第99話 夜明け

 ボクたちは二人きり、宙をゆっくりと漂っている。

 お互いを見つめて抱き合い、この時間が永遠になるように噛みしめて。



「──もう。バル様ったら……そればっかり、なんだから……!」


 もっと色々伝えたいことがあるはずなのに。

 胸の奥から感情が込み上げて、ボクはそれしか言えなかった。


 

「ククク。カワイイものはカワイイと言うべきだからなァ」


 彼は手のひらで、ボクの髪に触れた。

 ぐしぐしと少し乱暴だけど、愛がこもっているのがわかる。


「うう……」


「そして、好きなものを好きだとも言うべきだった」


「……はい」


 低くて力強い、情熱的な声。

 ボクの瞳は彼にとらえられて、もう目をそらすことはできない。


「ありがとう、マコ。お前は俺に、日の出を見せてくれた」


「ひ、日の出? 毎朝見れるじゃないですか……」


「いいや。百年生きても、俺は知らなかったのだ。日の出が、この世界が、こんなにも美しいものだと。今は全てが光に包まれて見える。あァ、素晴らしい……」


 その表情はき物が落ちたように晴れ晴れしく、輝きに満ちている。

 瞳に宿っていたあの暗い影は、もうどこにもない。


「確かに今日のは、特別な日の出ですね」


「ああ。沈んだ太陽がまた登ってくる。こんなにとうといことはないんだぞ、マコ」


「ふふ。ボクも今日初めて知りました」


「そうだろう。俺は気付いたのだ。この世界にはまだまだ、俺が知らないことが沢山あると」


「バル様がですか? ──ひゃっ!?」


 ボクの身体は、がばっと彼の腕の中へ抱き込まれた。

 うあ、厚い胸板むないたに頰が押し付けられて──ぜんぜんイヤじゃないけど、顔を見れない。


「……俺の魂は、一度は大気に溶け広がり、ただの魔素マナにまで還元された。あとわずかで、そのまま消え入ってしまうところだった」


「けど、あなたは戻ってきてくれました」


「……声を、聞いたのだ。俺のことを呼ぶ声だった」


「声?」


「オマエの声、ロゼッタの声、リリニアの声……。それだけじゃない。魔人、獣人、動物たちに──人間も。俺は、俺の身を案じる者がこれほど居たことを知らなかった。いや、聞こえないフリをしていたのだ。マリアを奪った人間たちを許せないがために」


 ボクの頭を押さえる手は、かすかに震えている。

 それは強張こわばる表情を見せまいとしてなのか、それとも……。


「バル様にお世話になったひとは、たくさんいますよ。あなたのことを必要としているひとだって、たくさん」


「そうだったんだなァ……。だからこそ俺はこうして戻り、この広い空を見ることができた。感謝しなければならんな、ノージェのヤツにも」


「えっ?」


「俺の心の内にあった”呪い”は、あの首輪と共に砕かれたのだろう。……いや、砕かれたのはそれだけではないな。あァ──よくぞやった、マコ」


 バル様は、身体を祭壇があったほうへ向けた。

 いまは何もない、さわやかな空と虹が広がっている。


「だって三角大陸トライネントで大量の魔素マナを爆発させても平気そうなところなんて、あの結界の中しかなかったんですもん」


「フッ、ククク。結界の内部にあった建造物にとっちゃ、災難だったろうなァ」


「さて、あそこになにかありましたっけ」


天弓てんきゅう祭壇さいだんだ」


「……まあ、そうですけど」


「俺は考えてもみなかった。あれがなくなる日が来るなど」


 彼の表情は、不思議な喪失感を含んでいた。

 ずっと心の中に根を張っていたものが取り除かれたような。


 たとえそれが、負の感情だったとしても。


「……寂しいですか?」


「どうだろうなァ。いざ、こうなってしまうと……どうしていいかわからない自分が居るのだ」


 そう言うバル様の顔の下には、もう黒い首輪はついていないのに。

 ああ、きっとまだ実感がないんだな。


 ボクはぐいっと彼の手を押しのけて、頭を持ちあげた。


「自由にしたらいいじゃないですか。過去のことなんて、忘れちゃって」


「忘れる、か。……そうしてもいいのだろうか」


「あなたがいいと思えば、いいんです」


「だが、俺の名はバルフラム・だからなァ」

 

「バル様はバル様です。先代の巫女みこから継いだ名だとしても、もうあなたのものですし。……それでも忘れられないなら、その名に新しい意味をみつけましょうよ」


「むう……」


「誰も、いまさらとがめたりなんてしません。だって、バル様はこんなに優しくて……。こんなに、頑張ってたんですもん。……ふふ」


 ボクは手を伸ばし、お返しのつもりで彼の燃える髪を撫でた。

 なんだかむしょうに、そうしたくなったから。


「マリョ──あッ」


「えっ?」


「ゴ──ゴホンッ! ああ、まだ身体の感覚に慣れないせいか、つい舌がもつれてしまったなァ! ク、クハハ……」


 ……ちっともそうは見えなかった。

 今の彼から感じる”波動”は今までで一番安定している。

 肉体と魂ががっちりと結びつき、もう首輪なんてなくても彼は健康そのものだ。

 


 ボクは身体を預けたまま、昇り来る朝日をぼんやりと眺めた。

 これからの彼と、自分と、三角大陸トライネントで暮らす人々に想いをせながら。


「……バル様?」


「な、なんだ」


 彼を見つめるたびに、ボクは想う。

 この”好き”の意味は、ボクの心が”マコト”のままだったら、今と違う形になっていたのかな。


 それでも、この気持ちだけは変わらない。


「ボク、夢魔サキュバスに転生して、よかったなって。……そう思ったんです。こうしてまたあなたに会うことができたから」


「マコ……」


「新しい自分も、今は好きになれましたし。これからもっと、たくさんの”好き”に出会える気がしてるんです。この、素敵な世界で」


「ああ、そうだなァ。俺も……そう思う。素敵だ、本当に」


 そう言った彼は視線も声もねつっぽくて。

 目が合うだけで、声を聞くだけで、ボクまで燃えてしまいそう──。


「……。……さっ、そろそろ降りましょうか。みんな、下で待ってますから」


「下って──ウ、グワァ!? お、おいッ! 俺たち、足場もなしに浮いているぞ!?」


 バル様は急に足をバタつかせ、あわてはじめた。

 今更になってそんな反応をされるとは思わなかったけど。


「ふ、あはは! そんなに夢中だったんですか? それじゃ、行きますよ」


「まっ待て! その前に……言うことがある」


「今ですか?」


「そうだ。大事な話だ」


「……はい」


 彼は、正面からボクの肩に手を置いた。


「マコ、俺は……オマエのことが好きだ。心から」


「は、えっ」


「この新しい世界をオマエと共に見ていきたいのだ。一緒なら、世界はもっと輝いて見える。……オマエにとってもそうであって欲しいと、願っている」


 ああ──。

 心の奥がこんなに熱くなるなんて。


 バル様、ボクだってそうなんです。

 まさかあなたにこんな気持ちを抱くようになるなんて、初対面の時は想像もしていなかった。


「……嬉しいです。ボクもあなたのこと……好きです、バル様。愛してます」


「ほ──本当かっ!?」


「えっ、自信なかったんです?」


「俺は、この胸にともった想いを口に出すことが怖かったのだ。また失うことを、恐怖していた」


「……意外と怖がりさんなんですね」


「そうかもしれんなァ。……だが、気付いたのだ。想いを相手に届けられないことは、失うよりも恐ろしいだったと」


 その言葉で、ボクはなぜだか胸の奥がズキリといたんだ。

 なにか大事な忘れ物をしているような気がして。


「バル様……」


「だから、言わせてくれ」


「……っ!」


 瞬間、息を呑んだ。

 彼の言葉に呼応こおうするかのように、の光が強く輝く──。



「結婚しよう、マコ」


  

 ……いつぶりだったろう。彼の口からそう聞いたのは。

 

 初対面の時とはまるで違う。

 その瞳にともされた情熱も、この肩を抱く腕に込められた想いの強さも、ボクは知っている。


 こんなに幸せでいいの……?

 思わず笑ってしまうくらいなのに。



「……ふふっ。誓いのキスとプロポーズが逆になっちゃいましたね」


 自身の口から出たその声は、自分でも驚くほど甘く、とろけていた。


 ああ──すっかり女の子なんだな、ボク。

 心からそう自覚するまで、こんなにかかっちゃうなんて。



 バル様は、天にも飛び上がらんばかりに──いや、もっと飛んで行きそうなほど顔をほころばせた。


「それじゃあ……!? へ、返事を聞かせてくれッ」



 ボクがいまできる返事は、前から決まっている。


 バル様、好きです。ボクをんでくれて、ありがとう。

 だからせめて、愛を込めて、とびっきりの笑顔で。



「……ふ、ふふ。いやです!」



 そして二人ぶんの体重を支えていた浮遊ふゆう魔法をパッと解除し、翼での飛行に切り替えた。



「なァッッ……?! ちょっとマテ、だっていま──だわァーーっ!!?」


 虹の架かった、抜けるように透き通る空へ──。

 浮力ふりょくを失った彼の悲鳴が吸い込まれていった。

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