第36話

 病室の中は、保健室に似た消毒液のような臭いがする。なんだか、懐かしさを感じた。

 特別病室で一人、病室で眠っている哀果は、ふざけた口説き文句を言いながら今にも飛び起きてきそうに見えた。

拘束するように、薄い病衣から伸びる細い腕には、点滴が打たれている。


「姉ちゃん……」


 ベッド脇の丸椅子に座って声を掛けるが、返事はない。

 前、最後に見た顔は確か泣き顔だったなあ、と思い出しながら癖の付いた髪を撫でる。

 おだやかで落ち着いた哀果の顔を見ているはずなのに、泣き顔よりかはよっぽどマシだ、とはとてもじゃないが軽口は叩けなかった。


「ごめんね、姉ちゃん……」


 一週間も一言も喋らず、ぴくりとも動かないまま、哀果は一人ぼっちで寝たきり状態だった、その光景を想像するだけで胸が張り裂けそうになる。

 気づけば口内が鉄臭くなっていた。気づかないうちに下唇を噛んでいたらしい。

 姉ちゃんが一人苦しんでいる間に俺は何をしてたんだ……、と哀斗は悔しくなる。

 一人で勝手に失敗して、一人で勝手にふさぎこんで、リミリーのおかげでなんとか心変わりができて……。

 たった一人の家族が意味もわからないまま昏睡状態。もし、リミリーならどうするんだろう、とこんな時でも他人任せだった。


「結局、無気力なままじゃないか……」


 しばらくして、担当医との面談が行われた。

 貫禄のある初老近いような男性だ。病院の廊下には、様々な患者さんからの感謝の手紙や絵なんかが飾ってあった。きっと、たくさんの人の病や怪我を治して来たんだろう。

 しかし――


「申し訳ありません」


 と、何の脈絡もなく、対面に座る医師は、未だ未成年の哀斗へと頭を下げたのだ。

 担当医の話によると、様々な検査を施したが、原因らしいものは見つからなかったという。だというのに、哀果の身体は病魔に蝕まれているかのように日に日に衰弱しているらしかった。

 医師の見解を聞くと、もしかしたら未知の病気の可能性がある、と言われた。

 正直なところ、哀果が昏睡状態という実感すら薄い哀斗にとって、とても信じられることではなく、信じることを脳が拒否しているまであった。

 そんな心裡を見通したかのように、医者は検査内容とその結果について、知識の無い哀斗にでも理解できるよう懇切丁寧に説明してくれた。

 しかし、どれだけ項目が移ろうと、検査の結末としては『異常なし』だった。。

 それなら目覚めたっていいじゃないか、と声に出したのかどうかは覚えていない。

 陽が完全に沈み、診察時間はとっくに終わっているというのに、担当医の説明は続いた。

 いつからか、貧乏ゆすりが止まらなかった。

 行われた検査の数々が、まるで哀果は一生このままだ、と照明するための材料に思えてきていた。

 最後に見せられたのはレントゲンだった。何も反応は無いが、もしかしたら何か写るかもしれない、そう考えて撮ったものらしい。

もはやPCの画面に映ってもいないのに、おかしな物は何も無かったんですが……と前置きを受ける。

 初老の医師が相も変わらず申し訳なさそうに喋る中、同じく哀斗もレントゲン写真に顔を向ける。ほとんど形だけだった。

ぼんやりと、どうせまた『異常なし』なんだろう、と諦めながら目の焦点を合わせる。


「え、これ……!」


 捉えた瞬間、目をいっぱいに見開いていた。見覚えのあるものがあったからだ

 身を乗り出して心臓にある小さな影を指差す。目を見張る哀斗に対して、担当医は首を傾げた。


「これ、と言いましても、何も見えませんが」


 この花びらみたいな影のことなんですけどっ、と哀斗は指差す。

 すると、老眼鏡らしきものを掛けて、自身の顔を前後に動かしながら懸命に見てくれる、が。


「申し訳ありません。影らしきものなんて、私には見えないのですが……」


 と、担当医の反応は変わらないままだった。


「なる、ほど……」


 どうやら、本当に見えていないらしい。

 だが、哀斗の目にはしっかりと見えていた。そして、しっかりと記憶していた。

 あんな特徴的な物、それこそ記憶喪失でもない限り、忘れるわけがない。


「アスモウラの鱗」


 自分にしか聞こえないくらいの声で呟く。

 アスモウラの首元を覆っていた、燃えるような紅色の鱗。

 契約を行う際に、彼女自らで剥がし、契約者の身体に溶け入れるモノ。

 哀果の身体にそれがあるということはつまり、アスモウラと契約したことの証だ。

 きっと、哀斗の身体を同じようにレントゲンで撮影すれば同じ物があるのだろう。

 そんな考えがとんとん拍子で組みあがっていく。何の言質を取ったわけでもないが、どの検査項目も異常は無しの連続で、やっと見つかったヒントだ。理論立て、根拠づけをしてしまうのはもう仕方がなかった。

 そこに哀果が目覚める可能性が転がっている、ただそれが身を奮い立たせていた。

「分かってしまえば……!」

 一番パンチが効いたのは、目の前の担当医にはそれが見えていないということ。アスモウラと会ってる時は一対一だから、契約をしていない一般人には可視化できるのかどうか、といのは分からない。だが、悪魔であり超常的な力を行使できるアスモウラにはそれくらいのことやってのけられそうだと思うのだ。


「すみません、失礼します! 診察ありがとうございましたっ!」


 君っちょっとっ! という担当医の制止を聞き流して、足早に病院を飛び出す。

 向かう先は、鹿跳神社だ。


「もうこれ以上、踊らされてたまるか」


 原因であろうアスモウラとの契約が判明した以上、やれることは絶対にあるはずだ。

 真っ暗な夜道、車の音が響く住宅街を走る。


「待っててくれ、姉ちゃん……!」

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