賢姉愚妹

藤田大腸

前編

 東美とうび市三つ葉町。人口二千人少しの山間にあるこの地域に一人の女子がいた。


 彼女はとても頭が良く、幼稚園に入る前から自分のフルネームを漢字で書いていたし、四則計算もお手の物だった。神童と讃えられてもおかしくなかったのだが、周りはそうしなかった。なぜかというと、頭がかなり良すぎるヤツにありがちなのだが、性格面がいろいろと残念なことになっていたからである。


 この子は私の知っているだけでも十本の指で数えられないぐらいの悪さをしてきた。例えば背中にこっそりミミズを入れて泣かす。お手製エナジードリンクと称して烏龍茶にそこら辺に生えていた雑草を粉末状にすり潰して混ぜたのを無理やり飲ませて下痢にする。犠牲者は主に男子だった。偉そうにしているヤツは例外なく犠牲になった。


 こうして小学生に上がる頃には女ガキ大将として君臨し、周囲の小学生からは九割方の恐怖と一割方の畏敬を持たれていた。だからガキ大将が地元の三つ葉中学校ではなく、やや遠く離れた私立の緑葉りょくよう女学館に進学すると知ったときは、みんな圧政から解放された市民のように喜んでいたものだった。


 この女ガキ大将こそが私、今津美月いまづみづきの実の姉の陽子ようこである。


 実の姉、とわざわざ強調するには理由がある。陽子とは戸籍上では従姉妹同士の関係になっているからだ。私は陽子の実父の弟夫婦の籍に入っている。義両親はある事情で子宝を授かることができなくなっており、実父が産まれたばかりの私を弟夫婦のところにやったのだ。


 養子と言っても義親とは血縁関係はあるし、実親の家は私の家と隣同士だからお互い気軽に行き来できる環境にある。だから生い立ちについて全く意識したことはなく、実親と義親双方から育てられたのと同じだった。もちろん、陽子と一緒に過ごすのも実の姉妹とほとんど変わりなかった。


 しかし破天荒な姉の存在は、私の人間関係に良くも悪くも影響を与えた。みんな陽子を恐れてか実妹の私に対してもどこかよそよそしい態度で接するし、家に呼んで遊ぶことなどできなかった。「今津の子に関わるな」と親に注意された子もいたぐらいだから。


 一応、得をすることもあった。例えば教室の掃除をサボって動こうとしない男子に「陽子に言いつけるぞ」と一言かければ慌てて動き出し、気の弱い子がいじめられようものならこれも「陽子に言いつけるぞ」の一言で鎮静化したものだ。今津陽子の名前は祟り神のような絶大な効果があった。


 だからあの頃の陽子とは、つかず離れずの距離感で接していた。


 そんな陽子が、緑葉女学館に通いだしてからというもの小学生時代よりもイキイキしだした。理由を聞いてみたら、


「あの学校は全く最高だ」


 と。緑葉女学館は自由闊達な校風で知られている。だからか、生徒も陽子みたいなのがゴロゴロいるらしくて性に合っているという。それに一学年四クラスと、都会の学校に比べたら小規模だが一学年一クラスしかないこの過疎地の学校に比べたら大規模である。質的にも量的にも刺激的で、ある程度の奇行蛮行も許される。陽子に取ってはエネルギーを発散できる天国のような場所なのだろう。


 陽子は緑葉に通いだしてから本に熱を入れはじめた。だけどその内容が漫画やライトノベルではなく、とにかく尋常ではなかったのだ。


 ある日、勉強を教えてもらおうと陽子の家におじゃまして部屋に上がったときだった。


「なに、これ」


 当時、小学四年生だった私には難しいというか、理解しがたい本がずらりと本棚に収まっていた。


『日本の死刑囚名鑑2013年版』

『少年犯罪を紐解く』

『法医学と殺人事件』...etc


「それ、全部読んじまったから持って帰っていいぞ」

「いらないよ……漫画はないの?」

「親父のお下がりならあるぞ。そっちの棚に」


 見たら、『ゴルゴ13』や『風の大地』とかがずらりと並んでいた。有名作品らしいけれど十三歳の女子が好んで読む漫画ではない。全く姉の好みがわからなかった。


「そんでも私のオススメはやっぱ『法医学と殺人事件』だな」


 陽子はそう言いつつ、『法医学と殺人事件』を手にとってページをめくって見せつけてきた。


「!!」


 大の大人でも目を背けたくなるような写真が目に飛び込んできて、私は声にならない悲鳴を上げて目を覆った。


「変質者に殺されバラバラに切り刻まれてホルマリン漬けにされた犠牲者だ。でも顔のところだけはめっちゃ綺麗だろ?」

「そんなの読みたくない!!」


 私はたまらず逃げ出した。笑い声を浴びせられたが構わず家を飛び出して、隣の私の家の部屋に戻ってカギをかけた。


 陽子は狂っているんじゃないか。


 私は部屋の中で震えていたけれど、結局その日、陽子が家に入ってくることはなかった。


 だけどさすがにこのときばかりは義父に相談を持ちかけた。


「陽子の頭がおかしくなっちゃった」

「そんなこと言うもんじゃないよ」


 義父がたしなめた。今どきパンチパーマで顔もいかついけれど、根はとても優しい人である。


にいも相当変人だからなあ、その影響を受けたんだろう」


 とは言うもののパンチパーマのせいで説得力が若干欠けている。


「でも、あんな恐ろしい写真を平気で見ていられるのはおかしいって」

「陽子ちゃんは肝っ玉が人一倍大きいだけだよ。さて、父さんは今から一稼ぎしてくるから早く寝るんだぞ」


 義父は席を立ち、家を出て行ってしまった。実父が運営しているタクシー会社で運転手を勤めていて、この日は夜勤だった。といっても親族経営の零細会社の上、夜間に地元住民が利用することは滅多にない。もちろんこれで食べていけるはずがないから、稲作もやっている。昔はこっちが本業だったらしいが。


 義父の言うことは信じられなかった。私はまた、部屋にカギをしっかりかけて誰も入れないようにした。それでもあのグロテスクな(という表現は事件の被害者には心底申し訳ないけれど)写真が頭からチラついて離れず、一睡もできなかった。


 翌日、庭の草むしりを手伝っていたら生け垣から陽子が「よっ」と顔を出してきて、ケロッとした態度で私に接してきた。あんな酷い目に遭わせておきながら腹が立ったが、そうしたところで態度が改まるわけではなし。いつも通りの態度で臨んだ。


「陽子、何であんな怖い本ばっか集めてんの?」

「猟奇殺人に興味があるからさ」


 ニヤリと笑う。私は身を震わせた。


「言っとくけど、殺人欲求は一切ないからな。そこまで頭のネジは飛んでない」


 自分でも頭がおかしいことを自覚しているらしい。余計にタチが悪いタイプじゃないのか。


「何で人間ってのは必要以上に残酷になれるのか。興味があるのはそこなんだ」


 陽子は、私の頭では追いつかないぐらいに難しそうなことを考えているようだった。私が十三歳になったときに同じことを考えられるだろうか。いや、無理だ。


「あっそ」


 素っ気ない返事をして、草むしりを続けた。陽子みたいなおかしい人間だけにはなりたくなかった。


 *


 陽子は相変わらず奇妙な本を集めては乱読していたけれど、小学生時代によくやっていた身体的被害を与えるようなイタズラは全くしなくなった。そして三年間過ごして前期課程修了、一般的に言う中学卒業を無事迎えた。


 同時に、私も小学校を卒業して公立の三つ葉中学に進むことになった。そのお祝いという名目で親戚一同が陽子の家に集まって、その実お酒を飲んでバカ騒ぎをしまくっていた。


「竜ちゃん、グラス空いてるぞー」

「おお陽子ちゃん、気が利くねー」


 短い茶髪の男性が赤ら顔でグラスを差し出すと、陽子はビールを丁寧に注ぎ見事な泡立ちを作った。


 この男性は又従兄にあたる竜ちゃんこと竜一りゅういち君で、三つ葉町を出て栗木市の工業地帯で働いている。まだ二十歳はたちを迎えたばかりで数多い親戚の中でも私たちと一番年が近いが、すでに結婚して一歳になる子どもがいた。子どもは奥さんともども留守番でこの場にいなかったが、それを良いことにガブガブ酒を飲みまくっていた。


「陽子ちゃんさー、彼氏いんの?」

「あーいないいない」


 陽子が手を振ってソッコーで否定した。


「女子校で異性との出会いなんか無いって。同性から告られたことはあったけど」

「えっ!?」


 私もえっ、と叫びそうになった。そんな話聞いたの初めてだ。


「女子校ってやっぱそういうのあるんだな。で、どうしたんだ?」

「んなもんお断りよ。異性だろうと同性だろうと恋愛に興味ないし」

「えー、もったいなっ」


 顔は悪くない。いや、むしろ良いと言っていい。その良い顔には赤いフレームの眼鏡がかかっていた。読書に熱を入れ過ぎて視力が落ちたためというのが本人の談だったが、とにかく赤い眼鏡姿は陽子にしてはオシャレで、知的と言うよりは明るい印象を与える。共学校に進んでいたら男子の目を引いていたかもしれない。


「美月ちゃんはどーよ?」

「え、私?」


 まだ小学校を出たばかりの子どもにはちょいとばかり早い質問じゃないかという気はしたけれど、ちゃんと受け答えした。


「今のところ周りに気になる男子はいないかな」

「そっかー。だけどふとしたきっかけで恋愛に発展することがあるからな。俺も中二の頃に部活仲間の同級生と急に仲が深まってそこから彼女になってだな」

「それから、できちゃった結婚するまで何人も手を出しまくったと」


 陽子がからかうと、「コラ」と頭を軽く叩かれた。とはいえ奥さんとは非常に仲良くやっている。


「でも、しょうもない男だけには引っかかってくれるなよ。陽子ちゃんも美月ちゃんも」

「だいじょーぶ。竜ちゃんみたいなのに気をつけときゃいいんでしょ」

「コラ!」


 竜ちゃんがまた叩くと、陽子は舌をペロリと出した。興味ないとは言うものの、元々あの変な性格では恋人を見つけるのは難しいだろうなとは思っていた。


 逆に、私は恋愛願望があった。それには今津美月という人間は姉とは違うんだ、私は恋愛ができるまともな人間なんだ、と証明する目的もあった。


 だけど恋愛は多分、地元にいる限りは難しいと思っていた。周りの男子はみんな私の姉、今津陽子の存在を恐れている。チャンスがあるとすれば高校からだろうと思っていた。田舎特有の情報網で三つ葉町以外にも今津陽子の存在が知られていなければ、の話だが。


 しかし恋愛のチャンスは意外と早くやってきたのだった。


 *


 三つ葉中学は一学年につき一クラスしかなく、クラスの人数も私を含めて十五人しかいない。そのクラスメートも幼稚園から七年間ずーっと同じ顔ぶれで、何の新鮮味もない。変わったのは私服からイートンジャケットの制服になった点だけ。男子は詰め襟。みんなで着慣れない制服についてあーだこーだと言い合っていた。


 担任の先生は誰になるのだろう。何せ一クラスしかないので下手したら三年間一緒に付き合わなければならないから、悪いのに当たったらどうしようかと不安になっていた。


 先生が入室した途端、不安は一気に吹き飛んだ。


「みなさん、おはようございます」


 見た目はまだ二十代前半の若い男性教師。少女漫画から飛び出てきたようなイケメンで、私も他の女子も、男子ですら感嘆の声を上げた。


 先生が自分の名前を黒板に書き記す。


「一年生クラスを担当する川田優かわだすぐるといいます。担当教科は英語です。先生も今年三つ葉中学に赴任してきたばかりですので、その点みなさんと同じ一年生です。三年間よろしくお願いします」

「先生!」


 男子の一人が手を上げた。


「何でしょう?」

「彼女いるんスか?」


 いきなりデリカシーの無い質問を飛ばしたものだから、私はその男子を睨みつけ、目があった男子は縮こまった。私の姉の幻影を見たか。


「ははっ、そこはお察し下さいとしか答えられないね」


 先生は爽やかな笑顔で受け流した。それを見た途端に、私の心臓がバクバクバク、と大きく動き出した。


 この正体はきっと、そうに違いなかった。


「せっ、先生!」


 気がついたら、私は手を上げていた。


「何でしょう?」

「あっ、その」


 ふと我に返る。何でもいいから先生と会話したいという一心が無意識的に私の手を上げさせたのに違いないのだが、肝心の質問内容を考えていなかった。一秒、二秒と時間が経つたびに気まずくなってくる。何か、何か質問を……。


「あっ、せっ、先生はどこ住まいですか?」


 ようやく出てきた。


「今は清和町せいわちょうだよ。生まれは桃川で大学は愛知の方で、教員免許取ってからまた桃川に戻ってきて、今年から清和町に赴任したんだ。行ったり来たりだね」


 ニコニコ笑顔で必要以上の情報を回答してくれた。


 そこから時間の許す限り質疑応答の応酬となり、川田先生はどの質問にも誠実に答えてくれた。その内容を、姉より数段劣る脳に叩き込んでいく。人物像が固まっていくにつれて、心臓の鼓動はどんどん高まっていった。


 私の初恋の相手は男性教師だった。これが後に蒸し返したくないぐらいの痛々しい思い出になろうとは、このときの私には知る由はなかった。

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