のじゃロリ吸血鬼さんはチューチューしたい2

かま猫

リザ


日本のとある都市に暮らす美大生、早見仙一郎は偶然出会った吸血鬼アルマに気に入られ居候される羽目になる。ひとつ屋根の下に暮らす貧乏学生とポンコツ少女。二人は色々なトラブルに巻き込まれるなど騒がしい毎日を過ごすこととなる。

そんなある日、仙一郎はアルマを敵視する吸血鬼リザに拉致されアルマと共に窮地に陥るが、すんでのところで絶体絶命の危機を乗り越え、騒動は一件落着となるのであった。




駅のホームに降りると雲ひとつない薄暮の空が橙色から群青色へ見事なグラデーションを描いていたので仙一郎は思わず見上げたままたたずんでしまった。一人日帰りでスケッチ旅行に遠出した帰路、いつも利用するターミナル駅の手前、上り電車に乗る時はアパートから近いその駅で降りることがたまにあった。

しばらく人影もまばらなホームに立ちつくしているとズキズキと痛む足の痛みに彼の心は現実へと引き戻される。

あの夜、廃工場で吸血鬼どうしの殺し合いが繰り広げられたあの夜からすでに一週間。ナイフで刺された足の治療と大量出血の処置で数日入院するはめになってしまったが思いのほか傷の治りは早く、今はたまに痛む程度でもう普通に歩けるまでには回復していた。

ここ数ヶ月、そんな物騒な騒動に巻き込まれたり、出費がかさんでアルバイトを増やしたりと忙しない毎日が続いて疲弊するなか、スランプにおちいって絵のアイデアが浮かばずにいることが最近感じている陰鬱な気分に拍車をかけていた。今日の遠出もスランプ脱出と気分転換を兼ねてのものだったのである。


空もすっかり色を失い、仙一郎がそろそろ帰ろうかと思っていたときのこと、それは初め耳鳴りのようであったが次第に明瞭になり女性の歌声へと変化した。静かなホームに漂う耳慣れない言葉で歌われる哀愁を帯びたメロディに思わずあたりを見回すと十メートルほど離れたべンチに座るセーラー服の少女に気づく。

どことなく清楚さを感じさせる容姿にサイドテールを留めた水玉のシュシュが鮮やかな少女は目を閉じ片手を胸にあて、かすかに空を仰ぎ歌っている。素人目にも凄く上手いというものではなかったが、その歌にはどこか心に響くものがあった。

仙一郎は心地よくしばらく聞きいっていたが歌う彼女の物憂げで寂しそうな表情に不穏な空気を感じ、今いるこの駅が全国でも有数の自殺の名所であることを思い出す。そう連想してしまうともうどうしようもなく、ホームに入ってくる電車に飛び込む彼女の姿を思い浮かべてしまい、彼は思わず声をかけてしまった。

「良い歌だね?」

彼女はびっくりしたように目を見開いて仙一郎を見上げる。

「あ…ありがとう…ございます…」

確かに駅のホームで突然、見ず知らずの男に声をかけられたら不審に思ってもしょうがない。

「かわった曲だけど何て…」

「ゲール語の…アイルランドの伝統的な曲なんですよ。好きな曲なんです。」

彼女の表情が緩む。

「へぇ…。」

彼は相槌を打つが、その後が続かない。どちらかと言えば人付き合いの良い方ではないし、まして見ず知らずの少女と、どう接したらいいのか見当もつかない。後先考えずに話しかけてしまったが、どう話題を広げたら良いものか考えあぐね立ちつくしていると彼女が口をひらく。

「あの…もしかして私が自殺するんじゃないかとか心配してくれました?」

「うん、まあたぶんそんな感じだと思う。」

見事に見透かされ気恥ずかしさにしどろもどろになる。

「ありがとうございます。大丈夫!もう飛び込んだりしませんよ。」

「そっか。それなら、よかった。」

「最近は他人に無関心な人が多いのに…良い人なんですね。」

「そんな、出しゃばって迷惑だっかかな?」

「いえ!いえ!全然!それより少し話しませんか?」

少女はそういうとパタパタと座っているベンチの隣を軽くたたいた。

彼女の名前は小田美咲、ここから一時間ほどの湾岸都市に暮らす高校生だという。嫌なことがあったときなどに色々な場所で歌うのがストレス解消法で今日は偶然ここで歌っていたらしい。

話すうち彼女は仙一郎が美大生だということに興味を示して色々と尋ねてきたが実に聞き上手で、仙一郎は吸血鬼の件を除いて諸々、悩み事までも吐露していた。

気づけば何本かの電車が通り過ぎ、かなりの時間が経ってしまい慌てて帰ることに。

「早見さん、スランプ早く抜け出せると良いですね。」

「ありがとう。なんか逆に俺が元気づけられちゃったね。」

笑顔で手を振る美咲に仙一郎は右手を上げて応えると帰途につく。何度か振り返ると彼女はいつまでも手を振り彼を見送っていた。


「遅かったのぉ…」

仙一郎がアパートに帰るとアルマはベッドにうつ伏せのまま不機嫌そうな声を上げる。たぶん、帰りが遅れた理由は黙っていても話しても因縁をつけられるのが確実だったので正直に話すことにした。

ベッドの前に正座して枕に顔をうずめたままのアルマに声をかける。

「えっと…ちょっと駅で話し込んでて…女性と。」

長い髪を揺らして上半身をゆっくりと起こして不機嫌そうな顔で仙一郎を睨みつける。

「おなごじゃと?」

彼女が、いつにもましてご機嫌ななめなのには訳があった。先の騒動で失血死寸前だった仙一郎は当然、輸血することになったのだが、それが仙一郎の滋味豊かな血の味を濁らせ、ここのところ彼の血を吸えずにいたからだ。

輸血で他人の血が混じるというのは、例えるなら、最高級ワインに安物のワインをぶち込んだみたいなもので仙一郎の味を知っているグルメなアルマにとっては我慢できないものらしく血が落ち着くまで飲めないとストレスを溜めていた。

「それが凄く歌が上手くて人当たりが良い学生さんで、つい盛り上がっちゃってさ!べ…別にやましいことはしてないぞ!」

アルマが烈火のごとく怒りだすと思って両手で防御を整えるが彼女は考え込むようにつぶやく。

「歌…女学生…」

そして問いただす。

「それは西桑都駅でか?」

「うん…それが?」

答えると彼女はベッドから跳ね起きて言った。

「すぐ出かけるぞ画学生!支度せい!」


そしてアルマは駅へ行くと言い出すと新しい夏用ゴスロリ服に着替える。それはストレス発散のために仙一郎に買わせた、ほとんどセパレート水着のような足もお腹も丸出しの熱帯夜にはピッタリの服だったが何でこんなに布面積が少ないのに高価なのかと彼を驚愕させた一品でもあった。

アルマに強引に引っ張られて駅へと向かう仙一郎は彼女が

「予の食料に手を出すな!この泥棒猫が!」

と美咲に喧嘩を売りに行くのかとも思ったが、この時間ならもう彼女は家に帰っているだろうから心配はしていなかった。

ひと気のない駅に着き自動改札をぬけ階段を下りホームにたどり着くと思いがけず美咲はベンチに座っていた。驚いた彼は駆け寄って声をかける。

「まだ帰ってなかったんだ!」

「あ!あははは…」

彼に気づいた美咲は照れ笑いを浮かべる。

「もう終電近いのに。」

「うん!まあそうなんですけどね…」

奥歯に物が挟まったような返答に終始する。

そのやり取りを後で聞いていたアルマが突然声を発した。

「画学生!その小娘の胸を揉め!」

「は?」

あまりのことに仙一郎が振り返るとアルマは腕を組んで意地悪そうにニヤニヤしている。

「いきなり何を言って?」

仙一郎が、あたふたとしているとアルマがせっつく。

「ほら!早くせんか!」

振り返って美咲を見ると、彼女は我が意を得たりといった表情で言う。

「どうぞ!イイですよ!触って下さい!」

まったく意味が分からない展開に仙一郎が固まっているとアルマが楽しそうに追い打ちをかける。

「ほれ!ほれ!その小娘もイイと言っておるんじゃ!ガッと行かんかい!ガッと!其方も乳は好きじゃろ?」

必然、触ってくださいと言わんばかりに身体を反らしている美咲の胸に目が行く。大きいとは言えないまでもセーラー服の上からでも分かる膨らみに生唾を飲み込む。

「予もその小娘も許しておるんじゃ!早く揉まんか!」

そう!アルマに命令され美咲も受け入れてくれてるから揉むのだ。いやらしい気持ちで揉むんじゃない。自分の意思じゃない。仙一郎はそう心の中で自分に言い聞かせる。

「分かったよ!やるって!」

座る美咲の前に片ひざをついて胸に手を伸ばす。

「じゃっ!じゃあ触るよ…」

「ん!」

美咲が目を閉じる。仙一郎の震える手が胸に触れる。確かに触れた。と思った手は何の感触も無く、抵抗も無く胸を突き抜ける。仙一郎は反射的に手を引っ込める。

「は?あ?」

素っ頓狂な声を上げると美咲は申し訳なさそうに言った。

「そういうことなんです。言えずにごめんなさい。私、幽霊なの。」


結局のところ、仙一郎が初め小田美咲に会った時に感じたことは正しかった訳だ。その後、あらためて彼が聞いた話によると彼女は一年近く前、いじめを苦にこの駅で列車に飛び込み地縛霊となったという。アルマと暮らすことで、その手の者が見えやすくなっている仙一郎にはベンチの隣に座る美咲は、まったく普通の人間と見分けがつかず幽霊とは思えなかった。

「それじゃあ、ずっとこの場所に独りでいるんだ。

仙一郎が聞くと美咲はうなずいた。

「ええ。」

「寂しくないの?」

「ちょっと…だから早見さんが気づいてくれたのが嬉しくてつい長話しちゃって本当のこと言えなかったんです。」

二人の話を黙って聞いていたアルマが口を挟む。当然のことながら吸血鬼であるアルマには美咲の姿が、はっきりと見えているし言葉も聞こえていた。

「やはり噂になっておったセーラー服姿で歌う幽霊とは其方のことだったのじゃな?」

「はい。」

美咲が寂しそうに笑うので仙一郎は尋ねた。

「やっぱり未練とかあるの?だから成仏出来ないとか。」

「そんなには無いんですよ。ちょっと妹の…十万里のことは心配ですけど、あの子は私なんかよりしっかりしてるから…それより…」

「それより?」

仙一郎がうながすと彼女は重い口をひらいた。

「実は“しない”と言うより“できない”んです。この場所はちょっと呪われてて、ここで自殺した霊はこの場所に縛られて次の自殺者が変わりに地縛霊になるまで成仏できないみたいなんです。」

ちょうど騒々しい音を響かせて反対ホームに電車が到着し、その様子をぼんやりと眺めていた美咲は話を続けた。

「ホントなら自殺しそうな人の背中を押すのが私の役目だけど、どうしても出来なくてつい助けてしまうんです。ダメな怨霊ですね。」

そう言ってはにかむ彼女の表情は、まったく怨霊のものではなかった。


美咲と別れた帰り道、住宅街の細い道を歩きながら仙一郎は何とか美咲を助けられないものかと思案していた。

「あの小娘を助けようなんて考えるんじゃないぞ!」

すぐ先を歩いていたアルマが振り向いて釘をさす。」

「何とかしたいっていうのは普通だろ?」

「何ともならんから言っておるのじゃ!言っておったろう?誰かが死ななければ彼女は成仏出来んと。それに除霊ってやつも人や場所を救うものではあって必ずしも除霊された霊が救われるものではないからのぉ。」

「でも…」

「デモもストもない!もうかかわるな!今はまだ良いがあのままなら、いずれ悪霊になって其方にも害を及ぼすやもしれん。最後まで責任を持てないならかかわらないのが正解じゃ。

もう一度言うぞ。かかわるな!」

仙一郎は反論できなかった。自分に出来ることは何もないのは分かっていた。それでも、やはり心の奥にモヤモヤしたものを感じた。

街灯が不規則に点滅しその機械音だけが静かな住宅街に響いていた。




「ベントラ~ベントラ~スペェスゥゥ…」

オカルト研究サークル部員がUFOを呼ぶ奇妙な節が夜空に響く。八月下旬の深夜。仙一郎は大学の中央棟の屋上で行われているオカ研主催のUFOを呼ぶ会に参加していた。山の高低を活かして建てられた学び舎の中央棟は一番高い場所にある五階建て、その屋上は校内で最も見晴らしの良い場所だ。ほぼ山の中なので周りは真っ暗で星が綺麗に瞬いている。

「よう!この度はご参加ありがとな早見!」

軽沢が仙一郎に声をかける。

「来たからといって別にオカ研に入部する訳じゃないからな。」

「わかってるって!でも来てくれてうれしいよ!今夜は存分にUFO呼んでってくれよな!」

仙一郎の肩をポンポンと叩き笑顔を見せる軽沢は隙あらばオカ研に入部させようと画策してくる男友達だ。

「しかし軽沢?UFOは良いとして何でバーベキューもやってるんだ?」

仙一郎が指さす先には望遠鏡や三脚に固定されたカメラなどUFO用の機材に混じってバーベキューグリルやテーブルに乗った飲み物やおつまみがずらりと並び、肉が焼ける香ばしい匂いが漂っている。

「まあいいじゃないか!ただ呼ぶだけなんてストイックすぎんだろ!それに肉の匂いに誘われてUFOが寄ってくるかもしれないぜ!」

「な訳あるか!」

そうツッコミを入れる仙一郎であったが、彼が参加したのは肉が食べられるからであったのでそれ以上、深く追求はしなかった。

UFOが現れる気配もなく小一時間も経過するとUFOそっちのけでBBQの方が宴もたけなわとなっていた。オカ研部員は軽沢と紅一点の呉睦を入れて七人。大半がオカ研の姫である彼女を中心に取り囲んで盛り上がっている。仙一郎は独り邪魔されることなく椅子に座って、金欠でご無沙汰だった肉にかぶりついて至福の時間を楽しんでいた。

「肉、うめぇ…。」

おもわずつぶやく仙一郎は、こんな旨い肉を食べてると知ったらアルマは怒るだろうなと思った。もしアルマにバーベキューのことを話したら嬉々としてついてきて易々と肉を喰いつくししまう可能性があったので今夜の件はUFOの事しか言わなかったのだ。

また心配していたのはそれだけではない。巨乳の呉睦に逢わせたら

「その豊満な乳で予の食料をたぶらかすか!この泥棒猫が!」

と喧嘩を売るかもしれなかったのでなおさら連れてこれなかった。そんな愚にもつかないことを考えていると上空から声がする。

「スィア!仙一郎!」

聞き覚えのあるその声に見上げると塔屋の上から羽根のようにふわりと舞い降りて来る人影があった。

「リザ!」

仙一郎が名前を呼ぶのとほぼ同時に白いワンピース姿の女性は座る彼に抱き付き勢い余って二人は地面に倒れこんだ。

「久しぶりデスネ!逢いたかったデスヨ!」

リザは声を弾ませ彼の頬に猫のように顔を擦り付ける。仙一郎が唖然としていると騒動に気づいて軽沢らが集まってきた。

「早見…君?その方は?」

軽沢の言葉にリザが反応する。

「ワタシは仙一郎のガールフレンドのリザデース!」

「イヤ!ただの友達!」

仙一郎は飛び起きて被せるように否定する。

「ま!そういうコトにしておきまシヨウ!皆さんコンバンワ!」

そう挨拶すると彼女は、あっという間にオカ研部員らに囲まれてしまうが、金髪碧眼のすらっとしたモデル体型の美人なのだからそれも当然である。しかしそんな彼女の正体は、アルマと敵対し仙一郎を殺しかけた吸血鬼にして太陽の光を苦にしないデイウォーカー。

情けをかけて見逃した彼女が、また現れたことに緊張感が高まる。リザはと言えばオカ研メンバーと呑気に談笑しハイタッチまで飛び出している。そして一通り挨拶を済ませると仙一郎の元に戻ってきたので彼は身構えた。

「仙一郎!ちょっと込み入ったお話があるのデ二人きりになれませんカ?」

リザがそう言うと仙一郎が答えるより先に軽沢が反応した。

「どーぞ!どーぞ!俺らはイイんでどーぞ連れてって下さい!」

「おい!軽沢!」

不満の声を上げると軽沢は肩に腕をまわし強引に引き寄せ耳元で囁く。

「いーから!俺らもそんなに野暮じゃないって!しかしお前がこんな綺麗な人と付き合ってるとは隅に置けないなぁ。」

「だから違うって!」

「分かった!分かった!ところでお前ちゃんと準備はしてあるのか?突然来ただろ?」

「何をだよ?」

「お前のことだから常備してねーだろ!これだよ!これ!」

そういうと軽沢は懐の財布から避妊具を取り出した。

「だから違うって言ってるだろ!」

仙一郎は慌てて避妊具を持つ手を押し戻す。

「仙一郎~!早くイキましょ~ネ!」

焦れたリザは仙一郎の腕をつかむと強引に引っ張った。軽沢は連れ去られる仙一郎に向かって親指を立て声援を送った。

「ちゃんと避妊はしろよ!」

「だから本当に違うんだってば!」

仙一郎はその言葉を全力で否認した。


仙一郎が素直にリザについていったのはオカ研メンバーを巻き込みたくなかったからだった。目的が自分ならその場を離れれば無駄に危害は加えないだろうとふんだからで、彼女が落ち着いて話の出来る場所を望んでいたこともあって自主製作用に借りている絵画棟のアトリエに行くことにした。

室内は外の街灯の明かりで仄明るくリザは部屋に鎮座する大作に目をやる。

「イイ絵デス!月夜に舞う夜桜の花びらが綺麗デスネ!」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。」

仙一郎は彼女が絵に気をとられてる隙にテーブル上のパレットナイフを後ろ手に隠し持つ。絵具を混ぜるためのステンレスの刃渡り十センチ程度のナイフは画材なので刃先は丸いし、しなる程薄いので護身用にするにしても心もとない。二人きりになったことでリザが本性を現すかもしれなかったので神経を尖らせる。

「と…ところで話って?」

「そーでしたネ!」

しばらく絵に見入っているリザに問うと彼女は振り向いて突然、目の前まで近づいて来たので彼は思わず右手のパレットナイフを突き出してしまった。それを見た彼女は悲しそうな目で見つめる。

「そんなに怖がらないでクダサイ!もうワタシは仙一郎に危害を加えるつもりはありませんカラ…。」

そう言うとリザは目線を外し彼がそれに気をとられている隙に、あっという間に手をつかむ。彼の右手はパレットナイフを握ったまま、まったく動かせなくなる。

「とは言っても簡単に信じてもらえなでしょうカラ。」

リザはそう言うと握った彼の手を引き寄せパレットナイフの切っ先を自分の腹部へとあてがう。彼は嫌な予感に動揺した。

「ちょっと!何を?」

「大丈夫!緊張しないデ気を楽にしてくださいネ!」

そして彼女は彼が握ったままのパレットナイフを自らの腹に突き立てた。

「んっ!」

短いうめき声が上がる。パレットナイフの刃はゆっくりと彼女の身体の中へとねじ込まれ、白いワンピースは見る見る赤く染まり彼女は苦悶の表情を浮かべる。。

「うっ…くぅ…。」

「ダメだ…ダメ!やめろって!」

仙一郎は止めようと力を込めるが抵抗むなしく刃は根本までリザの腹部に刺さってしまった。

「これでこの前、仙一郎を刺したコト許してもらえませんカ?おあいこってことデ!」

リザは苦痛に顔を歪め脂汗を流して彼に許しを請う。

「分かった!分かったから!」

仙一郎の懇願に彼女が握っていた手を放すと均衡が失われパレットナイフは勢いよく引き抜かれ彼はひっくり返る。慌ててナイフを投げ捨てリザに近寄る。

「何してるんだよ!いくら不死身の吸血鬼だからって無茶苦茶だ!」

彼は声を荒げ、それは少し怒りを含んでいた。

「大丈夫!大丈夫!この程度はすぐ治りますヨ!安心してクダサイ!でも、メッチャ痛いデスネ!」

そう言うリザの顔は少し嬉しそうだった。


リザの傷は処置をするまでもなくすぐに回復したが、少し痛そうだったので仙一郎は彼女を床に座らせしばらく休ませた。その間、彼女は何度もゴメンナサイ!ゴメンナサイ!と謝るので彼の方が逆に恐縮してしまった。そして落ち着くと、あらためてリザの話を聞くことにした。木製の角椅子を横にして座りリザと向かい合う。

「それで?話って?」

「実は仙一郎にお願いがありましテ…ワタシとゼヒ契りを結んでもらいたいのデス!」

「ちっ契り!」

彼は思わずひっくり返りそうになった。

「その…何だ…そういうことはお互いをもっと知りあってから…お互いの気持ちがぁ…。」

リザは取り乱す彼を不思議そうに見ていたが、すぐにその理由に気づく。

「言葉足らずでしたネ!ワタシが仙一郎の眷属になる盟約を結びたいという意味デス!でも、そっちの方の契りもお望みでしたらワタシはいつでもカイダクですヨ!」

そう言うとスカートの裾をまくり太ももをチラリと見せた。彼は見ないように顔をそむけて言う。

「あ!取りあえずそっちの方は忘れて下さい!それに眷属って話も前に断ったような…」

「ネム!ネム!ちがいマース!仙一郎がワタシの眷属になるんじゃなく、ワタシが仙一郎の眷属になりたいって話デス!」

「は?どういうこと?」

「ワタシは仙一郎に命を助けられました。スゴクスゴク嬉しかったデス!そんな優しい仙一郎にワタシの心はやられてしまいましたネ!ハートに杭を打ち込まれてしまいましたネ!

私のココロは致命傷を負ってしまったのデス!イチコロデス!」

そう言うと彼女はにじり寄って仙一郎の手を握る。彼は吸血鬼とはいえこんな綺麗な女性にそこまで言ってもらえるのは素直に嬉しがった。だがそれと同時に自分がそんなに大層な人物でないという思いに心苦しさも感じていた。

「買い被りすぎだよ。」

「そんなコトありませン!どうか眷属として付き従わせてクダサイ!アルマには了承してもらってますカラ!」

薄暗いアトリエの中、見上げる彼女の潤んだ瞳がサファイアのように綺麗に輝いていた。それはふとサファイアの石言葉“誠実”を、単に彼の誕生石だったから覚えていた言葉を思い浮かばせた。それだけ彼女の表情は残虐非道な吸血鬼のそれでなく真摯で真剣に見えたのだ。そんなリザの様子をみていると、せめてその気持ちを受け入れる位しか自分には出来ないであろうという気持ちになり、彼はとうとう根負けした。

「分かったよ!分かった!」

「うれしいデース!じゃあ早速!」

リザは晴れやかな笑顔で握った手を自分の胸にあてる。彼は手のひらの柔らかい感触に慌てて離そうとするが彼女が制する。

「じっとしていてクダサイ…」

そして、ささやくように詠唱する。

「エシュクソム・フォ・エンゲディ・メシュケーデネッ・ネケ・エゲス・エレテェンヴァン、我、惨たるエリジェベートは終生、早見仙一郎を主とし眷愛隷属として尽くすことをここに誓う。」

仙一郎の手のひらはまるで鼓動する心臓をつかんでいるように熱を帯び瞬く間に静電気が走るような痛みを感じ、彼は手を跳ね除ける。

彼が手を置いていた服の左胸部分は溶けたように無くなり胸がはだけ、そこには変わった形のアザが刻まれていた。

「これでワタシは仙一郎の眷属デスネ!」

アトリエの床の上、彼女は満足そうにいつまでもアザに触れ続けていた。

かくして吸血鬼リザは仙一郎の眷属となった。ちなみにその夜、UFOはついに現れなかったという。


それから間もなく、リザから眷属就任記念食事会を開くのでアルマと来て欲しいと仙一郎の携帯に連絡がはいった。その話をアルマにするとリザが彼の眷属になったことに驚き、ひどく立腹していた。リザは眷属の件をアルマに言っていなかったのだ。それでも食事会に参加する気になったのは直接リザに文句を言いに行く目的以上に食事会が行われるホテルの高級料理につられたせいもあった。

約束の晩、時間通りにホテルに到着する。そこは彼が住む町の中では高級ホテルの類に属する場所なので仙一郎は持っている服の中でも上等なものを着てきたのだが、アルマはといえば部屋着のようなスウェットの上下でホテルディナーにはまったく似つかわしくなかった。

「その恰好ぉ…」

仙一郎はホテル前であらためてアルマに注文をつけると彼女も言い訳を繰り返す。

「だからこの恰好だと料理を思う存分食べてもお腹んとこがゴムで楽なのじゃと言っておろう!名より実じゃ!」

場の雰囲気にふさわしくない二人がロビーを抜け二階の中国料理店に着くと入口でチャイナドレスに身を包んだリザが手を振っていた。

金髪の髪を両サイドでお団子にまとめ、赤いタイトなチャイナドレスをスタイリッシュに着こなしている。

「ようこそ仙一郎!アルマ!歓迎しますヨ!」

「リザ!貴様…」

「まあまあアルマ!言いたい事はあるでしょうケド取りあえず中に入っテ!」

リザは、いきり立って詰め寄るアルマをなだめ店へと押して行く。店員の案内で通された個室はすりガラスで囲まれた円形の部屋で中央に中華テーブルが据えられ大皿料理と飲み物がのっている。席に着くと早速アルマは対面のリザに食ってかかった。

「予の許可なく勝手に画学生の眷属になりおって!この死にぞこないが!」

「ホント仙一郎の血は強烈でしたネ!四日ほど臨死体験しましたヨ!」

仙一郎が口を挟む。

「リザ!アルマの許可をとったとかウソはダメだよ!ウソは!」

「ごめんなさいデス!とっても仙一郎の眷属になりたかったノデ!アルマも許してくださいネ!今日は好きなだけ食べてってイイんデ!」

「うむ!それなら許そう!」

アルマがあっさり矛を収めたのでツッコミを入れる。

「ええっ!そんなんで良いのかよ!」

「まあ、予の許可無しなのはいただけないが眷属三原則の縛りがあるから主の命令には逆らえないし、主に危害も加えられないから大した問題は無いからのぉ。画学生のボディガードくらいにはなるじゃろう。」

「そんな縛りがあるんだ。」

「呪文はこうじゃ、“ヴェセーイェス!我、主として命ず…”そのあと命令する内容じゃな。リザに手ごめにされそうになったら使うがよい。」

すでに料理に手を付けながらそう言うアルマにリザは反論する。

「手ごめなんてそんなことしませんネ!ワタシは清廉潔白デスネ!」

「どうだか…今日だって画学生を酔いつぶして、こっそりお持ち帰りしようとか考えとるんじゃろ?」

「そそそ!そんなことありませんネ!ホテルのスイートルームなんか押さえてませんデース!」

「問うに落ちず語るに落ちるじゃな。」

二人の話を聞いていた仙一郎が口をはさむ。

「え?俺お持ち帰りされるところだった?」

リザは慌ててビール瓶を彼に差し出した。

「そんなことはどうでもイイじゃないですカ!

それより、取りあえず一杯!」

「酔わせる気満々じゃないか!俺まだ飲めないって!」

「そうですネ!じゃあ料理の方!料理の方遠慮せずドーゾ!」

慌てて誤魔化すリザに促され彼も料理に手をのばす。テーブルの上にずらりと並ぶ料理はどれも貧乏学生の仙一郎には縁遠くテレビのグルメ番組でしか見たことがないような品ばかりで、彼はそれら初めて食べる高級料理に舌つづみを打った。アルマはといえば、すでに二人は眼中になく眷属云々はどこ吹く風で

料理を口いっぱいに頬張りモグモグ言っていた。


「この、牛フィレ肉の何とかってヤツお願いします!」

アルマが店員に注文する。彼女は大食い番組の出演者よろしく運ばれてくる料理を、ちぎっては投げちぎっては投げ次々やっつけていく。

彼は呆れて聞いてみた。

「やっぱり大食いだよなアルマ。俺、吸血鬼って血の変わりにトマトジュース飲む位のイメージしかなかったよ。」

それを聞いたアルマは箸を止め大きくため息をついた。

「色が似てるからと言ってトマトジュースが血のかわりになる訳なかろう。たとえば其方は食べるのか?カレーライスのかわりにウン…」

「わかった!わかった!わかりました!それ以上言わないで!俺が悪かった。」

仙一郎がすんでのところで彼女のはしたない発言を止めると、かわってリザが説明した。

「普通の食事で栄養補給出来ないことは無いんですケド効率がとっても悪いんデスネ。だから自ずと大食いになってしまうのデス!それに血が主食で他はほとんど必要ないとはいってモ美味しい物を食べるは心地よいデスカラ。普通の食事は要するに嗜好品といったところデス。」

「確かに美味しい料理を食べるのは楽しいけど…こんな高級料理おごりとか大丈夫なの?」

彼はアルマの食べっぷりを横目で見ながらリザに訊ねた。

「問題ありまセン!働いてますカラ!ワタシお金持ちデース!」

「へぇ、偉いな。それに引きかえ…」

仙一郎はアルマの方を見た。

「なんじゃ!高潔なる吸血鬼が労働に従事するなぞ、さもしいにも程がある。」

彼は皮肉たっぷりに言う。

「そうだね!吸血鬼様は働かずに一日中ゲームしたり遊びまわったりするだけのニートみたいなのが本来の姿だしね!」

「なんじゃと…」

アルマが手を止めて仙一郎を睨みつけるのでギスギスした雰囲気にリザが二人をなだめる。

「まあまあ二人とも落ち着いテ。今日は楽しみましょうネ。」

「そうするよ。また明日から誰かさん養うためにバイトで絵描くヒマもないほど忙しくなるからね。」

仙一郎のトゲのある言葉に、火に油を注いてしまったリザはうろたえ、アルマは眉間に皺をよせる。

「たかが食料ふぜいが大口を叩きおって。貴様なぞ予に血を吸われる以外、役立たずなのじゃから素直に従っとれ!」

アルマの一言が彼の気に障る。

「ああ!たしかに俺は役立たずさ!でも、ここ数ヶ月、厄介事に巻き込まれて怪我したり、落ち着いて勉強させてもらえないのもアルマが居候してるせいだろ!」

「予に盾突くかっ!」

「アルマなんか助けなきゃよかったよ!」

ここのところのスランプなどもあってイラついていた仙一郎は頭に血が登って思わず口走ってしまう。それを聞いたアルマは黙ってしまい、うつむくと目の前にある料理を片っ端から勢いよくかっこみ、やにわに立ち上がる。そして彼女は胸にかけていたドッグタグを引きちぎると彼に投げつけた。

「仙一郎のバカッ!」

そう叫ぶと勢いよく外へ飛び出していった。リザは止めようと席を立つが彼はそれを制す。

「イイんですカ仙一郎?」

「ほっとけ。」

そう言うと仙一郎は目の前にあったコップにビールを注ぎ一気に飲み干した。


気づくと仙一郎はトランクス一枚でベッドの上に仰向けになっていた。クラクラする頭でその理由を思い出そうと試みる。.アルマが出ていったあと、ビールをやけ飲みして三本目の大瓶を空けたところまでは覚えていたがその後が思い出せない。彼がぼんやりと天井を眺めていると、覗き込む人影が見えた。

「気づきましたカ?気分はどうデス?」

「リザ…」

「さすがに、ぶっ倒れたときにハびっくりしましたヨ!」

傍らで心配そうな顔を見せる彼女はナイトテーブルの水差しに手をのばした。その腕をつかんで引っ張る仙一郎。チャイナ服の肢体がベッドに倒れこむ。

「仙一郎?」

突然のことに当惑する彼女の腰に手がのびる。

「ひゃう!」

リザは身を震わせ素っ頓狂な声を上げる。

「せっ…仙一郎ぅ…」

彼女の声は届いていないのか仙一郎の手はさらに太ももに、臀部にと這う。

「はぁ…」

リザはなまめかしい声を漏らすが慌てて彼に抗う。

「ちょっ、ちょっと…待ってクダサイ!シャワー…シャワー浴びてきますカラ!ね、それから…」

リザは彼の身体を優しく引き剥がすとバスルームへと消えた。ひとりベッドの上に取り残された彼の朦朧とした意識は再びぷっつりと途切れた。


次に仙一郎が目を覚ましたときには、まだバスルームからシャワーの音が聞こえていた。ゆっくり上体を起こしコップの水を三杯ほど飲み干すと多少、頭がはっきりし始める。身体からほんのりと匂う吐しゃ物の香り。彼はヤケ酒をあおり盛大に嘔吐した挙句、倒れてホテルの部屋に担ぎ込まれたことを薄っすらと思い出す。部屋の豪華さからここはスイートルームらしい。裸なのは汚れた服を脱がされたからだろう。

「その後…」

彼は思い出して真っ青になる。酔った勢いで介抱してくれたリザを押し倒してしまったことに。勢いで、ヤケになってしでかしてしまったことを彼は後悔した。よく逮捕された犯人が、むしゃくしゃしてやった。という気持ちがその時、彼には痛いほど分かった。もう一杯水を飲もうとテーブルに目をやるとドッグタグが乗っていることに気づく。迷子札替わりにアルマに与え、彼女が肌身離さず身に着けていたそれがテーブルランプの光を反射して鈍い光を放っていた。それを見て彼は大きくため息をついた。

「仙一郎…」

声のする方を向くとドアの前にバスタオル一枚はおっただけのリザが立っていた。

「あ!リザ!あの…その…この…どの…」

慌てふためく仙一郎を見てリザは悔しげな表情を浮かべる。

「残念、正気を取り戻したようデスネ。」

「ごめん!俺、そんなつもりじゃ…」

「気にしないでクダサイ!それより、大丈夫デスカ酔いの方は?」

「だいぶ良いよ…」

リザはベッドに腰かける彼の隣に座る。密着した身体から漂う心地よい香りが鼻孔をくすぐり、触れた腕から温もりが伝わる。

「シャワーを浴びたのは失敗でしタ!もう抱く気は無いんデショ?」

「うん、ホントごめん。酔った勢いで…」

「まあしょうがないデス!でも…」

そう言うとリザは彼の肩をつかみ押し倒す。

「ワタシは収まりがつきませんネ!身体の芯に火がついてしまいましタシ!」

「リッ!リザ!」

彼は足掻くが巧みに抑え込まれて逃げられない。

「ダメだって!こんな…」

制止の声を無視して彼女の手が手首を押さえつけ、両足が足に巻き付く。

「仙一郎…」

目と鼻の先にある彼女の顔は紅潮し息もあらく、目はトロンとしている。彼女は身体を押し付け、その凹凸がバスタオル越しに触れる。彼は動揺して声を上げる。

「スッ!ストップ!ストップ!」

「ストップしませんネ!どうしても止めたかったら、命令呪文を唱えたらどうデスカ?」

そして彼女は顔を近づけ仙一郎に口づけしようとしたときの事。

「呪文は使わないよ。」

彼の発したひとことにリザの動きが止まる。

「どうしてデスカ?」

「呪文で無理矢理やめさせるのは結局、酔った勢いで無理矢理押し倒すのとたいして変わらないじゃないか。そんなことしたくないんだ。」

彼の瞳を真っすぐ見つめるリザから目をそらさずに続ける。

「酒の勢いでこんなことしてしまったのは本当に悪いと思ってる。でも、きちんと話せば分かってくれると信じてるから。こんなかたちで、し…してしまうのはリザにも失礼だと思うんだ。俺は友達として君のこと大切に思ってるから。」

それを聞いたリザはキョトンとした顔をする。

「ぷっ…あはははは!」

そして突然、ベッドの上を転げ回って笑い始めた。

「何だよ!リザ!」

仙一郎は何か小馬鹿にされたようで口を尖らす。

「ご…ごめんなさいネ!生真面目と言うか…あまりにも仙一郎らしかったから…」

「悪かったな。」

「でもそこがワタシが惹かれた仙一郎らしさでもあるんですけどネ!」

リザの言葉に彼は赤面して黙ってしまう。

「それじゃあ女をその気にさせておいテ途中で止めた罰デス!」

そしてリザは彼の隣に寝転がり腕を枕に添い寝をするのだった。

「は、はい。わかりました。」

仙一郎はぎこちない返答をするのが精一杯だった。




夕食後、仙一郎は居間のローテーブルで課題のレポートに取り掛かっていたが、集中できずにいた。食事会の日からアルマはアパートに帰ってこず、すでに一週間。厄介者がいなくなり、大学生らしい本来の生活を取り戻し万々歳なはずなのだが、なぜか気分が晴れなかった。レポートの手を止め、ため息をつくとドッグタグを入れたままになっているジーンズの前ポケットに触れ、独り言をつぶやく。

「ったく!」

「何か不機嫌そうですね。」

不意に背後から声がして慌てて振り返ると、

川相がすぐ後ろに座り込んでいた。さらに仙一郎をうろたえさせたのは彼女のその恰好である。頭にウサギの耳の形のカチューシャ、首に蝶ネクタイ、肩から胸にかけて肌が露出した黒のバニースーツ、パンティーストッキングにパンプスを履いたその姿は、まごうことなきバニーガールであった。どぎまぎしながら彼は問いただした。

「何だよその恰好は!つーか、また勝手に入ってきて!」

「ちゃんとノックしたよ!先輩全然気づかないんだもん!」

「それは…それより、その恰好?」

「これは学園祭の模擬店、うさぎカフェのうさぎの衣装です!」

「うさぎカフェってそういうもんだったっけ?」

「そうですよ!うさぎと触れあって癒されるカフェなのでぜひ来てくださいね!それよりどうです?先輩に見てもらおうと思って着てみたんですけど似合ってます?」

川相は身体をくねらせポーズをとる。

彼のすぐ目の前に胸の谷間がさらけ出され、黒いストッキンの太ももは何ともなまめかしい。彼は内心ドキドキしながら、それをさとられないよう素っ気なく答える。

「似合ってるかどうかと言われれば似合ってるかな。」

「なんですか、その微妙な反応は。」

彼女は頬を膨らませ不機嫌な表情をみせる。

「つーか部屋んなかで靴履くなよ。」

「これは下ろしたてだから大丈夫ですよ!ほら底汚れてないでしょ?」

そう言うと座ったまま片足を上げてパンプスの裏を見せるように足を突き出す。彼はその蠱惑的なポーズに何とか耐えながら極めて興味ありませんよと言った風に、うっとうしげに苦言をていす。

「女の子がはしたない恰好を…」

「あれ?先輩、私のこと女の子と思ってくれてたんだ!」

「一応な。まあ妹みたいな感じだけどな。」

仙一郎が茶化すと彼女は気づいたように言った。

「そう言えばアルマちゃん実家に帰ったんですよね?」

「ああ…」

仙一郎はそっけなく答える。アルマを彼の妹と思っている川相には、そう言って不在を誤魔化していた。彼女は部屋の中を見回しながら彼に訊ねる。

「いなくなって静かになっちやったから、ちょっと寂しいんじゃないですか?」

「まさか、騒がしいのがいなくなってせいせいしてるよ!」

「ふぅーん…」

川相は意味ありげに彼の顔色をうかがうと続けた。

「そうですよね。学校にも行かずに部屋にひきこもって遊んでばかりいる妹なんて邪魔なだけですもんね。先輩も結構苦労してたみたいだし。あんな疫病神いなくなって清々したんじゃないですか?」」

「そこまで言うことないだろ?あれはあれで良いとこも…」

そこまで言って仙一郎は言葉を呑みこむ。見ると川相は彼を見てニヤニヤしている。まんまとカマをかけられたのだ。

「何か、アルマちゃんとケンカでもした?」

女の勘なのか彼女はズバリと確信を突く。仙一郎は黙り込んでしまうが、それは白状しているも同然だった。

「先輩!早く謝って帰って来てもらったらどうです?」

「何で俺が…」

「ケンカの原因とかどちらが悪いとかはどうでも良いんですよ。たぶん先に謝った方が負け、みたいに思ってるんでしょうけど逆です。仲直りした後は謝ってよかったってなるはずなんですから!」

仙一郎も、このモヤモヤと晴れない気持ちの正体に薄々感づいてはいた。出会ってたった数ヶ月ではあったが彼にとってアルマは、すでにずっと昔から一緒にいたように感じる存在となっていたことに。そして、そのことにいなくなって初めて気づかされたのだ。

「わかったよ。」

彼がぽつりとつぶやくと川相は微笑んだ。

「それでこそ先輩です。あ!でも帰ってこなかったら私がかわりに妹として一緒に住んであげますから安心して下さいね!」

「バニーガールを住みこませる気はないぞ。…でも、色々ありがとう。」

仙一郎が礼をのべると彼女は少しはにかんで立ち上がろうとした。

「さて!じゃあ帰るとします…か…」

その時、川相は慣れないパンプスの高いヒールのせいでバランスを崩して倒れそうになる。

「危なっ!」

仙一郎は助けようと身体を伸ばすが支えきれず一緒に倒れこんでしまい二人は抱き合うような格好で床に寝転がる。覆いかぶさる形になった川相の顔が彼のすぐ目の前に。彼はその時まですっかり忘れていたが、艶っぽい唇を間近にして彼女とキスしたときの事を思い出す。吸血鬼に操られていて彼女はその時のことをまったく憶えていないのだが、彼はその柔らかい感触をしっかりと思い出し固まる。

「だ!大丈夫だった?痛くなかった?」

「全然、平気…」

仙一郎は慌てて彼女の無事を確かめる。その時、玄関のドアが軋む音がかすかに聞こえ、見ると誰かがのぞいていた。軽沢だ。彼はドアのすき間から申し訳なさそうに覗いていた。レポート作成を一緒におこなう約束をしていた彼がタイミング悪くやってきたのだ。バニーガール姿の女性が横たわる仙一郎の上に乗っかっているという状況は誤解を招くには十分だった。仙一郎は狼狽して軽沢に声をかける。

「これは!違っ…違うんだ!」

軽沢はうんうんとうなずき小さな声で言う。

「頑張れよ…」

そして静かにドアを閉めた。

「違うんだってばぁ!」

仙一郎は悲痛な叫び声を上げるしかなかった。


その頃、アルマはリザの家でソファに寝転がりスマートフォンでゲームに興じていた。その様子にリザは呆れ顔で言った。

「食事の片づけくらい手伝ったらどうデスカ?遊んでばかりいないデ!」

アルマはゲームに夢中で応えないので、リザもつい愚痴をこぼす。

「まったく!アルマは疫病神デスネ!働きもせず家でゴロゴロと!仙一郎が怒るのもわかりますヨ!」

「このスマホゲームが面白すぎるのが悪いのじゃ!」

ゲームを続けながら反論するアルマにリザはため息をついた。

「買い与えるんじゃなかったデスネ。」

「そう!連絡用に買い与えた其方が悪い!」

「ああ言えばこう言う…」

リザは諦め顔でキッチンへと消えた。


それは、さかのぼること一週間前。食事会の日の夜。リザは仙一郎が眠ったのを確認すると二日酔いで目覚めるであろう彼のために諸々準備を整えてから部屋を出た。そのまま隣に居たら寝ている彼を襲ってしまいそうだったし、よしんば何もせず二人で朝を迎えるのはさすがに気まずかったからだ。ホテルを出ると空はすでに薄明るく夜明け前の冷ややかな空気が火照った身体に心地よかった。リザは伸びをし、帰路につこうとしたそのときビルの薄暗がりからアルマが現れた。

「画学生は中か?」

突然のアルマの問いにリザはそっけなく答える。

「そうデスガそれがなにカ?」

「べ、別に。確認しただけじゃ!どうせ奴のことじや何もなかったんじゃろ?」

「いいえ。仙一郎はとっても積極的で押し倒されてしまいましたネ!」

「ウ!ウ!ウ!ウソじゃ!」

アルマが目を見開いて狼狽するのを見てリザは意を決した。

「ここでは何ですカラ取りあえず家にきませんカ?アルマとは積もる話もありますシ。」

「わ…分かった。案内せい!」

こうして二人はリザのマンションへと向かう事になった。


リザの住む高層マンションはホテルから駅をはさんで反対側、歩いて十分とかからない場所にあった。駅に隣接するそのビルの四十階、街が一望できる3LDKは一人暮らしには広すぎる部屋だ。

「大層な家じゃのぉ…」

周りを見回すアルマをリザはダイニングに招いた。中央にアンティーク調のテーブルが置かれ良く片付けられた部屋で、リザは冷蔵庫から赤ワインを取り出すと言った。

「取りあえず座っテ。」

アルマは椅子に座るなり対面のリザに問いただす。

「で、画学生と何があったか詳しく聞かせてもらおうか。返答次第では…」

アルマは睨みつけるが、リザはワイングラスの赤ワインをひと口、ゆっくり流し込んで答える。

「押し倒されて、押し倒しましたケド、残念ながらアルマが想像するようなコトはありませんでしたネ。」

「何を言っておるのじゃ?わかりやすく言わぬか!」

「メンドクサイ子デスネ!セックスはしてないって事デス!中途半端に終わったお陰て身体の疼きが収まらないデスヨ!」

「そ…そうか…」

安堵の表情を浮かべるアルマを見てリザは続けた。

「デモ仙一郎、だいぶ“溜まってる”みたいでしたヨ!アルマは相手してあげてないんデスカ?」

「そんなことは、どうでもよかろう!」

アルマは声を荒げ、テーブル上のワイングラスを一気に飲み干す。リザはその空のグラスにワインを注ぎながら嫌味ったらしく言う。

「食料の品質維持のためにも、あまり溜まってしまうのは良くないんじゃないデスカ?ワタシが相手してもイイんですヨ?」

「また殺されたいのか?」

アルマの目が赤く輝き空気が張り詰める。部屋の照明が消え、仄暗い天井から忽然と無数のコウモリが生え、垂れさがり威嚇するように大きく口を開け牙を見せる。

「人の部屋でコウモリなんか出しテ…」

一通り見まわし、ため息をつくとリザは慌てることなく天井を指さし唱える。

「ヴィカ・テュゼ!」

とたんにすべてのコウモリは真っ白に輝き燃え上がり跡形もなく消え失せ、そして照明が再び灯る。アルマは再びワインを一気に飲み干し一息つくと怒気を含んだ声で言い放つ。

「予の使い魔を燃やすとはいい度胸じゃ!」

そして右手を横に突き出すと次の瞬間、忽然と現れた剣が彼女の手に握られていた。リザはその様子に眉をひそめた。

「フラガラッハなんか持ち出さないでクダサイ!物騒ナ!」

「貴様も猫を被ってないで本性を現したらどうだ!そして存分に殺しあおうではないか!」

アルマは戦う気満々で切っ先をリザに向けるが、彼女はまったく動じない。

「しょうがないネ。それじゃあワタシも切り札を出すとしましょうカ!」

そう言い、ワインと一緒に冷蔵庫から取り出しテーブルの上に置いていた紙袋に手をのばすと不敵な笑みを浮かべる。アルマは神経をとがらせその様子を注視していた。

「これがワタシの切り札デス!」

リザは紙袋から勢いよく取り出した物をテーブルの上に置く。アルマはその置かれた代物に驚愕する。

「そっ!それはっ…」

アルマの目の色が変わり剣を放り投げて身を乗り出し、そして叫ぶ。

「プチっとするプリン・プレミアムっ!」

「ふふふ!アナタと戦う前にリサーチは完璧に済ましてましたネ!アナタの好物のプリン

、しかもこれは数量限定デなかなか手に入らない逸品デース!」

「ええいっ!能書きはイイ!皿とスプーンを用意せんか!」

アルマはテーブル上のプリンをかっさらうと

まくしたてる。プリンに釘づけで口元から少しヨダレを垂らしている彼女からは、すでに戦う意思は微塵も感じられなかった。


「こっこれはっ!プルルンとした弾力になめらかな食感。カラメルの程よい甘さが絶妙なハーモニーを奏でて口一杯に広がる!これぞまさにプレミアムと呼ぶに相応しい至高の逸品!至福のひとときじゃ!」

アルマはプリンをひと口食べると声を弾ませて独り言を叫ぶ。そして一通り余韻にひたると再びスプーンですくい口に運び恍惚とした表情を浮かべる。

「んんん…んんまい!」

感嘆の声を上げ、あっという間にアルマはプリンをペロリと平らげると皿に残ったシロップまでペロペロと舐めとる。その様子をリザは呆れ顔で眺めていた。誇り高い吸血鬼の中でも最古にして最強のひとりに数えられる彼女の頑是なく品格も感じられないその姿は、昔よりさらに磨きがかかっているようで見られたものではなかった。

「おかわりじゃ!」

アルマが嬉々として皿を突き出すのでリザは渋々二つ目を渡す。早速プリンが皿の上で揺れアルマは一心不乱にほおばる。リザはその様子を頬杖をつき眺めていたが唐突に聞いた。

「ねえ?アルマは…仙一郎が好きなんデスカ?」

思いがけない言葉にアルマはプリンを盛大に吹きだし向かいにいたリザはプリンまみれになる。

「きったないですネ!なんデスカ!」

「き!き!き!貴様は何を言っておるのじゃ!「だから仙一郎に恋慕の情をもっているのかッテ?」

リザはプリンまみれの顔を拭きながら再び問いただすと、アルマはテーブルを叩いて立ち上がり目を見開き唾を飛ばして叫んだ。

「そ!そ!そ!そんな訳あるか!アレはただの食料じゃ!ただ血がちょっと旨いだけで、その血が気に入っとるだけじゃ!」

「本当デスカ?人間嫌いのアナタが、いくら血のためとは言え一緒に住むとカおかしくないデスカ?」

リザはニンマリしながら当てつけがましくアルマの顔を覗き込む。

「そうじゃ!予は人間なんか大嫌いじゃ!勘違いするでないぞ!別に画学生のことなんか何とも思ってないんじゃからな!」

言葉に明らかに動揺が見え、慌てふためくアルマの姿に思わずほくそ笑むリザ。

「まったく…メンドクサイうえにスナオジャナイ子デスネ。そんななら仙一郎、ワタシが

奪っちゃいますヨ!」

「じゃから予の食料に手を出すようなら…」

「ハイ!ハイ!分かってますデス!今は彼の眷属になれただけデ満足デスカラ!」

煩わしげに三つ目のプリンを差し出すとアルマは口をへの字に曲げ無言でそれをかっさらい、どかりと椅子に座った。

「で、これからどうするんデスカ?」

三つ目を貪るアルマにリザが聞く。

「貴様が戦う気がないというのなら取りあえず喰い終わったらシャワー浴びて寝る。」

「そんな話をしてる訳じゃありませんネ!仙一郎とケンカしたでしょ?その事デス!」

「知るか!予はまったく悪くないのじゃからな。画学生が土下座して泣いて許しを乞わんかぎり許す気は無い!」

「あれはアルマも悪いデスヨ!アナタのことですから絶対に頭は下げないでしょうが許したらどうデスカ?」

「嫌じゃ!」

「そうは言わず二!」

「嫌じゃ!」

「どうしてモ?」

「い・や・じゃ!」

リザは分かっていたこととは言えあまりの強情さに呆れる。

「でもケンカしたままじゃアパートにも帰れないデショ?他に行くあても無いでしょう二…」「ここに住むから問題ないのじゃ。」

アルマが当たり前のように言うのでリザは目を丸くする。

「はぁ?何を言ってるんデス?」

「これだけ広いのじゃから問題なかろう?」

リザはそれも分かっていたこととは言えあまりの自分勝手さに呆れを通り越して、どうでもよくなった。

「モー疲れましたネ…好きにしてクダサイ…」

こうしてその日からアルマはリザのマンションに居候することとなった。




9月初旬、朝から仙一郎は西桑都駅に向かっていた。もちろん美咲に会いに行くためだ。アルマには止められていたが。その日が美咲の一周忌だとニュース記事を調べて知っていたので、せめて花を手向ける位は良いだろうと思ったのだ。駅前の花屋に寄ってささやかな花束を買い店を出ると秋空の下、黒のワンピース姿のリザが路上に立っていた。

「スィア!仙一郎。」

「何でこんなとこに?」

「仙一郎のお供をしようト思いましテ!美咲サンのとこに行くんですよネ?」

「彼女の事はリザに言ってなかったと思うんだけど。」

仙一郎は、いぶかしげな表情でリザを見る。

「あええっト…うんんっト…」

明らかに挙動不審なリザは思いついたように言う。

「そう!愛!愛の力デース!仙一郎の気持ちはビビビッと感じるんデース!」

分かりやすい態度に仙一郎は思うところがあった。

「もしかしてアルマに聞いたんじゃないの?」

「ち!違いますヨ!絶対!」

あたふたと反論する様子を見て仙一郎は確信する。前々から彼はリザに、いなくなったアルマの捜索を頼んでいたのだが、消息を聞くたびに曖昧な答えを繰り返すばかりだった。その事と、家出して行くあての無いアルマがこの街で頼れる者が誰かを考え合わせれば自ずと答えは出る。

「アルマの奴、君の家に居るんじゃないの?」

「な!な!何を言ってるんデスーカ?」

「リ!ザ!」

仙一郎が強い口調で睨みつけると彼女は叱られた子犬のようにしょぼんとして観念した。

「ハイ…ごめんなさいデス。アルマはウチにいまス。今日も、画学生のことじゃ!予の忠告を無視して出かけるじゃろう。其方ボディーガード代わりに付いて行け!と、言われたので来ましタ。この事は内緒にって念を押されていましたノデ…本当にごめんなさいデス。」

仙一郎はリザが黙っていたことには、それほど怒ってはいなかった。それよりもアルマの所在がはっきりしたことに安堵した。

「まあ、それはイイよ。それより大変だろ?」

「そぉうなんデスヨ!アルマったら働きもぜずにゴロゴロと!仙一郎の苦労が分かりますヨ!」

仙一郎は彼女の言葉に苦笑いを浮かべるしかなかった。そして、リザの長々と続く愚痴がひと段落してから口をひらく。

「それでアルマのことなんだけど、彼女に…謝るから帰ってくるように言ってくれないか?」

リザはそれを聞いて微笑んだ。

「仙一郎ならそう言うと思ってましたネ!それに、これ以上アレがウチに居たら身上をつぶされてしまいますヨ!」

「ははは…」

リザの愚痴に仙一郎はまた苦笑いを浮かべた。


それから二人は連れ立って駅へと向かった。階段を下りると朝のラッシュアワーの時間もひと段落して閑散としたホームの端、美咲がいるベンチの前に制服姿の少女が立っているのが見える。黒髪をツインテールにまとめたその少女の制服は美咲と同じものだった。人の気配に気づいた彼女は二人を見ると軽く会釈をして近づいて来た。

「姉の…小田美咲のお知り合いの方ですか?」

「ええ、ちょっと縁があって…」

流石に亡くなってから知り合ったとは言えないので仙一郎は、奥歯に物が挟まったような答えをするしかない。美咲の妹、十万里はあまり気にすることなく再び頭を下げると礼を言う。

「姉のためにありがとうございます。私は妹の小田十万里といいます。」

「あ、僕は早見。早見仙一郎って言います。こちらはリザ。」

リザが軽く会釈をすると十万里は少しだけ見入った後に慌てて頭を下げた。

仙一郎はといえば、十万里と話している間ずっとこちらを見つめていた美咲が気になっていた。やはり妹のことが心配なのだろう。彼はベンチの横、屋根の支柱際にある十万里が供えたであろう花束と缶ジュースのとなりに、持ってきた花束を供えリザと共に目を閉じ手を合わせた。寸刻の後、目を開けると離れた場所にいた美咲がすぐそばに立っていて彼は身体をビクっと震わせて驚く。彼女はすまなさそうに小声で彼につぶやいた

「早見さん、妹に…十万里に色々話したいことがあるので間に入ってもらえませんか?」

仙一郎は小さくうなづくと十万里に言った。

「立ち話も何だから取りあえず座らない?」

そして十万里をベンチに座らせると彼女の右隣に座り、リザは立ったまま彼の横に添った。

十万里を挟んで反対側には彼女には見えていないが美咲が座る。並んで座る二人はやはり姉妹というべきかよく似ている。美咲ははやる気持ちを抑えて仙一郎に言う。

「あ…あの、元気にやってるか聞いて下さい!」

それを受けて仙一郎は十万里に訊ねる。

「初対面でこんなこと聞くのも何なんだけどお姉さんの件はもう大丈夫?」

「あ、気にしないで下さい。むしろ誰かと話したいなぁと思ってたとこなんです。」

十万里はそう言うと続けた。

「やっと気持ちの整理がついたというか…つけるために今日はここに…」

そう仙一郎に言うと遠くを見つめるように空を仰いだ。

「実は、ここには一度も来たことないんです。来れなかったんです。やっぱり半年位は何が起こったのか理解できなくて…落ち込んで部屋に引きこもることも多くて。何でお姉ちゃんが?とかイジメてた人達が憎くて殺してやりたいとも思いました。でも…」

そう言うと黙って聞いている仙一郎の方を見て言葉を呑む。

「ごめんなさい!私ばっかりしゃべっちゃって…」

「気にしないで。やっぱり誰かに聞いてもらうとスッキリすることもあるし、聞きたいのもあるから。」

仙一郎がうながすと十万里は軽くうなずいて続ける。

「いつまでもくよくよしてたらお姉ちゃんに怒られると思って。昔、まだ小さかった頃、弱虫の私が泣いてると言ってたんです。悲しいこと辛い事があったら泣きたくなるだろうけど、泣いてたらもっとつらく悲しくなるよ。そんな時こそ笑顔でいれば楽しくなるし嬉しくもなるって…」

「いいお姉ちゃんだね。」

そう仙一郎が言うと十万里は笑顔で応えた。

「それを思い出してからは笑顔でいようって決めたんです。今日ここに来たのも、もう大丈夫だよって伝えるためで…何となくなんですけどお姉ちゃんまだここに居るような気がして。」

「十万里…」

美咲が名を呼ぶが元よりその声は届かない。

「お姉さんにも届いてると思うよ。」

仙一郎の言葉に十万里は再び笑顔を見せた。

「あ…あと、嫌いなニンジン食べられるようになったか聞いて下さい。」

「うぇ?」

美咲が変な事を言い出したので仙一郎は思わず声を上げる。難色を示す仙一郎に美咲は手を合わせ懇願するので彼は仕方なしに訊ねる。

「ええっと嫌いなニンジンは食べられるようになったのかな?」

「なっ!なんでそんなこと知ってるんです?」

十万里は顔を真っ赤にし声を荒げて身構える。

「その…なんだ…お姉さんがよく愚痴ってたんで!心配してたんで!ほら!僕にじゃなくて天国のお姉さんに報告するみたいな?」

「お姉ちゃんったらそんなことまで…まあイイですけど。まだニンジンは大嫌いです!」

「はは…そうなんだ…」

「でも、これからは少しずつでも食べるようにするから心配しないで…お姉ちゃん…」

十万里はそう自分に言い聞かせるように言った。それからも美咲の心配性っぷりを発揮した質問は続き、仙一郎はヤケクソ気味に十万里に伝えた。朝ちゃんと起きられてるのか、から宿題はちゃんとやってるのか、まで。さすがに、下着は毎日かえてるかを聞くのは躊躇した仙一郎だったが、そこはリザが助け船を出して聞いてくれたので無事、下着は洗い立てを毎日かえていることを確認できた。

「ホントにお姉ちゃん色々としゃべりすぎ!個人情報のロウエイだよ!」

「申し訳ない。」

仙一郎が謝ると十万里は立ち上がり伸びをして言った。

「いえ!なんかスッキリしました!ありがとうございます早見さん。」

笑顔を見せる十万里の姿を見守る美咲の表情もどこか穏やかだった。


話もひと段落したちょうどその頃、仙一郎らに話しかける声がした。

「やっぱりこっちに居た!」

その声に振り返る十万里の顔が途端に険しくなる。

「山上!」

十万里がそう呼んだ少女は、ちらりと仙一郎とリザを見るとゆっくり十万里に近づいた。派手な柄のボートネックのTシャツにホットパンツのラフな格好をした今風の若者といった雰囲気のその少女は十万里の前に立つと鋭い目つきで睨み吐き捨てた。

「あんたの姉ちゃんのせいでこっちはとんだとばっちりだよ!」

「何の話?」

十万里の口調も刺々しい。

「勝手に自殺なんかして…私達はふざけてただけなのにさ!」

「よく言うよ!あんた達のイジメのせいでお姉ちゃんは…」

仙一郎は二人の口論を立ちつくしておろおろしながら見ていると、突然として嫌な気配を感じる。それは殺気と言っても良い気配。身体にねっとりまとわりつくようなドス黒い感情。その気配の出所を探るとそれは美咲からだったのだが彼は一瞬それが彼女だと分からなかった。それほど雰囲気が違ったのだ。イジメの張本人である山上を睨む美咲のその様子はまさに怨霊といっていい様相だったので仙一郎は愕然とした。

「美咲さ…」

おもわず彼女に近寄ろうとするが危険を感じたリザに腕をつかまれ止められる。

その間も山上の怒声は続く。

「学校はイジメの張本人呼ばわりされて結局、転校だし、親からも怒られて散々だよ!そのうえ名前と住所がネットに流失して私ひとりが悪者扱い。外もまともに出歩けないじゃないか!」

「そんなの自業自得じゃん!」

「その事でアンタのこと探してたんだよ!」

山上は十万里の胸を人差し指で小突き彼女は睨み返す。

「何よ!」

「ネットに住所とか書き込んだのアンタじゃないの?ずっとワタシのこと目の敵にしてたし!」

「信じられない!逆恨みをいいところだよ!私そんなことしてないっ!」

わなわなと震えて怒る十万里に山上は追い打ちをかける。

「アンタの姉も、どうしようもないクソ野郎だったけど姉が姉なら妹も妹だな!アンタも死ねばイイのに!」

そのひとことに十万里は逆上し山上につかみかかる。

「お姉ちゃんのことは悪くいうなっ!」

二人は取っ組み合いを始める。

「ちょっと二人ともやめっ…」

仙一郎は割って入ろうとするが止まらない。

彼は助けを求めるようにリザを見ると彼女はやれやれといった風に二人に近寄ろうとする。

「お前のせいでお姉ちゃんは!」

「うぜぇ!クソ女!」

罵詈雑言が飛び交い、もつれ合う、ちょうど到着しようとしていた電車がホームの騒動に気づいたのか警笛を鳴らす。なおも止まらない二人の争い。

「このっ!」

十万里が掴まれた手を押し返そうとしたとき、山上が身体をひねり半身の体勢になったためバランスを崩した十万里は勢い余ってホームの端から線路へ。電車の警笛がけたたましく鳴り響く。

「危なっ!」

仙一郎が叫ぶのとほぼ同時に今まさに線路に落ちようとしていた十万里の身体が突然静止するとビデオ映像を巻き戻すようにホーム上に戻るような動きをする。電車のブレーキが軋む音が響くホーム上に仙一郎が見たものは十万里を抱えたリザの姿だった。吸血鬼であるリザが人智を超えたその速さで十万里を受け止めたのだ。

「十万里ちゃん大丈夫!」

仙一郎は駆け寄るとリザに支えられた十万里に声をかけるが放心状態で応えられない。

「危なかったデスネ!でも怪我は無いデスヨ!」

リザは何事もなかったかのように平然と答える。

「助かったよ!」

仙一郎が礼を言うとリザは嬉しそうに微笑む。

すると遠くから騒ぎに気づいた駅員が仙一郎らの所へ駆け寄ってきた。

「ちょっと君たち!危ないじゃないか!」

それに一番早く反応したのは山上だった。これまでとは全く違うほがらかな笑顔で言う。

「すみませーん!ちょっと友達とじゃれあってただけなんですぅ。気を付けまぁーす!」

「本当気を付けて下さい。危ないからあまりホームで騒がないように!」

怒る駅員の注意に素直に頭を下げて謝り続ける。その様子を見ていたリザは抱えていた十万里を仙一郎に任せると山上に歩み寄り彼女の肩に手を回し仲が良いことを駅員に訴えるようにして口を挟む。

「申し訳ございませんネ!気を付けますんデ平にご容赦くださいデース!」

「本当に気を付けて下さいよ!」

二人の様子をみて駅員は呆れたように注意すると去っていった。駅員の姿が見えなくなると突然リザは山上の胸倉をつかみ睨みつける。

「何だよ?放せよ!」

山上は抗うがびくともしない。不穏な空気を感じた仙一郎が声をかける。

「リザ!」

「仙一郎、安心しな!殺しはしないからさ。」

リザの口調が普段とはガラリと変わり目の色も赤く染まっている。その豹変ぶりは仙一郎が殺されかけた時と同じであったが、あの時と違い殺意は微塵も感じられなかったし仙一郎は今の彼女の事を信頼していたのでその言葉を信じ成り行きを見守ることにした。

「お前、偶然のふりして彼女が線路に落ちるようにわざと動いたろ!」

リザは山上を睨みそう詰問する。

「なに言ってんの?そんな訳ないじゃん!」

「電車が来るのをチラッと確認したのも、タイミング合わせて彼女を煽ったのもわかってるんだよ!もみ合ってるようにみせて突き落そうとしたのもな!」

「そんなこと、してませーん!」

山上はふざけた口調であくまでも否定する。その態度にリザの口調が厳しくなる。

「私は人を痛めつけて苦痛を味わわせることに喜びを感じるサディストだし、人を殺すことなんか何とも思っちゃいないがお前のやり口には反吐が出るんだよ!」

「だぁかぁらぁ、してないって!でも…もし姉妹そろって電車に惹かれて死んでたら笑えたんだけどね!」

山上は薄笑いを浮かべそんな当てつけがましい言葉を吐く。仙一郎はその時、彼女が見せた表情があまりに邪悪で化物じみていたことに戦慄した。その態度を見たリザは突然、山上のみぞおちに拳を入れる。

「がっ!」

短いうめき声を漏らし腹を押さえて倒れこみ嘔吐物をぶちまける山上。

「リザ!」

さすがに仙一郎は声をかけるが彼女には届かない。リザは彼女の喉を片手でつかむと軽々と持ち上げ締め上げ言う。

「お前も苦痛の果てに一回死んでみたら少しは賢くなるんじゃないかな?」

「うっ…うっ!」

山上は息ができずジタバタと空中で暴れ逃れようともがくがびくともしない。首に食い込むリザの指に今にも握りつぶしてしまいそうなほどにギリギリと力が加わる。

「リザ!やりすぎだ!ストップ!ストップ!」

仙一郎が語気を強め叫ぶとリザはぴくりと反応して山上を放す。解放された山上は地面に這いつくばって苦しそうに咳き込む。リザはしゃがみこんで彼女の顔を覗き込むと言った。

「命びろいしたな!でももしこの先、小田十万里にちょっかい出すようなことがあったら…」

リザは山上を睨みつける。

「殺すぞ!」

その言葉はあまりに冷たく鋭く山上はそれが嘘偽りない言葉であることを感じ恐怖した。

「ひっ!ひやぁぁぁ!」

山上は情けない声を上げ這うように逃げていった。ホームは静寂を取り戻しリザは振りかえって仙一郎に詫びる。

「ごめんなさいネ仙一郎!ちょっとエキサイトしてしまいマシタ!」

そう言うリザはいつもの様子に戻っていた。

「ホント、荒っぽいのは勘弁してくれよ。」

「ホント反省してマス!」

仙一郎の小言にリザがあまりにもしゅんとしてしまったので彼は続けて言った。

「でもまあリザは眷属だから行動の責任は主である俺にあるって事であまり気にするな。それに…俺もちょっとあの態度にはムカついてたからスッキリした。」

「ケーセネーム!仙一郎!」

リザはそう言うとほっとしたような表情をした。

「あ…あのリザさん!ありがとうございます!」

その時、やっと茫然自失から回復した十万里がリザに話しかけてきた。そしてリザの手を握ると感謝の言葉を矢継ぎ早にかけ続ける。十万里は自分を助け山上をやっつけてくれたリザの事をいたく気に入ったようで、二人はすっかり打ち解け、色々と話が弾んでいるようだった。

仙一郎はそんな二人から離れて美咲のもとへと向かった。あれからずっと立ちつくし禍々しい気配を振りまく彼女に近づくと呼びかける。

「美咲ちゃん!」

彼女はその声に反応しない。よく見るとうつむいた口もとが微かに動いて何かつぶやいているので仙一郎は耳をすます。

「殺す…殺す…殺す…」

念仏のようにブツブツと繰り返す。自分をイジメた張本人、山上の出現が彼女の悪霊化に拍車をかけたようで仙一郎は何とか彼女を正気に戻そうと何度も名前を呼ぶがまったく反応がない。このままの状態が長引くのは非常に危険だと考えた仙一郎は最後の手段に出ることにする。

「十万里ちゃん!ちょっとこっちに来てくれるかな?」

仙一郎がリザと話し込んでいる十万里に声をかけると彼女は何事かとやって来た。

「何ですか?」

「ちょっとここに立っててくれない。」

仙一郎は美咲の前に十万里を立たせるが無論幽霊の美咲のことは十万里には見えないので彼女はその変な要求を不審がる。

「ホント何ですか?」

「お願いしますネ!ちょっとそのママ!」

リザがそう助け船を出したので彼女は渋々従った。そわそわと落ち着きなく周りを見回す十万里を置いて仙一郎はそっと美咲の脇に移動すると小さな声で語りかける。

「美咲ちゃん!分かる?目の前にいるのが誰だか分かる?十万里ちゃんだよ!ほら!妹のためにも正気を取り戻して。」

仙一郎は妹がそばに来れば何か変わるのではと思ったのだが美咲の様子は依然として変わらない。彼は美咲が放つ殺気に目がくらみ胸がむかむかして立っているのもやっとだった。

「お姉ちゃん…」

唐突に十万里が口にする。

「あれ?何で私…」

彼女は何故、自分がそんな言葉を漏らしたのか理解できず当惑そうな色を浮かべる。見ると彼女の頬には涙がつたっていた。

「あれ?あれ?どうして私、泣いて…」

それに気づいた十万里は涙を拭うがぽろぽろと流れ落ちるしずくは収まらない。すっかり混乱している十万里にリザは寄り添い声をかける。

「大丈夫!大丈夫ネ!落ち着いテ!」

姿が見えないとはいえ十万里には何か感じるものがあって思いがあふれたのだろう。結果的に十万里を悲しませてしまった仙一郎は、もう十分だと思い、取りやめようとした時のこと、

「十万里…」

美咲がそう言うのを仙一郎は聞いた。振り返ると彼女は正気を取り戻しているようで、今まで感じていた禍々しい気配も感じられなかった。十万里の声が届いたのだ。どうにかこうにか当面の危機を脱し仙一郎は、ほっと安堵のため息を漏らした。


時刻はすでに正午に近かった。

気持ちが落ち着いてから十万里は時間もあるのでとリザと仙一郎に礼をいうと帰路についた。仙一郎は一連の騒動でどっと疲れが出たのかベンチに腰掛けると大きくため息をついた。その様子を隣に座って見ていた美咲は声をかける。

「色々とごめんなさい早見さん。」

「いや良いよ。それより全然助けになれなくてごめん。」

仙一郎は自嘲気味に答えると美咲が異を唱える。

「そんなことありません!十万里の様子が知れて本当に良かったです!色々と妹に聞いてくれてありがとうございました。逆にそのせいで十万里に早見さんのこと変な人と思わせてしまったみたいですけど…」

「それは良いよ。そもそも変わり者だし何より助けになりたかったから。」

「ホント、仙一郎は変人ですからネ!」

リザが笑みを浮かべて横から口を挟む。

「あー!それを他人に言われるのはなんかヤだな、リザだって普通に人ではないじゃん!」

仙一郎が文句をいうとリザは笑みを浮かべた。

「仲良いですね!」

二人のやり取りに美咲も顔をほころばせたがすぐにうつむいて思いつめたような表情に変ずる。それに気づいた仙一郎が声をかける。

「どうかした?」

「私…ダメな姉ですよね…あんな良い妹を残して自殺するなんて…」

美咲の言葉に彼はムキになって反論する。

「そんなことない!美咲ちゃんは妹想いの良いお姉さんだよ!それは十万里ちゃんを見てれば分かる。自殺したことだって美咲ちゃんは全然悪くない。100%悪くない。そこまで君を追い詰めたヤツらが悪いんだ。」

仙一郎が語気を強めてまくしたてるので美咲も戸惑った表情を見せ、それに気づいた彼はばつが悪そうに黙り込んでしまった。

「本当にありがとうございます早見さん。それで迷惑ついでにもうひとつお願いがあるんですけど…」

仙一郎が顔を向けると彼女は真剣な顔つきで言った。

「私のこと消し去ってもらえませんか?」

「はぁ?」

仙一郎は思わず立ち上がって声を荒げてしまう。

「さっきみたいに怒りで自分が自分じゃないみたいになって誰かを傷つけしまうことが怖いんです。私が人を殺してしまう前に、せめて十万里に誇れる姉のままでいたいんです。だから…」

「そんな…」

「リザさんなら何か方法を知っているんじゃないですか?」

美咲はずっと黙って聞いていたリザに話しをふると彼女は、やれやれといった風に口をひらいた。

「アルマから大体の話は聞いてますケド、除霊はあまりお勧めしませんネ。特に美咲ちゃんは地縛霊ですカラ魂がこの場所にへばり付いている状態で、それを無理矢理引き剥がすようなコトをすれば魂がズタズタになって…」

リザはチラッと仙一郎の方を見ると続けた。

「完全に消滅する可能性が高いデス。それは天に召されず地獄に堕ちることさえ叶わない最悪の展開にしかなりませんネ。」

「それでも…」

美咲がそう言いかけると仙一郎が言葉を遮る。

「ああっと!もうこんな時間かー。どうりでお腹が空いてる訳だー。美咲ちゃん話の途中にゴメン!ちょっとお昼食べてくるから続きは戻って来てから。」

そして彼はリザを引っ張って美咲の元を忙しなく離れたのだった。


二階にある改札を抜けたすぐ外にあるイートインに仙一郎とリザの二人はいた。お腹云々は美咲の元から離れるための口実だったが実際、昼時だったので食事をすることにしたのだ。

仙一郎が、頼んだランチセットに手もつけず黙って物思いにふけっているので、対面に座るリザが同じく頼んだメニュー ───おむすびに厚焼き玉子、お新香に味噌汁のセットのおかずを箸でつつきながら声をかける。

「少し食べた方が良いですヨ!」

「アルマが…」

仙一郎はぼそりとつぶやく。

「アルマが言ってたんだ。最後まで責任を持てないのならかかわるなって。美咲ちゃんが望むなら除霊してやるのが俺のやるべきことなのかな?」

それは目の前のリザに語りかけるというよりも自問に近かった。リザはアルマが自分を仙一郎について行かせたのも彼の性格上こうなることを予見していたのだろうなと思った。

「仙一郎がそう望むならワタシは従いますヨ。一応、除霊的なモノは学んでますカラ。でもさっき言ったように彼女をこの世から完全に消滅させてしまうよな結果になりますケド…」

黙ったままの仙一郎にリザは続ける。

「でも放っておいてもいつか悪霊化して人を殺めて地獄に堕ちるだけですから八方ふさがりデスネ。」

なおも黙ったままの仙一郎の沈痛な表情にいたたまれなくなったリザは提言する。

「とりあえず今すぐどうこうって話じゃないんですカラ結論は一度帰ってゆっくり考えましょネ!ネ?」

仙一郎はうつむいたまま小さくうなずいた。


結局、仙一郎とリザの二人は今日は帰ることにし美咲に一言入れるため一度ホームに戻ることにした。仙一郎もその選択が問題を先送りするだけで何の解決にもならないことは十分理解していたが、もうどうしたらいいのか分からなくなっていたので渋々承諾したのだ。とぼとぼと歩く仙一郎の後ろに付いて歩くリザ。階段を下りる彼の寂しそうに揺れる背中を見ていた彼女は確と立ち止まると少しの間天井を仰ぎ見てから仙一郎を呼び止めた。

「あー仙一郎?今思い出したんですケド、彼女を助ける他の方法があるとしたらワタシにやれせてもらえますカ?」

階段の途中で立ち止まって振り向いた仙一郎の目が輝き身体を乗り出して言った。

「本当に?それが本当なら是非頼むよ!」

「ええ!本当デスヨ!でもコレは仙一郎が凄く辛い思いをするかもしれないんですケド構いませんカ?」」

そう聞くと仙一郎は真一文字に口を結んでうなずいた。

「なら早速始めましょう!行って美咲ちゃんに知らせて上げテ!」

「ありがとうリザ!」

リザの言葉に仙一郎は礼を述べ、喜び勇んで階段を駆け下りていった。


仙一郎が転びそうになりながら慌てて駆け寄って来たので美咲は目をパチクリさせる。

「リザが方法を知ってるんだ!だから大丈夫!美咲ちゃんはちゃんと成仏できるんだよ!」

興奮気味に息を切らせながらしゃべる仙一郎にたじろぎながらも美咲は彼をなるべく落ち着かせようと静かにゆっくりと礼を言う。

「ありがとうございます。」

そして、嬉しそうに目を輝かせている仙一郎の顔色をうかがいながら続ける。

「でも、もしかして…」

そう言いかけたときにリザがスマホで誰かと話しながら二人の元へやって来た。

「それじゃ、よろしくデス!」

そして通話が終わるとリザは、すっかり安心しきった表情で立っている仙一郎と心配そうな顔つきでそのかたわらにいる美咲を交互に眺めた。

「あ…あの…リザさん。もしかしてですけど…」

美咲がおずおずとリザに訊ねるとリザは人差し指を口元にあてて美咲の言葉をさえぎったので美咲はそれ以上何も言わなかった。

{さて…」

リザはホームの端、白線ぎりぎりのところまで歩を進めると腰に手をあて遠く線路の先を眺め言った。

「ちょうどイイみたいデスね!」

何を言っているのか分からなかった仙一郎が

呆けていると背中を向けて立っていたリザは振り返り微笑みを見せて彼に言う。

「仙一郎、てはずは整えておきましたカラ心配しないで待っててクダサイネ!」

静かなホームに遠くから近づく上り特急の警笛の音が聞こえ、その方向をリザが注視する。

仙一郎はその時やっとリザが言う美咲を救う方法に思い至って背筋に冷たいものが走った。美咲を救いたい一心で、その事に気づけなかった自分の愚かさを呪った。

警笛の音を響かせ特急電車は地鳴りとともにホームへ。

「リ…」

助けることはおろか名前を叫ぶ間さえなくリザはホームへ入ってきた特急電車めがけためらうことなく身を投げる。車輪の軋む音に車両に物が打ち付けられる鈍い音が身体を震わせる。

その光景を目の当たりにして彼はその場で呆然と立ち尽くす。確かめるまでもなくリザが即死していることは明白だった。リザが言っていた美咲を助ける手段は単純なことで、彼女が呪縛から解放されるそもそもの条件、新たな投身自殺者が代わりに地縛霊になるという条件をリザが満たすことだった。無論、彼女は不死身の吸血鬼であるから生き返り、この場所の地縛霊は空席となり呪縛の連鎖も断ち切られるという寸法だ。

仙一郎はリザが吸血鬼であることをすっかり失念していて、そんな荒業にでるとは夢にも思っていなかったのだ。電車は緊急停車し駅員が慌ただしく走り回り、少ないながらもホームにいた人達がザワつきスマートフォンを事故現場に向ける。その喧噪の中、美咲が仙一郎の名を呼ぶ。

「早見さん!」

見ると美咲の姿はすでに薄っすらと透けて消えかかっているようだった。

「大丈夫ですよ!リザさんは必ず生き返りますから。安心して!それと本当に色々ありがとうございました!リザさんにも私が感謝してたって言っておいて下さい。」

「美咲ちゃん…」

仙一郎がそう答える頃には笑みを浮かべる彼女の姿はすでにおぼろげとなっており程なくして霧散してしまった。ひとり取り残され複雑な気持ちでぼんやりと美咲のいた場所を眺めていると右手に違和感を感じ、見ると彼女がしていたシュシュが彼の手には握られていた。

遠くから救急車のサイレンの音も聞こえ始め騒然とするホーム上で仙一郎は独りいつまでも立ち尽くすしかなかった。




無力感と焦燥感、それらの感情がごちゃ混ぜになって仙一郎の身体中を駆け巡り、どうしようもない脱力感にアパートの部屋で気晴らしに始めたデッサンの手も進まない。

駅での件からすでに一週間たっていたが、いまだにリザの安否は知れない。あのあと仙一郎は警察で一通りの事情を聞かれたが自殺であることが明らかで事件性がなかったこともあって早々に開放された。

昼下がり、仙一郎はひとりアパートにいた。

狭い部屋には不釣り合いな、台座の上に乗った胸像 ───浪人時代、美術予備校の払い下げで安く手に入れたローマ皇帝プブリウス・セプティミウス・ゲタの石膏像。通称でゲタと呼ばれる像を見つめていると、そのパンチパーマの小太りのおっさんのような顔さえ自分を責めているように見えて仙一郎は手に持った木炭を放り投げベットに仰向けに倒れこんだ。

結局、美咲の件では何もできずそれどころかリザに最悪の選択をとらせてしまうという結果を招いた自分の不甲斐なさに食事も喉を通らず、ろくに眠れない日々が続いていた。最近おちいっていた絵のスランプも相まって精神的に最悪な状態。横になっていると不意にお腹が鳴って昨日から何も食べていないことに気づきテーブルに置いてある木炭で汚れた食パン ───木炭デッサンで消しゴムとして使う用具をちぎって口に放り込むと苦い味がいっぱいに広がる。

待っててくれと言っていたリザの音沙汰が一日がたち、それが二日、三日と過ぎても、まったく分からないことで仙一郎の不安も日に日に増し気づけば一週間。今この瞬間、突然玄関のドアが開いて元気な姿を見せてくれるかもしれないと期待する一方で、それが一か月後になるのか一年後、あるいは何十年後になるか分からないのは想像以上に彼をわずらわせ、そもそも本当に生き返るのだろうかという悲観的な考えさえも抱かせた。

リザが住んでいるマンションの場所を教えてくれなかったこともあって ───それはアルマが居候している事を隠すためだったが、街中をあてどなくうろついて探したこともあったが、最近はそんな気力さえなく一日中アパートで寝転がっている事も多かった。

ベッドの上、ぼんやりと天井を眺めていると突然玄関のチャイムが鳴る。彼は飛び起きると玄関に向かう。どうせ新聞の勧誘か何かだろうとは思ったが、もしかしたらと思うと扉を開けずにはいられなかったのだ。

「こんばんわー。朝売新聞の…」

玄関の扉を開けると新聞勧誘の中年男性が立っていたので仙一郎は挨拶も途中で即座に扉を閉めきびすを返しベッドに倒れこむ。程なく再びチャイムが鳴る。先ほどの新聞勧誘員だろうとは思ったが万が一を思うと応答せずにはいられない。案の定、先ほどの男性なのでイラ立って怒鳴り声を上げてしまう。

「新聞とる気はありませんから!洗剤も野球のチケットもいりません!帰れっ!」

扉を思い切り締めるとベッドの上に引き返す。もう何も彼にも嫌になって今日は酒でも飲んで寝ようと思った仙一郎だったが冷蔵庫のビールがきれてることを思い出しコンビニに買い出しに出る事にした。のっそりと起き上がると重い足を引きずって出かける用意をし、玄関を出ると扉の前に人が立っていた。

「スィア!スィア!仙一郎~!」

ニコニコと笑顔で手を振るその人物は紛れもなくリザだった。

「リザ!」

仙一郎は思わず感情があふれ出て彼女を突然抱きしめてしまう。

「よかった無事で!」

彼は腕の中の確かな温もりに本当に彼女がその場にいること感じて泣きそうになった。そんな彼にリザは申し訳なさそに言う。

「熱い抱擁は嬉しいんですケド、まだ傷が癒えてないので少し加減下さいマスカ?」

見るとリザは脂汗を流し笑顔の口元も引きつっていたので仙一郎は慌てて飛びのいた。

「ごめん…でもホント帰って来てくれて嬉しいよ!」

「ご心配オカケしましタ!チョット生き返るのに時間かかってしまいましたネ!」

潤んだ瞳で見つめる仙一郎にリザもグッときたのか二人はしばらく見つめ合う。

「んんっ!おほん!」

その時リザの後ろから咳払いが聞こえ、見るとそこにはアルマがいた。

「あ!アルマ…」

仙一郎がとってつけたように名前を呼ぶとアルマは歩み寄り、出し抜けに仙一郎のむこうずねを思い切り蹴る。

「痛っ!」

仙一郎が声を上げるとアルマは彼を睨みつけ再び何度もすねを蹴りながら怒鳴り散らす。

「画学生!其方が謝罪するというから帰って来てみれば目の前で他の女と乳繰り合いおって!きちんと反省しておるのか?この不埒者が!」

「痛い!痛い!痛いから止めて!」

哀願するが弁慶の泣き所に降り注ぐ足蹴りの連打は止まらない。それどころが激しさを増していく。そしてアルマは顔を真っ赤にして眉間にシワを寄せ大声で叫びながら強烈な蹴りを放つ。

「其方のことなんか、もう知らん!馬鹿っ!」

「いってぇぇぇ!」

最後の一撃は鈍い音を立てて仙一郎のすねに突き刺さり彼はさすがに足を抱えてしゃがみ込んでしまう。アルマはと言えばきびすを返して走り去ってしまった。

「はぁ…ホントにメンドサイ子デスネ…」

リザは去っていくアルマを見ながらため息まじりに独り言をつぶやいていた。


部屋の中は散らかり切っていた。ずっと精神的にまいっていた影響で掃除もままならずコンビニ弁当の食べ残しにペットボトル、脱ぎ散らかした洋服に雑誌に得体の知れない物体までもが散乱しその上さっきまでデッサンをしていたせいでイーゼルに大きな石膏像が鎮座して中々混沌とした状態。テーブル周りだけ何とか空間を作りリザにお茶を出し向きあって座り一息つくと、仙一郎はさっき彼女に抱き付いてしまったことが急に恥ずかしくなって顔が見れなかった。普段なら絶対しないような、あんな大胆な感情表現をしてしまったことが自分でも不思議だった。彼がうつむいて黙っているとリザは唐突に声を発した。

「アルマを連れてきたのは失敗でしタ、ごめんなさいネ!」

仙一郎は。はっとなって慌てて応える。

「いやイイよ。アルマには後であらためて説明するから。それよりリザ…本当にごめん。」

仙一郎はテーブルの対面に座るリザに頭を下げると彼女は慌てて答える。

「頭を上げてクダサイ!ワタシは仙一郎の眷属ですカラ!当然のコトをしたまでデス!」

仙一郎が顔を上げ申し訳なさそうな表情を見せると彼女は駅での件以降の事を話してくれた。列車に轢かれ警察署に搬送された彼女の死体はあらかじめ電話しておいたアルマが回収し証拠隠滅や記憶改ざんなど諸々の事後処理をした上でマンションに運び込み回復するのを待っていたということだった。

「それで今日やっと動けるようになったのデ帰ってきましたネ!サスガに上半身と下半身が真っ二つだったノデ生き返るのに時間がかかってしまいましたネ!」

リザがケロリとした様子で説明するので仙一郎は声を荒立てる。

「いくら生き返れるからって命を粗末にしちゃダメだ!」

そう言ってから自分の怒声にリザが驚いて目をぱちくりとさせていることに気づいて深呼吸してから静かに続けた。

「ごめん。でもリザが死ぬのは君だけの問題じゃなく周りの人達が心配したり悲しんだりする事でもあるんだから軽々しく死んだりしないでくれよ。」

そう言われてリザは心苦しいと同時に嬉しい気持ちが一緒くたになってどういう顔をして良いのか分からなくなった。そんな気持ちは数百年生きてきて ───残虐な血に飢えた化物だった大昔の頃はもちろん丸くなった最近でも、リザにとっても初めてのことで目の前にいるこの人は本当に変わった人だとあらためて思った。

「わかりました…もうしません!ごめんなさいデス…」

リザが想像以上にシュンとしてしまったので仙一郎は慌てて付け足す。

「いやでも、おかげで美咲ちゃんも無事成仏できたし、リザにあんなことさせてしまったのは俺の責任だから!何かお礼させてくれよ!」

「イエイエ!ワタシは仙一郎の眷属なんですカラお礼なんて…」

リザは言いかけて途中で考え込み、やにわに仙一郎にすり寄る。

「それじゃあ、お言葉に甘えテちょっとイイですか?」

リザはそう言うと顔を近づけ肩にに手を添え身体を寄せる。リザの身体の温もりがじんわりと肌に伝わり、柑橘系の甘い芳香が鼻孔をくすぐる。彼女が耳元でささやく。

「仙一郎のを…くださいネ…」

「ちょっ…ちょっと!ホテルでも言ったけどこういう流れでそういうコトするのは…」

彼の反応にリザは一瞬キョトンとした後、くすくす笑いながら言う。

「セックスしようってコトじゃありませんヨ!ちょこっと血を吸わせて欲しいのデス!まあ仙一郎がお望みならソッチの方でも構わないですけどネ!」

「ああっ!ソッチはしなくてイイです!ソッチは!」

仙一郎が顔を真っ赤にして慌てふためき否定するのでリザはその様子があまりにもおかしくて、すっかり元気を取り戻して楽しそうに言った。

「身体が再生したばかりでまだ万全じゃありませんネ。だから栄養満点な仙一郎の血がちょっと欲しいのデス!」

「ん~血かぁ…輸血したばっかりだから少し味は落ちるかのしれないよ…」

仙一郎がくずるのでリザは尚も口説く。

「問題ありませんネ!ちょっと不純物が混じってたとしても仙一郎のは至高の逸品デス!もちろんアルマには内緒でですケド、考えてみてクダサイ!溺れた人の口に息を吹き込むマウス・ツー・マウス。あれは医療行為であって決してキスではありませんネ!だからこれも体力回復するための医療行為なのデス。点滴するようなものだと思えばイイのデス!」

「んん~そう…だよなぁ…」

仙一郎の心が揺らいでいる様子を見逃さずリザはもうひと押しする。

「今回はそれだけの働きわぁしたと思いますケド-?」

「分かったよ!ちょっとだけだからな!」

仙一郎もそれを言われると折れるしかなかった。それを聞いたリザは嬉々として言う。

「それじゃあ早速!腕を貸してクダサイネ!流石に首筋に痕が付くとバレてしまいますのデ!」

「う…うん。」

仙一郎が戸惑いながらも言われた通りにTシャツから露出した左腕を差し出すとリザは両手で持ちゆっくり口をつける。短い痛みに続いてじんわりと温かい感触が腕に広がる。リザに血を吸われるのは二度目。一度目は吸い殺されそうになった時だが、その時の暴力的で身体中の精気を抜かれるような不快感とは正反対でゆっくりと優しくとても心地よい感触だった。リザはまるで赤子が母の乳を吸うような満ち足りた表情で彼の腕にしがみつく。やがて仙一郎も全身の力が抜け意識もぼんやりとしていった。そして、ここのところの寝不足からくる疲労もあったのか彼は強烈な睡魔に襲われ時をおかずに深い眠りに落ちてしまった。


数日後、9月初旬にしては暑い昼前、仙一郎は七浦駅前にいた。湾岸都市から少し離れた住宅地は海からの風に運ばれてほのかに潮の香りがした。彼が住む街から電車で一時間半ほどかかるその駅にやって来たのは美咲の妹、十万里の家を訪れるためだった。

美咲が成仏した時に彼の手に握られていた彼女のシュシュ。それはやはり十万里に渡すべきではないかと思ったからだ。仙一郎が、ぎらつく太陽を見上げ大きくため息をつくと背後から声がする。

「やっぱりアルマの事が気になりますカ?」ジーンズにTシャツのラフな格好のリザは仙一郎の顔を覗き込む。駅での一件以来、十万里と連絡を取り合う仲になっていたリザに住所を聞いたところ今朝急について行くと言い出したのだ。

「うん…まあ…」

仙一郎が浮かない顔をするのでリザは言葉をかける。

「アルマには、ちゃんと謝りたいと仙一郎が言ってたって伝えたんですケド聞く耳持たズデ…あれからずっとワタシんちの部屋にこもって出て来ないんで処置無しデスネ。まあ心配することありませんヨ!チョットすねてるだけデスカラ。頭が冷えるまで少し時間を起きましょウ!」

「そうだね、ありがとう。」

そう言うと仙一郎は歩き出した。彼はリザの安否の件で頭がいっぱいになっていてアルマのことを今の今までほったらかしにしていたことに気が咎めていたのだ。

十万里の家に向かう道すがら仙一郎がリザに話しかける。

「ところで何で今日はついて来たがったの?そんなに十万里ちゃんの家に来たかった?」

「いえいえ!ワタシは眷属デスカラ!仙一郎の向かうところリザありなのデースネ!」

「見え透いた感じがする!それにその肩から掛けてる大きなバッグが気になるんだけど!」

仙一郎が並んで歩くリザをジロリと見ながら詰問すると彼女はあっさり白状した。

「実は用事が終わったラ一緒に海岸に遊びに行きたかったのデス。いわゆるデートを…」

「そんなことだろうと思った…」

「アルマの事もありますシ他の女とイチャコラするのは気が引けるかもしれませんガ…バレなきゃ浮気じゃないんですヨ!」

「まあ俺もわざわざ届けに来たのも、ついでに近くの臨海公園でスケッチしたかったってのもあるからイイよ…」

仙一郎は画材の入ったショルダーバッグを叩きながら半分あきれ顔で言うとリザは小躍りしながら喜んだ。そんな話をしながら歩いているとほどなく閑静な住宅街にある十万里の家に到着した。

十万里が用事で不在なのは連絡した時。聞いていたので玄関で彼女の母親にシュシュを渡す。もちろん、自分は美咲の友達でシュシュは忘れ物だというウソを言って渡したのだが、受け取った母親はかしこまってしまい是非上がってお茶でもと言う。長居すればウソのボロが出てしまうので早々に立ち去りたい仙一郎が困っているとリザが助け船をだす。

「申し訳ございませんネ!この後、海でデートなのデおいとまさせて頂きますデス!」

そして半ば強引に逃げるように去ることに成功したのだった。


そこは海浜公園として整備された人工の海水浴場で、バーベキューや潮干狩りも出来る砂浜は休日なのもあってか9月にしては水着姿で遊ぶ人々でそれなりに賑わっていた。仙一郎は場に似つかわしくない普通の恰好 ───ジーンズに半袖シャツ姿で砂浜に立っていた。清んだ青空の下、広々とした海岸線に波頭が白い曲線を描き耳心地良い波音を響かせる。

あまりの気持ち良さに仙一郎が伸びをしていると突然リザに抱き付かれる。

「うぁわわっ!」

バランスを崩した仙一郎は叫び声を上げ尻もちをついてしまう。

「ごめんなさいネ!大丈夫デスカ?」

見るとそこには肌も露わなビキニの水着を着たリザがいた。何か準備があるからと離れていたのは、これに着替えるためだったのかと仙一郎は納得した。

「大丈夫!大丈夫!」

そうは言ったが右手に痛みを感じ、見ると人差し指から出血していた。砂浜に捨てられていた割れた瓶の破片で切ってしまったのだった。

「たっ!大変!」

それを見たリザは真っ青になって彼の手を掴むと赤く染まった指を咥え、傷口を舐め始める。何事かと回りの人々が眺める中、リザは臆することなく、ちゅうちゅうと指を吸う。仙一郎は回りの視線に耐えられず動揺を示す。

「ちょっ…ちょっと…リザ!」

彼女は気にせず、人差し指の血を丁寧に舐めとると吸血鬼の力なのか不思議なことに指の傷は跡形も無く消え去っていた。

「ホントごめんなさいネ!怪我させテ!」

「いやいやリザのせいじゃないし!そ…それより水着持ってきてたんだ。」

仙一郎が慌てて話題を変えるとリザは嬉々として答える。

「そっ!ドーデスカ?似合ってますカ?」

「あ…うん、似合ってると…思う。」

ヌードデッサンの時にリザの裸を見ているとはいえ、今の水着姿にはまた違った艶やかさがあって仙一郎は目をそらしあたふたとしてしまった。それを聞いたリザは一瞬眉をひそめると、いつも以上の笑顔を見せて言う。

「仙一郎?ちょっとスマホ貸してもらえますカ?」

「あ?うん。」

彼が渡すとリザはそのスマホで自撮りを始め姿勢を変え角度を変え何枚も撮り続ける。

「リザ?」

仙一郎が理解できない行動にポカンとしていると彼女は目の前にスマホを突き出した。

「着エロに勝るとも劣らない水着セクシーショットをイッパイ撮っておきましたカラ今晩の“おかず”にでも使ってクダサイネ!」

「ちょっ!何を言って…」

スマホ画面の胸の谷間が露な色っぽい画像を見せながら、リザがとんでもない事を言うので顔を赤らめて狼狽する仙一郎。

「は?ワタシのカラダではシコれないとデモいうんデスカ?」

「ちょっ!何でそうなる…」

「ワカリマセ―ン!」

リザはそっぽを向いてそう言うとスマホを彼のズボンのポケットに押し込み腕を組んでいった。

「ささっ!じゃあ、もうお昼ですカラ何か食べに行きましょうカ!」

「ちょっ!ちょっ!」

リザは、彼にもの言う暇も与えずに強引に引きずって砂浜を歩き去っていった。


正午を少し過ぎ、二人は砂浜から続く公園のベンチに座りフードトラックでテイクアウトしたタコスを食べていた。

「リザ、何か機嫌悪い?」

仙一郎は先ほどからの彼女の様子を不思議に思い訊ねる。リザはどこか刺々しい口ぶりで答える。

「全然そんなコトありまセーン!」

そう言うとタコスを勢いよく頬張り具の太いチョリソーをブチっと噛み切りモグモグ味わう。その様子に、仙一郎もきまり悪そうにタコスを口に運ぶ。

「せっかくこんなカワイイ水着なのに仙一郎ったら反応薄いんだカラ…まあ仙一郎ならしょうがないカ…」

「ん?何か言った?」

「ナンデモありまセーン!」

リザは小声で独り言を漏らしたが彼には聞こえていないようだった。しばらくしてから彼女は思いついたようにスマホを取り出し仙一郎と肩を組むと自撮りした。

「な!何?」

仙一郎が驚いていると彼女はスマホをいじりながら言う。

「せっかくだかラSNSに投稿するデース!彼氏と海でデートナウっト!」

「彼氏とデートって…」

「ワタシは彼氏と思ってますシ、デートのつもりですケド…」

リザが顔を近づけて悪戯っ子っぽくささやく。仙一郎が後ずさりしてたじろいでいると遠くから声がし駆け寄ってくる人影があった。

「リザさーん!」

それは十万里だった。

「母に電話したらこっちに来てるって聞いて…言ってくれればちゃんとおもてなししたのに!」

二人が海に行くのを聞いて捜し歩いていたのか、うっすらと汗を浮かべ肩で息をしながらリザに話しかける。仙一郎は彼女に声をかける。

「やあ!十万里ちゃん!」

「あ、早見さん。シュシュわざわざ届けていただいてありがとうございました!」

ちょっとだけ彼の方を見ると抑揚の無い声で上っ面だけの礼を言うとすぐに向き直りリザと話し続ける。

「それにしてもカワイイ水着ですね!スゴイ!スゴイ!スッゴーく似合ってます!」

十万里が目を輝かせるとリザはやにさがる。

「そーデスカ?そーデスヨネー!」

「ところでリザさん!せっかくだから市街の方に出ませんか?ショッピングストリートのイイお店とか紹介したいし中華街の美味しいとこにも連れてきたいんです!」

突然の十万里の誘いにリザは渋い表情を見せるが十万里はリザにしがみついてなおも押す。

「イイじゃないですか!はるばるこっちまで来てくれたんですから案内しますよ!ね!ね!」

「でもワタシは仙一郎ト…」

困ったリザは助けを求めるような眼で仙一郎を見るが、同じく十万里が彼を睨みつけ、邪魔しないでと言うかのごとく無言の圧力をかけてくる。その威圧感は魔物から感じるそれに勝るとも劣らない迫力で彼はあっさり折れた。

「折角だから行ってあげたら?リザ!」

「じゃあお言葉に甘えて!さっ!、行きましょリザさん!」

仙一郎がそう言うと十万里は声を弾ませリザの腕を強引に掴むと引きずって、あっという間に連れ去ってしまった。

「せっ!仙一郎ォ…仙一郎ォォォ…」

後には拉致されたリザの悲痛な叫び声がいつまでも高い空に響き続けるだけだった。





仙一郎は公園管理事務所の一室の椅子に座らされていた。テーブルを挟んで反対側には頭の薄い三十代の事務員が渋い顔をして彼を睨んでいた。

何故そんなことになったかと言うと三十分ほど前、リザと別れた仙一郎が本来の目的、風景のスケッチをするのに良い場所はないかと海岸線をうろついていると程なく海水浴場の監視員が現れ不審者として連行されてしまったのだ。たしかに彼の恰好は場にそぐわないものだったし辛気臭い雰囲気でウロウロしていたら不審者と思われても仕方なかったのかもしれない。その結果、事務所で聞き取りをされているという訳だ。

対面の事務員は仙一郎のスマホを片手に彼を追及する。

「だからさぁ!君、盗撮してたんだろ?この保存されてる水着の写真は何?」

「さっきから言ってるじゃないですか!それは友達の自撮りだって!」

リザが自撮りした水着姿の写真を消去せず残していたのがアダになった格好で仙一郎は完全に盗撮魔扱いされていた。

「正直に話した方が良いよ?」

「だからさっきから違うって!」

押し問答が繰り返され睨み合っているとドアをノックする音が聞こえ部屋に男性が入って来る。

「事務長、それじゃあ病院の付き添い行ってきますんで。」

「ああ、よろしく!」

男性がきびすを返して部屋を出ていくと事務長は仙一郎をねめつけぼやく。

「まったく!ここのところ貧血で倒れる人が多くてただでさえi忙しいって言うのに面倒増やさないで欲しいな!」

「だから盗撮なんかしてないって言ってるじゃないですか!」

貧血という言葉に少し引っかかった仙一郎だったが、自分の容姿だけを見て不審者扱いされていることに憤りを感じていた彼はそれほど気にとめなかった。仙一郎が中々認めないことに事務長は業を煮やす。

「画像消して厳重注意するだけで済まそうと思ったけど、あまり強情だと警察呼ぶよ?」

仙一郎は黙ったまま答えない。盗撮を認めれば解放されるのだろうが、してないものをしたって言うのは絶対に嫌だった。リザに連絡すれば誤解も解けると思った。それ以前にリザの吸血鬼の能力があれば事務所に連れて来られたこと自体なかったことにできるだろうがそれもやはり気が引けた。彼は、もう矢でも鉄砲でも持ってこいといった心境だった。

そんな時、再びドアをノックする音がする。

「失礼します!」

そう言って入って来たのが得体の知れない白黒の塊だったので仙一郎はギョッとした。よく見るとそれはペンギンの着ぐるみだった。

「朱夏さん。」

事務長がそう言うとペンギンの着ぐるみは反論する。

「事務長!この恰好の時は、海岸の平和を守る正義のペンギン、ペン子ちゃんだって言ってるじゃないですか!」

コウテイペンギンを模した150センチほどの着ぐるみはパーカーのようになっており、そこからのぞく顔は快活そうな少女のものだった。

「ああ!すまん!すまん!ペン子ちゃん。海岸の巡回ご苦労様でした。で?何の御用で?」

やれやれと言った風に事務長が話を合わせるとペンギン少女は仙一郎に近づき羽状の手で彼の肩をパタパタと叩きながら言った。

「すみません!ご迷惑おかけして!彼、知り合いなんです!今日逢う約束してて。」

「え?な…」

いきなり知らない少女にそんなことを言われ驚く仙一郎の言葉を遮って続ける。

「私が身元を保証しますんで解放して頂けませんか?」

「しかし…」

すると彼女は仙一郎の肩を抱きかかえ二人の親密さをアピールするように渋る事務長に向けてウインクする。

「ああっ…なるほど。分かりました!」

事務長は察したという風に了解し仙一郎は訳が分からぬままペンギン少女に引っ張られて事務所を出ることとなった。


状況が理解出来なかった仙一郎は建物を出ると西日の射し込む路上でペンギン少女の手を引き剥がし立ち止まり問いただす。

「君、誰?」

「せっかく助けてあげたのに第一声がそれってひどくないかい?」

彼女は腰に手を置き顔を突き出して不満を漏らす。

「助けてくれたことは感謝してるよ。とにかくありがとう!でも、ホント意味分からないんで説明してよ!」

「手短に説明すると逆ナンです。」

「手短すぎるって!」

仙一郎がツッコミを入れると彼女は微笑む。

「それもそうか!じゃっ自己紹介から。私は崎森朱夏、二十三。今はこの海岸でライフセーバーをやってるんだ。」

「二十三!」

仙一郎は思わず声を上げてしまう。身長とその童顔から、てっきり自分より年下だと思っていたからだ。

「ああっ!やっぱり私のこと子供かなんかと思ってたんだろう?」

「ごめんなさい!そんな恰好もしてるし…」

「これは海水浴場に来る人に親しみを持ってもらうためなんだから!」

そう言って突然、着ぐるみの胸元のファスナーを下ろすと水着姿の上半身を露にする。

「ほら!中身はこんなイイ女なんだぞ!」

そう言ってポーズをきめる。黄色と赤のツートンカラーのビキニを身に着けた身体は筋肉質で出っ張るところは出っ張り、引っ込むところは引っ込んでいて小麦色の肌がいかにも健康そうに感じられた。少し茶色ががった髪をポニーテールに結んだ頭を上に向け食ってかかる。

「学生証見たけど仙一郎君!私、年上なんだからね!」

「それは本当にごめんなさい。」

「うんうん!素直でよろしい!で、話を元に戻すと海岸の巡回のとき君の事見かけたんだけど、めっちゃタイプでさ!誘うチャンスをうかがってたって訳!だから事務所に連れたかれたときにhビックリしたよ!」

「ああそれで逆ナンってことですか。つまり魂胆があって助けてくれたと。」

仙一郎がそう聞くと朱夏はニヤッとする。

「そっ!だからこれからデートに付き合ってくれないなら、盗撮魔として事務所に逆戻りしてもらうよ!そう!はっきり言って脅迫です!」

「デート付き合いますよ。」

「え?」

仙一郎があっさり受け入れたので朱夏は拍子抜けのしたような顔をする。

「ウソをついてまで助けてくれた恩は返さないと美しくないですからね。」

「ははっ!君、変わってるね!でもそんなとこもイイね!」

朱夏は顔をほころばせて、照れる彼の肩を叩く。

「それじゃあ今晩、ここで花火大会があるんだけどそれに付き合ってもらおうかな!」

「いいですよ。でもまだ時間があるでしょ?」

日が暮れるまでまだあったので仙一郎がそう訊ねると彼女は即答した。

「だからそれまで、近くの水族館行って時間つぶそう!ささっ!」

朱夏はそう促すと手をとって引っ張って行こうとするので彼が慌てて問いかける。

「ちょっと!その恰好で行くつもりですか?」「あっ!」

朱夏はまだ自分がペンギンの着ぐるみなのに気づいて立ち止まる。

「あははっ!テンション上がってて忘れてたよ!事務所戻って着替えてくるから、ちょっとここで待ってて!」

朱夏はそういうとペンギンとは思えない速さで事務所へと走り去った。

ひとり取り残された仙一郎が返却されたスマートフォンでリザに電話すると、つながるなり悲痛な叫びが声が響いた。

「仙一郎ぉ!助けてクダサイ!アッチコッチに連れ回されてもうヘトヘトデスヨ!」

だいぶ十万里に振り回されているらしくリザは彼が話すヒマを与えず延々と愚痴り続け彼は聞き役に徹さざるを得なかった。

「そ…それはお疲れ様。まあ、そうそう会える訳じゃないんだし十万里ちゃんも喜んでるだろうから我慢してやってくれよ。」

「仙一郎がそう言うならそうしますけどぉ…」

話が途切れると仙一郎は彼女をなだめ渋々承諾させると用事が長引きそうなのでそのまま先に帰るように告げたが、さすがにデートの事は言えなかったので少し心が痛んだ。通話を切るとちょうど身支度を終えた朱夏が戻ってきた。

「お待たせ!行こか!」

白のTシャツ、水色のショートパンツに桜色のパーカーを羽織った姿で現れた彼女はいきなり仙一郎の腕に手を回す。

「ちょっ!」

仙一郎は腕に押し付けられた胸の柔らかい感触に慌てふためくが彼女は気にすることなく彼を引っ張って意気揚々と進んでいった。


水族館は海岸をはさんだ沖の人工島にある複合型遊園地の施設で仙一郎らがいた場所からは歩いて十分程で到着した。花火大会もあるせいか浴衣姿の男女などでそれなりに人も多い館内、水槽を泳ぐ色とりどりの魚を見て回る中、朱夏がうんちくを披露する。

「このエラブウミヘビは毒蛇でね、ハブの八十倍強い毒を持ってるんだよ。で、こっちがフグと同じ毒のテトロドトキシンを持ってるヒョウモンダコ。」

「なぜ物騒な生き物ばかり!」

仙一郎がツッコミを入れると彼女は笑い声を上げた。

「はは!確かに!仕事の関係で危険な生物は特に詳しくなっちゃって。」

「なるほど…」

「あ!あとあっちの水槽にはアカエイとカツオノエボシもいるんだよ!」

「それも危険生物ですよね?」

仙一郎の言葉に彼女はにかっと笑って彼の背中を勢いよく叩いた。

水族館は朱夏の勝手知ったる場所らしく解説を交え次々と水槽を回る。仙一郎は彼女の解説が分かりやすく面白いものだったのと彼自身水族館は小学生時代以来久しぶりだったのもあって聞くこと見ることすべてが新鮮だった。

そんな中、朱夏が突然駆け出しガラスに顔を押し付け目を輝かせて見入ったのはペンギンの水槽だった。水中を飛ぶようにすいっと泳ぎ回る何匹ものペンギンを食い入るように愛でる彼女の様子に仙一郎が声をかける。

「ペンギン好きなんですか?」

「そう!そう!カワイイよね!このずんぐりした感じも普段はボーっと突っ立っててトコトコ歩きしか出来ないのに水中がスイスイっと!」

身振り手振りを交え興奮気味に力説する朱夏。

「ああ。それでペンギンの着ぐるみを…」

そう言うと朱夏が自分を見つめてうずうずしているのに気づいて仙一郎は促す。

「どうぞ、ペンギンの解説続けて下さい。」

「鳥綱ペンギン目ペンギン科のペンギンはね…」

声を弾ませ堰を切ったように喋り始める朱夏の熱のこもったペンギン語りは今まで以上に延々と続いた。

「…で、中には石を渡してプロポーズするペンギンもいるんだよ!婚約指輪みたいで素敵だよねー!」

そう言ったところで朱夏は仙一郎が考え込んでいるように見えたので声をかけた。

「ごめん!話長かったかな?」

「あ!違うんです!すみません。」

気づいた仙一郎は慌てて謝ると続けた。

「恥ずかしい話なんですけど、よく考えたらちゃんと女性とデートするなんて初めてだった気がして。小さいころから暇さえあればひとりで絵描いてばかりいるような奴だったから、こういう事に慣れてなくて…。ちゃんと朱夏さんの期待に応えられているのか不安で…」

「そんなコト気にしなくてイイよ!私が強引に誘ったんだし。」

「はい…」

朱夏は慰めるが彼が浮かない顔のままなので彼女はペンギンの水槽を指さした。

「私は水族館すごく楽しんでるけど仙一郎君はどうかな?」

「もちろん楽しんでますよ。その水槽のペンギンなんかもスケッチしたくてウズウズしてますし。」

仙一郎は画材の入ったショルダーバックをポンポンと叩いて大真面目に言うと彼女は茶化す事なく応えた。

「芸術家の卵らしいね。ところで何で私が君のこと気に入ったか聞きたくない?」

「是非。どうして僕を?」

「君が浜辺でボーっと突っ立てる姿がペンギンみたいで可愛かったから!」

朱夏がニヤニヤしながらそんなことを言い出すので彼はおかしくて笑ってしまった。

「ええっ。そんな理由ですかぁ!」

「まあ要するに、デートなんて二人で同じものを見て楽しんで、二人お互い見詰めあって嬉しければそれでイイんだよ!さ!次行こ!次!」

朱夏は彼の手を掴むと次の水槽へと引っ張った。白い巨体で水中をゆらゆらと泳ぐホッキョクグマの水槽。高さ十メートルはあろうかという大水槽では真っ青な水中を様々な魚たちが身体をキラキラ輝かせて泳ぎ回る。まるで海の中にいるような水中トンネルの幻想的な雰囲気に仙一郎は日頃の憂さを忘れ楽しんだ。

朱夏が言ってくれた言葉は、すっかり彼を安らかな気持ちにさせた。思えば彼はここ半年、慌ただしい毎日に心休まる暇もなく追い込まれて心の余裕が無くなっていたことに気づかされる。

「アリゲーターガーッ!」

朱夏が突然大声を上げたのは淡水魚の展示だった。腰の高さほどの低い水槽は上部が開け広げられ見下ろして観察も出来、様々な淡水魚が水面を波立たせて泳ぎ回っていた。彼女が見入るアリゲーターガーは主に北アメリカに生息する肉食の大型魚で二メートル近い巨体にその名のとおりワニのような大きな口をしたお世辞にもカワイイとは言えない魚だが彼女は身じろぎもせず見つめる。

「この子カッコイイよね!日本じゃ特定外来種指定されて嫌われてるけどカッコイイよね!」

「確かに迫力あって強そうではある。」

「分類的にはガー目ガー科になるんだよ。ガーモクガーカ…ガーモクガーカ…」

その言い方がツボだったらしく朱夏はくすくすと忍び笑いをもらした。その時、水槽の魚がその巨体をくねらせ尾びれで水面を打ち大きな水しぶきが上がり水槽の近くにいた朱夏に水が降り注ぐ。

「きひゃっ!」

頭から水を被り、ずぶ濡れになった朱夏は調子っぱずれな叫び声を上げて飛び跳ねる。

「大丈ぶっ…」

仙一郎は彼女の姿を見て固まった。Tシャツがぐっしょりと濡れ、ぴたりと張り付いた生地が透けてブラジャーが透けて見えていたからだ。

「へーき!へーき!どうせ着物に着替えるつもりだったし問題ないよ。」

朱夏は全く気にする様子もなくあっけらかんとしているので彼は目のやり場に困りうろたえてしまう。仙一郎のその様子はあまりにもわかりやすかったので彼女は、

「あ?ああ!」

と納得したように声を上げたが、胸を隠す様子もなく彼の狼狽ぶりを楽しむように話を続けた。

「ちょっと長居しすぎたね!もう花火の時間だから移動しよっか?」

「は…はい。」

仙一郎は明後日の方向を見ながら返事する。

「ん?人と話しをする時は、ちゃんとこっち見て!」

朱夏は腕を組み、透けて見える胸をわざと強調するように説教する。

「朱夏さん。勘弁して下さいよ。」

「ん?ん?何の事かな?」

「わざとでしょ!水も滴るいい女なのは分かりましたから隠してくれませんか。」

仙一郎は横目で見ながら胸を指さした。

「別に仙一郎君になら見放題でも構わないんだけどなぁ。」

「ホント勘弁して下さいよぉ…」

朱夏がしなをつくって微笑むので彼は情けない声で哀願した。

「ははっ!ごめんごめん!じゃあ行こう!」

「勘弁して下さいよ朱夏さん!」

朱夏が手招きしとっとと先に歩いて行ってしまうので仙一郎は困り顔で後を追うしかなかった。


朱夏が着替えるというので仙一郎は一度彼女と別れて先に待ち合わせ場所へと向かった。

その場所は水族館から海水浴場を挟んで反対側の海に面した大きめの公園の一角、明治時代の政治家が別荘としていた庭園で現在は遺構として一般公開されている場所だった。

すでに日も暮れて開館時間もとっくに過ぎたその庭園の入り口、固く閉ざされた木製の門の前で朱夏を待つ。公園の中心部は花火の見物客で賑わっていたがはずれにあるその場所は人けもなくひっそりと静まり返っていた。いまだ昼間の熱気も冷めやらず生暖かい風が頬を撫でる中、しばらくすると朱夏が現れた。

「お待たせ!」

彼女は水色の花柄の浴衣でレジ袋を片手に小走りでやって来た。

「何ですかソレ?」

仙一郎はレジ袋が気になったので指さすと彼女はニッコリと微笑んで彼のみぞおちに軽く拳を入れた。

「う!」

身体に触れる程度で、それほど強い打撃ではなかったが不意をつかれた仙一郎は短いうめきを上げ前かがみになる。

「違うよ!私がせっかく浴衣に着替えて来たんだからそこはまず、カワイイね!とか似合ってるよ!とか言わなきゃ!」

「す…すみません…空気読めなくて…浴衣、凄く似合ってると思います!ホント。」

「よろしい!ちなみにこれは夕ご飯だよ!夜店で買ってきた焼きそば!水族館で長居しすぎて食べる暇なかったからね。」

朱夏が微笑んでレジ袋を掲げるのを見て初めて仙一郎は夕食を摂るのをすっかり忘れていたことに気づいた。彼はそれほど彼女との時間を楽しんでいたことに驚いた。

「それじゃあ行こうか!」

そう言うと朱夏は庭園入口の木製の門を開けて中へ入ろうとする。

「ちょっと!良いんですか勝手に入って。」

「ツテがあってね!特別に許可貰ってるんだ!」

驚く仙一郎に向かってにやっと笑うと彼女は中へと入っていった。

大きな松の木を左右にして正面に茅葺き屋根のこぢんまりした日本家屋があり二人は家に沿って回り込むように海側に面した庭に向かう。芝生の庭を横切り縁側に並んで座ると街灯の薄明りに浮かぶ庭の先には海が広がり水平線に先ほどまでいた水族館のある人工島が見える。風光明媚とはこんな風景を言うんだろうなと仙一郎がしばし眺めていると隣に座る朱夏がプラスチックの容器に入った焼きそばと飲み物を差し出し二人は遅めの夕食を食べる。

「夜店の焼きそばって肉も一切れ二切れくらいしか入ってないのに何故か美味しいよね!」

「うん!確かに。でも肉どころか野菜もろくに入ってない素焼きそばですよね。」

「ははっ!確かに!」

朱夏は下駄をぷらぷらさせ屈託のない笑顔をみせる。仙一郎がすっかりくつろいで焼きそばを頬張っていると静寂を破って不意に爆音が響いて彼はビクッと身体を震わせてしまう。周りが明るく照らされ海上にきらびやかな光の花が広がる。

「うゎっ!」

朱夏が身を乗り出して感嘆の声を上げる。続けて大きな音を響かせながら何発も打ち上げられる美しく壮大な花火。その光景を眺めていた仙一郎はふと帰してしまったリザや今だ仲直り出来ていないアルマに申し訳ない気持ちがした。

「何か考え事?」

朱夏はその様子を敏感に察知したのか彼の顔をのぞき込む。

「他の女の事とか考えてたんでしょー!あのモデルみたいな外人の恋人さんとか…」

「違っ…恋人じゃありませんよ!というか見てたんですか?」

「まあね!途中でいなくなってくれて助かったよ、さすがに女づれの人をナンパは出来ないし。」

隣に座っていた朱夏はすり寄ると身体を密着させる。

「朱夏さん?」

まごつく仙一郎を見上げ、じっと見つめる朱夏の瞳に花火の光が反射してキラキラときらめく。

「仙一郎…君…欲しいの…」

朱夏の表情は一変して艶めかしく変わり、ゆっくりと彼の腕に手を回す。

「ちょっ…待って下さいよ…」

突然の出来事に仙一郎は彼女を引き剥がそうとするががっちりと腕を絡め捕られ動けない。

「欲しいの…血が。」

「何を言って…」

朱夏のその一言は花火の音が響く中でもはっきりと聞こえた。嫌な予感で背中がぞわぞわとする。

「昼間、君怪我したでしょ?その血の匂い嗅いだら我慢出来なくなっちゃってさ!普段は献血程度にちょっと血を吸ってるだけなんだけど…久しぶりに全身の血を一滴残らず吸いつくしたくなっちゃって。」

「何を言って…」

すでに朱夏が放つ気配は冷たく禍々しさを感じさせ、彼女が人間ではない他の何かであることが仙一郎にははっきりと解ったが、そのことを信じたくなかった。彼が当惑していると朱夏はにたりと笑い、やにわに彼を掴んだまま信じられないような力で家屋の中へと引きずりこみ、畳の上に打ち倒す。

「痛っ!」

背中から叩き付けられうめき声を上げる仙一郎に朱夏は馬乗りになる。浴衣は着乱れ肩が露出し跨る両足から太ももが露出する。そして驚いたことに彼女の髪は漆黒色に変わり畳に広がるほど長く伸び、その髪が顔にも垂れて表情が分からないほどになっていた。薄暗い部屋の中、大きく左右に裂けた口から真っ赤な色をのぞかせ仙一郎を見下ろす。

「人を殺すのは本意じゃないんだけど君が悪いんだよ!あまりにも美味しそうな匂いを振りまくから…。だからお詫びに、楽しい思い出作りをしてあげたんだけどどうだったかな?」

「大変楽しかったです。今日はありがとうございました。」

「はは!この状況でその答え?やっぱり君面白いね!」

仙一郎は、ここのところ立て続けにこの手の騒動に巻き込まれていたせいか殺されるかもしれない状況だというのに自分でも驚くほど冷静だった。それどころか「またか」と呆れているほどだった。

「血を吸われるのは良いんですけど、さすがに死にたくはないので殺さない程度に吸うんじゃダメですかね?」

「そうしたいのは山々なんだけど一度吸い始めたら我を忘れてしまいそうだから無理かな?それほど君の血が魅力的ってことだけど…」

穏便に済みそうにない雰囲気に仙一郎は逃げる機会を探っては見たが馬乗りなる彼女は岩のように重く身動きがとれなかった。

「本当にごめんね…」

その言葉とは裏腹に朱夏から溢れ出る邪悪な気配はますます強烈になりそれに伴い長い髪がまるで生き物のようにうねうねと動き始める。それはまるで何匹もの蛇のように群れ波打ち仙一郎の身体を狙い這い寄って来る。髪の一部は彼の両手首に絡みつき抵抗出来ないように押さえつけた。彼は唇を噛みしめ精一杯もがくがまったく動けない。

朱夏の髪は鎌首をもたげ彼の鼻先数センチまで迫り、足掻く彼をしり目に蛇が噛みつく前に狙いを定めるかのごとくピタリと動きを止める。追い込まれ打つ手もない状況で仙一郎の脳裡には突然アルマの姿が浮かんだ。きちんと仲直りしなかったのが心残りだった。仲直り出来なかったとしても一言、ごめんと謝りたかったと悔いた。そんな彼の葛藤をあざ笑い弄ぶように静止したままでいた彼女の髪は突然、爆ぜるように彼めがけて襲いかかった。

仙一郎がもうダメだと目をつぶった次の瞬間、バチッと爆ぜるような音が響き閃光が走る。朱夏が背後に吹き飛び壁に打ち付けられ室内に轟音が響く。

拘束から解放された仙一郎が半身を起こすとズボンの前ポケットがボーっと明るく光っていた。ジーンズの分厚い布の上からでも分かる光を放ち、肌に熱さえ感じるさせるその原因は入れっぱなしになっていたアルマのドッグタグだった。

何の変哲もない金属のペンダントであるそれはアルマが肌身離さず身につけていた結果、彼女の強力な魔力を浴び続け図らずも魔除けの護符へと変化していた。それが仙一郎の危機に反応してその力を解き放ち朱夏の攻撃から彼を守る結果となったのだ。無論そんな理屈を仙一郎が知る由もなく、アルマが自分を守ったくれたとぼんやりと感じる程度だった。

やがてペンダントの光は消え去り、仙一郎は部屋の隅、壊れた壁にめり込んでピクリとも動かない朱夏を尻目に、よろけながらも立ち上がり部屋の外へと歩き出した、

花火大会が終わっていたとはいえ外は人気も無く異様に静まり返っていた。とにかく逃げなくてはと朦朧とする意識のなか海岸線を進むが足が泥のように重くなかなか進まない。夜のしじまに波の音だけが響く遊歩道を進み続けると後方から地響きが鳴り響く。仙一郎はそれが振り向くまでもなく朱夏が意識を取り戻し家屋を破壊した音なのは容易に想像できた。追ってくるであろう彼女から少しでも遠くへと気力を振り絞り足を速めるようとするが思うように身体は動かず傍から見れば千鳥足でフラフラ歩く酔っ払いのようだった。幸いにもあたりには人影もなく松の木が立ち並ぶなか街灯が遊歩道を照らし彼の進むべき道を示しているだけだった。

再び静まり返った夜の海岸線。自分の荒い息づかいだけが耳障りなほど響くなか、だいぶ意識もしっかりし出した仙一郎は小走りに歩を進めていると突然何かが足に絡みつき前へつんのめる。巻き付いたそれは大人の二の腕ほどの太さがある縄状でその表面はヌメヌメと鈍く光るウロコ状になっており、それはしっかりと足首に絡みついたまま物凄い力でうつ伏せのままの彼を後へと引っ張った。

仙一郎はなすすべもなく、そのまま遊歩道を外れ松林の中を引きずり回される。顔中に落ち葉まじりの土を浴び、身体中を木々に打ち付けられ、さらに息つく暇もなく逆さに釣り上げられると投げ飛ばされ砂浜に打ち付けられる。

「ぐっ!」

砂地だったとはいえその衝撃に仙一郎はうめき声を上げる。身体中が軋むように痛み口の中が砂でジャリジャリする。クラクラする頭をはっきりさせようと左右に振り何とか体を起こして顔を上げると目の前に高い壁のようにそそり立つ何かが夜空を背景に黒々とした姿を見せていた。それは太さ一メートルはあろうかという大蛇で、ウネウネと波打ちまるで海岸にジェットコースターのレールが出現したかのようだった。そしてその大蛇の高く上がった頭の部分ーーー仙一郎を見下ろすその突端は人の上半身の形をしていた。髪を生き物のようにゆらゆらと動かし、影となった顔からは真っ赤な目だけが爛々と輝く。下半身が蛇、上半身は人のその異形の化物は、まったく見る影もなく姿かたちを変えた朱夏だった。

「やってくれたね!でも逃がさないよ!」

化物は身体中から気分が悪くなるほどの殺意を振りまき凄みのある声で言い放つ。

大蛇が薄暗い砂浜をザラザラとうごめく音が聞こえ、その音は仙一郎を絡め捕ろうとだんだんと大きくなる。彼が座り込む砂浜は海岸線の突端で左側が防波堤で、ちょうど三角形のような形になっており逃げ場がなかった。抗うにしても周りは砂ばかりで武器になりそうな流木一本も落ちていない。

まさに蛇に睨まれた蛙のように身動きの取れない仙一郎に向かって化物が口を開く。

「なるべく楽に死なせてやろうと思ってたけどやめだ!両手両足を引きちぎって、もがき苦しむ様を眺めながら血をすすって…」

「やっと見つけた!こんなところにおったのか!」

話の途中、化物の言葉をさえぎって声がする。見ると化物の背後の暗闇に人影があった。

「アルマ!」

仙一郎は思わず声を上げる。ゴスロリ服に身をつつみ長い黒髪を潮風になびかせ、ゆっくりと砂浜を歩いて近づいて来たのは紛れもなくアルマだった。彼女は化物のことなどまるで気にする様子もなく、その横を通り過ぎ、座り込む彼の目の前で立ち止まると腕組みして仁王立ちして見下ろす。化物は思わぬ事態にあっけにとられてただ眺めていた。

「どうしてここに?」

仙一郎が至極当然の疑問をていするとアルマは眉間にしわを寄せる。

「其方、予をのけ者にしてあの女と…リザとデートしておったろ!この色事師めが!」

「デートじゃないっ…」

「たわけっ!じゃあなんじゃこのSNSの投稿は!」

と、彼女はスマートフォンの画面を―――リザが投稿した二人で肩を組んでいる画像を見せた。

「あ!そ、それはリザが強引に…勝手に…」

「まったく!こんなこともあろうかと、ふぉろぉーしておいて良かったのじゃ!」

「だから誤解…」

「ゴカイもイソメもあるかっ!この浮気者!」

「何でそこまで怒られなきゃならないんだよ!」

売り言葉に買い言葉、仙一郎は彼女の剣幕につい声を荒げてしまうが、そんな自分自身にイラつてしまう。会ったら素直に謝ろうと決めていたにもかかわらず、いざ顔を合わせたら喧嘩腰になってしまったことが情けなかった。睨み合っていた彼は意を決し突然、両手で自分の顔をバチンと叩くと何事かといぶかしがるアルマに頭を下げた。

「ごめん!やっぱり俺が悪かったよ!少し言い過ぎたしもっとアルマのこと考えるべきだったと思う、ホントごめん!」

「うぉ!おおっ…じゃがそう簡単には許さんぞ!」

予想していなかった仙一郎の言動にアルマは一瞬まごつくが糾弾の手を緩めない。彼は仕方なく奥の手を出す。

「プチっとするプリン一ヶ月毎日出すから!」

「三ヶ月じゃ!」

「んんん…一ヶ月半!」

「二ヶ月!」

「ううっ…分かったよ!二ヶ月。」

「うむ!なら、許そう!」

彼が折れるとそれを聞いたアルマは少し安心したような表情をみせ、仙一郎もまたずっとモヤモヤしていた気分が晴れ胸をなで下ろしていた。

「まあ、予も少し意固地になりすぎておったかもしれんからな。なんだかんだいって其方のことは大切に思っておるし…」

アルマはそこまで言うとしまったと思ったのか、

「たっ!大切と言っても予の食料として大切という意味じゃからな!勘違いするでないぞ!」

と、顔を真っ赤にしてあたふたと言い訳した。そんな二人の会話を蛇の化物が黙って聞いていたのは、この緊迫した状況で目の前の出来事があまりにも突拍子もないものだったこともあるが、突然現れた年端もいかぬ少女ーーー仙一郎がアルマと呼んだ彼女が自分と同じこの世ならざる者であることを感じ不用意に手を出せず様子をみていたのもあった。しかしそれも、どうでもいい痴話喧嘩を延々と聞かされ続け、我慢の限界に達していた。

「おい!なに私を無視して普通に話してんだよ!二人まとめてぶち殺してやろうか?」

化物は左右に裂けた口を大きく開け怒りも露わに叫ぶ。

「うるさいぞ!爬虫類!」

「はちゅっ…」

振りかえり恫喝するアルマの声に化物が気圧されひるんでいると、彼女は右手を高く振り上げた。すると上空に赤黒くほのかに光る塊が突然現れ仙一郎らの数メートル後方の波打ち際に落下する。地鳴りが響き海水が波となって打ち付け足元を濡らす。

砂浜に突き刺さったその塊は高さ数メートルはあろうかという逆Tの字型の金属製で肌が焼けるような熱を発していた。仙一郎はその巨大な塊の形に見覚えがあった。昔、博物館に行った時に見たペンダントーーー北欧神話の神が持つ戦槌ミョルニルをかたどったアクセサリーにそっくりだった。

「な!あ?」

化物が絶句しているとアルマは手を振り降ろし大蛇を指さす。

「すり潰せっ!」

アルマのその声に、彼女の背後に壁のようにそそり立っていた塊が真っ白に光り輝き辺りは昼のように明るくなり、空気が鳴動し大蛇の胴体は見えない大岩に押しつぶされたように楕円に歪み砂地にのめり込む。

「あ…がっ…」

断末魔の叫びを上げる化物に襲いかかるアルマの力は重力を操り敵をすり潰す戦槌。その威力は周りの風景が弧をえがいて歪んで見えるほど強烈だった。大蛇の身体が軋み潰れる鈍い音が不気味に響く。力は徐々に増していき大蛇の身体はもはや潰れるというよりも空間自体がねじ曲がり変形しているように見えた。

「アルマ!」

仙一郎はそのあまりの苛烈さについ声を上げると化物は突然、閃光とともに弾けるような音をたて霧散した。かすかに硫黄の匂いが漂い再び暗やみが戻った夜のしじまに目が慣れると化物のいた砂浜はすり鉢状に窪み中央には朱夏がうつ伏せに倒れていた。

「安心せい!死んではおらん。」

アルマは振り向くことなく仙一郎の考えていることを見透かすように声をかける。

「そっか…」

仙一郎が安堵のため息をもらし佇んでいると、アルマが突然その場にペタンと座り込んでしまった。驚いた仙一郎は慌てて駆け寄り顔を覗き込む。

「大丈夫?」

「大事ない。久しぶりに神代の力なんぞを使ったせいでちょっと疲れただけじゃ…」

「そっか、よかった。」

と、仙一郎がその場にへたり込むとアルマは這い寄って彼に抱き付く。仙一郎が動揺しているとアルマは、

「少し血をもらうぞ!さすがにしんどいんでな…燃料補給じゃ。」

と、彼の首筋に歯をたて血を吸い始めた。ついさっきまでの騒動がウソのように波の打ち寄せる音だけが静かに響き、先ほどまであった巨大な槌もいつの間にか消え去った夜の浜辺。咬みつかれる仙一郎は彼女と出会ってまだ、ほんの半年しかたっていないというのにもうずっと昔からこんな風に一緒にいるような奇妙な感覚を覚えていた。やがて、さすがに派手にやりすぎたのか遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

「さて、面倒なことになる前に退散するとしようかの!」

と、アルマは顔を上げると口から滴る血を拭う。

「ああ、じゃあ帰ろうか…」

仙一郎の言葉にアルマはわずかに口元をゆるめた。

「そうじゃな!」





海辺の事件から数日後。平穏な生活に戻った仙一郎はその日、大学の講義も終わり自転車で帰宅するところだった。夕焼けが街をオレンジ色に染め、空の高さはもう秋が近い事を告げていた。

仙一郎とアルマが砂浜から逃げるとき、すでに朱夏の姿は消えていた。彼はあんな目にあいながらも彼女がそんなに悪い化物ではないように感じていて、それほど怨んではいなかったし逃げてどこかで生きているであろうことを願っていたが、アルマはそんな彼の様子を甘いだの、いつか痛い目を見るだのとさんざん愚痴っていた。

リザはといえば、眷属であるにもかかわらず彼の危機に役にならなかったことを悔やみ酷く落ち込んで、仙一郎が慰めても一向に効果がなかったのだが、

「リザが元気になってくれるなら何でもするからさ!」

と、つい口走ると彼女は目を輝かせて、

「ん?今何でもするって言いましたカ?ホントですカ?約束ですヨ!」

と、とたんに元気になってしまったのだった。

仙一郎は何となくリザにハメられたようで何を要求されるか一抹の不安を覚えたが、それも、いつものリザに戻ってくれたので良しとした。

アパートの外階段を足取りも軽くかけ上がり玄関の鍵を開けると、何故か部屋の中にリザが立っていた。

「スィーアー!やっと帰っテきましたネ!」

「リザ?何で部屋ん中いるんだよ!」

驚く仙一郎の目の前の彼女は大きめのワイシャツ一枚着ただけで太ももが丸見えの肉感的な姿で微笑んでいた。

「合鍵デース!」

リザは楽しそうに手に持った鍵をぷらぷらと見せびらかした。

「まったく…」

仙一郎がため息をつき、リザのことをなるべく見ないように部屋に上がると彼女はニコニコしながら近寄ってきた。

「な…何?」

仙一郎がうろたえていると彼女は彼を見つめながら、おもむろにシャツのボタンを外し始める。徐々に露わになっていく胸の谷間。

「リっ!リザ!何してんの!」

仙一郎が狼狽していると彼女はシャツを脱ぎ捨てた。

「だっ!だめだって!いくら何でもするっていっても…」

彼は慌てふためき目をつぶって手をばたばたと動かす。

「は?ナニを言ってるんデスカ?」

リザの言葉に目を開けると彼女は真っ赤なビキニ姿で怪訝な顔をしていた。

「なんだ…水着か…」

「ふふーん…仙一郎?何を期待していたんデスカ?」

「いや別に…俺は…ナニとかアレとか…別に…」

しどろもどろに言い訳する仙一郎をリザは弄ぶ。

「ははーん…仙一郎がお望みでしたらソッチでもワタシは構いませんヨ!」

「いやいやいや!滅相もないっ!」

「まあ、それはともかく仙一郎も水着に着替えてクダサイ!」

と、リザはどこから取り出したのか海水パンツを突きつけた。

「何で俺まで?」

「シーのゴーの言わずに着替えるデース!」

リザは彼につかみ掛かると無理やり服を脱がそうとする。

「待った!待った!分かったから!自分で着替えるからさ!」

結局、仙一郎は押し切られ、リザを部屋の外に追い出して着替えることになってしまった。「リーザー!着替え終わったよー!」

そう告げると、玄関の外で待つリザは勢いよく飛び込んできて彼の手を掴むと外へと引っ張った。

「ささっ!行きましょうカ!」

「ちょっ!こんな恰好でどこへ?」

海水パンツ一枚で外に連れ出され狼狽する仙一郎を尻目にリザはアパートの階段を下り隣に立つアパートの大家の家をぐるりと回って

通用口から庭に入る。すると、薄暮で青く染まり所々ガーデンライトのオレンジ色の光が灯る庭には少し大きめのビニールプールが据え付けられており傍らにはアルマが立っていた。

「お!やっと来たな画学生!」

アルマはゴスロリ調のーーーセパレートで黒に白いフリルとリボンのついた水着姿で仙一郎を手招きするので彼は問い詰める。

「これはどういうこと?」}

「なんじゃリザ!貴様まだ説明しておらんのか?」

アルマはリザを睨みつける。

「テヘッ!」

と、リザは笑って舌をペロっと出しお道化るのでアルマはため息をついた。

「仕方ないのぉ…この前、予だけ海に遊びに行けなかったから其方にその埋め合わせをしてもらうってことじゃ!海と比べたらちと寂しい感じじゃが…」

「埋め合わせはイイとして庭は…わわっ!」

仙一郎は話している途中でリザに背中を押されプールに突き落とされた。

「オーヤサンの許可はもらっているのデ問題ありませんネ!早速楽しむデース!」

と、彼女もプールに飛び込み抱き付いてくる。

「うぁっぷ!」

「あああっ!リザ!抜け駆けしおって!」

仙一郎が溺れそうになっていると、アルマもプールに飛び込んできた。

「うぇっぷ!」

さらに水を飲んだ仙一郎は狭いビニールプールで二人に抱き付かれる。

「ちょっ!くっつきすぎだって!」

「よいではないか!どうじゃ?両手に花で嬉しかろう?楽しかろう?」

アルマが身体を密着させると、それに張り合うようにリザもいっそうべったりくっつく。

恥ずかしさに仙一郎が固まっていると母屋から大家さんの声がする。

「早見さん。スイカ切ったから良かったら食べてね!」

大家さんは面倒見の良いおばあちゃんで気を聞かせてくれたのだが仙一郎はこんな状況を見られた恥ずかしさから言葉につまる。

「おばあちゃん、ありがとう!私、手伝うよ!」

すかさずアルマがプールから上がって駆けていく。

「良く出来た妹だ…」

仙一郎がアルマを目で追いポツリと独り言をつぶやく。

「まあ素直では無いデスけどネ!」

リザは変わらず抱き付いたまま茶々を入れるが、仙一郎が腑に落ちないといった表情をするので話を続けた。

「今日のコレも海行けなかったからっテ言ってますケド、仙一郎を元気づけるためだと思いますヨ!彼女ずっと仙一郎がスランプで落ち込んでるの気にしてましたカラネ!」

「ふーん…」

「こっち二モ素直では無い人ガ!」

仙一郎がそっけなく関心がないような素振りを見せるのでリザは再び茶々を入れる。

「なんだよぉ…」

彼が不満そうな顔をみせるとリザはくすっと笑うと楽しそうにプールから上がりアルマと大家さんを手伝いに早足で駆けていった。


遠くからヒグラシの鳴く声がうっすらと聞こえ昼間の熱がまだ残る夕暮れ時、ビニールプールのひんやりと心地よい水にひとり仰向けに浸かる仙一郎は、瞑色に輝く一つ星を仰ぎ見ながら、ちょっとだけ気持ちが軽くなったような気がした。




  了

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のじゃロリ吸血鬼さんはチューチューしたい2 かま猫 @kamaneko3

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