第32話

「かなり沁みるわよ」

 

前置きをしてから、リミリーは哀斗の足裏に消毒液をあてがう。


「いっつ……」


 軽く汚れを落としてはいたが、刺激は強い。

 消毒液を吸った脱脂綿が触れるたび、足が反射的に痙攣をおこす。


「血は派手に出てたけど、見た感じそんなに傷は深くないわね。といっても、汗をかいたりして万が一ってのがあるから、歩いたりってのは最低限にすることね」


 皮膚が裂け、グロテスクな哀斗の傷口を観察するリミリーの目は真剣だ。


「……明音の様子、どうだった?」

「次、左足やるから」


 別荘へと戻ってきた今では、二人とも動きやすい部屋着姿。ベッドで体だけを起こした状態の哀斗の左足をリミリーは右足と同じ要領で消毒していく。


『気を悪くしてほしくないんですけど……。花火とお兄さんって、初対面ですよね……?』


 意識が回復した花火はそう言った。


「……」


 リミリーは、震える左足をやんわりと抑えつけて目線は傷口に固定したまま、ぽつりと話し始める。


「哀斗のこと、名前も顔も憶えてなかったみたいだったわよ。言った通り、ね」


 言葉を選びながら、振り絞るような声を出す。


「水を買って帰って来た時、哀斗が言っていることわけわかんなくて、目が点になったわ。まさか、そんな突然って……。だけど、それからの花火と哀斗の会話のよそよそしさとか。哀斗に怯えたような目を向けているのを見てるとね……事実だって認めるしかなかった……本当に、その直前に頭を打ったりとかは無かったの?」


 哀斗は首を縦に振る。

 花火が記憶の一部を失ってしまっていること――原因におおよその予想はついていた。


「……そう。はい、消毒終わったわよ」

「ありがと」


 大きく切り取られたガーゼで傷口が覆われていく。衣擦れの音がなる度に痛みはあるものの、だいぶマシにはなってきた。

 やがて、傷の保護を終えると、リミリーは救急箱へと消毒液やガーゼを仕舞う。救急箱はあまり使われることがないからか、金属でできた留め具から鈍い音が鳴った。


「変な意味じゃないんだけど、少し落ち着きすぎじゃない?」

「怪我でわめいて、みっともないところ見せたくなかったからさ」


 できるだけ軽口を意識しながら哀斗はまた、無難かな、と虚勢を張る。

 じゃなくて、と言いながら顔を上げるリミリーの目は、なんだかすごく気まずそうに見えた。


「哀斗はさ、ハナに忘れられたんだよね……」


 相槌を打つ間は無かった。


「なのに、哀斗はそれをもう受け止めてる感じがするっていうか……なんか説明難しいんだけど……。何か心あたり、あるんじゃないの?」


 心あたり、はある。だけど、それを言ってしまえば更に事態は悪化する可能性が高い。言うべきではないし、言えるようなことじゃない。それに、まだ確証が得られたわけじゃなかった。


「……無いよ」

「まあ、哀斗が何かやったってわけじゃないって信じてるわよ。だけど……もし後から教えれるようになったら……教えて」


 そう言い残すと、リミリーは部屋から出ていった。ドアを閉める乾いた音が、寂し気に感じた。

 ……リミリーからの信頼が、酷く苦しい。しかし、これは当然の報いだ。


「まずは裏付けだ」

 枕元に置いていたスマホを手に取り、ラインを送信する。

 宛先は憧子だ。足を怪我してる以上、こちらから会いに行くというのはなかなかに骨が折れる。


『ちょっと、お願いしたいことがあるんですけど――』


 数十分後。哀斗がうつらうつらし始めたところで、憧子はやってきた。

 従姉妹の花火が急に倒れたこともあってか、憧子は曇り顔だった。


「怪我の具合はどうですか?」

「痛みはあるけど、歩いたりしなければ全然問題無いレベルです」

 それはなによりです、と優しい声で憧子はベッドに腰かける。スプリングが収縮する音が、雑音の無い部屋に響いた。

「明音は、大丈夫でしたか?」


 ええ、と憧子が頷く。


「その……俺のことは完全に忘れていると、リミリーから聞いたんですけど、ここ数週間の記憶について分かった範囲でいいので教えてくれますか?」


 できるだけ平静を装って問いかけるが、喉が乾いて声のトーンがおかしくなっているのが自分でもわかる。

 憧子には、花火の記憶について細かい情報が知りたかったということもあり、花火からそれとなく聞きだしてもらうようにお願いしていた。勿論、無理の無い範囲で。

憧子は情報を精査をするように、少し考えてから応えてくれた。


「書庫でよく集まって遊んでいたこと……そこでの内容はしっかりと憶えているみたいですが、哀斗くんのことだけ綺麗さっぱりでした。意識が回復してすぐは混乱こそしていたものの、ここに来る予定を立てたことや、電車で酔ったことなんかは記憶している……といった感じでしたよ」

「なるほど……」


 そう思案顔で返す哀斗の顔色を憧子は伺いながら、そっと訊ねる。


「どうして、こんなことを?」


 花火が哀斗のことをどういった具合に記憶しているのか、それについて事細かに聞き出そうとしている件について。不自然さを感じ取ったのだろう、それでも――


「次、顔合した時にどう話せばいいかわかからないから、ですかね」


 その意思を汲み取った上で、表面上の答えに留める他ない。

 憧子の顔に不満気な様子が見て取れる――意外な一面。

 花火の記憶は哀斗という存在だけが体よく抹消された状態、だというのに整合性はおそらく取れている、不気味なまでに。

 そして、もう一つ。


「話は大きく変わるんですけど、花火ってどこの部活動にも入らなかったんですか?」


 予想外の質問に、憧子はきょとんとする。戸惑いながらも、憧子は教えてくれた。


「は、入ってませんけど……。やっぱり、時期が時期だったからでしょうかね……」

 だからこそ、今の関係すごく楽しそうだったんですけどね……、とも漏らした。

「時期が、次期っていうのは――」


 続く言葉を言おうとして、つい詰まる。ここで、その通りの事が返ってくればもう後には戻れない。きっと、もう駄目になってしまう、と哀斗は思った。

 だけど、これが罰になるのだ。罪を犯したら誰しもが受ける当然の帰結。

掠れないように唾を飲んでから声に出す。


「花火が転校生だから、ですよね」


 出たそばから、汗が冷えていく感覚。もう概ね、分かってはいた。


「あれ、言ってませんでしたっけ?」


 憧子は首を傾げて、哀斗の疑問の正当を示した。予想は当たってしまった。


「やっぱり……やっぱりそうなんですね」


 心の中で、何かが折れるような音がした。本当に聞こえるものなんだな、と哀斗は可笑しくなった。


「……花火はヒロインだった」


 声に出して、やっと現実味が出てくる。これが、哀斗の想定していたものだった。

 思い出す数週間前、リミリーが転校してくる前夜の一幕を――。


『明日は転校生イベントだ』


 アスモウラはそう予言した。そして予言通り、翌日にリミリーは転校してきた。

 そこで、思い違いをしていたのだ、リミリーがヒロインだと、リミリーだけが、ヒロインだと。当然だ、リミリーには出会ったその日のうちに告白されたんだから。

 だけど、転校生は彼女だけじゃなかったのだ。花火もまた、同じく転校生だった。

 思えば、学校に慣れていないような素振りはいくつかあった。

 初対面の日、通常ならば1年生とはいえど、夏前ともなれば一度は図書室に足を運んだことがあるのが普通だそれなのに、『やっと着いた!』と彼女はまるで、初めて来たかのような反応をしていた。更には、同時期に比鹿島高校の部活動がどんなものがあるのか、把握していなかったこともあった。

 どれも、あの時期に転校してきたからこその反応だろう。

 それに――。


「(そうでもなければ、花火が俺なんかのことを好いてくれるはず、ないもんな……)」


 あやうく天狗になって阿呆を晒すところだったと、哀斗は曲がり腐った安堵を感じた。


「ははっ……」


 思わず、乾いた笑いが出る。


「哀斗くん、どうしました? もしかして、身体の具合が……」


 憧子の気遣う言葉。

ここで、本当のことを話すわけにはいかないから答えられない。そういえば、そうだった。

でも――いいか。


「……涼詩路さん。俺のこと好き?」


 憧子は、鳩が豆鉄砲を喰らった顔をしてから、唐突な投げかけにも頬に朱を差し込んでみせた。


「えっと、えと、えと……」


 なんて、慌てたような態度を取りながら、


「はい……好きですよ。哀斗くんのこと」


 よくできた顔、よくできた殺し文句を言ってのけた。

胸の高鳴りなんてものは、なかった。

じゃあさ、と哀斗は前置きしてから問いた。


「俺のどんなところが好き?」


 花火が倒れる寸前に、哀斗が言った言葉。

 これは、鍵だ。夢を夢だと認識するための鍵――。

 そして――小さく呻きながら、憧子はやっぱり倒れた。

当然意識は無い、花火と一緒だ。

胸に抱きとめながら、哀斗は気づいた。


「……全部、偽物だ」



 その晩、憧子は哀斗に関する記憶。その全てを、失った。

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