了解してるからこそ

「厳密」といえるのであって、そこにきみ「個人」が介入できる余地はないだろう。

 そして、だからこそ


 > (できれば、何でワラント等の意味を参照しているのか教えてくれませんか)


 と、聞いているんですよ。


 そして>>29でも言いましたよね。

 根拠それ自体に内在する意味はありません。

 根拠(>>29でいえば自白や検挙数)とは主張の具体的な証拠です。

 そして、その根拠がどうして主張に関連付けられるのかを示すのが論拠で、これが「理由付け」にあたります。

 だから、同一の根拠であっても、その「理由付け」によって、主張が180℃変わると例をあげて紹介しているのです。


 

 ちなみに>>28は(あえていいますが)誤用の指摘と統一の提案で、

 本筋は>>29だったのですが、これももう、どうでもいいかもしれませんね。

 海くんがそれに触れなかったのもあるし、たぶん理解できないでしょう。

 何か言いたいことがあれば、どうぞ。


 35 :南国賢二:2011/08/14(日) 07:18:59

 > いいです。

 わかりました。


 出典がトゥールミン・モデル(以下TM)なのはわかりました。

 そして正確に流用したわけでなく、便宜上使ってるのであって呼び方にこだわらないこともわかりました。

 理由はわかりませんが、ワラントは「(天才tinkoの)喧嘩において」、「論理」とすることもわかりました。

 以下、クレームやデータにおけるあなたの定義もわかりました。


 しかし、俺が一体なぜ・・・と思うのは、

 どうしてそのことを最初に宣言しないのか、ということです。


「とりあえずTMの用語を使うけど、そのまんまの意味じゃないからね!

 たとえばAはBという意味も含むし、CはDの意味で使うよ~」

 という具合に。


 それがないから唐突に出された式で、

 知恵がクレームを意味してたり、そのクレームに閃きという意味が含まれたりすると、

 なまじもともとの意味を知っていると

 え・・・?そんな意味あったっけ?と読んでいて疑問がわきます。


 今も別スレでそんなやり取りをしているのはちらと見ましたし

 俺にいわれるのもうんざりでしょうから口角泡を飛ばすことはしませんが。


 海にきみのワラントの認識はおかしいと指摘しましたが、

 そしてその指摘は、厳密なTMでないからあまり意味もなくなりましたが(ワラ)

 今後、双方が了解する意味において機能すればそれはそれでいいと思います。



 最後に、いっちょかみの分際ですが、お付き合いありがとうございます >双方


 36 :天才tinko:2011/08/14(日) 08:26:28

 >>35

 とりあえずキミは、すごく頭が悪い。

 語用論とか抽象概念とか、それこそ内包・外延をしれば、この世にある全ては、全て言葉やルールで規定できるものではない、っていう事がわかるのね。

 それはトゥールミンにおいても同じだし、トゥールミンだけじゃない、言語一般が全て同じ。


 言語の基本って、言葉を使う状況に依存していて、言葉を使う状況しだいでは言葉の意味がかわるって事がよくあるわけ。

 つまり、人間は言語を辞書のように理解して、言語から特定の意味を引き出しているのではなく、いまある状況に相関的に考えて、この言語が今ある状況から指し示したい物、表現したいものはなんだろう?という見方をするのが、普通の会話なのね。

 でもキミの言い分を見ていると「本来の定義と違う」という言葉に、やたら拘ってるわけ。

 本来の定義に拘るなら、キミのその話している口語文は、本来日本語のルーツである江戸の言葉からしたらすごく不自然なわけ。だとしたらキミの使ってる言葉「本来の定義」からしたら、トンチンカンな言葉の連続なんだよ。

 だけど、キミは「今」を生きているから「江戸が本来ではない」と思うわけでしょ。 もちろん、それはここでのトゥールミンのやりとりでもまったく同じ。

 ここがディベートとしてきちんとした場所で、トゥールミンといえば具体的な定義のある意味を伴うものだとしたら、トゥールミンの使い方がおかしいって拘ってもいいのかもしれない。

 ただそれは「今」「ここで」必要なことではない、という判断は、頭がよい人なら、この現場がどういう会話によって、何を示そうとしているのか?という会話の主軸を把握できていれば、容易に理解できる事なはずなんだよ。

 例えば「ベクトル」って言葉がある。これは今ではかなり一般に浸透して「方向性」という意味合いで使われることがあるけど、「本来の定義」でいえばベクトルは単純な方向性という意味あいだけではない。

 するとキミは、街中で「ベクトル」という発言を聞くたびに「本来の定義とは違うんだけど・・・」とつっかえることになる。これはとても愚かしい事だ。


 海にたいして「厳密に」という注釈があったから言及するとの指摘があったが、これもおかしい。

 これは「何にとって厳密に」なのかでしょ。 この場で語られる文脈において「厳密に話す」とは「お互いに齟齬が起きないように、あやふやな知識は共有しなおしてから語ろう」といった意味合いであって

 トゥールミンのデータ・クレーム・ワラントのありかたを額面通りに定義しなおす事を「厳密に」と表現したわけじゃない。これも文脈を読んでいれば理解できる。

 つまりキミは、知識に拘って、規定された定義にだけ拘って、文脈も、その場で言葉がどういう意味合いを持つかも理解する事なく「額面上正しいとサれている事だけに拘る」という事をしてるだけなの。

 それは、知識をマイナスに活用して、人の足を引っ張るとても愚かしい行為だから、金輪際絶対にやめたほうがいい。

 そんな知識のルールに拘ってても何の特もないし、それが頭のよいことであったり、筋の通っている事なんだと錯覚しているんだとしたら、キミとても地頭が悪い。


 37 :海:2011/08/14(日) 08:35:45

 >>32

 納得できなかったりおかしいと感じたりするものって、事実じゃないと思いたいよね。決まっているものや常識、に対して反骨精神なことは結構。

 でも、それならそれ相応の証明をするべきだと思うし、出来ないなら現段階ではそれは絵空事なんだよ。

 無価値って言いたいわけじゃなくて、幾ら喚こうが覆せなかったらその主張に信頼なんて置けないからね。

 何故事実を事実だと思うのか、というなら、それこそ「人間は猿から進化した」という「現時点での常識(事実)」は本当に確定された事項なのかしら。

 多種多様な可能性を受け入れることが盲目的でないことならば、「人間は猿から進化したとは言えないのかもしれない」等の意見も寛容に受け入れるべきではないのかしら。

 だって、「人間は猿から進化した」という事実を受け入れていることこそ「何故事実を事実だと思うの?」と言われてしまうことになる。無限ループだね。

 こう考えると、その思想は間違ってるよね。結局は、どれかを受け入れないといけないわけだし、それなら「現段階で最も正しいとされるもの」を受け入れるべきだよね。

 この「現段階で最も正しいとされるもの」と「世間一般の常識」というのは、もちろん別々のものだからね。

 事実は事実っていうのはね、まさにその公理のことなんだよ。

 何かしら決定付けておかないと何も話は進まないのは当たり前なの。定義することは当たり前。対話(話を収拾させるべき行為に限るので、雑談はまた少し異なる)において当たり前。

 そして、それらは論理実証的側面(科学的側面)から証明されているものに限るの。

「地球は丸い。ほら、この画像を見てみるがいい」という意見を「私自身がこの目で確認したわけではないから丸いとは言えない」だとか「私自身がこの目で確認した範囲以外に世界は存在しない」だとか言っていることと、「こういうデータが出ている。ほら、この資料を見てみるがいい」という意見に対して「どうやって収集したのか分からないから信じられない。でっち上げたモノではないのか」だとか「私自身がそのデータ採取に携わったわけではないから信用なんて出来ない。騙そうとしてないか」だとか言っていることは、根本的には同じだよ。

 実際に、100年ぐらい前まで(だっけ?)「自分の目で確認したもの以外はまやかし」みたいなことを言っている哲学者さんは居たわけだし。今でもそういう人は居るんだろうね。こういう考え方自体は大切だと思うけどね。

 それと、定義付けの話をもう少しするなら、言葉の意味においてもそうなの。他人と話すときに、定義されているものは定義されているべきで、それを疑問点に挙げること事態はおかしくないけれど、それならばそれ以外のことは定義されているべきで主題はそれであるべきで、そうしないと話に収拾がつかないの。言語って、そこまで自由で柔軟なものじゃないんだもん。

 定義されている事実まで疑い始めちゃったら、もう話してなんかいられないよ。「これが私の思っている意味だ。辞書には載ってないけれど」なんて意見、素晴らしくも何ともないし。正しいと思うのなら、本にして世間に主張するなどの公的判断に委任するべきだと思うの。そうしたら、自分が本当に正しいのか分かるんだから。


 38 :天才tinko:2011/08/14(日) 08:36:30

 賢二は難しそうに書いてるけどスゴイ薄っぺらい、賢二の言いたいことをようやくすると一文で終わる、すごい簡単な話。


 つまり

「オマエの”言葉の使い方”が間違ってる。だから理解しようとも思わないし、受け入れられない」これだけ。


 これは、まさに語用論で。「火ある?」と聞いて、ライターを手にしながら「ない」と答えるようなもの。

 なぜなら「火はライターを着火して生じるもんおであって、火をそのまま持ち歩く事など、危険すぎてまずありえない。」とまぁ、こういうわけだ


 賢二の文章を読んでてイライラするのは、言いたいことが何回も空回りするから。

「言葉が間違ってる」という事を表現するためだけに「キミは”厳密に”といった」だとか「本来の定義を知った出典があるはずだ」とかを延々と繰り返され手も、「だからなに?」としか思えない。


 39 :海:2011/08/14(日) 08:37:19

 長すぎって言われちゃった。続きですの。

 >>32

 大概の教授たちが言っていることは正しいとは限らないんだよね。論文なんか見ていると、新しく何かを生み出すことの艱難さが伝わってくるの。

 新聞記事だって情報操作されている可能性は否めないわけだし、どれが事実なのか分からないからほとんど読まないの。テレビ欄は何処も彼処も事実が書かれているの。

 本だって正しいことばかり書かれているわけじゃないの。だから、同じ分野のものは最低でも数冊読むべきだと思うの。何かに寄りかかりたいなら宗教がいいかもだけど。

 知識っていうのは繋がっているものだから多方面からアクセスして然るべきなの。絶対的な知識なんて存在しないんだから。

 そして、そういったものを踏まえて様々な結論を導き出していくの。その結論に納得いかないのなら、論理実証的側面(科学的側面)からまた反駁するの。出来ないならそれは現状では誤りなの。真実はともかく、ね。

 大体、何でも疑ってかかるのならば、そもそも「どうして自分はこう考えているのだろうか」と、「何故疑問に思っているのか」と思考するべきなの。更にそれに懐疑的になればいいの。

 どうして自分の都合のいいものだけを受け入れて、その他は掃き捨てるのかしら。それこそ常識に囚われている悲劇的な思想だというのにね。

 様々な観点からモノを見ることと、幻想的な疑問を抱くことは全然違うんだから。

 そういう考えが悪いとは言わないし、自分で考えることって素敵なことだとは思うよ。

 でもね、実際に振り返ってみると、運不運程度ではとても解決できない高度な問題については、俗な人間が「自分で考えて」うまくいった試しなどなどないの。

 人間の認識や思考には心理学的に、あるいは認知科学的に然るべき錯誤があるから、皆が自分で考えることによって同じ間違いをやらかす可能性があるんだよ。

 自分にとって心地よい結論ほど疑ってかからなければならないの。その心地よい結論こそ、「正しい」と信じ込ませる力が強いんだから。


 どうして人は学ぶのか。それは、自由になるためなの。自分で自分を束縛している現在の「自分の考え」から解放されるためなの。

 それぞれの方面に然るべき専門家や先行者がいるんだから、まずはその情報を集めるの。ゆっくりとした時間の中で知識を蓄え習得し、その各々の差異や違和感に敏感になるの。

 そういったものから目を逸らして「これは間違っているかもしれない」と疑ってかかっていても、全然建設的じゃないの。

 世紀の大発見ができる可能性は一応あるし、そういった特権的な夢物語を追い続けたいならご随意にとは思うよ。

 でも、定義がどうたらこうたら言っている人々から生まれるとは考えがたいの。「現在疑問に思っていること」に関する知識を吸収する意欲があまりなく、ただぼんやりと何となく思考している人間から生まれるのも考えがたい。

 思考の迷宮で、迷子にならないようにするために知識(事実・情報)があるんだよ。地図みたいなもんだね。

 迷子にならないように、過去の人たちが道標を書き残しておいてくれているのに、また、自分で印をつけて進むことだって出来るのに、それらをしない人から生み出されるものなんて高が知れてるの。

 色んな見方を知った上で正解の道を探すことは全く愚かじゃないし。例え間違った道標を歩もうとも、新しい道標を見つけて進んでいけばいいんだし。

 何も見ずに何でも懐疑的に捉えたり、一元的な考えに固執して袋小路に閉じこもることこそ、おかしいと思うの。思想的ヒキコモリになっているだけでしょ。それなら、わざわざ対話なんかしなくていいじゃん。一人ご満悦な気分に浸ってるのが幸せなんだよ。

 だからこそ、事実は事実として存在するべきなんだよ。その事実を疑うってことになると、また他の事実が必要になるわけなんだからね。疑うのは勝手だけど、その疑問の愚昧さを考慮していない時点でご都合主義者で、日和見主義者で。

 定義も比較も不可能だと自認するものについて雄弁に語る滑稽な論理を振り回す人の発言に信頼性はないの。

 そうやって自分なりの拡大解釈を施し続けていても、自慰的愚挙でしかないのだから。


 あとそれと、過激的な表現があるけど、あなたに対して言っているわけではないというか、そういう感じなのね。

 該当しちゃうなら、言ってしまってることになるけど、違うなら言っているわけじゃないの。そういうつもりがないってことですの。


 40 :海:2011/08/14(日) 08:48:48

 うーん、代弁的なことしてもらっちゃった。ありがとう、なのかな?


 >>34

 ネットで調べたら、そういう意味で結構出てきたから、そう定義したんだよ

 データを証拠とするのはいただけない、ってことだったの

 データは証拠、ワラントは理屈と証拠、がおかしいと思っていたの

 証拠は「事実を証明するための根拠」だもん

 ワラントは理屈と証拠だ、を認めちゃうと「ワラント+ワラント」みたいになるでしょ

 だからこそ、峻別するべきだと思ったんだよ

 そしてね、もうわたしと天才tinkoさんはその辺の過程は済ませちゃってるんだよね

 >>15辺り見てくれれば分かってもらえると思うんだよね

 だからもう満足してるし、何とも思ってないし

 それでも気に食わないと思うならお好きにどうぞだけど、早く目が覚めるといいね


 わたしはその提案を理解しているけど、了承していないだけ

 それについてはもう言ってあるし、他に言いたいことと言えば

 天照大御神が引きこもっちゃって日本が大変なことになっちゃったんだよ


 41 :山田:2011/08/14(日) 10:11:38

 あ~~ なげえ。なげえけどチンコの文章よりはいくらか読みやすい。


 42 :南国賢二:2011/08/14(日) 11:38:01

 時代の推移による言葉の変化は当然あるでしょうし、その場で求められる言葉の定義の幅に差があるのも当然でしょう。そんな一般論をぶん回していかがなさいました?

 天才tinkoさんがしているのは、もともと参照している語をそのまま使いながら、その語の意味から大きく逸脱した意味を平然と含み、それを理解しろと言い立てるだけです。

 連立方程式(というか単純な代入ですよ?)がサッパリなどこぞの馬鹿よりははるかにマシですが(そして頭が特別いいわけではありませんけれど)、このあなたの文脈で把握するという行為において頭の良さは一切関係ありません。

 >>4の「知識+論理=智恵」の「知恵」が「主張」で、その「主張」が「思いつき・気づき・閃き」だと理解できるのは宇宙からの電波受信域が異常に広いキチガイか、あなたの親兄弟、特別親しい友人(いればですが)くらいのものでしょう。

 

 知恵が主張・・・?はあ?

 主張が思いつき・気づき・閃き・・・?はあ?

 思いつき・気づき・閃きが知恵・・・?はあ?

 

 私はいついかなるときも言葉の定義は辞書に準拠しなければならない!というような聖書に代わって辞書におけるファンダメンタリストのようなことを言ったことはありません。

 言っていることはひどく単純で、トゥールミンの議論モデルを参照して「データ・クレーム・ワラント」を使うなら、その中でここは自分の解釈ではトゥールミンのそれと違って、しかじかの意味で使っている、しかじかの意味を含む、と言い添えるべきだと言っているのですよ。

 また、トゥールミンの議論モデルに限らず、「知恵が主張」「主張が思いつき・気づき・閃き」「思いつき・気づき・閃きが知恵」のような、ニンゲンモドキが賢しらに振舞おうと失敗した結果、本来の意味とは違う意味にしたり含むようなことはすべきではない。するのなら、一言付記すべきだ、と言っているのです。

 それから、あなた曰く「オマエ(天才tinko)ワールド」では通用するのかわかりませんが、唐突に「通常は「知識+論理=智恵」です」と言われても困ります。右辺は別に「知性」でもなんでも当てはまりそうなものはあるけれど、通常は「知恵」なの?いったいそれはどこの世界で了解されていることなのだろうか?とか、等式であらわすなら「論理=知恵-知識」ともできますが、聞いたこともありません。

 やはりあなたは、以前かなぶんや私が指摘したように、どうにも奇妙で独特な、そして無配慮な語彙を使う癖があるようです。いえ、癖と断じることは早計です。知性の限界なのかもしれません。あるいはコミュニケーション能力が大きく損なわれているとか。

 いずれにせよ、あなたは自分で思っているほど頭は良くありませんから(思い込みたい気持ちは察します。連立方程式が怪しいんじゃ、ねえ・・・)、オマエワールドがいかんなく発揮できる平行世界に旅立つというのはどうでしょう。要は死んでくれませんか?と。


 43 :南国賢二:2011/08/14(日) 11:38:21

 では、一応、気持ちの悪い語彙で勘違いしたまま過ごす馬鹿に毒された馬鹿が増える前に、正しいワラントについて説明しておきます。

 ワラントとはこれまでも言ってきたとおり、「論拠」と呼ばれており、トゥールミンはそれを「非顕在的な根拠」「明示されない根拠」「隠れた根拠」として扱っています。

 例を出します。


 犬「今日カラオケに行かない?」

 猫「えー、それは昨日も行ったじゃない。今日はボウリングにしようよ」

 犬「そうだね、そうしよう」


 ここで猫のクレームは「今日はボウリングに行こう」です。データは「昨日もカラオケに行った」で、ワラントは「昨日行ったばかりなのに、今日も同じことをするのはイヤだ」というところです。

 見てもらってわかるように、論拠も根拠の一部です。それが明示されたかされていないかの差ですから当然です。この隠された根拠を「論理」とするのは間違いであるばかりか、不幸なすれ違いを起こします(致命的に頭が不幸な者同士がどうなろうがしったことじゃないですが)。論理を構築するための部品である根拠が論理?もはや意味がわかりません。たしかに、ある論証の中で根拠として使われているものが、さらに下位の論証でつくられた結論であることは、ままあります。最初にこのことを彼が勘違いしたのだと疑いましたが、やはり違っていたようです。

 そういえば、馬鹿が「無害な馬鹿」云々とか語ってましたが、なるほど有害な馬鹿がこれほどのものとは。もし、天才tinkoさん。ご自宅に鴨居はありますでしょうか?できれば丈夫な紐もセットで。馬鹿な子ほどかわいいとはよく言ったものですが、自主的にこの世界から退場することが、禁治産者でもできる唯一の親孝行となるのではないでしょうか。差し出がましいようですが、ひとつ助言させてもらいました。


 さて、ここまで書いたように、日常会話で(ライターとかベクトルとか実に頭が悪そうでポイント高いですよ!)どれだけ言葉に注意を払うかと、日常的な議論にせよ些細な主張にせよ、常人が使う範囲で言葉を使うのが常識というものです。辞書の例を使って逆に言えば、おおよそこう言った意味で使いますよ、という目安に、これくらいなら伝わるだろう。暗黙の了解で理解してもらえるだろう。とできるわけです。「内包・外延」を嘯くにせよ、どこまでそれをするか?どこまでなら理解してもらえるか?という判断の境が常人と狂人の境なのかもしれませんね。そういうわけで、辞書からかけ離れたオマエワールドで伝わる語を使うのは、ふつうの人にはおすすめしません。キチガイとみなされるのがオチですから。

 それから、その意味ではわかりませんよ、伝わりませんよ、と指摘されたときに、「江戸時代なら~」とか「文脈が~」とか「辞書至上主義者を粉砕せよ!」とか、そういう言い訳はきかないわけですね。そもそも間違った解釈の語から文脈を忖度してあげる義理もないですし、第一、付記や言い添えを薦めるものに辞書に拘泥してるも何もないんですがね。ですから、「内包が~外延が~」というのはご家族か先生に言えばよろしかと思います。あ、病院のですよ。


 これくらいでいいでしょうか。すみません、馬鹿の中でも上級な馬鹿と扱ってましたが、それは私の見誤りでした。御輿は軽いほうがいいと祭り上げられ、すっかり己を賢いと思い込んだ馬鹿を救うことは私にはできそうもありません。ただ、ひとつ言わせてください。繰り返しになりますが、あなたは自分で思っているほど頭は良くないですよ。むしろ、かなりの馬鹿の類だと思います。ですから、今後こちらから構い立てすることはありませんから、どうぞ安心してください。そして速やかにこの世から退場してくれることを切に願っております。それでは。


 44 :南国賢二:2011/08/14(日) 11:39:50

 横長に書いてみました(ワラ

 そんでもって、他スレの煽り?に触発されて煽ってみました(ワラ


 そんじゃね~ん。


 45 :天才tinko:2011/08/14(日) 13:08:52

 >>44

 悪態と煽りの違いも理解できてないよオマエは


 46 :海:2011/08/14(日) 18:27:51

 賢二さんは魔法少女になればいいと思うの


 47 :天才tinko:2011/08/15(月) 21:52:01

 >>39

 ちょっと全体の文章がノッペリしてて、真意がイマイチ掴みきれてないんだが・・・w

 たぶん、要約すると「言葉や、あるいは物事は、公理である必要がある。

 言葉ならば、他者と意思疎通をするために規定された、共通認識となる意味を最重要視すべきだし、

 物事ならば、科学的(実証的)な証明によって結論が担保されている物を一番優先して受け容れるべきだ」と。


「これらの言葉と物事は、規定や証明という担保によって公理とし、考えを進めていく事が望ましい。

 しかし、これらの公理から始まる考えの体型を否定したら、

 言葉ならば、共通認識が成り立たず、会話が独りよがりのマヌケなものになってしまうし、

 物事ならば、先人の証明を無視する事でトンチンカンな道筋を作ってしまう可能性が高く、新しい発見をする可能性は低い。

 仮に、新しい物事を見つけるにせよ、先人の証明を考慮しないことは愚かなことである」

 こんな感じであってるかな?


 これらの言い分は半分あってるけど、半分間違ってるんだよ。

 それが分かるようになるには、まず、ぼくらの主観が、なにによって作られているかを知らないといけない。

 それによって、主観とは何か?を定義したら、今度は客観とは何か?を考えないといけない。

 なぜなら、言葉の意味や、物事の証明は「客観的なもの」として扱われる。だから価値があり公理であるわけだ。


 これを読み解くには、主観と客観そのぞれを理解して

 こういうぼくらの会話は「公理も含めて主観的である」事と、

 言葉の意味や物事の証明となるものは

「言葉は絶対的シンボルとイメージする事、、

 物事は事実を元にする事で、

 主観から”切り離す”作業をする。それによって客観とする」という過程を理解しないといけない。


 48 :天才tinko:2011/08/15(月) 22:22:49

 海ちゃんは頭が良さそうだ!

 少し難しい話をするね!


 まず論点は、共通認識が成り立たない言葉は本当に使えないのか?、という疑問や

 事実による実証を経た証明がない物事(科学や事実)は確信しえないのか?、という疑問の意味で

「人は何を”共通認識ができる客観的な物”としているのか?」を争点としよう。


 まずは言葉。言葉は人間が後天的に身につけるものだ。その通り。

 さらにそして、”言葉は辞書によって意味が定義されている”と、思いがちだけど、実は違う。

 卵が先か鶏が先かみたいに考えると分かるけど、これは明らかに、言葉が先に作られ、辞書は後から言葉をまとめたものだ。

 昔には辞書がなかった。しかし言葉はあり、会話はできていた。

 この事実が何を意味するかというと、言葉の根源は「表すこと」である、という事。

 つまりは「言葉=表すこと」であり「言葉≠意味の定義」ではないんだ。

「意味の定義」とは「言葉が表したい物事を説明したもの」に過ぎない。

 だから「意味の定義」というのは不変的なものでもなければ絶対的なものでもない。

 その証拠に、「昔と意味が変わった言葉」もあるし、「新しい言葉」もある。さらには辞書に乗らないスラングという言葉もある。


 では、言葉に「意味の定義」は必要ないのか?というと、そうではない。

 言葉には共通認識となる定義がなければ会話がとても困難になるのは事実だ。

「言葉=表すこと」という原始的なルールにのっとた原始的な言葉は「あれ」とか「これ」といった指示語だ。

 これらは実態を持たず「指定する物を指し示す」という、原始的な言葉の意味合いしか持たない。

 そして「指示語」と同じ働きをする音声やジェスチャーを理解する動物は、人間以外にもいる。

 例えば、犬に「ボールとって来なさい」と命令しボールをもってくる事は、犬が「ボール」という物を理解していて、

 さらに「とってくる」という行動を理解して、「ボールをとってくる」という行動をしている訳ではない。

 犬が理解しているのは「あれをこうする」というレベルの認識だ。

 なぜ、こう言い切れるのか?というのには「時間」と言葉の関係を知る必要がある。


 指示語とそうでない言葉の決定的な違いは「時間」にある。

 つまり、指示語とは「今そこにあるもの」でなければ「表すこと」ができない。

 しかし一方の「ボール」は、今そこになくても「ボール」という言葉によって、物体をイメージさせる事ができる。

「ボール」という言葉は、今ここにない「ボール」を頭の中に産む事ができるが、

 犬にボールを見せてボールを指示する事は「これ」という意味合いに留まるので、そこにない「ボール」を理解させる事はできない。

 これらがどういう意味をもつかというと、

 言葉には「今ここに無いものを表すことができるもの」と「今ここにあるものしか表せないもの」という、2つの考え方ができるって事だ。

 言葉に意味の定義と辞書が必要なのは「今ここに無いものを表す」言葉が「実際何を表しているのか?」を説明する必要があるから。

「ボール」という言葉を聞いて”リンゴ”を思い浮かべてたんじゃ困る。

 だから「ボールは物である」や 「リンゴは食べ物である」といった”概念”による区別をして、

 言葉が表したい物はなんなのか?を説明していくんだ。


 ~つづく~


 49 :天才tinko:2011/08/15(月) 22:28:52

 !!訂正!!

 ○ つまりは「言葉=表すこと」であり「言葉=意味の定義」ではないんだ。


 × つまりは「言葉=表すこと」であり「言葉≠意味の定義」ではないんだ。


 50 :天才tinko:2011/08/15(月) 22:43:50

 ここまでで「言葉=表すもの」であり、

「言葉≒意味の定義」であり「意味の定義=概念によって”今ここに無いもの”を説明する行為」という事がわかったと思う。

 つまりは、言葉というのは概念によって説明される(区別される)ものであるわけ。


 ”ringo”という言葉は、果物の「リンゴ」を指し示すよう定義された公理としての言葉なんだ!っていう考えは、半分間違っていて、

 果物の「リンゴ」を思い浮かべてる時は、同時に「果物」だったり「赤い」だったり「実」であったり「植物」だったり、

 そういった概念を複合的にイメージして、抽象的な「リンゴ」をイメージしてるんだ。

 この抽象的な実態を持たない絶対的なシンボルの「リンゴ」の事をイデアって呼んだりする。


 つまり、人が言葉を使うという事は

「その人が表したいものを、概念で区別し、その概念で区別した表したいものを、個別の言葉で表すこと」であるわけ。

 ここまで厳密な定義にすると「言葉は公理である」って事が「半分正しくて、半分間違ってる」意味が、なんとなーく分かるんじゃないかと思う。

 例えば、抽象的な考え方をすると「物語」と「旅」は類義語になるんだ。

 なぜかというと、物語とは「様々な出来事が、どのようにして起こったか?」という概念的意味合いを持ち、

 それは同時に、旅とは「様々な出来事が、どのようにして起こったか?」という概念的意味合いも持つからだ。

 哲学的な話の中では、人生のことを「旅」とも例えるし、「物語」とも例える。

 なぜ、こういう例え方をするかというと、「人生」という「人が生きる過程」に起こる

「様々な出来事が、どのようにして起こったか?」というポイントを、こういう共通する抽象的な概念をもった言葉で語るからなんだよ。


「その人が表したいものを、概念で区別し、その概念で区別した表したいものを、個別の言葉で表すこと」というと

 とても難しいことをしているように思えるが、実はそうでもない。

 ぼくらは、普段あやふやに言葉を使っているけど、それが「なぜ、あやふやなのか?」といえば

 ぼくらが言葉で重視しているものが「厳密な意味の定義」ではなく、「概念によって物をあらわす」という事に基づいているからなんだ。

 だからぼくらは「不可解な言い間違い」をする。それは「言葉が概念によって説明されているから」起こる出来事なんだ。

 そして、ぼくらが使っている「言葉」は「概念を示したいもの」であるんだ。


 ~まだまだ、つづく~


 51 :天才tinko:2011/08/15(月) 23:10:54

 少し補足すると、「旅」と「物語」が哲学的には類義語と言えるというのは、

 別に”哲学的だから特別”という話じゃないんだ。

 英語ではよくある事で、ある特徴を持った状況を、同じ特徴を持った言葉で説明し、それがのちに正式な用語になるっていう事は

 不思議なことではなく、言葉の使い方として正しく、自然に起きる事なんだ。


 例えば「確信犯」という言葉は「間違いに気づかないで、正しいと信じこみ行われる行動」を指し示す言葉だけど

「確信的」という、よくにた別の言葉は「間違いを心の底で気づいている様子」を示す言葉で

 この2つの言葉が似ている影響から、確信犯が「間違いを心の底では気づいているが、あえて行動をする事」という意味に変化していった。

 これは「言葉の意味が分かっていない、いけない間違い」ではなくて、「よくにた言葉の、よくにた概念が混同されてしまった結果」でしかない。

 そして、この新しい「確信犯」の解釈は今では辞書にのっている。「~から転じて」という注釈の元に。

 さらに、辞書で言葉を調べて言えると「~から転じて」という言葉が少なからずある事もわかると思う。

 ここからも分かるように、言葉とは概念の区別をするために使われるものであって、意味の定義ではなく、概念が先行する。

 その概念の混同によって、後追いする言葉の意味の定義そのものが変えられる事は「間違い」ではなく、”言葉の法則”からいって「正しい」事なんだ。

 これが「言葉」というものの仕組みだよ。


 だから、クレームを「知恵、主張、閃き」と表現する事は、言語化さえしていないが、

 ”その人の個人性に依存する経験、あるいは思考から導きだされた意見・知識”を概念的に表す言葉の使い方として正しい。


 じゃあ、最初の疑問に戻ろう。

 共通認識が成り立たない言葉は本当に使えないのか?

 ここでの共通認識とは”概念が共有できているかどうか”である。

 この意味において「概念が共有できていなければ、言葉は使えない」という事が言える。

 しかし「概念が共有できていれば、言葉は使える」という結論がわかるね。


 すると、やっと「言葉」についての本題が見えてくる。

 それは「概念は主観であるか、客観であるか?」という問題だ。

 そして残念ながら、この答えば「概念とは原則主観的なものであるが、実証において客観的なものである」という答えになってしまう。

 というのも、ぼくの持っている概念と、キミのもっている概念を、明確に比べて、

 それがまったく同一であるか、あるいは一定の基準以上で共通性が認められるか?というのは、調べようがない。

 調べようがないが、”言葉”を通じて概念を運用する限り、

 少なくとも、この日本で「概念の区別を言葉で区別する事で示す、表したいもの」は、そこまで食い違いは起こっていない。

 一定の基準値以上の共通性が実証的に観測できると言っていいだろう。


 それを、仮にここでは、”言葉”としての客観性を、こう定義しよう

「原則主観によって発せられる言葉が他者に受け取られたとき、話に食い違いがない事を、主観から言葉が”切り離された”とし、客観とする」


 ~もうちょっと つづく~


 52 :天才tinko:2011/08/15(月) 23:22:43

 ここにきて、やっと根本的な問題に立ち返る事ができる。

 >>>37

 >定義されている事実まで疑い始めちゃったら、もう話してなんかいられないよ

 >「これが私の思っている意味だ。辞書には載ってないけれど」なんて意見、素晴らしくも何ともないし。

 この部分だ。


 この”定義されてる事実”は、”実証として食い違いなくやりとりのできる概念の事”と捉えよう。

 この”実証として食い違いなくやりとりのできる概念の事”を否定したら

「概念が共有できていなければ、言葉は使えない」という事が言えるので、言葉は使えない事になる。

 海ちゃんの言うとおりの、素晴らしくない事だ。


 しかし、共通する抽象的な概念をもった言葉を複数述べることで、

「表したいもの」を示す事は、「言葉のルール」からいって、ちっとも間違った事ではない。


 きちんと状況を把握すると分かるけど、

 実は「意味の定義」に拘っている賢二がしている事は

「辞書に明記されていない概念を受け入れない事」であり、

 つまりそれは、”実証として食い違いなくやりとりのできる概念の事”を否定している事であり、

「概念が共有できていなければ、言葉は使えない」という事が言える。


 しかしオレがしてる事は、共通する抽象的な概念をもった言葉を複数述べることで、「表したいもの」を示す事だ。


 だから、海ちゃんの言っていた

 >「これが私の思っている意味だ。辞書には載ってないけれど」なんて意見、素晴らしくも何ともないし。

 っていう意見は、半分正しくて、半分間違ってる。

「概念を受け入れない」という意味においては、それはおかしい事だけども、

「概念を流用する」という意味においては、おかしい事ではないんだ。


 ~次から、物事の証明について~


 53 :天才tinko:2011/08/15(月) 23:54:50

 物事が科学的(実証的)な証明によって結果が担保されていなければ確信しえないのか?

 これも、ちょっとややこしい話になるんだ・・・w


 これを考えるには、まず「科学的(実証的)な証明とは何か?」という事を知らないといけない。

 科学的にいえば「条件が整った状態で、ある実験をしたとき、結果が一定の確率の範囲内で、数式の出した答えと同一である事」と言えるだろう。

 こういった結果を”現実に観測できること”が実証であり、それを”数学式で表したもの”が科学的な証明だ。


 しかしここで、今もなお解決されてない大問題がある。それは”現実に観測できること”である実証と

 ”数学式で表したもの”の科学的な証明が、「同一であり、親和性のあるものかどうか?」という事が大問題になってくる。

 つまり、平たく言えば「たまたま、とある式で実験結果を予測できたが、その式は現実の物理法則とリンクしていない場合がある」という事。

 そして、これについて現在の科学は

「数式と実際の物理法則がリンクしてなくてもいい。”なんらかの数式”によって”現実の予測”ができれば、それで充分」

 というのが、科学の答えだ・・・。これが実証主義と呼ばれるもの。


 この実証主義は、「理論が正しくなくて、めちゃくちゃでも、実験結果を予測さえできれば、それでいいじゃん!」という話で、

 ここには「現実を、どう解釈するか?」といった意味合いでの「解釈の食い違い」が、深い溝となってある。

 つまり「科学は正しくない」という事が、科学の出した現在の結論であり、

「科学は正しくないが、一定の条件下で、未来を予測する事ができる」というのが科学の実態だ。


 この意味においての”先人の証明”は、科学では「先人の証明が正しいかどうか」はわからないが

「先人の証明が”使えるかどうか(利用できるかどうか)”」において、価値がある。


 すると自然に「証明によって結論が担保されている物を一番優先して受け容れるべきだ」という考えは、すこしおかしい。

 科学は、証明によって結論が担保されているかどうかに”関わらず”

 今、予測したい実験結果を予測するのに、有用である先人の証明を受け容れるべきである。と言ったほうが適切だ


 ~つづくよーん~


 54 :天才tinko:2011/08/16(火) 00:19:20

 つまり、現在の科学での評価基準は「論理的に正しいかどうか」ではなくて

「実証において有用であるか?」の一点に絞られているって事。

 そして、ぼくらが「証明された事実」として教わっている科学は、実は「実証において有用な数式」という意味合いしかない。


 ただし、論理実証的側面(科学的側面)というのは、ある。

 ある条件下で有用な、科学的に証明できる数学式があり、

 それが、ほかの条件下での結果を予測する時にも使える!という事がわかると、

 その数式が成り立たない計算をしていては、実験が成功しない、という事がわかる。

 つまり「たまたま、実験結果を予測できる式」があるとして、その式が”全て個別”なわけじゃない。

 もちろん、大きな法則性にそって、それらの式は流用できる事が多い。(が流用できない事もある)

 それでも、物理法則との親和性が証明できないから、科学の評価基準は

「実証において有用であるか?」という一点でしかないのは、間違いないんだ。


 さぁー、ここで質問に立ち帰ろう。

 物事が科学的(実証的)な証明によって結果が担保されていなければ確信しえないのか?

 これも半分正しくて、半分間違ってる。

 科学を「現実を予測する手段」として考えたとき、「科学的な証明によって結果が担保されていなければ確信できない」という事になる。

 しかし、科学を「物理法則を読み解き、証明する手段」として考えたとき、

「現在の科学では、科学的な証明が物理法則と親和性があると証明できないので、

 いくら科学的な証明によって結果が担保されていても、それは確信する事はできない」となる。

 >>>39

 >真実はともかく、ね。

 という事だね!


 さて、こっからは科学の何が主観で、何が客観なのかを考えてみよう


 ~疲れたけど、つづく~


 55 :天才tinko:2011/08/16(火) 01:23:09

 ここまでくれば、答えは割と簡単だ!

 科学においては”数式の有用性”が主観であり

 ”数式そのもの”と”実証”が客観だ。


 ”数式の有用性”は、なにも「実験結果を予測できる」事だけを重要視しているわけではない。

 そこには「計算のしやすさ」や「応用の効き方」なども考慮されている。

 これらは、「何に便利か?」という主観に基づいた判断であり、

「便利か否かに関係のないもの」として、”便利”という主観から”切り離す”事ができない。

 だから”数式の有用性”は主観だ。


 一方”数式そのもの”と”実証”は、一目見てわかるように、主観から”切り離されたもの”だ

 ”数式そのもの”と”実証”は、「自分の手元を離れて他者に受け取られた時も、その式の結果や実験結果に食い違いがない事」が

 主観から”切り離された”という事だ。


 こっから、やっと本題の本題

 主観と客観について?の話に入る!w

 言葉と科学の両方を「主観と客観」で「区別して」見てみよう。


 56 :天才tinko:2011/08/16(火) 01:35:42

 言葉は”概念”が主観で、

 実際に”話す”事が客観だ。


 科学は”数式の有用性”が主観で、

 実際の”式そのもの”と”実証”が客観だ。


 言葉は”概念”という”主観”によって支えられている。

 科学は”数式の有用性”という”主観”によって支えられている。


 そして、それらは、それぞれ

 言葉は”話す”事で実用化し、実用化するとは他者に受け取られても食い違いがないという意味において”客観”となる。

 科学は”数式そのもの”と”実証”で実用化し、実用化するとは他者に受け取られても食い違いがないという意味において”客観”となる。


 そろそろ共通点がわかってきたと思う。

 つまり、言葉も科学も、そして、この世のありとあらゆる”理屈”も、物の使い方も、人も、

 それらの”情報”全ては「主観に支えられている」という決定的事実がある。


 そして逆に、言葉も科学も、そして、この世のありとあらゆる”働き”も、物そのものも、人の肉体も、

 それらの”他者に受け取られた時に食い違いがないもの”全ては「客観として扱われる」。


 では最後のまとめ!

 ”物事”を主観と客観で区別したとき、

 ぼくらの日常、あるいは会話、そしてこの掲示板でのやり取りは、

 主観と客観において、どういう意味があるんだろうか?を考えてみる!


 57 :天才tinko:2011/08/16(火) 02:08:30

 この世の”情報”は全て主観である。

 つまり、映画の感想も、好きな芸能人の評価も、概念も、公理も、先人の証明も、

 全ては主観である。


 しかし、映画の感想や好きな芸能人の評価は、人によって大きく食い違いが起こる。そういう食い違いが起こりやすい主観だ。

 そして、概念や、公理や、先人の証明などの情報は、理解さえできれば、その客観的な”使い方”に関しては、食い違いが起こりにくい。そういう主観だ。

 要するに、主観には、なぜだかみんなの理解が一致する、食い違いの起こりにくい主観と、

 みんなの理解が一致し辛い、食い違いの起こりやすい主観の二種類がある。


 そして、これらの違いは、食い違いの起こりやすい主観は判断基準となる情報源が一定ではなく

 食い違いの起こりにくい主観は、判断基準となる情報源が一定である、という、わかりやすい違いがある。

 つまりは、判断基準となる情報源が一定であれば、映画の感想も好きな芸能人の評価も、食い違いが起こりにくくなる、という事だ。

 逆に、この判断基準となる情報源に”その時の感情”という”不安定な情報”が加わると、今度は、より食い違いが起こりやすい主観へと変わる訳だ。


 そして”客観”とは何か。

 それは”他者に受け取られた時に食い違いがないもの”である。

 つまり、ここには「食い違いのない主観は客観として機能してしまう」という、根本的なルールが含まれているし、

 私たちの”概念”に支えられている”言葉”は、実は「食い違いのない主観」によって支えられている、とても不安定なものなのだ。

 これこそが、>>32の”「対話」がいかに不安定なものであるか”という事の真意であり、これは”厳密な言葉の定義”なんかで埋められるものではない。

 なぜなら”厳密な言葉の定義”は「厳しく言葉の意味する所の概念を絞り込む」というだけであって、

「概念を絞った」所で、元あるアバウトな概念を「限定」し、邪魔な概念を「拒否」した所で、その言葉の解釈の範疇が狭まり、言葉が不自由になるだけだ。


 言葉の解釈の範疇を狭める事に意味のある状況というのは、かなり専門的で学問的な何かをしている時ぐらいで、

 それ以外の日常の会話や、こういった掲示板でのやりとりでは、全然必要のないものである。

 むしろ、日常の会話や、掲示板でのやりとりでは、「概念の範囲を広げる」事に意味があっても、

「概念の範疇を狭める」事に、殆ど意味はない。

 なぜなら、学問的な場所でもない限り”概念の境界線”なんて、とても難題となる”違い”を、ぼくらは日常的に認識していないからだ。


 ~つづく~


 58 :天才tinko:2011/08/16(火) 02:30:03

 何が「事実は事実」と言えるかというと、

 それは”他者に受け取られた時に食い違いがないもの”である。


 だが、”他者に受け取られた時に食い違いがないもの”をぼくらが実感する事は、とても難しい。

 それこそ、全てを手でさわり、目で見ないと、実感できないからだ。

 あるいは、手でさわり、目で見たからといって、それが「客観」とは言えない。

 ぼくが手でさわり、目で見たものを、他人にも同じようにしてもらい、

 ”他者に受け取られた時に食い違いがないもの”であるか確かめないと、それは”客観”にはならない。


 つまり”客観”とは、常に、他人に支配されている物である。

 ぼくらは、他人に触れる事で、自分の”客観性”を絶えず確かめている。

 それは掲示板の会話も同じだ。

 ある言葉を投げかけられた時、そこに何故”客観”が生まれるかというと、

 ”他者から受け取った時に食い違いがないもの”になって、初めて”客観”がうまれる。

「相手を理解しよう」という主観があって、始めて”客観”がうまれる。

 つまりだ、とどのつまり、「客観とは主観の並列化」でしかない訳!!


 ここから、いきなり、すごい当たり前の結論に行き着くけど

「人の話を聞こうとしないヤツとは、話し合えない」という事だ。

 つまり「人の言葉の使い方に拘って話ができなかったり、人が出した情報を信じなかったら話はできない」という事だ。


 そしてそれは「信じられる情報とはなにか?」という事が「信じようとした情報」でしかないという事。

 もちろん、「信じようとした情報」とは「検証された情報」であったり「証明された情報」だったりする。

 しかし、そこにある証明は、客観ではない。

 客観を主観で見ているだけだ。


 つまるところ、ぼくらの日常のすべては、ぼくらが「理解しよう」としたり

「これは、あって当たり前」と”信じる”事で成り立っている以外に他ならないのだ

 それこそは客観を含めた上で「私たちは、何を前提として生きているか?」という問題に他ならない。


 ~次さいご~


 59 :天才tinko:2011/08/16(火) 02:50:50

 言葉が何でできているのか? そして、それらは主観か客観か?

 科学は何でできているのか? そして、それらは主観か客観か?

 ぼくらの日常は、主観と客観に対して、どういう意味を持っていたのか?

 これらが、わかって、はじめて、やっと

 データ・クレーム・ワラントを使った喧嘩の解釈に行きつける。


 今までの説明を、踏まえて、

 人が信じる”客観的な”情報とは、その人が”客観的だ”と思える情報でしかないという事が言える。

 それは「DHMO」からも分かること。(これはググってね)


 つまり喧嘩とは、煽りとは、

 自分が言いたいことだったり、持ちこみたい都合のいい状況に向かって、

 ”他者に受け取られた時に食い違いがないもの”を創っていくこと。


 もちろん、ニュースサイトや辞書のサイトを使って、言葉の意味を援用するのはありだ。

 しかし、喧嘩で「ニュース的事実」が勝負の命運を分けるような展開は、はっきりいって、ほぼ無い。

 ネットの活字を使った対話では、文字を使った論理しか命綱がない。

 つまりそういう意味で、喧嘩は「情報が相関的に影響を及ぼし、それは時に語り手そのものへも影響を及ぼす事で、

 論理を制する」というアプローチをするわけ。平たく言えばちょっと複雑な感情論だよ。


 言葉の定義や、科学的な証明や、歴史的事実があるかどうかに拘るのもいいけど

 論理を命綱として「概念のやり取り」をしている喧嘩で、

 そういう不変的、明示的事実は、あんまり重要ではない。

「事実は事実だ」という事は構造的に”主観でしかない”という事。


 主観と客観とは、「人は何を前提として生きているか」であり

 この世の全ては感情に支えられているって事がわかれば、賢いです。


 ~おわり~


 60 :天才tinko:2011/08/16(火) 03:06:37

 ついでなんで、>>43を読んでみた

 要約すると「私は言葉の意味を完璧に使えとは言っていない。しかし、トゥールミンのデータ・クレーム・ワラントはちゃんと使え。(なぜこれだけ意味に拘るのかの言及がない)あるいは本来の意味ではないという注釈をしろ。いかに理解できないかを繰り返し熱弁。」これだけだった。

 あとは、主に3つの”自称煽り”のローテーション

「オマエは自分で思ってるより頭悪い」と「それじゃ言葉の意味が通じない」と「死んでくれ」 の3つしかなかったw

 基本「オレにわからない事は、みんなわからない。わかったらそいつはキチガイだ」って言いたいみたい。 あの文字数を数行に要約されるのって、どうよ・・・


 61 :海:2011/08/16(火) 06:37:06

 >>47

 事実は事実として存在してる。主観とか客観とか関係なしに。

 事実を疑うにしても、また別の事実が必要となる。

 絶対的なものはないけれど、「現在はこれが事実(定義)」というものはたくさんある。

 それなのに、実証されていないものについて議論することに、強度はあっても意味は然程感じられない。

 信じたり信じなかったりするのは勝手だと思うよ。

 確かにその通り、と思うことだってたくさんある。それでも、結局はそれすらも「正しくない」と言えちゃうわけで。

 事実とされているものを疑うのは個人の自由だけれども、その考えすらも「疑わしい」わけで。

 意味は不定、真理はどんどん変わる、正しいことなど何も無い。

 正しいことなど何も無いこと自体も脱構築されたりする可能性はあるわけだし。

 これもまた、きちんと「現在の事実(定義)」に基づいて考えられてる。不変なものなど存在しない。

 だからこそ、「現在の事実(定義)」というものはしっかりしておかなければならない。

 こういう感じ。



 主観とは何か、客観とは何か、を知ったり考えたりする必要性は感じられない。

 だって、それらは前提知識でしょ。「発言内容が主観的であること」なんて無価値で無意味な主張をしだす人々とはお話にならないし。

 ただ、他人の意見のどこが主観的で、どこが客観的かを判断する必要性はあるけどね。

 例えば、「年ごとの推移でみると、補助教育を受けている幼稚園児の増加が著しく、九十五年は四割を超えており、景気停滞にもかかわらず、『受験ブーム』の健在を見せつけている」という意見。

 これのうち、「年ごとの推移でみると」から「九十五年までは四割を超えており」まではデータの結果を要約した記述。

 しかし、その次の「景気停滞にも関わらず、『受験ブーム』の健在ぶりを見せつけている」の部分は、そうした結果を踏まえた相手の判断や意見の表明、つまり、主観的な記述の部分なの。

 この主観的な部分が、どれだけ論理的に正しいのかということを推察して反論することが重要だと思うの。

 もしかしたら、これが言いたかったのかな。


 62 :海:2011/08/16(火) 06:38:34

 あのね、晦渋な文章と出来損ないの文章じゃ、わけが違うんだよね。

 概念は、クオリアが「本当の意味での共有はできない」、と今のところ証明している。

 だから、概念的には齟齬が生じていても致し方ない。でも、字面としては統一するべきだと言っているの。

 概念的に正しかろうが何であろうが、内容が間違っていたらそれは紛れもない間違いなんだよ。

 字面の意味に準えて説明しないなんて、それこそ独りよがりだもの。概念的だろうが抽象的だろうが、他者に発信するなら当然のことだよ。

 それでもそれが嫌ならば、そぐわない意義で使用したいならば、きちんとそれについて説明を施さないといけないよ。それが出来ないなら日記にでも書き記してればいいわけだし。

 造語が多かったり、存在しない地域や建物や道具が多く登場する小説で、どういったものかを描写しないなんて劣悪としか言いようがないし。

 言葉でも絵画でも何でも、表現しきれない自己の概念というのはあるでしょう。

 でも、だからといって垢だらけの洗練されていない駄文を享受しようとするのとは訳が違う。

 相対的な行為をするに当たって、論理実証的側面から判断できるものに依拠するのは当然だと思うんだ。


 知識というのは相対的なものなの。まぁ、前にも言ったけど。言わなくてもいいんだろうけど。

 一つの辞書が完全に正しいわけじゃないのは当たり前。辞書だって本だもん。

 だから、何種類かの辞書を見比べて、その単語の性質を読み取るんでしょ。それこそが定義でしょ。

 そーいう定義からも逸れて自己流辞意に走るのは誤り、としているの。

 自分本位なものを発信しても知的じゃないとされる観点から考えれば当然至極なの。


 63 :海:2011/08/16(火) 06:38:53

 科学的っていうのは、事実に裏付けられ、論理的に体系づけられているものなのね。

 この世の中の有象無象、どれが本当に正しいかなんて言えないよ。

 科学的側面からでなくとも、実利的側面からしたら正しい、ってことは当たり前のようにあるよ。

 でも、それは確証を得ていない状態でしょ。他人が経験した成功談を鵜呑みにして実行しても上手く行かなかった、みたいに。

 そういった経験則を正誤判断して、応用が効くモノにまで昇華させることが重要なんだよ。


 暴力的な語句が多用されてたり、些細なことで言質を取ったとすることが喧嘩だと思ってるよ。

 喧嘩は議論ごっこみたいなものと認識してるの。議論ごっこは芸術なの。したいとは思えないけど。


 64 :天才tinko:2011/08/16(火) 13:00:27

 >>61

 海ちゃんには、やっぱこの話はちょっと難しすぎたかもしれないね。

 海ちゃんが考えてるのは、唯物論的発想の延長にある区分けなんだ。

 つまり「情報は”確固たる情報”というまとまりが存在する」と考える考え方。


 文章を見る限り「事実とはなにか」も「概念とはなにか」も「クオリアとはなにかも」も

 全部間違ってるよw


 65 :海:2011/08/16(火) 17:56:13

 どの観点から間違っていると言えるのかしらん。さっぱりですわ、すわすわ。

 わたくしの言っている事実が何を示しているか分かってらっしゃるのかしらん。


 概念はあなたの使っている意味合いであろう意味合いで言っていたのだけれど、違ったのかしらん。

 クオリア自体については言い換えると「他人が自分と同じものを感じているとは限らない」ということなの。間違ってないよん。


 66 :海:2011/08/16(火) 18:02:58

 >>61は>>52のことについて言ってたんだけどネー。

 そーいうことを言いたいワケじゃなかったのなら、変えるね。普通に捉えますね。


 えーとえーと、言いたいことは納得です。というか、当たり前だと思います。

 表したいことを示すのは結構です。意味の定義にこだわることも結構です。

 しかし、表したいことの意味は適切でしょうか。事前に防げるものがあるのなら、単語のイメージとかで判断するのではなく、辞書を引くべきだと思います。

 その意味の定義は適切なのでしょうか。抽象的な単語(ワラント)を、自分で考えもせずに出典で判断し、「この場合、これだとおかしい」ということに気付かなかったりしたままじゃいけませんよね。

 というか、そういうものを使わずに具体的に表現する方が上等だと感じます。


 そして、結論の「概念を流用する」って、そもそもそれ自体おかしいと思います。

 概念は流用されたりするものではなくて、一般化されて然るべきものなのです。そして、拡大されている概念を区分けするために概念があるのですから。


 たとえば、リストラという概念は、八〇年代後半以降生まれました。

 それまで、企業での人員の整理や配置替えといった現象は、「合理化」という概念で括られていました。

 しかし、合理化の対象は主に生産現場での労働者でした。企業組織全体の変化の中での人員配置の変更というよりも、生産現場に限定しての使い方が多かったのです。

 それに対して、八〇年代後半以降、企業組織の改編は管理部門にも及ぶようになりました。

 その結果、ホワイトカラーの人員配置の変更と言う事態が生じてきたのです。このような新しい現象を、「合理化」という概念で捉えるよりも、より広範な組織変化の中で生じている現象として捉えるために、「リストラ」という新しい概念が登場したのです。この概念は、すでに合理化が進んだ生産現場以外の、経営管理部門の人員整理の必要性を訴えるために登場した概念であるといえます。だから、従来の「合理化」とは区別される必要があったのです。


 具体的な事象を、概念として捉えなおし、一般化することで他のケースにも応用できるようにする。

 こういった過程を踏まえて完成したモノこそ素晴らしいのであって、流用するなんて思考停止に他ならないと思います。

 小説と議論を一緒くたにするというのなら、別にいいですけどね。ただ、それだと当たり前のことなので、無価値です。

「言いたいこと言い表せないから流用しちゃえ」だとか「あーこれはこんな感じだからこれを流用しよう」だなんてとてもじゃないけれどおかしくないとは言えません。

 流用するならば、まず具体的な説明責任が生まれるとも思います。そういうのをなしに「分かってない」とするのもおかしいです。


 67 :名無しでござる:2011/08/16(火) 18:07:38

 >>65

 訂正するとクオリアは論理ではなく感覚なので「~とは限らない」とゆう性質に言い換えることできない


 68 :名無しでござる:2011/08/16(火) 21:35:01

 >>51>英語ではよくある事で、


 tinko先生は英語にもご造詣が深くていらっしゃる!

 tinko先生は英語にもご造詣が深くていらっしゃる!

 tinko先生は 英語にも ご造詣が 深くていらっしゃる !


 しかし「よくあること」と言いながら例示はせず、直後に「確信犯」の話を始める始末。


 つまりはどこかからパクってきた文章ということだろう。


 おそらく苫米地英人あたりの「即席でバカが治ります」系の自己啓発本の類か。

「クレーム、データ、ワラント」とか「内包/外延」とか、「東洋哲学がどうたら」とか、今回の記号論だか構造主義だかをうっすら舐めたような内容も、

 そのあたりがネタ元なんじゃないかしら。



 どんな本をパクるにしても、なにぶん読解力が病的に低いレベルだから、どこをどう曲解するかは神のみぞ知るところ。

 さらにそこにバカ頭からじくじくとにじみ出る妄想を混ぜ込むわけだから、

「もっともらしいことも言ってるけど、そこかしこにオカシなところがあって、なんだかすごく稚拙なことを長々と述べているだけ」

 という残念な結果になる。


 >例えば「確信犯」という言葉は「間違いに気づかないで、正しいと信じこみ行われる行動」を指し示す言葉だけど


 いや、「確信犯」とはもともと「宗教や政治的信念など思想に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪」のことを言うだろう。

「間違いに気づかない」わけではない。たとえば復讐犯罪とかテロルなど。


 >「確信的」という、よくにた別の言葉は「間違いを心の底で気づいている様子」を示す言葉で


 いや、「確信」とは一般に「固く信じて疑わないこと」を言うだろう。

 つまり「確信的」とは、「固い信念を持ったようすの~」とか「固く信じて疑わないありよう」とかといった意味だろう。


 あと、このスレッドではないけれど、最近よく見かけるのは「逆説的」の誤用とか、ね。



 こういう学の無さを丸出しにしながら、いいですか?丸出しですよ?みなさん。

 ひと様をつかまえて「わかってない」とか、「間違っている」とか、「バカだ」とか言い放つんですよ?

「教授してやるから拝聴しなさい」という態度なんですよ?

「~なんだ。~してみよう。ぼくたちは~なんだ。」といった講義口調が自己陶酔している感じでたまらなくキモチワルイでしょう?

 どうです?どうします?みなさん。

 文章の量は違えど、メーだかミユーだかいう携帯電話のあんちゃんと同類の始末の悪さでしょう?


 69 :名無しでござる:2011/08/16(火) 21:35:23

 これはどういうことかと考えてみるに、まず、そもそもネタ元がバカや落ちこぼれ向けに書かれた本なのだから、

 そのトピックスはバカには目新しいかもしれないが、そこで仕入れた知識を得意満面で披露されても、

 ごくふつうの教養のある者には、「いや・・・わざわざオマエに講義してもらわんでも・・・」

 程度の反応しかできないことは当然である。


 しかしこういうところにに思い至らないのがさすがにバカで、

 また確かに天才tinkoにとっては「データ、クレーム、ワラント」とか「内包/外延」とかは、

 人生の一大事・大発見であることも事実。


「けんかのときにこういうことばをゆったらみんなぼくをそんけいするだろうなあ。うふふ」

 そんなまほろばを夢見て、高揚した額のあたりを脂でぎらぎらさせて、心持ち呼吸も早くさせニヤニヤしているおっさんの顔が目に浮かぶようだ。

 もちろん結果はご案内の通り、失望如何ばかりか。


 ここで己の程度の低さを反省すればこそ、問題は彼の中で、それが絶対不変の真理になってしまっていることだ。

「感心しないなんてみんながバカなんだ!」

 あれです。

 ウイグル自治区あたりから来ている留学生の子が風邪気味だというから、

 市販の風邪薬飲ませたらいっぱつで治っちゃった、みたいな。

 これまでほとんど薬なんか飲んだことないから効き目がすごいらしい。

「知」の免疫がない、とでも言おうか。

 だから罪が無いといえば罪が無いのかもしれない、バカなだけで。



 ところで、ここまでの話は、このバカが「バカでもお利口さんのフリができる」系の書籍を愛読しているという仮定で進めてきたが、

 そうだとすると、このバカは自身のバカを自覚しているということになる。


 なるほど!

 sueくんのツッコミに、あれほどヒステリックに反応したわけも納得できる。(95番sueさん「ほら語れ´`」スレ 参照)

 必死になって賢しげに発言しているときに、「学が無ぇなあ」まがいの言われ方をされたと感じたのだろう。


 ああ、劣等感は辛いだろうけれど、ひけらかすために本を読むのはつまらないことだよ、チンコくん。

 どういうわけか、ひとはバカを一瞬で見破ってしまうものだし。


 どうか金輪際「ぼくのかんがえるけんかろん」みたいなものを語らないようにしよう。

「ぼくのおちんちんみてください!」とか「うんこ!うんこ!」とか、

 いかにもオマエらしい発言をしてはしゃいでいれば幸せになれると思う。



 あ、あと余談だけど、彼が最近読んだ本が「読書力」だって(笑)

 病的に読む能力のないバカが「読書力」という題の本を読んでいる図(笑)

 でも、「やっぱり本人も自覚してんのね・・・」って、少ししんみりもしましたけど。


 半キチガイが垂れ流す妄言に付き合わされたそこのキミ。

 なんの因果か、どんな祟りか。

 お盆は終わってしまったけれど、これを機にご先祖様のご供養を念入りにしてみてはいかがでしょう?


 70 :名無しでござる:2011/08/16(火) 21:35:49

 ↑こいつどんだけtinko大好きなんだよww


 71 :名無しでござる:2011/08/16(火) 21:50:27

 ↑

 69 名 前: 名無しでござる - 投稿日:2011/08/16(火) 21:35:23

 70 名 前: 名無しでござる - 投稿日:2011/08/16(火) 21:35:49


 26秒で反応てw


 オマエも熱心だよなwww


 72 :海:2011/08/16(火) 22:06:44

 >>67

 クオリア自体は質感だものね ありがとうとう


 73 :海:2011/08/16(火) 22:10:19

 賢二くんの文章は横隔膜が震えるのね


 74 :海:2011/08/16(火) 22:25:01

 道徳的義務から生じる自分の確固たる信念からくる犯罪も、確信犯になるよね

 間違いがどうのこうのとか、犯罪だと認識してるかしてないかとか関係なしに、

 自分の信念を貫いた結果、犯行に及んでしまったってのが確信犯なんじゃないの


 75 :海:2011/08/16(火) 22:30:15

 お参りはしっかりしてきたからきっとご先祖様に不満はないと思うんだ

 認知資源は取られるけど、時間はそこまで取られない


 76 :天才tinko:2011/08/17(水) 00:12:54

 >>72

 クオリアの話って面白いんだけど、すっごい理解し辛いんだよ・・。簡単そうに見えてめちゃめちゃ難しいんだ。それが簡単そうに見えるからこそ、余計に難しい。

 たぶん、このスレに書き込んでる人の中にクオリアをちゃんと理解できてる人が1人でもいるかどうかは、怪しいぐらいw

 クオリアを「質感」とか「人によって感じ方が違う”かもしれない”事」っていう理解に留めてる人が多いんだけど

 実は、それらって、厳密に言うと、全然違うんだ・・w


 クオリアを意訳するならば「質感」って言葉が一番近いし、だからこそ、そう言い表すしかないし(旅と物語みたいにね)

 クオリアを普通の人にも分かるように説明するならば「人によって感じているもの、見えているものが違うかもしれない」っていう説明になっちゃうのは、その通り。


 でも、「人によって感じているもの、見えているものが違うかもしれない」なんて、わかりきってる事じゃんw

 そんな、わかりきってる事にクオリアなんて名前をつける必要はないんだ。

 本当のクオリアを理解するには、オレが苦労して説明したw 主観と客観の違いを理解してないと、絶対に理解できないもので

 クオリアは厳密に言うと概念でも質感でもない。クオリアそのものなんだ。


 クオリアを主観と客観の説明にあわせて説明するなら

「客観とは主観が食い違いなく受け取られる事だけども、クオリアの食い違いがあっても主観の食い違いはおこらない」という問題なんだ・・・


 つまりw

 クオリアってのは「質感の元になってるコレ」であったり、「今”感じている”と思っている理由のコレ」なわけ。

「質感」も「感じているもの」も主観でしかないんだよ。それは証明できない。

 だけども「我思う故に我あり」と同じ理屈で、「今、なんだろうと思っている”コレ”」は「なんだろう?と思っている目線」が存在するのと同じに、あるいは発展的に存在が証明できるんだ。

 こういう理屈でいうと、クオリアは主観や、質感や、概念なんかよりも、論理的に証明しやすいものだといえる。

 だからこそクオリアは「クオリアそのもの」でしかなく説明が難しい、厳密にいうと、かなり抽象度の高い概念で、少なくとも「質感の元」と言えるぐらいだから、質感よりは外延にある概念だと言っていい。


 クオリアを説明するときの一番の難しさは、クオリアに位置する部分の事を「コレ」は「コレ」としか言い表せないから説明が難しいw

 そしてなおかつ、「コレ」は「コレ」としか言い表せないからこそ名前が付けられたの。それが「クオリア」なわけさ。


 77 :天才tinko:2011/08/17(水) 00:30:24

 >>66

 52でも51でもいいんだけど、これら一連の説明は全部つながっているもので、表しているものは一緒なんだ。

 表しているものを、どういう別の説明の仕方をするか?の違いだけで、全部同じ事を言ってる。

 その説明を聞いて理解できないなら、申し訳ないが「主観と客観の違い」って考えがわかってないし、その根本的な解釈が始まってもいないw

 疑うという目線そのものがないし、たぶん「我思う故に我あり」が他者に与える影響と意味も理解出来ないよ。

 まぁ、理解できてたら主観と客観の違いは、オレに説明される前から、とっくに理解できてると思う。

 こんだけ説明されても理解できてないから、もう無理だと思うw


 >抽象的な単語(ワラント)を、自分で考えもせずに出典で判断し、「この場合、これだとおかしい」ということに気付かなかったりしたままじゃいけませんよね。

 ここらへんも、ちょっちね~意味がわかってないね~

 賢二は「ワラントは抽象的な言葉ではなく、ちゃんとした意味がある。だからこそワラントを抽象的な解釈をしている天才tinkoはおかしい」ってブチギレてるのね。

 なので「抽象的な単語(ワラント)を」っていうのは、ありえないです。

「自分で考えもせずに出典で判断し」も、それは賢二が良しとする所で、

 出典のある言葉を、自分の考えでねじ曲げるなってブチギレてるのが賢二なのね。

 じゃあ「自分で考えもせずに出典で判断した」としたら、それは「もとの意味に正しい言葉の使い方をしている」って意味になるんだよw

 文章が下手くそなのか、意味が理解できてないのかわからないけど、たぶん見た感じ、文章が下手くそなのと意味が理解できてないのと両方だと思うw


 ちなみに「リストラ」は「自称に付けられた名称」であって「概念」ではありません。

 まず、ここからも概念が理解できていない事がわかる。

 主観と客観の説明で、概念の説明もしたはずだけど、概念ってのは「物事の特徴を抽出したもの」だから

 そういう意味でいえば「リストラ」の外延が「クビ」って事になるけど、たぶん、この説明をしてもわからないと思うw



 >>65

 >>>62 概念は、クオリアが「本当の意味での共有はできない」、と今のところ証明している。

 概念とクオリアは根本的にまったくの別物だから、それがちゃんと理解できてたら

 言い間違いにしても、この言葉の使い方はありえない。

 つまり海ちゃんは主観も概念もクオリアも似た様な解釈しかしていなくて、それは

「自分が感じていて、それを他者との関係に関係なく断定していいもの」程度にしか理解できてない。

「断定していいかどうか」は単純に個人的な思考であって、概念でも主観でもクオリアでもないからね。


 78 :天才tinko:2011/08/17(水) 00:32:49

 *事象に付けられた名称


 79 :海:2011/08/17(水) 00:35:38

 飲茶さんの言葉を借りて「主観的体験が伴う質感」やら、●←この色、で説明は事足りるような気がするの

 ちゃんと理解ってのがどこまでの範囲か知んないけど、こういう認識を持つだけで、十分理解できてると言えるんじゃないかな


 80 :海:2011/08/17(水) 00:41:32

 え?最初、賢二くんはわたしに間違ってると言ってきたはずだけど

 その後アナタに対象変更されてた気がするの


 81 :天才tinko:2011/08/17(水) 00:42:41

 >>68

 英語はよくわかんないんだけど、最近海外のニコ生みてて思ったんだ。

 英語って言葉がすごい少ないの。

 いや、正しく言うと、日本語みたいに「同じ意味合いの言葉を別の言い方にする」っていう文化が英語には、あんまないんだ。

 それは、たぶん、英語には敬語がないからなんだと思う。

 つまり、敬うためだけに言い方を変えるって事を英語ではしないから、同じ言葉の言い換えがない。


 じゃあ相手を敬いたい時、どう表現したらいいの?っていうと

「親愛なる友人」みたいな表現の仕方をするんだよ。でもこの意味合いの、解釈の仕方がわかると、すごくおもしろい。


 つまり「本当は、あなたとは、あまり顔見知りでもないけれど、あなたに対して経緯を表して「友人」と扱います」という意味合いで「親愛なる友人」と表現するんだ。

 これは「親しい友達」を「友人」と定義するなら、それこそ間違った使い方なはずでしょ?

 でも、当然英語では間違ってない。


 それは、確信犯という言葉の使い方が、「厳密な定義」ではなく「使う状況」にあわせて意味合いが変わってきたのと同じで、

 人は言葉で「概念を表す」ことを主体としてるから、「友人」という定義が大事なのではなく、

 相手を友人と見立てることで意味を伝える。という手法を取るんだ。これが本質的な言語のあり方だよ。


 ちなみに、

 >英語ではよくある事で、

 はパクってきた文章ではありませんw オレのニコ生をみてて感じたオレの持論ですw


 82 :天才tinko:2011/08/17(水) 00:51:28

 >>68

「悪いことでないと確信してなされる」=「間違いに気づかない」だよ

 オマエ、確信犯の意味を辞書で調べて、そのまま引用し、そかもその引用文とオレの説明が「一言一句同じじゃない」から噛み付いてるけど、それ意味ないよ・・・


 確信的は、間違いをわざと行動する時、間違いを知っていながら行動する、その「知っている」部分が

「固い信念を持った様子」と似た様な様子だから、なにかを分かっていながら、わざと違うことをすると「確信的」(固い信念がある”みたい”)とう表現になる。と考えればスムーズに理解できるでしょ?

「確信」ではなく「確信的」と表現したのは、そのためだよ バーカ


 >「~なんだ。~してみよう。ぼくたちは~なんだ。」といった講義口調

 これ、なんでだろうね?

 オタキングも物事を丁寧に説明してるとき、こういう口調になるんだ・・・。でもオタキングの影響ではない。オタキング見る前から、丁寧な時はこんな説明の仕方をしてた。

 たぶん、「ぼくら」は「この目線」や「人の主観とは構造的にこうなっている」っていう意味合いで、

 そういうのを、柔らかい言葉に帰ると「ぼくらは」みたいな表現がベターになっちゃってるんだと思う。そのほうが説明文にした時わかりやすいんじゃないかな。


 83 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:00:27

 >>69

 データ・クレーム・ワラントも内包・外延も、元々感じていてわかってた。

 ひきこもって、これらと同じ概念の考え方をもって、いろいろ考えてた。

 それがある時、本とかテレビみて「え?!この考え方に名前ついてるの?!?!!」ってなるわけw

 名前がわかったら、説明に便利じゃん!



 なにより、オレは物事をある程度説明するとき、ある程度の定義は気にしてる。もちろん誤差を許容した上で。

 そういう時は、煽るか、煽らないか、ちゃんと判断してるんだが、そこらへんオマエは理解できてないよね。

 オマエの「わからなさ」という感情に起因する「今ここで煽ってやろう!天才tinkoがやってたように!」っていう、

 オレをモデルとした口調をオレにぶつける、っていう、その態度もどうかと思ってます。

「煽ってるか煽ってないか、状況判断もできないのか」って突っ込もうと思ったけど

 そもそも「天才tinkoのように!」っていう、オレをモデルとした態度をオレにぶつけることにためらわない様子が、すごいよね・・・

 オレも昔、違う人をモデルに態度を真似ていた時がある(し、今でもそれをモデルとして使ってる)けど、

 だからこそ、そのモデルとなってる人に同じ態度をぶつけようとは思わないよ・・・(しかもところ構わず自分が”わからない”時に・・・)

 せめて、喧嘩のスレでその”自称煽り”を披露すれば?

 たぶん通用しないけどねw 切れ味ないし、パターンが少ないし、全ては「言い分がおかしい」ってだけの一点に帰結しちゃってるから・・・


 84 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:08:06

 >>80

 よくわかんないけど、海ちゃんは途中から前に言ってた内容と変わってるよ。


「言葉の定義をハッキリさせろ」って話なはずなのに

 >抽象的な単語(ワラント)を、自分で考えもせずに出典で判断し、「この場合、これだとおかしい」ということに気付かなかったりしたままじゃいけませんよね。

 これじゃ「自分で考えもせずに」って言ってるから「自分で考えろ」って事じゃん。

 でも「言葉の定義をはっきりさせる」って事は、自分で考えずに、辞書なで意味を保証しろって意味合いだから

 言ってることが食い違う。

 定義をはっきりさせるって事は「自分で考えもせずに出典で判断する」って事だよ


 85 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:09:49

 >>79

「主観的体験が伴う質感」はいい説明だね・・・

「●←この色」を使った説明もしってるけど、海ちゃんはそれを理解できてないよ。


 論理的にいうならば「主観的体験が伴う質感」とは、どういう事かが説明できる?

 オレが明した「


 86 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:10:39

 >>79

「主観的体験が伴う質感」はいい説明だね・・・

「●←この色」を使った説明もしってるけど、海ちゃんはそれを理解できてないよ。


 論理的にいうならば「主観的体験が伴う質感」とは、どういう事かが説明できる?

「質感の元になってるコレ」と「主観的体験が伴う質感」が同じ意味だと理解できたら、アッパレだよ。


 途中で発言しちゃった・・・・


 87 :海:2011/08/17(水) 01:14:34

 いやいや、リストラは概念だよ……

 リストラって、本来は事業の再構築を意味しているけれど、日本では企業の縮小に重点を置いている場合がほとんどで、本来の意味からはかけ離れてしまってるの。


 88 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:20:49

 >>87

 >本来は事業の再構築を意味しているけれど

 へー 知らなかった

 じゃあ概念かも。詳しくわからないけど。

 それが「再構築」という特徴を有するもの、全てを「これはリストラだ」と言い換えて問題ないのなら、概念だ。


 89 :海:2011/08/17(水) 01:23:35

 説明することができないもの、で伝わるのかな

 言葉の定義が同じであったなら、誰がどう受け取ろうが会話は成立するから表面化することが無いもの、なら伝わるかな


 90 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:27:33

 >>89

 うーん・・そこがね、クオリアが難しいゆえんなんだ・・・

 というのものね・・w


 >言葉の定義が同じであったなら、誰がどう受け取ろうが会話は成立するから表面化することが無いもの

 なのか

「言葉の定義が同じであったなら、誰がどう受け取ろうが会話は成立するから表面化することが無いコレ」

 なのかで、意味がだいぶ違うんだw


「もの」っていう表現だと2通りあって

「表面化することがないコレ」という意味での「もの」と

「表面化することがない考え方」という意味での「もの」 (そういうもの、とかの”もの”)がある。


 91 :海:2011/08/17(水) 01:27:51

 そうだよ、問題ないよ

 っていうか、伝わってなかったんだね

 まぁ>>37>>39で言いたいこと言い終わったからもういいんだけど


 92 :海:2011/08/17(水) 01:30:47

 まあ、ものっていうのは質感ってことなんだよね

 痛みとか恐怖とか色とか味とか音とかダルさとか嬉しさ悲しさなどの、人々が感じる全ての質感について言えること


 93 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:33:56

 >>92

 うーん・・・だから難しい・・・w

 たしかに質感でもいいんだけど・・実際は質感の事じゃないんだ。

 とりあえず「質感って何か」説明できる?


 94 :海:2011/08/17(水) 01:38:57

 この質感って、クオリアって解釈でいーよ

 アナタが感じたもの全て。その全ては現代科学では再現することも解明することもできないの。

 って答えるかもね クオリアについて考えたことなんてなかったな


 95 :海:2011/08/17(水) 01:41:37

 現代科学では じゃなくて 現代科学的なやり方では の方がいいね


 96 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:42:11

 >>94

 じゃあダメだ・・・w

 厳密に言うとクオリアは質感の事じゃないから


 なんでこんなクオリアに詳しいかっていうと

 高校生ぐらいの時に、クオリアの事をまったく知らない状態で、自力でクオリアと同じ事を考えてたからw


 97 :海:2011/08/17(水) 01:43:21

 ?

 いや、クオリアについて語られた覚えは無いような……

 ど、どうぞ


 98 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:45:54

 >>97

 どうぞって? オレが説明するって事?w

 説明は考えるんだけど、どうしても>>76に書いた「質感の元になってるコレ」としかいいようがないんだよな・・・


 そもそも、質感だなにか?がわかって、

 その質感の元になってるコレ がわからないと、その「コレ」がクオリアなんだよって説明できないw


 99 :海:2011/08/17(水) 01:47:20

 詳しいって言ってたからそれなりの答えを持ってるのかと思ったのね


 100 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:47:58

 >言葉の定義が同じであったなら、誰がどう受け取ろうが会話は成立するから表面化することが無いもの

 を、あえてわかりやすくして「説明できないもの」とする

 それが「説明できない質感」と同じであり、「説明できないクオリア」と同じだ。という説明は、なりたたない。


 101 :海:2011/08/17(水) 01:50:01

 まぁ、質感と言うよりは現象に近いんだろうね


 102 :海:2011/08/17(水) 01:51:08

 調べたら、前提として1)クオリアとは、意識の上に浮かぶ鮮やかな質感のことであり、ひとつの『現象』と定義する。

 だってさ。


 103 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:55:02

 >>99

 だから、答えはもう書いてあるよ!!w


 質感は、他者との関係性に影響があるもので、主観の中で概念とも関連をもち相関的に運用される認識作用の一端なので質感はクオリアとは同一ではない。

 クオリアは認識過程の根本をたどった時に、他者との関係性に影響をもたらさず現れる、独立的な認知の認知作用そのものを表すもの。

 って説明しても、わからないでしょ!w


 104 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:55:57

 わからないでしょ!って言ってるけど、この説明書くのに普通にちょっと手こずったよw


 105 :天才tinko:2011/08/17(水) 01:59:43

 >>102

 そうだな、定義としては現象のが適切だ。

 なぜだか、わかるかい?

 それは、質感は主観的なのにたいして、現象は客観的だからだよ。

 でも、この客観はちょっと特別で”他人に受け取られた時に食い違わないもの”という意味ではない。

 もうちょっと高度なレベルの「我思う故に我あり」に由来する、認知の順番からなりたつ客観なんだけど 難しいよね・・


 106 :海:2011/08/17(水) 02:01:26

 書いてあったの?長い奴はほとんど流し読みだったからねー


 あぁ、うん分かってるよ。「質感」と「クオリア」は一致しないってずっと言ってたもんね。

 テキトーに書きすぎてごめんね。ちゃんとそこらへんは分かってるよ。

 あと、定義の説明としてはこれも中々よかったの。

 1.クオリアの定義

 クオリアは生物が感覚刺激から事物を知覚しそれを分類、識別する範疇化の結果生まれる脳内表象で、その事物の特徴的な属性を指している場合が多い。

 ただしクオリアを一般の脳内表象と区別して神経科学で探求されるべき独立 した実体と見なす一般に広く見受けられる立場は誤りである。


 107 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:03:01

 あるいは・・もっというと、人間が感じているクオリアが別々だとしても

 クオリアという現象は同一なので、その仕組みが理解されると

 ”他人に受け取られた時も食い違わない現象”という意味で客観である、という説明はできるけど

 この説明の仕方をすると、よけいに難しくなるから

 ちょっと高度なレベルの特別な客観って考えたほうがいいw


 108 :海:2011/08/17(水) 02:04:54

 うーん、ホントに興味を持ったらログ漁ったりしに行くから今はいいやテキトーで


 109 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:09:09

 >>106

 ギリギリだなぁ・・・w

「質感を感じる元となっている脳内現象」って説明もできるけど、正しくない

 なぜなら、あるいはこれが”脳内現象かどうか?”もわかってないから。

 わかってないからこそ、とりあえず「人間の全ては脳で認識している」という原則にしたがって

「脳がそう認識しているのだから、脳内現象であるはずだ」という意味合いでの「脳内現象」でしかないんだよ


 本当のクオリアは、その脳内現象で感じられる”コレ”という事そのものを指してるから・・・

 もし、この”コレ”が脳内現象によって作られてるなら脳内現象だけど

 その”コレ”は客観的物理世界に由来する外的影響による反応だとしたら、脳内現象っちゃあ、一応はいえるけど、クオリアという意味合いでは適切じゃないと思う

 この場合は、客観的物理世界に由来する外的影響による”反応そのもの”がクオリアとしたほうがいい

 いやーだからつまり、脳内現象は脳内現象であってるけど、主観的意味合いの”コレ”なのか、客観的意味合いの”コレ”なのかで、意味は結構違うんだけど

 わかる?w


 余談だけど、脳科学者の茂木さんは、このクオリアの正体をつかもうとしてるらしい・・・ウソかホントかしらないけどw


 110 :海:2011/08/17(水) 02:15:35

 本当のクオリアって見つかってすらないんだから、前提を敷くしかないんじゃないの

 脳(物質)に物理的な作用を与えるか与えないかで、結構違ってくると思うけど


 茂木って苗字の人はよく見かけるけどその人は知らないの


 111 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:20:29

 >>110

 茂木さんは前にテレビとかにでてた、頭がもじゃもじゃで、NHKの番組やってたけど、税金未納でちょっと騒がれた脳科学者だよw


 >本当のクオリアって見つかってすらないんだから、前提を敷くしかないんじゃないの

 この意味では正しい。その通り!

 それでも「クオリアが適切に理解できてるかどうか」ってのは、それが分かるように説明できる事がスゴク難しいんだ。

 殆どの人はクオリアの事を「見えてるものが違うけど証明できないコレ」という意味合いにとどまって考えてるけど、これは間違ってるんだ。

「見えているものが違うけど証明できないコレ」は単純に”主観”という意味でしかない。

 主観的体感の伴なう、見えているけど証明できないコレ(質感)がクオリアだから、この主観とクオリアの違いを理解できてる人が、すごい少ない

 ここが難しい、たぶん海ちゃんも理解できてるかどうか、わからんw 説明はいい線いってたけど、こう・・「違いの説明」に欠ける


 112 :海:2011/08/17(水) 02:28:37

 うん。解明されてないのに「説明してよ」って言われてビックリしたの。

 理解はしてると思うんだけどね。

 いくら「俺はコレを感じているんだ」と言っても分かってもらえない質感のことじゃん。


 113 :海:2011/08/17(水) 02:35:24

 ボクの頭に電極が刺されていて、ボクが赤いものを見たとする。すかさず、脳科学者は「あ、今、キミの脳内で、これこれこういう化学反応が起きているよ」と説明するかもしれないが、それは決して、「まさに今ボクが感じているこの色」の起源、仕組みを説明したことにはならない。


 で、この「まさに今ボクが感じているこの色」こそがクオリアってことでしょ。


 114 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:36:17

 >>112

 ううーーーん 大まかに言えばそれでいいんだ

 そっから主観的な部分を切り離して、客観的に「オレにしかわからない質感」という意味を切り出せたら、ほんとうの意味が分かってる。

 ここの主観と切り離す作業が、やる事自体はそんな難しくないんだけど、説明がやたらしにくい

 まず主観をわかって、そっから主観とクオリアが別である事を説明するから・・

 人の認知のあり方を論理的に論じて、そっから初期段階にクオリアがある事を説明するか・・・とか どっちも難解



 こういう話してると福田先生を思いだす。

 もう、こういう話、普通の人に通用するレベルにいないのかもしれない、オレ・・・


 115 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:43:48

 >>113

 大きい意味でなら正しいんだけど、微妙w

 例えば頭にささってる電極をから逆に信号を与える事で、脳内に「赤色」を再現できるとする。

 そして、その再現された「赤色」の「実際に感じているコレ」がクオリアなわけ。

 で、仮にクオリアが解明できたとして、クオリアの信号を脳内に送る。

 すると、今まで赤色に見えてみたものが全部青色と入れ替わったとする。

 すると「あれ?!見えてる色がかわった!」ってなる

 そんで、もう一度脳内に「赤色」を再現する信号を送る

 それで同じ赤色が再現されてるのに、見えている色は別のものになっている。これがクオリア


 116 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:47:17

「赤色という現象」そのものと「クオリア」に関連性はなくて

「赤色という現象を再現する」事は、万人に共通だけど、実際に見えている色が違う事がクオリアなの。


 これは「人がそれぞれ、赤色という現象を青色と定義している」という話ではなくて

「実際に赤色という現象を赤色と定義している」にも関わらず、見えているだけが「別の色」になるわけ

 この「見えている色がクオリア

 だから「別の色を、定義がなりたつように解釈してしまっている」のではなくて

「同じ色を別の色に見えている」かもしれない、あるいは同一かもしれない。この「見えている色」の事


 117 :海:2011/08/17(水) 02:48:07

 音声として「言葉」を聞いたときの「音」のクオリア、 文字として「言葉」を見たときの「色」のクオリア、 として、意識はクオリア化して「言葉」を認識します。


 思考過程においても、 頭の中で、声として「言葉」がイメージされたり、 文字として「言葉」がイメージされたりすると思います。

 そのイメージされたものが、 「音」のクオリアであったり、「色」のクオリアであったりします。


 118 :海:2011/08/17(水) 02:49:14

 逆転クオリアってやつだね、それ


 119 :海:2011/08/17(水) 02:49:50

 >>115のことねー


 120 :天才tinko:2011/08/17(水) 02:53:01

 >>117

 ごめん・・たぶん、やっぱわかってないわ・・

 クオリア化はないw

 あるかもしれないけど、仮定の話?

 例えがよくわかんないw 言葉がクオリアとして認識される?


 121 :海:2011/08/17(水) 02:55:16

 >>117はコピペだよ。「「言葉」自体というよりは、 」が最初にあるね。

 質問内容は「クオリアの中には、「言葉」みたいに思考という過程を経由したものもあるんでしょうか?」


 122 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:03:37

 >>121

 じゃあその説明は間違ってる

 言語を「音のクオリアで認識している」ってのは、正しいし

 文字を「色のクオリアで認識している」っていうのも正しいと思う


 グレーなのは、中盤の説明で

「受け取ったもの(クオリア)を言葉化する」ならわかるけど

「クオリア化したものを言葉として理解する」というのは

 物理という客観から影響を受けた物を、人間は主観のクオリアに変換している、という仮定のものなら意味がなりたつけど

 たぶん、本来のクオリアは「客観としてのクオリアがそこにあり、人はそれに頼って主観的解釈をするしかない」というものだと思う。

 ここが、ちょっとグレー


 で、間違ってる部分は

「イメージしたものはクオリアではない」という事は決定的に間違ってる。

 赤色をイメージしても、それはクオリアではない。赤色を見ている時に感じるコレがクオリアなのであって

 赤色をイメージしている時は「赤色の概念」でしかない

 だから、その回答者は、オレが何度もいってる主観とクオリアの違いがわかってない。

 概念とクオリアさえごっちゃになってる


 123 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:04:39

 言葉が変だから訂正する


「イメージしたものはクオリアではない」が正しい。

 だから「イメージしたものがクオリアになる」という事は間違ってる。


 124 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:07:36

 こんなふうに、クオリアを「証明できない色の概念」とか「証明できない色の質感」でしか理解してない人が多いけど(まぁ、それでもいいけど)

 本当に深い部分は、「証明できない今感じるコレ」にあるの


 それは概念でもないし質感でもない”コレ”なわけ。 その”コレ”をクオリアと言うわけ。

 変な言い方をすれば、クオリアは証明のできない客観なわけ。


 125 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:12:35

 だから、これを読み解くには、まず「きみは主観って何だと思う?」っていう説明をキチっとさせないといけない

 けど主観の説明も概念の説明も、ちゃんと出来る人は殆どいない。


 せいぜい「自分が感じていて証明できないもの」ぐらいの認識でしかない。概念も主観も。

 主観っていうのは、概念が関係してて、いわば、主観は概念の相関関係を定め解釈する目線(あるいは働き) みたいな感じ

 まず、この言い回しが理解できないと、到底クオリアは深い意味で説明できない。

 主観も概念も理解するには、主体的認識作用のありかた、そのものを理解しないといけない


 126 :海:2011/08/17(水) 03:13:16

 現象学的還元(現象に立ち返る行為)がなされ、「私にはこう見えたよ」と主観的にされたもののうち、そこに表れている個々の感覚(どう見えたか)のことをクオリアという。


 これでしょー?アナタの言いたいことって。

 自分に感じられる主観的な感覚全部がクオリアの対象。


 127 :海:2011/08/17(水) 03:17:30

 自転車に乗っている様子を描いてくださいと言われて、

 自分が自転車に乗っている姿を描いた様子が客観で、

 自分が自転車に乗っているときに見る風景などを描いた様子が主観、でいいじゃん。


 128 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:18:25

 >>126

 そうそう!!


「我思う故に我あり」みたいな事を現象学的還元っていうのか。

 つまり、これは、全ての認識の出発が認知であるから、その認知(見えたこと)がスタートであるはず、という事だよね。

 だから、他者としての物理が存在していて、そこから影響を受けたと考えるかどうか?はさておき

 まずは、今起こっている現象に立ち返った時に、まず一番最初に「客観」として働く作用のことだよ。


 129 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:20:15

 >>127

 全然違うw 自分が思い描いてる時点で、両方主観

 それは他順に「一人称視点で見てるか、三人称視点で見てるか」の違い

 FPSとTPSの違いだな・・


 130 :海:2011/08/17(水) 03:21:25

 いや、クオリア自体は分かってるけど何がしたいのかサッパリだったのね。

 それで、「精一杯説明してくれてるのかなー?」と思って、少し応えてみただけ。


 131 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:22:19

 >>130

 たぶん、主観をわかってない時点でクオリアをわかってないw

 分かってると思ってるだけw


 132 :海:2011/08/17(水) 03:22:37

 >>127が言いたいのは「立って見る事が出来ない状態を描いているから」客観視点、ってこと。


 133 :海:2011/08/17(水) 03:23:17

 http://blog.goo.ne.jp/yappy0625/e/8c22b9b2e54e057b02fb24ed84b93ddc/?cid=aabfb2313f0e5430a906e59a0c43569a&st=0

 このサイトに全部書かれてあるの


 134 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:27:14

 一応説明しておくが

 FPSとTPSはゲームの種類の名称です・・

 ファーストパーソン・シューティングとサードパーソン・シューティングの略称

 FPSが戦争ゲームとかである自分目線の打ち合い画面で

 TPSがモンハンとかPSOとかの、誰かをカメラで撮影してるような目線の画面


 >>133

 この説明間違ってる

 ▲のクオリアなんて、ありえない。 クオリアは根源的な認知作用における感じられるコレの事を示すもので

 色や手触り、いわゆる五感に値するもの。▲というものの認識は概念によってなされるもの。「三角」というものを感知するためだけの五感がある?

 これは典型的に概念とクオリアの違いがわかってないケース


 135 :海:2011/08/17(水) 03:30:02

 そこじゃなくて、最後辺りの>>126だけ答えさらっちゃっておけばいいんじゃないかな


 136 :海:2011/08/17(水) 03:33:18

 >>126でウンウン頷いてたじゃん。というわけで、アレってことでいい。

 他のは余計にしゃべってしまってゴチャゴチャになってしまった~ってことで。


 137 :海:2011/08/17(水) 03:35:10

 なお、特に視覚に注目して定義を伝えましたが、実際には私に感じられる主観的な感覚全部がクオリアの対象になります。

 例えば、りんごを触ったときのツルツルした手触り、コーヒーを飲んだときの香り、暖かさ、味、音楽を聴いたときのメロディ、、、そういったもの全て、私が感じたその「感覚」自体をクオリアといいます。


 この人もこう言ってることだし、細かいところは気にしない~

 脳内保管って大切だと思うの


 138 :海:2011/08/17(水) 03:38:04

 今チラッと見て思ったけど、PSO知ってるんだねー

 ぼくは3時間程度で飽きちゃったけどねー


 139 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:39:25

 >>135

 現象学的なナントカのあたりは、オレが言ってる「主観と客観の違いがわからなきゃクオリアは理解できない」って言ってることと同じでしょ


 今、クオリアに関係してくる、少なくとも哲学的な客観は、「どう見えているか」ってうのは、関係ない。

「どう見えているか」は全て主観で、「どういう目線か?」を疑問にして、はじめて主観から切り離すことで客観を定義できる

 つまり、現象に立ち返った時の客観とはクオリアの事になる。(主観を構成する認知作用の根源という意味合いにおいて)

 つまりクオリアは誰の目線か? クオリアとは誰のものか?を問わないといけない。(現象的には今は自分の中で起こってることとしか説明できないけど)

 ただ、自分が主観の中で概念の相関関係をを定めて自我を形成していくなかで「こう見えるはずだ」という客観をつくる。この客観のデータ元は、すべてクオリアであるわけ。(そもそも主観の全てのデータ元がクオリアであるわけ。)


 でも、少なからず▲のクオリアとか言っちゃう時点で間違ってるよ

 この人は現象学的にいっても「クオリアは主観である」と思ってて、だから(決めつけていいものである)って認識になっちゃってる

 クオリアが外的要素と関係性があるかどうかはわからないが、すくなくとも現象学的にいっても外的要素を捉えるセンサーの意味がクオリアだから

 主観と客観を定義するとしたら、クオリアを内的な客観とするしかない

 現象学がどういうものか知らないけど、現象学には主観しか存在しないって事は無いと思うけど、わからないw


 140 :海:2011/08/17(水) 03:43:40

 >>139

 そっかなー とりあえず取っつきやすいようにああ言ったんじゃないかなって思ったよ


 141 :海:2011/08/17(水) 03:51:08

「なんで空はあんな色をしているのかしら」

「空色のクオリアを感じているからだよ」


 142 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:53:13

 >>136

 やっぱり、理解できてないよ海ちゃんは

 理解できたら、こうやって説明できる>>139


 >>137は正しい。ようするにクオリアは五感によって感じる”この感じ”の事を主観から切り離して考えたものだから。

 この主観から切り離すってのがすごく大事で、それは「五感を自我の範疇としない」という事だよ。

 それは、「五感が自我に影響をうけない」という事。

 実際はプラシーボ効果とかで五感は自我や概念の影響をうけるんだけどw

 それは、五感というセンサーそのものは、情報世界の臨場感が高まらない限り、物理世界の臨場感にのっとって概念の影響を受けない。と説明すればいいと思う。


 だから、なんで五感を主観から切り離すのが大事かっていうと

 五感が主観だとしたら、クオリアが主観だとしたら、この”見えてる感じ”が主観であり

「他者に受け取られた時食い違いがあってもいいもの」となるので、今ある世界と矛盾がおきる。

 つまり、それは「他者に受け取られた時に食い違いがあってもいいクオリアと概念によって、食い違いなく動いてるこの世と概念」という事になる。

 概念が主観であり、クオリアも主観なら、概念が共通性をもち他者と一致する時点で「クオリアは一致する」という単純な結論になる。


 でも、そうじゃなくて、概念が主観って事は、概念は自我の中に相関関係を構築させるって意味。

 となるとクオリアも自我の中で相関関係を構築されているのか?って事になる。

 でも、それだとやっぱりおかしい。つまり「始まりの何かがあり、そこから相関関係が構築される」ものだから。

 この出発点が「現象」であり「我思う故に我あり」であるわけ。


 だからクオリアを客観としないと、逆転クオリアという想定はなりたたない。

 逆転概念はありえないってのはわかるでしょ?それは主観に依存するから。 でも逆転クオリアはありえる。それは自我から切り離された存在性が確認できるからなんだよ。


 もうやめるか、ちょっと深入りして、かなり難しい領域に入り込んでる

 この掲示板にこれを理解できる人はいない


 143 :天才tinko:2011/08/17(水) 03:55:37

 >>138

 PSOおもしろいよ!!!!!

 もったいない・・・友達とプレイしたら楽しいのに!!!!

 オレ、レンジャー使ってたよ


 144 :海:2011/08/17(水) 10:07:14

 理解は出来ても説明は出来ない人々はたくさん居るよ。

 そして、実際に説明は出来ていてもそれが伝わらなかったら「説明出来てない」とする人々もたくさん居るの。

 だから表現方法は多種多様なのね。


 クオリアってのは「主観的体感を伴う質感(>>137)」のことで、クオリア自体は主観的なものだけど、クオリアを捉えるときは客観的でなければならない。でいい?

 そして「クオリアを感じさせている何かがあって~」って説明で伝わるかな。


 145 :海:2011/08/17(水) 10:10:40

 そして「クオリアを感じさせている何かがあって~」は

 >つまり「始まりの何かがあり~」を少し言い換えたんだけど、これは合ってる?ってことね。


 お友達はラピ子なのね。きゅぴきゅぴ。

 焼き鳥にするととってもおいしいんだ。

 PSPo2iではフォースしてたなー


 146 :名無しでござる:2011/08/17(水) 12:38:01

 >>81

 >英語はよくわかんないんだけど


 と言った端から英語の講釈を始める、頭が悪い。



 >>82

 >「悪いことでないと確信してなされる」=「間違いに気づかない」だよ(以下略)


 理解できないらしい、やっぱり頭が悪い。



 いや、頭が悪いというよりも、


 >>83 >データ・クレーム・ワラントも内包・外延も、元々感じていてわかってた。

 >>83 >オレをモデルとした口調をオレにぶつける、っていう、その態度もどうかと思ってます。

 >>114 >もう、こういう話、普通の人に通用するレベルにいないのかもしれない、オレ・・・

 >>142 >もうやめるか、ちょっと深入りして、かなり難しい領域に入り込んでる>この掲示板にこれを理解できる人はいない


 あたりを読むと・・・、


 以下wikipediaより引用。

 ―引用ココカラ―


 妄想とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。

 妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(病識がない)場合が多い。

 精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、

 経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。


 ■分類

 1.誇大妄想

 誇大妄想は、現実的な状況から逸脱し、自己を過剰評価したり、実際には存在しない地位・財産・能力があるように思い込んでいる状態である。

 躁病によく見られる。誇大妄想の原因として評価基準の甘さと自己と他者の評価のバランスの悪さがある。


 2.被害妄想

 他人から悪意をもって害されていると信じる妄想。

 何らかの犯罪的な干渉を受けていると信じこみ、事業や就職などにおいて失敗しても、他者からの攻撃で失敗したと考えたり、

 「脳内に何らかの機器を埋め込まれ、意識や行動を操作されている」と考えたりする。被害妄想も参照のこと。


 3.注察妄想

 「常に盗聴されている」とか「隠しカメラで監視されている」と思い込む妄想。


 4.関係妄想

 周囲に起こっている現実を自らに結びつけて考える妄想。周囲の行動・言葉に過敏で自己に関係して捉えるが

 それに動じることも多く妄想まで発展し現実離れしていく。


 5.盗害妄想

 自分の物を盗まれたと思い込む。認知症によく見られる。


 6.罪業妄想

 自分は非常に悪い存在だ、罰せられるべきだ、皆に迷惑をかけているなどと思いこむ妄想。うつ病によく見る。


 7.心気妄想

 自分の身体の一部が病気にかかっていると思いこむ妄想。実際に病気に罹っていても、その症状が自分の思っているより非常に軽い場合も

 この種類に分類される。うつ病によく見られる。


 8.貧困妄想

 現実にはそうでないにも関わらず、自分は非常に貧しい、借金を抱えてしまったなどと信じる妄想。うつ病によく見られる。


 9.宗教妄想

 誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。

 統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、

 霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、

 内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴である。(略)


 10.その他

 不死妄想、Capgras妄想、被毒妄想、恋愛妄想、血統妄想など(詳しくは統合失調症参照)。


 ―引用ココマデ―


 上記のうち、誇大妄想と関係妄想が認められる。

 滅裂思考、言語新作などの思考障害も観察されるが、これらは躁病や統合失調症などに多くみられる症状・障害である。

 軽度の躁欝病ならばまだしも、仮に統合失調症だとすれば、悪化することこそあれ自然寛解はあり得ない。

 速やかに専門医に受診、相談し、適切な薬物療法などを行うべきだろう。


 参考url:http://www.nurs.or.jp/~taiga/psychiatry/schizophrenia.htm


 147 :海:2011/08/18(木) 02:31:25

 1から全部読んできた。40ぐらいからはちゃんと読んでなさすぎて会話になってなかったね。

 で、それはいいとして144と145は無しね。全然違ったの。


 熟したトマトの表面を見ることに伴うクオリアとは、視覚によって直接アクセスできる特有の質、つまりその赤さであり、

 コーヒーを味わうことに伴うクオリアとは、嗅覚と味覚によって直接アクセスできる特有の質、つまりその味や香りである。

 クオリアは徹底して主観的、一人称的である。つまり、客観的な現象としては自分の脳の中にも見出せない。

 主観がある程度集まったとき、その共同体の内部でそれは「客観」と呼ばれるようになるが、それもあくまでも原理的には主観である。

 従って、クオリアは現在のところ証明不可能である。何故なら、あなたが私にならない限り原理的に確かめようがないからだ。


 これでいい?


 148 :天才tinko:2011/08/30(火) 20:27:34

 大体いいよ!


 >主観がある程度集まったとき、その共同体の内部でそれは「客観」と呼ばれるようになるが、それもあくまでも原理的には主観である。


 ここが、ちょっと違う。

「我思う故に我あり」って考え方があって、それは今見えているこの世界の全ては私の主観だから本当に存在するかどうかわからない、って考える。

 つまり「自分が見えているモノが、自分以外から見たら存在していないかもしれない」っていう意味だ。


 こういう考えを突き詰めて行った時

「そもそも自分自身は本当に存在するのか?」っていう問題にぶつかる。


 自分を証明できる「主観ではないもの」を証明できない限り、自分が本当に存在するかどうかを証明できない、っていう事になってしまう。

 でも自分は他人になれないので、「自分以外から見た自分が存在するかどうかがわからない」

 もちろん他人に「いまオレ存在してるかな?」と聞いた所で、オレが見ているその他人が本当に存在するかどうかがわからないので意味がない。


 すると結論は「自分自身は存在しない」になってしまう。

 だけどそれじゃあ矛盾だ。

 だって「この世は全て”私”の主観だから証明できない」という事を根拠に、結論が「”私”は存在しない」だと、明らかにおかしいでしょ?

 ”私”が存在しないのながら、じゃあ主観はどこからやってきたの?

 そう考えた時、「自分自身は本当に存在するのか?」と「疑っている何者か」は絶対に存在するわけだ。


 つまり客観とは、主観(人)が多数集まり、その多数の仲で共通して「これを客観としよう」と決めたものではなくて、

 客観とは「主観(自分の信じている現実)から切り離せるもの」が客観なわけ。それは他人との合意以外にも「主観から切り離す」という作業を行うことができる。

 その1つが「我思う故に我あり」なわけ。


「主観は証明にならない」だから「主観は存在しない」とすると、「主観を疑う何者か」の存在が説明できない。

 主観が証明できない、ゆえに主観を見ている”私”は存在しないのだとしたら、そもそも主観を疑う何者かなどは存在するはずがないからだ。

 つまり、これらの考えは「主観を疑う何者か」という存在を「主観(自分の信じている現実)から切り離すことができる」という事であり、これこそが「自分自身」の存在を証明できる、自分の中にある主観から切り離すことのできる”目線”であり、これこそが自分自身の始まりだ。と考えるわけやね~~


 この本当の”目線の違い”を意味する所の「主観と客観の違い」を理解できてる人は、実は少ない。

 根拠なく簡単な事だと思われてるけど、簡単に理解できるものじゃないんだよ。


 最近は、この違いが理解できていない事の連鎖に思えるような出来事が多い。

 例えば、物事を主観から切り離した評価軸で語ることが出来ない人がとても多い事だったり、

 自分が何について話そうとしているのかを、自分以外の目線に伝えるにはどうしたりいか?という事をそもそも考えられない、

 自分が見えている世界をくり返し述べるだけという人も増えてる。こういうのはとても頭が悪い。


 149 :天才tinko:2011/08/30(火) 20:33:33

 >”私”が存在しないのながら、じゃあ主観はどこからやってきたの?

 って考えたとき、この主観は「神がくれたものだ」って考える事もあったような気がする

 んで、そのアンチ神の論理で主観の内在にある”目線”の存在を証明したのが、「我思う故に我あり」 みたいな流れだったような


 150 :名無しでござる:2011/08/31(水) 16:44:28

 実際にクオリアを感じているかどうかは説明ができない

 なぜならば、クオリアを持ち出さなくても相手の行動がすべて説明することが可能だからだ

 脳細胞の動きだけで、相手の行動がすべて説明できてしまう

 脳細胞という神経が物理的な条件にしたがって、隣の脳細胞に延々と刺激を伝えている、という歯車的な機械しか見つからない

「その関係性が客観的に正しいかどうか、他人と共有して検証しようがない」という問題がどうしても付きまとってしまい、

 つまるところ、科学の理論として、みんなが共有できる客観的なものにはならない

 厳密に言えばクオリアを科学として取り扱うことはできないけれど、そんなことしてたら何も語れなくなってしまう

 しかし、「他人の脳だって、同じ物理状態になったら、同じ現象が起きるはずだ」と考えるのは、とても妥当なこと

 なぜならば、科学にはなんにしても譲れない前提はあるはずで、そういう暗黙の了解の上に構築されているから

 だからこそ「クオリア」や「哲学的ゾンビ」が難問として人々を蹂躙している


 151 :名無しでござる:2011/08/31(水) 16:47:21

 修文


 実際にクオリアを感じているかどうかは説明ができない

 なぜならば、クオリアを持ち出さなくても相手の行動がすべて説明することが可能だからだ

 脳細胞の動きだけで、相手の行動がすべて説明できてしまう

 脳細胞という神経が物理的な条件にしたがって、隣の脳細胞に延々と刺激を伝えている、という歯車的な機械しか見つからない

「その関係性が客観的に正しいかどうか、他人と共有して検証しようがない」という問題がどうしても付きまとってしまい、

 つまるところ、科学の理論として、みんなが共有できる客観的なものにはならない

 厳密に言えばクオリアを科学として取り扱うことはできない

 しかし、そんなことしてたら何も語れなくなってしまう

「他人の脳だって、同じ物理状態になったら、同じ現象が起きるはずだ」と考えるのは、とても妥当なこと

 なぜならば、科学にはなんにしても譲れない前提はあるはずで、そういう暗黙の了解の上に構築されているから

 だからこそ「クオリア」や「哲学的ゾンビ」が難問として人々を蹂躙している


 152 :名無しでござる:2011/09/01(木) 11:34:02

 言葉は全て概念だぞ

「それなら概念だね」なんて要らない


 153 :海:2011/09/02(金) 12:54:54

 不適切な内容:主観がある程度集まったとき、その共同体の内部でそれは「客観」と呼ばれるようになるが、それもあくまでも原理的には主観である。



 不適切な内容を変更したもの:主観とは、自己に内在するものである。それが外在化されるとき、必ず客体化を伴うので、主観を完全に伝達することは原理的に不可能である。


 これならどう?


 154 :天才tinko:2011/09/03(土) 02:17:17

 いいよ!


 155 :海:2011/09/03(土) 04:19:47

 やったね!

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