第86話 黒
ノージェさんがボクに向かって魔法を使って、それから──
う、う──なんだか、とても──ねむたい。
いま、何をしようと……してたんだっけ。
『さあ、こっちへ来るんだ』
……そうだった。行かなきゃ。
『眠いだろう? さあ、力を抜いて』
そう、ひと寝入りしたい気分。
だけど、ボクにはやりたいことが……。
『もういいんだよ、頑張らなくても。後は全て私に任せて』
本当に? このままじゃ、ボクは──。
『……まだ、完全には効かないか。いいさ、これから何度も重ね掛ければ……』
……ッ! ……。
「マコーッ! 目を覚ませッ!」
「しっかりして、マコ!」
「──!?」
次の瞬間、ボクはノージェさんの腕に抱き込まれていた。
周りを取り囲む、たくさんの兵士の気配がする。
さっきまで隣にバル様とミナミがいたはずなのに、ボクだけが反対側の人間の陣営の内側へ移動させられたんだ。
麻酔から醒めたばかりみたいに時間が飛んで、頭がくらくらする。
身体に力が入らずうまく動かせない。
なんとか声のほうへ首を向けると、こちらへ向かって真っ黒い煙を吐くバル様と、彼に対して杖を構える老魔術師の背中が見えた。
その隣では、ミナミが必死の形相でこちらへ手を伸ばそうとするのを護衛の騎士が制している。
「ヘイムダール、ジュリアス、まだ手を出してはいけないよ。彼らの先制攻撃を待つんだ。私は彼女を連れて、
ノージェさんの声は、冷徹そのものだった。
──ああ、この人が本物の”悪魔”だったんだ。
言う事を聞かないなら、力づくで。結局はそういうことだったんですね。
種族なんて、やっぱり関係なかった。
「
「……ヘイムダール、キミの案だったろう。”
どうして、こんな事を──?
「とはいえこの老体、魔王と対峙するのは少々
どうして、こんな役に──?
「今しかなかったんだ。この時間帯なら厄介なのはバルフラムさんだけだし、どうやら
「しかし、これでは……。──殿下ッ!? この
「何ッ!?」
──ぐつぐつと、心が煮えたぎる。
血管の中をマグマが巡って、身体中がかっと熱くなる。
この”怒り”は……昨日、バル様の血を介して火の
違う。
これは、ボク自身の怒りだ。
「信じてたのに……!」
──ゴゥッ!
全身を炎が包んだ。
ボクの想いを踏み
「うッ!? マコ、くん……!」
「信じたかったのに……ッ!!」
──ゴゴォッ……!!
背中から生えた翼が、燃え上がるようにボクを空へと導く──。
あっという間に包囲網を
剣に槍に斧に、ヒトに向けるべきではない刃物たちが
太陽を背にしたボクの影が大きく膨らんで、彼らの上にシルエットを落とした。
振り乱した髪、長く伸びたツノ、
そうだったんだ。これがボクの正体。
彼らには、ボクがまるで悪魔のように見えるのだろう。
いま、魔力を込めて足元に見える景色すべてを薙ぎ払えば──三人目の”魔王”となれるかもしれない。
「ノージェさん……。みんな、嘘だったんですね? あなたのこと、
「マコくん……! キミに打ち明けた全てが
「でも、最後はボクを魔法で操ろうとしました……」
「
「でも、それはあなたの事情です……!」
「……そうだね、
「そんなこと──なんの意味もないですッ!」
何もわかっていない。悔しくて涙が出る。
どこかで間違えてしまったの?
いいや、違う。どうなろうと、これがボクの選んだ道。
……ボクに足りないのは"
さっきノージェさんから感じた異質な気配の正体は、どうあっても何があっても、意思を
きっと
それでも……ボクは負けたくないんです。
足元から、小声で会話する声が聞こえた。
「……ヘイムダール、もう一度彼女に”
「
「なんだって?」
「風、水、光、炎──。おお、間違いない。こやつは常人では一つしか持てないはずの
「ありうるのか、そんなことが?」
「それでも以前相対した時は二属性だったはずだ。一体、どうやって……」
五感が研ぎ澄まされたボクの耳には、すべて届いていた。
そっか……。もう話し合う気はないんだ。
「もう、いいです。──ありがとうございました、ノージェさん」
「……あり、がとう?」
「
きっと、ノージェさんは魔人という種族を人間の輪の中に引っ張り上げようとしてくれたんだ。
痛みを我慢してそれを
だけどボクは──ボクたちは、自力で
──パチン。
前髪に手を伸ばし、”
拳を、熱く堅く、握りしめた。
魔力が
「マコ、待てッ!」
足元から、彼の声が聞こえた。
……バル様。
わかってます。本当はあなたが一番、人間と仲良くしたかったってこと。
大丈夫です。あなたの痛みは、ボクが知っているから。
「マコくん、落ち着いてくれ!」
……ノージェさん。
何かを成すためには手段を選べないこと、よくわかりました。
ボクも、そうしたいと思います。
「マコ! ……わたしは信じてるよ」
……ミナミ。
ありがとう。
キミがいなければ、道を
大きく、息を吸って。もっと魔力を膨らませて。
今のボクになら、太陽の光だって
『
──ゴゥン、ゴゥン、ゴゴゴ……!
太陽を、大きな大きな黒い影が隠していく。
急激に辺りが暗くなり、気温が下がっていく。
「なんだ、何をした──!?」
この現象は、擬似的な”日食”だ。
眼下に見えていたツノと翼が生えたシルエットは、影と同化して見えなくなった。
『──おやすみなさい、いい
「ウッ……」
「あぁっ……」
──ばたり、ばた、どさ、どさっ……。
ボクの視線に射抜かれた兵士たちが次々と
使ったのは“魔法”と”瞳術”の併せ技。
ノージェさんたちが引き連れて来た兵士たちは一人残らず夢の中だ。
「なんと──! 夜を
老魔術師が息を呑み、こちらを見上げた。
彼は黒い眼鏡を取り出してすんでのところで瞳を守ったらしく、杖を支えに
「は、は、は……。マコくん。まるでキミ自身が黒い太陽のようだ。怒りに燃える表情すら美しいよ」
残ったのはノージェさんとヘイムダールさんだけだ。
──すたっ。
ボクは地上に降り、ひたひたと彼らに歩み寄った。
「……すみませんが今は諦めてください、ノージェさん。まだ、お互いに時間が必要なんです」
二人は血の気が引いて、白い顔をしている。
「……参ったね。まさかキミ一人に部下のほとんどを無力化されてしまうとは」
少し遅れて、バル様とミナミが駆け寄ってきた。
「マコ、驚いたぞ……! いつの間にそこまでの魔力を身につけた!?」
「さっすがマコ、うまいことやったね。血が流れるのなんて、わたし見たくないもん」
「二人のおかげだよ。ボク、わかったんだ。大切なモノと守りたいモノが何かって。だから強くなれたんだと思う」
ボクは目を
……うん、もう大丈夫。
今は魔法で
だけど、一気に魔力を使いすぎたせいで少しお腹が
「なーんか、雰囲気変わったね、マコ。大人っぽくなったっていうか……。色っぽくなった~?」
ミナミが、ボクの脇腹を小突いてきた。
「そ、そうかな? ……どう思います、バル様?」
「なッ……どうって──」
彼は、どきりと緊張した声を出した。
ふふふ、初対面の時とはまるで逆だ。
ノージェさんが、ため息とともに口を開いた。
「そんな顔もするんだね、バルフラムさん。私には魔王の顔しか見せてくれなかったってわけだ」
「やはりオマエは信用ならないやつだったな、ノージェ。マコが許さなければ消し炭にしてやったところだが……特別に勘弁してやろう」
「……はは。恩にきるよ」
ミナミが寂しげに声をかけた。
「残念だな、ノージェ。わたしは……あんたが語ったっていう未来が、少し楽しみだった」
「今の私には、実現する力が無かった。それだけさ」
数十人の兵士たちは折り重なって、一様に寝息を立てている。
ああ、よかった。
一滴の血も流さず、彼らを
バル様とミナミは、ホッとしたように笑いかけている。
安心して、一気に力が抜けた。
やっぱりボクには、この居場所があれば十分なんだ。
「……では、ボクたちはこれで失礼します。できれば、もう争いたくないです」
ボクはしゃがみこんで、ノージェさんに別れを告げた。
「仕方ないが、今回は引き
「……?」
──ノージェさんは手元に何かを隠している。
その紫色の瞳には、再び”反撃の意思”が
「我々は、
足元に、ちかちかと青白い光を放つ球体が転がった。
ずっしりと重い、金属製の機械みたいだ。
「
「いいや、もう遅いね」
から、ころろ……。
乾いた音を鳴らしたのは、
「
何故そんなものを持っていたのか、何故こんなことをするのか、問いただすまもなく。
ノージェさんは既に、それを起動していた──
「マコ、下がれッ!!」
大きな影が、目の前に立ちふさがった。
──カッ、ピシャァン! ドドド、ゴォッ……ン!!
「うあッ!?」
雷鳴と、爆発。
──パキ、パキキィッ……!
手の中に
……。
激しい光と音はすぐにおさまった。
特に怪我はしていない。
息を切らした様子のノージェさんは、変わらず地面にへたり込んでいる。
老魔術師の姿は
「今のは、一体……?」
「……周囲の
「えっ──」
──ドシャッ……。
ぷつりと糸の切れた
爆弾が
「バル、様……?」
手足は、あらぬ方向へ投げ出されている。
口をぽかんとあけ、薄く開いた瞳は
彼はぴくりとも動かない。呼吸すらしていない。
よくできた、ただのマネキンみたいに。
「……うそ? うそですよね……バル様。……やだな、
いくら揺さぶっても、何の応答もなかった。
時間が止まっているみたいに、何も感じなかった。
あまりにも静かで……。
魂の波動すら、そこにはなくて。
「ねえ……ねえったら──!!」
黒い首輪が、
それが、彼の肉体と魂を
心臓を
風に乗って、黒い
どんな魔法を使っても
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