後編
月曜日は一時間目から英語の授業。川田先生の担当教科だから休み明けでも全然辛くない。
ジャージ姿のだらしないおっさん教師と違い、ピシッとネイビーブルーのスーツとえんじ色のネクタイをキメた川田先生の一挙手一投足はスマートで、私をドキドキさせる。
「ここでじゃあ、今津さん」
「え、は、はいっ」
川田先生は質問を投げかける前に、席順や名前順に関係なくランダムに指名してくるのが特徴的だった。
「『あなたは桃川出身ですか?』を英語で言ってみてください」
「はい。あー……」
"Are you from Momokawa?"
"Good. So, Ms. Imazu, are you from Momokawa?"
"No. I am from Mitsuba."
"Very good!!"
川田スマイルが炸裂する。ドッドッドッドッ。今、血圧と脈拍を測ったらとんでもない値が出そうだ。その後は先生の言うことが全く頭に入ってこなかった。
放課後。終礼が終わると私は真っ先に川田先生のところに歩み寄った。
「どうしたの今津さん?」
「あの、話したいことがあるんですけど……二人きりで」
「わかった」
川田先生は私を相談室に連れて行った。生徒の悩みを聞き入れられるよう設けられた部屋である。本来ならいじめとか家庭の事情とか深刻な内容を伝えるのに使われなければならない場所なのに、私の身勝手なことで使うのに少々罪悪感を覚えた。
「どうぞ座って」
川田先生が円形のテーブルから椅子を引いてくれたので、私はゆっくりと座って、深呼吸した。
「相談って何かな?」
「あの……」
ありったけの勇気を振り絞った。
「私、先生のことが好きになりました。つきあって頂けますか」
「……」
川田先生から笑みが消えた。一気に胃が締め付けられるような感覚が襲ってくる。
口元がわずかに動いた。
「実は先生も、今津さんのことがずっと気になってたんだ」
「えっ!? ってことは……」
「そういうこと」
高揚感がダムから放水された水のように、どっと押し寄せてきた。
やった。やったぞ。私は膝に置いた両手を握りしめた。
「でも教師と生徒、ましてや君は小学校を出たばかりだ。リスクは承知してのことだね?」
「は、はい! 覚悟はできています」
「そうか。僕もできている」
川田先生の笑顔が私の心を容赦なく蕩かしに来る。その笑顔のまま立ち上がって、私の側に来た。
「じゃあ、君の覚悟のほどを試そうかな」
川田先生の顔が近づいてきた。
これはもしや……キス? いきなりそこまで行ってしまうのか。いやでも、先生と恋人どうしになるんだったら遅かれ早かれ体験すること。いや、けれど……。
「ふふっ。やっぱり今はやめとこう。周りの目があるからね」
川田先生はすんでのところで、顔を離した。私は安心した反面残念でもあり、何とも言えない複雑な感情を抱いた。
「先生……」
「そんなおあずけを食らった子犬みたいな顔をしないで。次の土曜日、空いているかな?」
「ど、土曜ですか?」
「どこかドライブに行こうか」
「……」
天にも昇る心地というのは、こういうものなのだろう。とにかく今だったら何かイヤなことがあっても許せてしまうような、多幸感に包まれた。
私は先生と連絡先を交換して、スキップしながら帰宅した。その小一時間後だったか、陽子が帰宅するのが部屋から見えた。
「よっ、おかえりー!」
物理的にも上から目線で出迎えてやった。姉妹喧嘩以来口を聞いてなかったが、陽子は変な顔で私を見上げて、何も言わず自分の家に入っていった。
私は陽子とは違う。恋愛をして真人間になるんだ。
*
土曜日。生まれて初めてのデートということで何を着ていくかいろいろ迷っていた。もちろん義親には友達と遊びに行く、と説明している。
「どれにしようかな~」
頭の中が川田先生のことで一杯になっている状態でいろいろ服を手にとって姿見に映している最中、義母がノックもせず私の部屋に乱入してきた。
「ちょっと、いきなり何!?」
「美月、大変よ!」
義母の顔からは血の気が失せている。
「陽子ちゃんが学校で倒れて病院に運ばれたって!」
「えっ、ええっ!?」
緑葉女学館は土曜日も午前の間は授業がある。一時間目の授業が終わった直後に腹部に激痛を訴えて、そのまま倒れたらしい。
義母のうろたえようは尋常でなかったが、それには理由がある。義母は結婚したての頃に卵巣がんに罹った。陽子と同じく腹部に激痛を覚えて病院に運ばれてがんが発覚したのだ。幸い手術は成功したものの、その代償として子どもを産める体ではなくなった。だけど私が養子に入ることで母親になることができたのである。
卵巣がんはごくまれに十代でも発症すると聞いている。
憎たらしく頭がおかしい陽子でも、血を分けあった姉妹に変わりはない。私は当然、川田先生よりも姉をとった。動きやすい服に着替えて、義父の運転するタクシーに乗った。どうせ客はいないから、と融通を効かせてくれたのだった。
捕まらない程度に車を飛ばして病院に向かうと、早速医師のところに案内され、説明を受けた。
「急性虫垂炎ですな」
がんではなかった。しかし虫垂の炎症が酷くて手術と入院が必要だという。深刻な事態ではあるものの、がんと違って手術すれば確実に治る。私たちはひとまず胸を撫で下ろした。
状況が落ち着いたところで、私はトイレに行くふりをして川田先生に電話をかけ、事情を説明してデートの延期を申し出た。
『わかった。お姉さんの方を大事にしてあげなさい』
「すみません、本当にすみません」
『気にしないで。僕もお姉さんの回復を祈っているよ』
先生の優しい声色が心にしみた。
デートは逃げないんだ。陽子が回復したら改めて。そう軽い気持ちで考えていたが……。
休み明けの月曜日。陽子の手術は上手くいって、学校から帰った後に私もお見舞いに行くことになった。これを良い機会に、仲直りしようとも考えていた。陽子の言葉はムカついたが、間違ったことは言っていない。恋愛は諦めないけれど、私のことを思っての言い草だということは認めてあげないと。その上で私の意志の強さをもう一度伝えよう。
中学校までは徒歩で通い、この日もいつもと同じ時間に出て同じ時間に着く。だけど正門前の様子はいつもと同じではなかった。異様な雰囲気に包まれていた。
停まっている数多くの車。腕章をつけカメラを構えてうろうろしている人間。マイクを持っているスーツ姿の人間。
「なに、これ」
呆然としていたら、カメラマンとスーツ姿の人間が近づいてきた。
「すみません、一言お聞きしたいんですけれどー」
スーツ姿がマイクを口に押し付けるように近づけてくる。
「やっ、何ですか!」
「おい、やめろ!」
居合わせた体育の先生が引き剥がしにかかった。
「早く校内に入りなさい!」
「はっ、はい!」
私はダッシュで正門を突っ切った。
教室に入ると、空気が全然違っていた。いつもだとSHRが始まる前までのんきに駄弁っているのに、無言で殺伐としている。
「ちょっと、一体何があったの!? 外がとんでもないことになってるけど」
クラスメートの女子の一人が答えた。
「美月ちゃん、新聞読んでないの?」
「読んでないよ」
私は新聞も読まなければテレビでニュースも見ない。クラスメートが何か言おうとしたとき、教室のドアが開いて教師が入ってきた。
川田先生ではなく、みんなから嫌われているいやみったらしい数学教師だった。
「挨拶はいいからみんな座れっ!」
声が震えている。しかもまだ春なのに汗をかいている。数学教師は全員座ったのを確認すると、意地悪く斜めに歪んだ口を重苦しく開いた。
「えー、みんなもう知っているかと思うが……川田先生が警察に逮捕された」
「けっ……」
鈍器で頭を殴られたような、陽子が倒れたと聞かされたとき以上の衝撃が私を襲った。
「みんなショックだろうし、落ち着けと言っても無理だろうが、本日の授業は通常通り進める。外ではマスコミが張り付いているが質問されても一切受け答えしないこと。いいな?」
みんなか細い声ではい、と答えると、数学教師は出ていった。さっき話しそびれたクラスメートが私に近寄って、こう言った。
「川田のヤツ、実はとんでもない変態だったんだって」
クラスメートは容赦なく私の川田先生像をズタズタに切り刻んだ。
曰く、土曜日の晩、川田は出会い系サイトを使って知り合った女と桃川のホテルに行った。
曰く、川田は女を殴り倒して、ビニール袋を女にかぶせて窒息プレイを楽しんだ。
曰く、警察に通報された川田は車で県内を逃げ回っていたが、あえなく夜中に捕まった。
ディスカウントショップでレジ袋を買っていた川田先生の姿が頭の中で再生される。続いて相談室で私の告白を受け入れてくれたことが。その場で土曜日にドライブデートの約束を交わしたことが。
もしデート当日、陽子が倒れていなかったら、車の中、あのビニール袋で、私が……。
「う、うぐっ……」
逆流した胃液が私の口を押し開いて、たちまち机と床を汚した。みんなの悲鳴が聞こえる前に私の意識は飛んでしまっていた。
*
気がつけば保健室で寝込んでいて、義父にタクシーで迎えにきてもらってそのまま家に帰ることになった。そのまましばらく自室で寝ていたら若干気分が良くなり、頭も少しずつクリアになってきた。
ふと、陽子の憎たらしい顔が浮かんできた。急に恋が終わったことへの悲しさ悔しさではなく、姉の忠告を聞かなかった自分への腹立たしさが涙を流させた。
陽子に早く会いたい。謝りたい。
私はゆっくり身を起こした。ふらつくけれど、陽子の姿を見たら元気になれる。そんな気がした。
夕方、実親と義親に無理を言ってお見舞いに同行させてもらった。陽子は六人部屋の窓際のベッドで、周りをカーテンでシャットアウトして点滴を受けながら本を読んでいたけれど、私を見るなり「よっ」と片手を上げた。元気そうだった。
「陽子……」
「悪いけど、美月だけと話したいことがあるからみんな五分だけ席を外してくれるかな」
もう、陽子は全て知っていることだろう。実親と義親が出ていくと、私はすぐに謝った。
「陽子、ごめん。私が間違ってた」
「ニュースで見たが、結構な数の女を騙して無理やり変態プレイをしてたらしいな。お前が無事で良かった」
「陽子ぉ……」
私は顔をくしゃくしゃにしながら、姉に抱きついた。頭を優しく撫でる手が暖かかった。
陽子に洗いざらい告白することにした。
「実は土曜日、川田先生とドライブデートするって約束してたんだ。でもたまたま陽子が倒れたおかげで……」
「うおお、マジかよ。間一髪じゃん。盲腸さまさまだな」
陽子は右の下腹部をさすった。
「学校では何もされなかったか?」
「うん。だけど、キスしかけた」
未遂で終わったけれど、思い出しただけでまたうぐっ、と吐き気がした。私は一言断って、台に置かれていた水差しの水を飲んだ。
「ごめん、陽子の水なのに」
「いいよ。美月から水分補給するから」
「!?」
全くの不意打ちだった。陽子がいきなり、私の口を塞いできたのだ。
「んんっ……」
舌も入れてきて、私のに積極的にからめ、唾液を吸い取ろうとしてくる。電気を流し込まれたように、体がしびれてくる。妹相手なのに全く容赦がない攻撃だった。
これがキスというものか。
陽子がようやく解放してくれた。
「よ、陽子……何でいきなりこんなことを……」
陽子の口周りは唾液にまみれてぬらぬら光っている。当然、私の口周りもベトベトだ。
「トラウマになったろうから、払拭してやろうと思ってな」
「だからって……私も陽子にとっても貴重なファーストキスだったのに!」
「ああ? そんなもん姉妹同士だからノーカンだろう」
陽子はあっけらかんと笑う。妹のファーストキスを奪った上にそんなもん、の一言で済ませてしまうなんて。やっぱり頭がどうかしている。
でも、すごく気持ちが良かったのも事実だ。私は舌で唾液を拭い取った。
「陽子、本当に初めてだったんだよね? 何かその、慣れている感が……」
「ああ。友達に色事に慣れてるのがいてな、私が聞いてもないのにテクニックを自慢するもんだから試してみただけだよ」
「そう……てか、友達いたんだ」
「失礼なヤツだな。学校に一人や二人ぐらいウマの合うのはいるっての。それよりもだ」
陽子はさっきまで読んでいた本を差し出した。
「一通り読んだから貸してやる。こいつを読んで二度と変なヤツに騙されないようにしろよ。」
「『あなたの身近にいるサイコパス』ね……」
正直、陽子だってそのケがあるだろう。でも、聖職者の皮をかぶっていないだけ川田よりマシだ。
この本には川田みたいなのが事例で載っているらしいから、私は借りることにした。陽子から本を借りるのはもちろん初めてだった。
「ちゃんと読むよ」
「ああ。じゃ、そろそろみんなを呼んできて」
私は実親と義親を呼びに向かった。
口の中の陽子の生暖かい感触は、しばらくの間忘れることはなかった。
*
とある土曜日。私は三つ葉駅まで陽子を見送りに行った。普段はこんなことしないけど、たまたま朝早く目が覚めたものだから散歩がてらついていくことにしたのだ。
「美月、眼鏡ズレてる」
陽子の手が私の眼鏡の位置を直してくれる。
私は眼鏡をかけるようになったが、視力は落ちてないからレンズに度は入っていない。フレームの形は陽子のと同じで、色は緑色。
私は陽子みたいになりたいわけじゃない。でもあの日陽子にキスされてから、通常の姉妹愛とは違う感情を抱くようになってしまった。そんな私の複雑な気持ちが、色違いの伊達眼鏡に現れていた。
「しかしお前の眼鏡の色を見てたら私ら、マリオとルイージみたいだな。赤と緑のきょうだいで」
「むしろ赤いきつねと緑のたぬきじゃない? 陽子、狐みたいなところがあるし」
「じゃあお前はたぬきみたいなヤツなのか」
人がまったくいない土曜日の三つ葉駅舎の前で、私たちの笑い声だけが響いた。
『間もなく、1番線に電車が参ります。危険ですからホームの内側にお下がり下さい』
放送が聞こえてきた。
「よっしゃ、今日も一日お勉強してくるか」
「頑張ってね、お姉ちゃん」
声色を使って上目遣いしてやったら、陽子は「キモっ」とわざとらしく身震いした。それから片手を上げて、改札口を通っていった。
帰りもお出迎えしてあげよう。
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