第3話 忘れていたもの
翌日、
幹太の朝は早い。
朝5時に起きて、すぐに着替えるのは飲食店の厨房で使う白衣である。
二階の自室から階段を降り、一階の厨房に入る。
厨房入り口の水道でサッと顔を洗ったら、干してあったタオルを頭に巻き、その後しっかりと手を洗う。
厨房に入ったらガスの栓を開け、大小2つの寸胴鍋に水を入れて火を点ける。
そしてお湯が沸くまでの間に、米を研ぎ、ガス炊飯器に載せる。
年代物の炊飯器は、一度では着火せず、内鍋を回したり点火スイッチを何度か操作してやっと火が付いた。
お湯が湧いたのを確認した後、業務用の冷凍庫から鶏ガラを出してよく洗い、小さい方の寸胴鍋へ入れ、すぐさまキッチンタイマーを二十分にセットしてスタート。
ガラは新鮮なものよりも、一度冷凍した物の方が水分が抜け、臭みがなくなるため、幹太はわざわざいつも冷凍のものを仕入れていた。
人参、玉ねぎなどいくつかの野菜を洗い、ワタを取った大ぶりな煮干しと共に麻袋に詰め、まな板程の大きさの昆布と、その麻袋を一緒に大きな方の寸胴鍋へ入れた。
ちょうどその辺りで先ほどのタイマーが鳴り、鶏ガラの鍋のお湯を切って、ガラの骨に付いた灰汁をもう一度丁寧に洗ってから、次は大きな寸胴鍋に入れる。
これだけの手間をかけて、さらに数時間煮込めば幹太のラーメンのスープは完成する。
「これでよし!」
朝から黙々と働いていた彼は、やっと声を発する。
「スープの仕込み終了!」
とそこへ、
「あの…おはようございます、幹太さん。
お仕事お疲れ様です」
「おはようアンナ。まだ朝早いけどちゃんと寝れたか?」
「大丈夫です。夜中に寝てる由紀さんに抱きしめられて大変でしたが、なんとか抜け出て寝ました」
「あいつ、あれ癖なんだよ。
俺も小さい頃はよくやられたわ」
「お邪魔ならないよう、ずいぶん前から黙って見てたのですが…。
幹太さんは何を作っていたんですか?
何かを煮込んでいたようですが?」
「煮込んではいるんだけど、中の物は食べないんだよ。
昨日食べてもらった、ラーメンのスープを作ってるんだ。
動物の骨とか野菜とか、色々な食材を入れてダシを取るんだよ」
「あれだけの手間をかけているから、昨日のスープはとっても美味しかったんですね♪
じゃあお店や作る人によって、入れるものは違うんですか?」
「もちろんそうだよ。
だから数限りない味のラーメンが、この日本にはあるんだ。
アンナの言う通り、作る人によって全部味が違うといっても過言じゃないな。
今じゃご当地ラーメンなんつって、各地方の名産品を使って作ったりもするよ」
「名産品を使ってですか…なるほど、それはなかなか…」
アンナは妙に真剣だ。
「博多って言ってもわからねぇか…?
んー、この東京よりすごく西の地方では、とんこつラーメンつって豚の骨でスープを取るラーメンがあるし、海産物が名物の地方では、海で獲れる魚介類の乾物なんかを使ってスープを取ったりもする。
あとは…大体ラーメンって麺とスープとタレと具って四つの要素でできてるから、それぞれどんな物を使うかで、各地方やそのお店独特の工夫をするんだよ」
かなり長い説明になってしまったが、これでも幹太は短くまとめて話したつもりであった。
「各地の名産品で作る、ご当地ラーメンですか…」
やはり幹太の説明が難しかったのか、アンナはそう言って、しばらく黙りこんでしまった。
「やっぱり難しかった…」
「…幹ちゃん、アンナ、おはよう〜」
と、幹太が固まったままのアンナに話しかけようとしたところで、由紀が二階から降りてきた。
「あっ!」
「ゆ、由紀さんっ!」
幹太とアンナは降りて来た由紀の姿を見て驚いた。
今の由紀は髪の毛はくしゃくしゃで、目も半分しか開いておらず、さらに着崩れしたパジャマの胸元から胸が思いっきりハミ出ている。
「…顔洗ってくるね〜」
しかし、当の本人はそんな事には気付かず、眠い目を擦りながら洗面所に向かって歩いて行ってしまった。
「き、昨日の夜も思いましたが、由紀さんって、色々な意味で迫力がありますよね…」
「ほ、他はともかく、性格はいつも穏やかで優しいよ。昨日はアンナのことが心配で、俺にあんな態度をとったんだと思う」
二人は引きつった表情で、通りすぎる由紀を見送った。
「さて、そんじゃ残りの仕込みと朝ご飯の用意をするから、アンナも由紀と一緒に顔洗ってこいよ」
「私、ここで幹太さんの調理を見ててもいいですか?
見ながら少し考えたいことがあるんです」
「もちろん、いいよ」
「ありがとうございます、幹太さん」
しばらくして仕込みと朝食の準備が終わり、三人分のご飯とおかずをお盆に乗せて、ニ人は居間へと向かった。
居間に行くと、由紀がまだ眠たそうな顔をして、畳の上でゴロンと横になりテレビを見ていた。
この幼馴染は小さい頃から、朝がとても弱いのだ。
「ハイハイ、由紀。
お前卵焼き好きだろ。作ってやったからちゃんと起きなさい」
「ん…はーい。ごめんね、何もお手伝いしなくて。私、やっぱり朝はダメだわ〜」
「分ってるよ。今日はアンナが手伝ってくれたから大丈夫」
「アンナもごめんね、お客さんなのに」
「大丈夫です。むしろ幹太さんの作業をじっくり見れてよかったですから…って、すごいですねこれ!私の国でも映像を映す方法がありますが、こんなに鮮明には映りません」
「あー、アンナのところのテレビはまだ地デジじゃないんだねー」
と、江戸時代からタイムスリップしてきたみたいことを言い始めたアンナに、由紀が勘違いした返事をする。
しかし、魔法のことを由紀に説明するのも面倒だった幹太は、とりあえずそのまま勘違いしててもらう事にして、その辺をごまかしながら説明を補足する。
「この国じゃテレビを見てれば、ほとんどの事が分かるからなぁ〜。
そのうちゆっくり見てみてみるといいよ。
よし、とりあえず今は飯にしよう」
「そうですね♪そうしましょう」
「うん。私もお腹へったー」
と言って、由紀も起き上がり、ようやく食事の準備が全て整った。
「「「いただきまーす!」」」
アンナは事前に、厨房で幹太に箸の使い方を教えてもらっていた。
「まだ難しいですっ!」
と、本人は言っているが、どうやら筋が良いようで、初めてにしてはうまくお箸を使ってご飯を食べている。
「そうだ…」
食事を始めてからすぐ、幹太は二人に向けて話を始める。
「食べながらでいいから、アンナも由紀も聞いてくれ。
えっと、これからどうするかって事なんだけど、正直言って、今日一日でアンナの泊まれる先を探すのは無理がある思う。
だからアンナさえ良かったら、しばらくウチにいて居てくれればいいかなって思ってるんだが、どうかな?」
「はい♪ぜひ♪幹太さんがよろしければ私は全然問題ありません!」
「いや!それはちょっとマズいですよ!幹ちゃん!いい歳の男女が二人きりは色々と!」
アンナの言葉に、由紀がカブるように反対した。
「じゃあ由紀もしばらくこの家に帰って来てくれよ。
正直、俺も二人っきりは良くないと思ってるんだ。
でも由紀が一緒なら間違いも起こらないし、俺も落ち着いてられるから…」
しれっと幹太の天然が炸裂した。
「し、仕方ないぁ〜♪
そういうことなら、私も協力しましょう。
幹ちゃんは、私といるのが落ち着くみたいだからね♪」
幹太の事となると、この幼馴染はかなりチョロい。
すでに由紀の頭の中では、両親を説得する理由が数通り浮かんでいる。
「じゃあアンナもそれでいいかな?一応、由紀の家にいけるか聞いてもらうか?」
「いえ、大丈夫です。
先ほども言いましたが、幹太さんが良いならばこちらお世話になりたいと思います。
よろしくお願いします」
「よし、そんじゃ決定!あぁスッキリした!
アンナはこの後、行きたいとこはある?夕方までなら付き合えるぞ」
「あの…できれば替えの服がないので買い物に行きたいですが…」
「サイズ的には私の貸せるけど、下着はそうはいかないもんね」
アンナは由紀に言われ、そういう意味ではないとは理解しつつも、思わず由紀の胸元を見て、サイズの違いにちょっと落ち込んだ。
「よし。じゃあ朝飯を食べ終わったら買い物に行こう」
とりあえず本日の予定はそう決まり、アンナと幹太は、ラクロスの朝練がある由紀を置いて、二人で近所のショッピングモールにやってきた。
ここはスーパーから衣料品、ホームセンターに百均と、なんでもある巨大な規模のものである。
「ほぁ〜すごいですねぇ〜」
「だよな。俺も最初はそうなったよ」
アンナは口をあんぐり開けて、ショッピングモールを見回している。
ちなみにアンナは当初、軍資金として自分が着ていた服の裏に縫い付けておいたシェルブルック王国の金貨を換金する予定であった。
しかし、本当に純金製だっとしても、換金するのは色々と問題があると判断して、幹太が自分の貯金で立て替えることを申し出たのだ。
アンナは担保として、幹太に金貨を一枚預けたのだが、幹太は後にその金貨の価値に驚くこととなる。
「はっ!いけませんっ!
この世界の勉強も兼ねて、しっかり見ていかなくては!
ではさっそく行きますよ、幹太さん!」
アンナは気持ちを切り替え、かなりやる気な様子である。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ、アンナ。
まだ時間はあるからゆっくり見て行こう。
とりあえず服からかな?」
「はい♪お願いします♪」
二人はそれからかなりの時間をかけて、このショッピングモールの隅々まで見て回った。
アンナは興味は女の子らしい洋服店ではなく、ホームセンターや百均に向いているようであった。
熱心に見るアンナにつられて、幹太もよく見てみると、確かに双方ともに便利な商品が山ほどある。
「幹太さん、これはなんですか?」
「これは…あぁ、こうやってレモンに刺して使うのか!?こりゃ便利だなぁ〜」
というように、現代日本人である幹太でさえ、関心するような便利グッズがたくさんあった。
「あぁ、疲れたぁ〜」
「わ、私もです〜」
お昼を食べにフードコートに着いた時には、二人共ヘトヘトになっていた。
「す、すいません、幹太さん。あまりの状況に興奮しすぎてしまいました」
「いや、そりゃ俺も一緒だ。
ていうか、ここでこんなに楽しかったのは初めてかもしんない。
とりあえず今日のところは、メシ食べて帰ろう」
「さ、賛成です。
私も一旦帰って整理しないと、あまりの情報量に頭がパンクしそうです」
そう言って、二人はヨロヨロと席に着く。
「えっと、そんじゃアンナは何食べる?」
「私はラーメンでっ!ここにラーメンはありますか?」
アンナはガバッと顔を上げた。
「あるある。本当に気に入ったんだなラーメン。
昨日、食べてもらったかいがあったよ」
「はい!私、これから色々なラーメンを食べて勉強したいんです」
「そっか。じゃあ俺も久しぶりによそのラーメン食べるとするよ。
アンナと味違いにすれば、ニつの味が楽しめるからな」
「ありがとうございます、幹太さん♪」
幹太達は、重い腰を上げて食券を買いに行き、出てきたラーメンをしっかり味わって食べた。
「そんじゃ帰ろうか?」
「はい。帰りましょう」
そうして二人は家に帰り、屋台の開店まであまり時間がなかった幹太は、すぐさま仕事の準備を始めた。
「私もお手伝いしましょうか?幹太さん?」
と、アンナは屋台の手伝いを申し出たのだが、
「うーん、今日はいいよ。
アンナも疲れてるだろうし、俺もどこを手伝ってもらったらいいか考えてなかったから。
次、ちゃんと時間がある時にお願いするよ」
と幹太に断られ、留守番することになった。
「アンナ〜、由紀だよ〜」
「はーい♪」
夜七時をすぎて、由紀が幹太の家にやってきた。
異世界で一人留守番を任され、少し淋しくなっていたアンナは、袋いっぱいに晩の食材を持った由紀を見てホッとした表情を見せた。
「よーし!じゃあ作るよー!
アンナは、そっちでゆっくりしててねー♪」
アンナに日本の料理を食べてもらうのと、手抜きができるという理由から、由紀が準備してきた夕食はお鍋であった。
『ひ、久しぶりの料理だ…』
由紀の料理スキルはかなりヤバかった。
彼女は高校の時代の家庭科の授業で、
「由紀はそこの窓から外見てて、お願いだから」
と、クラスメートに言われ、教室の隅に追いやられたという過去があった。
もちろん本人にもちゃんとできない自覚もある。
由紀は以前、張り切って幹太にハンバーグを作ってあげた事があった。
その時、ハンバーグを一口食べた幹太の動きが一瞬ピタリと止まり、そのまま倒れたのだ。
「幹ちゃん!?」
驚いた由紀が、幹太に近づいてみると彼は、
「なんだろうな…牛さんはこうなるのを望んでいた訳じゃない気がするんだ…」
と、瞳孔が開きっぱなしの、かなりギリギリな状態でしばらく呟いていた。
だけに今日、由紀は唯一キチンとできるであろう料理をチョイスしたのだ。
『お鍋なら大丈夫!切るだけ、入れるだけ』
その後、由紀はとりあえず見た目はかなり鍋らしい料理をきっちりと完成させた。
そして、
「おいしいですっ♪」
と、自分が作った鍋を一口食べたアンナが言うのを聞いて、由紀は異国から来た女の子にトラウマを与えずに済んだと、ホッと胸を撫で下ろした。
「由紀さん、ラクロスってどういうものなんですか?」
食事の後、アンナと由紀は前日と同じく、幹太の家でお風呂に入っていた。
「ん〜っとね…」
今日の買い物の時、アンナは幹太から、由紀がラクロスというスポーツでトップクラスの選手であると聞いたのだ。
「元々はすごく昔にアメリカに住んでた先住民族の人たちが始めた競技で、クロスって網の付いた棒でボールを投げたり取ったりしてゴールに入れるの」
「それはあまりの文明が発達してない頃からあったっということですか?」
「そうみたいね。確か…戦争する代わりにラクロスの勝敗で決めてたって話も聞いたことあるよ」
「素晴らしいですね!それ!」
「そうだねぇ〜♪」
このように二日目にして、二人はこの時間がとても気に入っていた。
「あ〜疲れた〜」
深夜になり、幹太はいつも通り疲れ果てて帰宅した。
「「おかえりなさーい!」」
と、二人に明るい笑顔で迎え入れられた幹太は、思わず涙が出そうになった。
「…た、だだいま」
明るい家に帰るのはいつぶりだろうか?
『アンナが来てくれて良かったってことだな…』
幹太はそう思いつつ、家の中に入った。
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