第38話

 古い記憶。

 哀斗は両親からの虐待を毎日のように受けていた。

 食事の中に動物の餌を混ぜられたり、意味も無く一日中服を着るのを禁止されたり等、そういった外傷の無い陰湿なものだ。

 それが始まったのは、哀果が小学校2年生、哀斗が幼稚園の年長組の頃だった。

 理由は単純、父の勤めていた会社が倒産したのだ。

 それまで、どこにでもある普通の家庭だった。母も父も、子供の授業参観や運動会には必ず出席する優しい両親だったし、子供が病気になると父は会社を早退してでも帰ってきていた。

 しかし、財政難に陥った途端に一変した。

 転職先でのストレスをまだ年端もいかない哀斗へとぶつけることで発散し始めたのだ。

 当然、母はすぐにそれに気づいた。同じ家に居るから当然だ。

 夜、哀果は枕元で耳にした。


「哀果はもう自分の考えがしっかりしているが、哀斗はまだ理解力も乏しい、それに一目で分かるような傷をつけない限り大丈夫だろう」


 父はどこまでも理性的に壊れていた。

 勿論、母は異論を唱えた。頭、おかしいんじゃないんですか、と。

 その言葉を受けた父は「おかしいと思うのは構わないがね、こうでもしないと気が晴れないんだ。それとも、何か。代わりに働いてくれるのか?」

 母は口をつむんだ。そもそも、結婚をした理由が働かなくて済むからといった不純な理由だったからだ。父と母の歳は、9つ離れていた。

 母からの黙認を受けた父は、躊躇なく哀斗を弄んだ。3か月もすれば、家で哀斗が人間扱いされることというのは少なくなってきた。ほぼ裸同然で首輪をつけられ、名前で呼ばれずにポチと動物のように呼ばれることがほとんどになっていた。

 哀果は、ただ黙って部屋の隅でおとなしくしているしかできなかった。反抗すれば自分もああなるんじゃないか、と。

それでも、哀果が唯一行っていたことがあった。

 両親が不在の時に、哀斗にお菓子を食べさせてあげることだった。哀斗が美味しそうに食べる姿を見て、哀果はその度に心が軽くなった。だから、それだけは欠かさなかった。

酷く歪んだ生活が2年続いた。

 その頃には、零細家に置いて、哀斗への虐待の光景は日常の一つになっていた。

 ある日、父方の祖父母から一通の電話が来た。

 たまには実家に顔を出しなさいといった内容だ。昔はお盆と正月に欠かさず帰っていたのだが、父の会社が倒産してからは帰ることが無かったため、心配になったのだろう。

 電話を受けた父は、真っ先に哀斗の顔が浮かんだ。下手な振る舞いは避けるべきだと判断し、電話のあった週末に急遽、祖父母の家に行くことが決まった。

 ――その日が、哀斗と哀果の運命が動く日だった。

なんでもない土曜日だった。

 祖父母の家までは片道車で約2時間程。お昼過ぎには着くように、午前中のうちに零細一家は出発した。

 4人乗りの軽自動車。父がドライバーで、母が助手席。哀果と哀斗は後部座席に座っていた。家の中とは違って、哀斗はしっかりと服を着せられていた。祖父母の前にあられもない姿で出す訳にはいかないからだ。

 哀果はそんな光景を見て、懐かしいと感じた、4人で出かけるのも2年ぶりだったし、哀斗が常識的な扱いを受けている姿は久しぶりだった。

 祖父母宅は田舎の中にあった。車に乗ってから一時間もすれば見えるのは自然ばかりになる。舗装がさえてない道も多く、道幅が極端に狭かったり、広かったりと安定しない道路が続いていた。

 しばらくして、哀果は中央線を大きく跨いで走行する対向車線を走る車を見つけた。父と母はまだ気づいていなかった。呑気にもカーナビで道を確認しながら脇見運転をしていたからだ。


「おとうさ――」


 哀果は父に「車が来ている」と教えようと思った。

 だけど、言えなかった。哀斗が、哀果の服の裾を握っていたのだ。冷めたようなどこか諦めた目をしていて、哀果は金縛りにあったようにピクリとも動けなくなった。


「っ!」


 父が気づいた頃には、もう車は目と鼻の先だった。ハンドルは大きく切られ、零細一家を乗せた車は、ガードレールを突き破り、木々が生い茂る傾斜へと転がり落ちる。

 何度も浮遊感が繰り返されてから、重い振動を伴って止まった。

 一番初めに脳震盪から回復したのは哀果だった。

 哀果は、朦朧とする意識の中で、ドアを開ける。


「くさい」


 ガソリンが漏れているのか、油くさいつんとした匂いが鼻をさした。

 いち早く危険を察知し、真っ先に意識の無い哀斗をおぶって車外に出ると、真っ赤に燃え盛る光景が広がっていた。火源は車から漏れたガソリンだろう。


「いそ……がないと」


 背中の哀斗の体重を全身で感じながら引きづったような跡を辿る。

 途中、母と父を乗せたままの車は、燃えて重心が不安定となった大木に押しつぶされた。少しでも逃げ出すのが遅かったらああなっていたと思うと、ぞっとする、と思った哀果だったが、それは一瞬だけだった。また違ったベクトルの安心感が心を支配していた。


――よかった。哀斗を虐めていた人たちが死んで。


 実の両親の死を歓迎する感情だった。

 それからの哀果はただひたすらに夢中で落ちてきた傾斜を昇った。

 火事場の馬鹿力か、意識の無い哀斗を背負いながらも、なんとかアスファルトの感触に触れることができた。


「哀斗っ、着いたよ!」


 背中越しに呼びかけるも、哀斗の返事は無かった。どこか体全体が冷たいような気もするし、心臓の鼓動もかろうじて鳴っているという程度だった。ぬるりと、哀斗を支える両腕に生温かさが広がった。首をひねって見てみると、哀斗の背中には惨たらしい傷。血が水のように流れ出していた。


「―――――――――――――――――――!」


 哀果は喉が張り裂けそうなくらい叫んだ。言葉にはなっていなかった。ただひたすらに辛かった。実の弟の命がもう風前の灯火であることが、ひどく、ひどく――。

 本当は、ずっと哀斗を助けてあげたかった、でもできなかたった。両親が怖かったからだ、あの哀斗を人と思わない非道な目が。次は自分の番かもしれないと、怯えていたのだ。

 しかし、その脅威はさった。不慮の事故によって。

きっと意識を取り戻したとしても、大木が倒れ掛かり大きくひしゃげた車からはきっと出ることはできないだろうし、周囲は火の海だ。幸運なことに助かることはないはずだ。

 もう哀斗を虐める者は居ないのだ。ここで助かれば、また昔のような平和で穏やかな生活が帰ってくるのだ。

 ここで、命を落としさえしなければ―――!

 涙で滲む視界の中、何かが光った。

 ゆらゆらと、揺れていたから、人魂のように見えた。


「よー人間。オレが助けてやろうか?」


 人魂が喋った、と思ったが違う。目をこすって見ればそれは琥珀色に光る瞳だという事がわかった。長い髪で、右目は隠れていて、それは左目だった。


「かみ……さま?」

「は? 寝ぼけてんのか? オレは悪魔だ、悪魔」


 悪魔と名乗る彼女は、冬でもないのに首元にマフラーを巻いていて、ビックシルエットで身体を覆っていた。みょうちくりんな、まず普通の人ならチョイスしないような組み合わせだ。


「お前、名前は?」


 悪魔が言った。


「哀果……零細哀果」


 あなたは? と哀果が聞くと、悪魔は「アスモウラ」と嫌そうに名乗った。それから、


「オレがそいつ、助けてやってもいいぜ?」


 と言った。

 哀果は夢中で首を振った、何度も縦に振った。今にも死んでしまいそうな哀斗を背中越しに感じている現実を早く変えたかった。


「弟をっ! 哀斗を助けてほしい! 哀斗に幸せな生活を送らせてあげてほしい……!」

「対価は、お前の寿命だ。それでいいか?」


 哀果に迷いはなかった。


「ラプラスの悪魔の名の基に、ここに契約を示し、応じよ。彼女、零細哀果の弟、零細哀斗へ幸福を」


 すると、アスモウラはマフラーの下をまさぐり、鱗のようなものを取り出した。

 やがて、それは宙を舞い、哀果の心臓へと溶け込んだ。

 哀果の体内に異物が無理やりに混ざりこみ、気持ちの悪い感覚が広がる。


「ほら、背中のガキ」


 言われて振り向くと、哀斗の背中の傷の出血は止まっていて、徐々に心臓の鼓動も強くなってきている。


「哀斗っ…。よかった……」


 哀果の目からぽろぽろと涙が落ちる。

 アスモウラは哀果が泣いている様子をぼんやりと見つめ、泣きやんだところで声を掛け、悪魔との契約について説明した。哀斗の傷の修復を目の当たりにした哀果は、真剣な顔で聞いた。

 そうして、哀果は承諾したのだ。哀斗の人生のために寿命を捧げることを。

 哀斗が幸せを実感するその日まで――。

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