浅き夢見路酔ひもえず

旋風次郎

第1話 四月の夜

寒い。


もうすぐ五月になろうとしているのに寒い。

特に心が寒い。

三月はあんなに暖かかったのに。


この物語は、ボクと彼女の葛藤の物語。

押しては引き、引いては押し寄せる波のように、人の心は相手との葛藤によってコントロールされる。自分の意思にかかわらず。


ボクが彼女に出会ったのは、ピンクともパープルとも見分けがつかない薄暗いライトとミラーボールがくるくる回っている、むんむんとした雰囲気の部屋の中。セクシーキャバクラと呼ばれるちょっと大人の遊びをするところ。

当時のボクはお気に入りのキャバ嬢にぞっこんだった。

趣味もフィーリングも合ったし、話していてとても楽しかった。

いつの間にか、そんなお気に入りの嬢を愛していた。いや、愛している雰囲気を楽しんでいた。それでも、惚れている、恋焦がれている感覚は中高生の頃を思い出したように湧いてきて、その想いにずっと酔いしれていた。


物語の主人公となる彼女は、そのお気に入りのぞっこん娘ではない。

お気に入りのぞっこん娘が他で呼ばれてボクの席を離れた時にたまにあいさつに来る、そんな関わりの彼女だった。しかし、それが運命の出会いの第一歩目であったことなど、ボクも彼女もそのときは全くわからなかった。

彼女はボクのタイプだった。口数が少ないせいか、あまり話したことがなく、どんな女の子なのかは全く分からなかったけど、普通よりもややぽっちゃりとした体形、形のいい大きなおっぱい。切れ長の目、甘い声、やわらかな雰囲気。

お気に入りのぞっこん娘と比べたら、総合的にはぞっこん娘を選ぶだろうが、体型だけなら間違いなくボクは彼女を選んだだろう。



彼女の名前は『萌愛(もえ)』。もちろん本名ではなく源氏名である。

由来はまだ知らない。今の時点ではボクは彼女のことについては、源氏名以外は何も知らないといってもいい。

そんなボクが彼女と急接近するようになったのは、寒い寒い四月の末、まもなくゴールデンウイークを迎える金曜日の夜のできごとだった。



お馴染みのセクシーキャバクラ、略して通称セクキャバは「ムーンライトセブン」という名のお店。月明かりが七つもあるのだろうか。名前の由来はともかく、一昔前に流行っていた歌謡曲のタイトルと似ている。

ボクがこの店に訪れるきっかけとなったのは、ボクの職場の先輩であるヒデさんのお誘いによるものである。それまでのボクはこのような妖しげな店の門などくぐったことはほとんどなかった。ヒデさんはこういうお店が大好きな先輩で、時折ボクを誘うのだが、あれよこれよと理由をつけて逃げていた。

昨年の忘年会の帰り、酒の勢いもあってついに先輩に追随することとなってしまい、やってきたのがこの店だったというわけだ。

セクキャバは別名おっぱいパブとも呼ばれる。何をするところかというと、昔の客車席のような二人掛けの椅子に女の子と隣同士で座り、お話をしたり、キスをしたり、おっぱいを触ったりするところである。お客は決してそれ以上のことをしてはいけない。

と、店の概要はここまでにして、彼女との馴れ初めをお話ししよう。



当時のぞっこんお気に入りのお嬢は若葉という源氏名の若い女の子。ボクもそろそろ四十の坂が見えてくる年齢になったが、そのボクとは十歳以上も年の離れた若い娘である。そんな若い娘に去年の終りにこの店で出会い、そして溺れた。

初めての感覚に酔いしれ、楽しんだ。そして相手をしてくれた女の子を本当に恋焦がれていた。それがキャバ嬢の仕事なのだろうけど、ボクはその罠にまんまとはまった客となっていたのである。

その若葉の接客の合間にヘルプに来てくれたのが萌愛だった。

ヘルプというのは、指名した嬢が他の指名客のシートに接客しに行っている間、客をロンリーにさせないために、指名を受けていない嬢が合間の時間を埋めるために接客することをいうのである。

萌愛は指名客でないボクにも満面の笑みを忘れずに投げかけてくれ、初見としては大変好印象である。しかも彼女の体形がぞっこん若葉嬢よりもタイプなので、彼女がヘルプに来るたびに心が躍った。若葉が別の指名で呼ばれるたびに、萌愛が来てはくれないだろうかとワクワクしていたものである。

若葉との会話の中でも、ときどき萌愛の話題になり、その都度ボクは萌愛を褒めた。若葉も萌愛はいい子だと褒めていた。なんだかそれが嬉しかった。


とあるヘルプのとき、萌愛はボクに指名客並みのサービスを施してくれた。熱いくちづけとおっぱいへの愛撫を許してくれたのである。

元来、原則としてヘルプ嬢にこれらの行為をすることは許されていない。しかし、嬢からお許しが出たのなら原則を守る馬鹿はいない。そのサービスに感激こそすれ、迷惑であるはずがなかった。

コケティッシュな萌愛の笑顔もまた可愛い。あらためて彼女に好意を寄せる自分がいた。

ちょっとの間、わずか五分余りであったろうか、それでも束の間の疑似恋愛に陥ったことは認めざるを得ない。きっと萌愛は大勢の客の中の一人であるボクの思いなど知る由もなく、またぞろ薄暗い空間の中へ去っていく。

その間隙を結局ボクは若葉に話せずにいた。感動した自分が少し後ろめたかったからかもしれない。



やがて唐突にその時はやってきた。

若葉が店を卒業するというのだ。

店を変わるのかと思いきや、家の事情で完全な引退である。

惜しむらくもあるが、一客としては文句の言いようがない。彼女とその家族をも養っていけるだけの甲斐性があるならともかく、ボクはしがないサラリーマン。割と楽な仕事をこなしているが、その分自由に使える小遣いは大して多くはない。月に一~二回ほどこの店で遊ぶのが関の山。結婚もしていないし、ギャンブルも煙草も嗜まないボクには多少の貯金はあるが、それ以上のことは及びも付かない。

若葉が引退するまでの数週間、ボクは彼女の温もりを求めて通い続けた。追っても仕方のないこととわかりながら。

だからといって彼女と結婚したいとまでは思っていなかった。彼女がキャバ嬢だからではない、単にボク自身にまだその気がなかっただけである。今にして思えば、もう少しその気を見せて、彼女の気を引いておけばよかったかなと反省している。

そして最後のときは来た。

三月末を契機に引退した若葉。ぷっつりと切れた糸のように、それ以降、ボクと若葉の接点は無くなった。彼女は絶対に連絡先も連絡手段も一切教えてくれなかった。結局ボクはただの客の一人だったということだ。

だから四月は寒かったのである。それ以降、まだボクの心を温めてくれる何かは見つかっていなかった。



若葉の引退以降、ボクがその店に出向く足は完全に遠のいていた。行く目的が見つからなかったのと、冷えた心を癒せると思っていなかったからである。

そんなボクの心が冷え切っていた時に、ヒデさんと飲み会に行く機会があった。

いつものように焼き鳥でビール。これがボクとヒデさんの定番だった。仕事の話とぞっこん娘の話で盛り上がった。

「ところで、例の彼女は連絡が付いたのかい?」

「いや、結局のところ、なけなしですよ。結構いい雰囲気だと思っていたんだけど、ボクの勝手な思い過ごしだったみたいです。」

「キョウスケは思い込むと激しいからねえ。」

確かにボクは一旦物事にはまると、結構トコトン追求してしまう癖がある。趣味でも仕事でももちろん女の事でも。

今更だがボクの名前は角田恭介。先輩や同僚たちはみなボクの事を下の名前で呼ぶ。会社の後輩たちも、それに習ってか、「キョウさん」と呼んでいる。名字で呼ばれることはほとんどない。親しみ易くていいのだが、そのうち会社の中でボクの上の名前を知っている人がいなくなるかもしれない。そんなことを思ったりしている。


あれやこれやで焼き鳥談義が終了するころ、ヒデさんは「ムーンライトセブン」への同行を誘った。

ヒデさんはいわゆるスキモノなので二次会か三次会は必ずそういう店に行くのである。

少なからず、そんな面はボクにとって少しヒーローチックに見えるのであるが、今回はぞっこん娘が引退したことを理由に同行を拒んだ。

しかしヒデさん曰く、

「新しい恋を見つけなさい。そしてまた溺れなさい。」

他人事だと思って、意見としてはかなりいい加減である。

溺れたおかげで四月がどれほど寒かったことか、そんなことをヒデさんは知らない。

それよりもボクを連行することが、ヒデさんの中では最優先だったに違いない。ある意味、ボクの傷心を気遣っての事でもある。そんなヒデさんの気遣いが心ならず嬉しかった。

結局はヒデさんの熱意と誠意に負けて、今回もそんなヒデさんと同行する形で「ムーンライトセブン」を訪れるのである。


ヒデさんは先輩の馴染みの嬢を、ボクは萌愛を指名して店に入る。見慣れたシートで待っていると、やがて萌愛がやって来た。

「いらっしゃい。」

ボクとしては見慣れている笑顔。今日もいつもどおりに可愛い。

「こんばんわ。ボクのこと、覚えてる?」

「見たことあるよ。でもあんまり覚えてない。ゴメンネ。今日は指名してくれてありがとう。」

「他に知ってる女の子いないからね。」

「それだけの理由なの?」

意外にも食いついてくれる。

「もちろん、萌愛ちゃんがボクのタイプだからだよ。今日は思い切り癒されに来たのさ。」

「うふふ。」

萌愛も若葉の引退の日は出勤しており、奇しくも彼女がその夜の最後のヘルプ嬢だった。癒されに来たというのはホントのことである。ボクもどこかで区切りをつけて、早く立ち直らねばと思っていたので、どうせなら今回の訪問がいいきっかけになればと思っていた。

「さて、ボクは何者かな?」

「さあ、わからないわ。」

「ボクはね若葉のお客さんだったんだよ。」

「そうなの。ついこの間のコトね。」

「萌愛ちゃんは覚えてないだろうけど、キミがヘルプに来てくれたときにホントに癒されたときがあってね。そのときから随分気になっていたんだ。」

「ありがとう。」


ここまでの会話で気づく人は相当なセラピストになれるかもしれない。

ボクはこの頃から少しずつ感じていた。彼女のその性格に。

それはともかく、普通に笑顔で問いかけてくる萌愛はやはり可愛い。

「ボクのペンネームを若葉から聞いてない?」

「うん、聞いてない。」

「お店が終わってから、お客さんの話とかしたりしないんだ。」

「だって、個人情報でしょ。」

ああ、お堅い世の中になったものだ。個人情報、そんな言葉がこんな店の中で、しかも可愛い顔した嬢から聞くとは思いもよらなかった。

「じゃあ、自己紹介からしようかな。ボクの名前はキョウスケ。本名だけどブログのハンドルネームでもあるんだ。」

懐の中から一枚の名刺を取り出して萌愛に渡す。名刺に名字はなく、カタカナで『キョウスケ』とだけ記してある。

「ボクの名刺をもらってくれる?ブログを書いてるんだ。」

渡した名刺をじっと見つめる萌愛。

そして可愛い目をきょろきょろさせながらボクに訊ねる。

「キョウスケさんは、どんなブログを書いているの?」

下の名前をさん付けで呼ばれるのは珍しい。普通年下の子からはキョウさんとか女の子からはキョウちゃんとかで呼ばれることが多いのだが。

「通称はキョウちゃんでいいよ。みんなそう呼んでるし、若葉もそう呼んでたし。ブログの内容は見てもらえばわかるよ。結構マニアックな内容だから、説明するのが少し面倒臭いんだ。」

萌愛はボクの名刺を自分のバッグにしまい込む。

お店の女の子は、店内を持ち歩く専用のバッグを用意しており、その中にスマホや名刺やハンケチなどを詰め込んでおくのだ。

「今日は飲み会だったの?」

時間帯がそろそろ深夜タイムへと突入するころである。こんな時間に来る客はおおよそ飲み会の後の二次会なのだろう。

「御名答。ボクの先輩がね、メイさんのお客さんなんだよ。ボクは若葉の卒業以降、あまり足が向かなかったんだけど、先輩が来たいって言うもんだからね。」

「なんか無理やり連れて来られたみたいな言い方ね。」

「萌愛ちゃんがいなかったら、来なかったよ。若葉の次に興味があったのは事実だからね。どうせなら、萌愛ちゃんみたいな子に癒してもらいたかったし。」

「うふふ。」

そう笑って初めて彼女はボクの首に腕をまわした。

彼女もボクの膝の上が初めてじゃないことを知っている。それどころかヘルプではしてはいけないサービスまで受けているボクは、おのずと彼女の唇を求める。


それでも初めての感覚がした。

今までも何度か彼女の唇に触れてきた。その吐息にも。でも、その時のくちづけは、今までとは違う感覚だった。

以前のキスを鮮明に覚えていたわけではないが、絶対に違っていた。少なくとも自分の中では。それが初めての感覚だった。

こんなに会話をしたのも初めてだし、こんなに長く彼女が膝の上にいたのも初めてだし、こんなに熱いキスを交わしたのも初めてだった。

初めての感覚も手伝ったのだろう、ボクは萌愛の熱いキスに翻弄された。ヘルプでサービスを受けた時のキスとまた全然違う甘さと香りがボクの嗅覚を襲う。

その瞬間、若葉の事は脳裏の彼方へと追放されていた。

萌愛の唇はボクの中にできた新しい世界観へと誘ってゆく。まるで、この時を約束されていたかのように。

もしかして、ボクはこの時を待っていたのかもしれない。


入店時間が遅かったこともあるし、遅くとも最終電車では帰らねばならない身でもある。小一時間過ごした程度で、この日は終了せざるを得なかった。

短い時間だったが、何かを取り戻した感覚があった。今まではヘルプとしてしか接点がなかった彼女と、思いのほか深い時間を過ごせたことに、少なからず感動していたことは間違いない。

まもなく十一時に近づこうかという頃、彼女の唇に名残惜しさを残して、ボクは萌愛に送り出された。


それでもボクの満足感は予想以上に満たされていた。萌愛がボクのタイプだったことは間違いない。若葉との時間のあい間にヘルプとしてやって来る萌愛が待ち遠しかった。そんな彼女を今夜は思いのほか堪能できたのである。ボクの手に余るほど大きかった彼女のおっぱい。憧れていたモノを充分に堪能した。それだけで楽しかった。

何かが変わろうとしている。そんな予感がしないでもない四月も末の事だった。



お気に入りの嬢に振られてから、店への足が遠のき、わずかながらの萌愛の感覚だけを奥底に残したまま、忘れ去ろうとしていた四月。

正直、若葉にそれなりに没頭していたボクは、彼女の引退後にそれなりのショックを受けていた。ボクの前から黙って去って行った彼女に。

どうせなら別れの言葉を聞きたかった。どうせなら罵声の一声ぐらい欲しかった。

辞める少し前に

「あなたの事なんか好きでもなんでもないんだからね。」

そう言って欲しいと頼んだことがあったのに、

「そんな、心にもないこと言えないよ。」

といってボクへの罵声を拒んだ若葉。

なのに彼女は優しい偶像だけを残して、全くの無言でボクの目の前からこつ然といなくなったのである。

引退後は彼女の実家近くで会う約束もしていた・・・つもりだった。

ボクは仕事柄、彼女の実家の近くに行く機会を割りと頻繁に作ることができるのである。だから、割と簡単に会えると思い込んでいた。

「また会えるよね。」

と言って店で別れたので、その日が来ると信じていた。

なぜなら彼女は人を騙して営業をするような女の子には思えなかったからである。

決して、スケベな気持ちが優先していたわけではないし、友だちぐらいにはなっていたつもりだった。

会えるだけでいい。声が聞けるだけでいい。特に店を辞めてからの若葉は、ボクにとってそんな存在になっていたのである。


ところが、最終的にこういう幕切れになると、もう誰もが信じられなくなる。人間不信の始まりかもしれない。

だから、同じ店の嬢である萌愛にも、できるだけ頻繁に会うことを避けたい。できるだけのめり込まないようにしたい、そう思っていた。



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