第6話 山岳の空と桜



 力強いペダリングで、軽快良く空色のロードバイクが坂道を登っていく。


 上着は背中にポケットの付いている自転車用の長袖ジャージ。


 下はジーンズのズボンだが、すそがチェーンに掛からないように、右足だけを折り上げている。


 暖かくなってきた春先で、長袖のジャージが暑いのか、前のチャックは開けっ放しの全開だ。


 先ほどまでの文句とは裏腹に、蒼は楽しそうに顔をほころばせながら、振り向いて坂を見下ろした。


 急勾配きゅうこうばいな坂ではなかったし、五分程度の登り坂だが、周りに視界をさえぎるものがなく、町を見下ろせる所まで登ると気分が良い。


 これも母国のグランパーを愛するベネディクトの影響かもしれない。


『いいか、山はな、上半身で登るんだ。脚も大切だが腕を使え、腕を!』


 まるで自転車コーチの様なベネディクトの言葉を思い出して、そうは苦笑いをした。


 目的地の阿紀神社あきじんじゃの鳥居が見えてきて、グリップを握り直す。


 残りは三百メートル。


 二の腕の筋肉を浮かび上がらせながら、サドルから腰を上げた立ちこぎの、ダンシングでペダルを踏み続ける。


「はぁ、はぁ、の……登った」


 渾身の力で登り切り、神社の前にたどり着くと、近くにあった咲き乱れた桜の樹に自転車をもたれかけて、自分もその横に座り込み、ボトルゲージからペットボトルを取り、音をたてて飲んだ。


 山の頂上はまだまだ上にあるのだが、舗装ほそうされている道はここまでのようだ。


 蒼は水を飲みながら、興味深そうにその山を見つめていたが、しばらくして、ペットボトルから口を離すと、俯瞰ふかんからの風景を眺めた。


 川沿かわぞいに民家が密集しており、目に入る風景は緑の方が多い。


 こうして見ると山間の小さな町だ。


 所々に咲いている桜は、山のいたる所で咲き乱れてる。


 花は八分咲きのちょうど見ごろで、東京よりも開花は早いようだ。


 天気は良くて快晴。


 ツーリングで来るなら最高なのだがと、しばらくそのまま、そこから見える町と桜の風景を眺めていると、荒い息をたてながら、可愛らしい桜色のシティサイクルに跨った砂那さなが、立ちこぎで足を震わせながら坂道を上がってきた。


 やはり暑かったのか、ロングコートは折りたたまれ前かごに入れてある。


 もともとギアの付いていない自転車で、坂を登るのは辛い。


 しかも、この長い距離だ。


 普通の女性なら自転車から降りて、押しながら坂を上がって来そうだが、彼女はそれなりに体力はあるのか、蒼が登り切ってからわずか三分程度しか遅れていない。


 蒼は率直に驚いた。


「早いな。お疲れさん」


「はぁ、はぁ、はぁ、あなた何考えてるの! はぁ、はぁ、リーダーの、わたしを差し置いて、はぁ、はぁ、先に行くって信じられない!」


 蒼に追いつき、自転車を降りた砂那は、激しい息のまま蒼に食って掛かった。


 本当に真剣に坂道を登ってきたのだろう、まだ息が激しい。


「悪い、悪い、思わずな。でも、砂那はすごいぞ、もっと待つと思っていたけど、ロードバイク相手に、その自転車でこんなにも早く追いつくとは、すごいな」


 すごいと連発してくる蒼の台詞に、砂那は少しだけ口元を緩めた。


 褒められて悪い気がしない。


「当り前じゃない、それなりに鍛えてるわよ」


 そう言いながら、砂那はまだ荒い息で、物欲しげに蒼の持っているペットボトルを見た。


 スポーツサイクルをしている人間なら、自転車で走るときは飲み物が必需品だが、普段の通勤や通学、ただの足にしか使っていない人間は、飲み物など用意していない。


 羨ましそうに眺めてくる砂那に、蒼は少し戸惑いながら答えた。


「飲み掛けでもいいか?」


 断りを入れてから蒼はペットボトルを差し出す。よほど喉が渇いていたのか、砂那は奪い取るようにペットボトルを取ると、一気に飲み出す。


 彼女の歳なら、他人が口を付けたものは嫌がると思っていたが、そういうことを気にしていないのか、それ以上に喉が渇いていた為か、喉を鳴らしながら飲んでいる。


 しかし、勢い良く飲みすぎのか、変なところに入り一気にむせる。蒼は咳き込む砂那をしばらく待った。


「一気に流し込むからだ、大丈夫か?」


 砂那は咳き込み、鼻をすすりながら頷いた。


「だっ、大丈夫。………それよりこっちが驚きよ。ベネディクトのバカか何だか叫んだ後に、一人で一気に登っていくから、びっくりしたんだからね」


 先ほどこの山の登り口の話だろう。


 最初は自転車を送ってきてくれたベネディクトに感謝していたものの、こんなに坂の多い町に自転車を送りつけてくる、彼女の気持ちにどうしても悪意を感じて、坂を登る前に思わず叫んだのだ。


 蒼は「ごめん、ごめん」と心の無い謝りを入れてから、再び山を見上げた。


「それにしても綺麗に結んでいるな、まるで聖域だ」


 思わずそんな言葉をらす。


 山の結界を張っているのは結び師だ。


 結びの結界を張っても、中の霊体は霊界に返さず、この地に留めているところを見ると、重要な役割の霊体なのだろう。


 下手にはらうとこの地の力の拮抗きっこうが崩れてしまうから、祓わず留まらせているのかもしれない。


 同じ祓い屋である囲い師と結び師の決定的な違いは、結界の張る方法と時間だ。


 囲い師が相手をお札で囲って結界を張るのに対して、結び師はお札と霊力を込めた紐で、何重にも縛って、結界を張っていく。


 そして、囲いの結界は短期決戦に向いているのに対して、結びは長期の結界を張るのに向いている違いもある。


 蒼の言葉に砂那も頷いた。


「えぇ、この結びは、ずいぶん昔から結んで有るみたいなの」


 神社から頂上までの、山を巻き込むようにグルッと何重にも霊力の込めた紐で結んである大きな結びだ。

 ここまでの結びは他では見られなくて圧巻だ。


「厳重だな、いったい何を結んでいるんだ?」


 これほど見事な結界では、中の霊力が漏れ出さないので、中に何が入っているのか霊視は出来ない。


「神主さんが言うには暴れ神らしいけど、本当は何なのか、中に入れないから解らないわ。どうする? 神社の境内にも行ってみる?」


 砂那は自転車の篭の中からコートを取り出して蒼にたずねる。


 神社の境内に入ったところで、結界内は霊視できないだろうが、結びを近くで見ることは出来るだろう。


「あぁ、せっかく坂道を登ってきたし、ここまで来たら見てみたいな」


 二人は鳥居から続く階段を登っていった。三十段ほどの短い階段だが、自転車で坂も登り、今度は階段を登っているので、さすがに暑いのだろう、砂那はロングコートを持ったままで着ようとはしなかった。


 短い階段はすぐに終わりを迎え、二人は入口の鳥居をくぐる。


 阿紀神社の境内は広く、入り口近くには手水舎ちょうずや社務所しゃむしょがあり、窓の前にはおみくじ百円と書かれた四角い箱がある。


 左手奥の山手にはしっかりした作りの本殿と拝殿はいでんがあり、その手前には復旧中ではあるが神楽殿かぐらでんまである。右奥には民家が有り、それは多分、神主さんの自宅なのであろう。


 綺麗に掃除が行き届き、気持ちの良い神社だった。


 蒼は色々なものに目をやるが、これといって空気の澱んでいる場所もない。


「ねっ、無駄足だったでしょ?」


「そうだな、確かに無駄足だったかもな」


 そう言うと、蒼は結界内を見ようとしてか、再び山を視て目を細めた。


 結んである結界の清らかな霊力を感じるだけで、やはり結界内の霊力は感じない。


 そして、周りもその結びの霊力によって浄化されている。

 だからこの場所は聖域のように清らかなのだ。


「どうかしたの?」


「いや、何でもない」


 砂那も山を見上げるが、綺麗に結ばれているので、周りの空気は澄んで清々しく感じる。

 この町の中では一番清い場所かもしれない。


 これ以上は留まっていても意味がないので、二人はそのまま神社を後にして、階段を降りると自転車を停めていた桜の樹の前に戻ってきた。


「さて、次は何処から行うかな?」


 遠目に町を見下ろしている砂那に、蒼は話かける。


「リーダー、提案か有る」


 蒼は背中のポケットからスマートフォンを取り出すと、指先を動かして操作をした。


「これを見てくれ」


 砂那は蒼の横に並ぶと、言われるがままスマートフォンを覗き込む。


 画面に写し出されたのは、朝から蒼が見ていた自転車用のアプリで、昨晩こぐろに持たせて走らせたものだ。


「これは、昨晩、こぐろが調べたルートを映し出したものだ。この、グルッと一周、円を書いて走っているところは、空気が澱んだり、霊力を感じたところ。グルグルと二周走っているのは霊自体がいた場所を示してる」


「ふっ、ふーん。そうなの」


 それを見た砂那は、興味無さげに頷いたが、内心は穏やかではなかった。


 蒼に見せらるたスマートフォンには、砂那がここ、三、四日間、頑張って調べていた内容が全て出ていた。


 蒼は昨日の夜に宇陀に着いたので、未だ一日も経っていない。

 なのにこの時点で、調査は砂那に追い付いていた。いや、もうすでに追い越されている。


 蒼のスマートフォンの方が、砂那が知らない場所も詳しく載っていたのだ。


「この地図に載っている辺りを、重点的に調べたらどうだろうか?」


 答えを求めるように蒼が砂那を見ると、彼女は拗ねたように唇を尖らせたまま、蒼のスマートフォンを見つめていた。


「………どうかしたか?」


 砂那が急に機嫌を悪くしたように見えて、蒼は心配そうに声をかけた。


 何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。


 蒼は何度も砂那の顔色をうかがう。


「べつに、」


 砂那は何かを言いたげにしていたが、息を吐くと、表情を戻し蒼に顔を見た。


 蒼と争っているわけではない、現在はチームである。それに、元々砂那は囲いで祓う方が得意で、調査関係は苦手だ。


 今は、やり方によっては、こんなに早く調査が出来ると解っただけでも良しとしよう。


「そうね、とにかく、根本を調べないと駄目だけど、まずは霊が多く集まっている場所を回って視てみましょう」


 砂那の指示に蒼は頷く。同じことを考えていたから。


 霊が溜まりやすい場所は、一度祓ったどころで、時間が経てばまた溜まってくるものである。


 だから根本的に解決をしないと意味がないのだ。


「よし、それなら三ヶ所あるな、一番近いところから回るか?」


「うんん、数が多い所から行こう。犠牲者が出たら駄目だし」


 砂那の提案に微笑みながら蒼は頷く。


 今回の解決に、速さだけを求めているのではなく、犠牲を出さぬように考えている良い上司だ。


「それならこの建物からだが、ここはなんだ?」


 蒼はスマートフォンの画面を指差した。


「そこは、ずいぶん昔に廃校した小学校よ」


 昔に人が多く集まっていた場所は、これまでの思想思念が多いために、霊が集まりやすい場所だ。


 その場所まで距離は五キロほど、次は下り坂だし、自転車なら直ぐだろう。


 蒼は自転車のハンドルの、スマートフォンホルダーにアプリを開けたままのスマートフォンを差し込み、ロードバイクに股がって、長袖ジャージのチャックを上げた。






 二人が向かった先は、併合へいごうを繰り返し、現在は使われていない小学校だ。


 山裾やますそを削って土地を作った所に建物を建ててあるので、陽当たりも風の流れも悪く、辺りの空気はよどんでいる。


 年期のはいった校舎は使われなくなってから半世紀ほど経っているようだが、資金面の問題からか、解体はされずにそのまま残っていた。


 扉や窓は雨風の浸食しんしょくによって歪んでおり、役目を果たせずにいた。


 周りのフェンスには立ち入り禁止の張り紙が張ってあり、いかにも霊が集まりそうな場所ではある。


 蒼と砂那は建物の前に自転車を停めて、フェンスの隙間から体をすべり込ませて敷地に入り込んだ。


「結構居るわね。三十体ぐらいかな」


 砂那は建物を見上げながら呟いた。蒼も同じく見上げる。


「あぁ、悪霊だけで、憑かれているのは居ないな」


 基本的に霊体は移動が遅く、速いときは空間を飛ぶ様に、突然別の場所に現れる。


 何か生物に憑いたときは、その生物の移動速度になるので、霊視をすれば、速さから憑かれたものかどうかが解る。


 蒼の目に写るのは、砂那が数えたのと同じ数で、青白い色と警戒の黄色が合わせて三十体。

 黄色は二体だけで、霊の数が多いが、悪霊の中でも低級霊で、たいしたことはないだろう。


 それにゆっくり移動しているところを見ると、憑かれたものも居なく、霊を祓うだけなら浄霊しやすい。


 砂那は手に持っていたロングコートを着て、蒼の方を振り向いた。


 何が楽しいのか、その口許は緩んでいる。


「蒼は確か、お祓いが出来るよね?」


「あぁ、囲いや結びでは無いがな」


 それで良いと言ったように砂那は頷いた。


「ここは数が多いけど、たいした悪霊は居ないわ。だから少し勝負しない?」


「勝負?」


 蒼の戸惑いはよそに、砂那は頷いてロングコートのそでを折り曲げた。真新しい包帯が腕から覗く。


 祖母に祓い屋としての知識を色々と教えられたので、この短期間でも砂那には解った。


 悔しいが、今の砂那には、調査や捜査では蒼に敵わないだろう。


 どんな道具を使えば効率的か解らないし、偵察や調査を手伝ってくれる式神を持っていないからだ。


 だが、こと囲いに関する浄霊には自信は有った。


「別々に移動して、三十体のうち、どっちが多く祓うか勝負するの」


「それは別に構わないが、建物の中だぞ?」


 砂那の提案に蒼は難色を示す。


 それは蒼が不利になるためではなく、砂那が不利になるためだ。


 囲い師は円を描くようにお札を張り付けるので、広い場所が必要で建物の中には向いていない。


「ハンディよ、ハンディ。わたしは八禍津刀比売やがまつとひめも使わないわ」


 砂那は口の隅を上げて笑ってみせた。


 蒼は溜め息混じりに頷く。


「勝負は別に構わないが、せめて式守神しきしゅがみは使ってくれ。建物の中で、囲いだけなら浄霊に時間がかかる」


 砂那はロングコートの中から取り出したダガーを両手に持つと、ダガーを持ったまま器用にお札を内ポケットから取り出し、ダガーに突き刺すと蒼を見た。


「そんなことを言って、後悔するわよ」


「俺もこぐろを使うから問題ない」


 その言葉と同時に、いつの間にか蒼の足元には、黒い仔猫がじゃれついていた。


 砂那は満足気にうなずくのを見て、それを合図に、二人は同時に校舎の中に入っていった。

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