第2話 五月の夜

そしてゴールデンウイークも終わり、ある晴れた日のこと、


♪ピコピコピコ


メールを受信するケータイのメロディが流れた・・・・・・。



「誰だろう。」

どうせ仕事仲間の連絡だろうなと思って画面を開いた。すると、

「キョウスケさんへ」というタイトル。

今時誰だ?若葉なら、ボクを呼ぶときはキョウちゃんだ。ヒデさんなら呼び捨てだ。もしかして、と思いメールの中を開く。

「萌愛です。ゴールデンウイークの間、一度も来てくれませんでしたね。今度はいつ来てくれるんですか。」

と書いてある。まさしく、キャバ嬢の営業メールである。思わせぶりだが実にストレートな言い方だ。

もしボクが若葉嬢との辛い出来事がなく、普通に指名嬢を乗り換えただけだったら、間違いなく速攻で店に足を運んだことだろう。

ところが、ボクの胸中はとてつもなく傷んでいたので、しばらくの間は萌愛からのメールを放置しておいた。

「いずれ彼女も忘れるさ。ボクも思い出さなくて済むし、誰も傷つかなくていいよね。」

そう思っていた。



五月も中旬を過ぎ、五月晴れと呼ばれる日が増えてきた頃、先輩であるヒデさんから飲み会のお誘いを受けた。断る筋合もないので、仕事終わりの十九時を待ち合わせにしていつもの歓楽街へ足を運んだ。


この日も定番の焼き鳥と変り種のお好み焼きでビールをあおる。まだまだダイエット真っ最中のボクは、あまり飲み過ぎず、もちろん食べ過ぎず、色々と控えていた。

「キョウスケ、なんだかあんまり箸もビールも進んでないねえ。まだ恋煩い継続中か。」

「そうですね。さすがにピークは過ぎたけど、折角の恋煩いで痩せたのだから、ダイエットだけは継続しようと思ってますよ。」

などと冗談を交わしながら、息の合う仲間との歓談は進む。

「それはそうと、先輩のパートナーとはうまくいってるのですか。」

「オレの方はキョウスケと違って一途じゃないので、いなけりゃいないで他の女の子と適当に遊んでるよ。」

このあたりは流石である。ボクよりも一枚も二枚も上手である。

ボクなんかはたった一人に翻弄されて、今も暗闇の中をさまよっているのだから。


やがて夜の戸張は下りてゆき、エンディングのパーツを探すタイミングとなる。ヒデさんは今日も例のところへ行くのだろう。

「キョウスケ、もう前の女の子の事は忘れて、いや忘れるために一緒に行こう。」

「いやいや、そういって前回は付き合ったじゃないですか。あの時はあの時で会いたいと思ってた女の子に会えたから、もう充分ですよ。やっぱり前の彼女のことが思い出されてしまうし。」

「あの時の会いたかった彼女って、あのおっぱいの大きな彼女の事だろ。それなら大丈夫。今日は彼女の出勤日だよ。」

抜け目がないというのか、なんというのか。ボクを一緒に連れて行くためにそんなことまで調べ上げている。お手上げだ。

「いいですけど、ワンセットだけですよ。それでもボクが苦しくなったら、すぐに帰りますよ。」

「いいけどさ、どうせシートは違うところなんだから、後はお互い無干渉ということで。」

無干渉なら、何もボクを連れていく必要なんかないじゃないかと思いながら、一度行くと言ってしまったものを引っ込められもせず、道中を一緒に歩く。

焼き鳥の店を出て、少しぬるくなった春の風を頬に感じながら。


やがて紫のネオンで囲まれた、大きめの見慣れた看板が見えてくる。

「ムーンライトセブン」はとあるビルの地階にある。

二人して仲良く階段を下りると、見覚えのある黒服ボーイが現れる。顔は無愛想なんだけど、決して人当たりは悪くない。


「いらっしゃいませ、ご指名は。」

すると、ヒデさんが完全に仕切りたがる。

「オレはメイちゃん、コイツには萌愛ちゃんでお願いします。」

ボクの指名までヒデさんに仕切られるのには少し閉口だったが、他に指名する嬢もいないので、流れに任せた。

「ではお一人様七千円です。しばらくお待ち下さい。」

と、ありきたりのやり取りの後、ありきたりの風景となったいつものシートに案内される。

ボクのシートは手前の列で、ヒデさんのシートはもう一つ奥のシート。これでお互い何を話して何を行っているのか、一切合財わからない状態になったのである。


しばらくして萌愛ちゃんがやってきた。

「いらっしゃい、キョウスケさんじゃないですか。」

「久しぶりだったね、元気だった?」

「萌愛がメールを送ったの見てくれなかったの?」

「見たけどね、色々と忙しかったし、まだ若葉の事も癒えてないし。そんな顔で萌愛ちゃんと会うのは失礼でしょ。」

半分はホントの事だ。実際、萌愛ちゃんも可愛い。どっちがというよりも、彼女と若葉を比較してしまいそうで、それはよくないことだと思っていた。

「うまいこと言うのね。でも今日はホントに忘れさせてあげる。」

「なんだか期待させてくれるようなセリフじゃない。」

「あのね、萌愛ね、プランターを始めようと思うの。どんな野菜から始めたらいい?」

プランター菜園のブログを書いている名刺を渡していたが、唐突にこんな質問を切り出してくるとは思いもよらなかった。しかし、ボクのテリトリーに踏み込んできてくれるのは嬉しい限りである。

「そうだね。簡単なのはピーマンかな。しし唐なんかも簡単にできるよ。日当たりさえ確保できればね。」

「萌愛ね、マンションの十一階なんだけど、大丈夫かな。」

結構なところに住んでいるなと思った。そこそこの都会で十一階に住んでいるとは家賃もそこそこだろうと予想が付く。

「高いところだと虫が来にくいから、都合がいいぐらいじゃないかな。苗はホームセンターで売っているから、それを植えつければいいよ。」

「うん、じゃ今度やってみる。」

ボクの趣味の範疇に飛び込んできてくれるなんて嬉しいじゃない。でもこれらは、どこまでが真実なのか。ボクも半信半疑で聞いていた。

「萌愛ちゃんがプランター?たぶんしないと思うな。」

ボクは内心ではそう思っていた。


当たり障りのない会話が終わると、ボクは萌愛の抱擁を要求した。

彼女はボクに指名されているので、ある程度のことは客の要求に応えなければならない。今までのようにヘルプで隣に来たときとは違う。しかし、軟弱なボクは決して指名嬢の嫌がることはできない。印象が悪くなるよりも、「優しい人」と思ってもらえる方が良いに決まっていると思っているから。


萌愛の体から漂うほんのりとした女性特有の匂い。たまらなく心地よい匂いだ。

彼女の髪は軽いパーマをあてたロングヘアで少し茶色に染めている。今日は長い髪を後ろにアップしているので、襟足が色っぽい。ふわっと香る彼女の匂いが清々しい。香水は付けていない様だ。女性の香水の匂いには辟易するタイプなので、彼女のようにナチュラルな香りをまとっている女の子がボクの好きなタイプといっていい。というより、すごく良い匂いがする。ボクが女性に求めているとてもナチュラルな匂いだ。

しかも彼女は巨乳である。ボクの手の中に収まるか収まらないか。それでいて垂れていない。若さゆえの張りがある。理想的なおっぱいだ。腰だってちゃんと括れがある。とてもセクシーだ。

抱擁のさなかに彼女の芳香が混じると、彼女のやわらかな胸の膨らみへも果敢に挑みたくなるのが男の生理である。

ボクは「いいかな」と確認を取ってから彼女の少ない衣装の中へと手を伸ばす。そんなとき、彼女は決まってニッコリと微笑みかけてくれるのである。この笑顔に癒される男どもが彼女の客にならざるを得ない理由だと思う。

かといって彼女の顔は決してアイドル顔ではない。どちらかというとクールな顔立ちだ。そのすましたような笑顔がたまらなく色っぽいと感じるのだ。

さらにボクは彼女の唇を要求する。彼女のくちづけの芳香はとてもやわらかだ。そして、丁寧にボクを慰めてくれる。


彼女の唇はボクの唇を何度も、そして何度もお出迎えしてくれる。

そして彼女のネットリとして柔らかな女神様もボクを迎え入れてくれる。他に例えようのない官能の世界へと導くくちづけである。

「萌愛ちゃんのキスは、とろけるようだな。このキスで何人の男を使い物にならないようにした?」

「萌愛、そんな悪女じゃないもん。」

「萌愛ちゃんにその気があっても無くても、このキスは男をダメにするキスだよ。」

決して褒めすぎではない。若葉のキスは情熱的だが、萌愛のキスは情緒的である。

例えて言うなら、若葉のキスは夏のサンバで、萌愛のキスは春のワルツと言えばわかりやすいかな。萌愛のキスは、眠らされている間に戻れないところへ引き込まれてしまいそうになる。そんなキスである。


今日はヒデさんの付き合いなのでワンセットだけと思っていたけど、このキスはいけない。とてもワンセットで帰れるような甘さではない。ボクの予感は当たっていた。やはりボクはこの時を待っていたのだ。

不思議な芳香と萌愛の軟らかな肢体と温もりのある皮膚の感覚が正常なボクの精神を破壊していくのがわかる。


女の子なら誰でもいいのではない。これまでにもヘルプの女の子に何度か挑戦してきたことはあったが、萌愛だけは雰囲気が他の女の子とは違っていた。彼女の発するオーラもタッチもどことなく目線の先がない女神のような神秘さが感じられる。

ボクは特に新興する宗教はないけれど、萌愛教があるなら信者になってもいい。彼女にはそんなカリスマ性がある。

カリスマ性のことはさておいたとして、彼女との時間はまったりとはしながらも会話は少ない。そう、彼女はあまり会話が好きではないらしい。ボクもそれを察して、ときどき耳元で何気ない褒め言葉をささやく以外は余計な会話を挟まなかった。


実際、萌愛がボクを見つめるときの彼女の顔はボクの中に残されていた邪気を忘れさせてくれた。彼女は往々にして抱きつきながら唇を求めてくれる。その間の彼女は目を瞑り、何かに浸っているような雰囲気だ。

でもボクはそれでは物足りない。彼女のかっと見開いた瞳が見たいのだ。クールな彼女の瞳はボクを神秘的な気持ちにさせてくれる。そんなきらきら光る彼女の瞳はとても素晴らしい。

そしてなんとなく想像していた萌愛の性格を垣間見たい衝動がボクを襲う。そしてボクは萌愛の一部を発見し、それが確信に変わる。


「彼氏はいないの?」

「いないよ?」

「どうして?こんな可愛いのに。もしかして彼氏っていうのが面倒臭い?」

「うん。面倒臭い。」


即答だった。

今までの彼女の言葉の端々にもその兆候は現れていた。


そう、彼女は『面倒臭がり』なのである。

ボクも面倒臭い事はそこそこゴメンなタイプだが、彼女のそれはとても神秘的ともいえるぐらいな面倒臭がりだと思う。

ボクの話し相手もボクに愛嬌を振りまくのも、彼女の『面倒臭い』が所々顔を出していた。

それは彼女の仕草にも現れている。手振りや表情の見せ方、そして話し方も。そしてそれは彼女の動きを見れば、その理由が理解できる。わかりやすい表現をすると、彼女は『猫』なのである。

柔らかなソファーの上でまったりと日向ぼっこをする猫。人の言うことを聞かず、それでいても人を惹きつける魅力を持つしなやかな生き物。人に媚びることを面倒臭がり、気の向いたときだけ一緒に居たがる。そんな雰囲気を醸し出す彼女はまさに猫のようである。

それが理解できたときに、明らかに彼女に引き込まれていく自分がわかった。

この娘なら、若葉のことを忘れさせてくれるかも、いやそれ以上に虜にしてくれるかも。そんなオーラが彼女の背後からボクに向けて放物線を描いていた。

決して大げさな表現ではない。彼女に対峙した者にしかわからない、猫好きにはたまらないオーラである。



寒かった四月、心震えながら過ごした一ヶ月。

五月に入り、少しずつ春のぬくもりを探し始めて、それが見つかった感じがしていた。

そんなボクの心が僅かながらも温もりを取り戻した五月が終わろうとする頃、ボクは別の意味で震えていた。『もえ』という彼女の源氏名は伊達じゃない。彼女の瞳と仕草と甘いキス。ボクは完全に萌える態勢に入っていく自分を見つけた。ああ、また別のブラックホールへ落ちていくのか。

いつか、萌愛が店を辞める時、ボクは猛烈に寒い思いをするんだろうなという予感と共に新しい春の入り口に立つこととなったのである。



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