虚実都市【ディストピアーク】

光樹 晃(ミツキ コウ)

【1】ブレイカー

 深夜。発展著しい都市の中央に建ち並ぶ高層ビル群、その一つで。


──はっ、はっ、はっ、はっ……


オフィスビルの高層階、上質なカーペットの敷き詰められた踏み心地の良い広い廊下に、短く荒い息遣いと若い女の走る姿が駆け抜けていく。

社員の制服とおぼしき、きっちりとした服装の女が息を切らせて必死で逃げていた。

 逃げる女の背後には、ゆっくりとしたスピードで女を追って進む、大柄な男の姿が。男の外見は清掃員のような印象を思わせる若草色のツナギのような服装。

だが掃除道具らしき物は見当たらず、虚ろな瞳をまっすぐに女性の背中に注ぎながら、足を進めていた。


──誰かっ、誰かいないのっ!?


 悲壮感に満ちた顔を右へ左へ振りながら、女は走り続ける。人の姿を求め、自分の置かれた危機を脱する方法を探して。

だが深夜のオフィスビル。オートメーション化も高くなったこの時代、こんなに遅くまで仕事をする者などいるはずもなく。


──嘘……行き止まり!?


 やがて彼女の目の前に、廊下の終点が立ちはだかる。ハッとして後ろを振り返れば、それなりに離れた位置に自分へと向かって歩く男の姿が目に入った。

ゆっくりと、だがその緩やかな速度で近付いてくる事が、逆に彼女の恐怖心を煽ってくる。正面には壁。慌てて周りを見渡すと、広いオフィスの一室が視界に映る。


──あそこに隠れよう!!


急いでオフィスの入口を探し、見つけるとすぐさま走っていく。ドアノブに手を掛けて、悪寒が全身を駆け巡る。


──もし、このドアが開かなかったら……?


 一刻の猶予も許されない危機的状況の最中で。いや、そんな状況だからこそなのかもしれない。彼女の脳裏をよぎる最悪の想像。最悪の想像の先に待っている、自分の身に降り掛かるであろう残酷な結末に、カチカチと噛み合わない歯が音を鳴らす。

 微かな足音が耳に届いた。微かではあるが、しかし確実に大きさを増していく足音。

躊躇っている暇などないと本能が叫び、彼女は握ったドアノブを思いっきり捻った。軽い金属の擦れる音と共に、ドアが軽くなる。


──開いた!!


 ドアが動くのを確認するや否やすぐさま扉を引いて開け、オフィスへと飛び込む。後ろ手に勢いよくドアを閉めると、身を翻しロックを掛けて部屋の奥へ走っていった。

 等間隔にデスクの並んだ室内、奥にポツンとある管理職のものらしきデスクの陰に滑り込むようにして、身を隠す。

引き出しに付いた凹凸が背中に当たって痛いが、それを我慢して息を潜め様子を窺う。廊下からは離れている為、足音は聴こえない。だが、床を踏む微かな振動は女の足元から伝わってきた。

 ゆっくりと一歩ずつ、着実にこのオフィスへと近付いてくる。心臓の鼓動が、異様なほどはっきりと自分で感じ取れた。

やがて気配がオフィスのドアの前で停止する。ガチャガチャと、ドアノブを動かす音がしばらく鳴って。音がしなくなる。


──……諦めた?


 そう思って彼女が安堵しかけた時。ドーンッと部屋全体を揺らす衝撃が起こる。


「ひっ!?」


反射的に口から小さな悲鳴が漏れる。そしてバタンと言う大きな音と共に、何かが床に落ちる震動が全身に伝わってきた。

 女の身体が恐怖で硬直する。安堵しかけたところへ訪れたこの状況が、彼女の心により深い恐怖となって襲い掛かっていた。


「ソウジ……ゴミヲ……カイシュウ……」


 ノイズの混じったような、耳障りで不明瞭な声が聴こえてくる。間違いなく、追ってきた男の発した声だろうと女は確信する。

一歩、床を踏みしめる音と感触が伝わってくる。さっきの音はなんなのか、男はどこへ向かっているのか。恐怖心からか、じっとしている事に堪えきれず女はデスクの陰からそっと目を覗かせ、入口の方向を見る。


「──!!」


 視界の端に、床に転がったオフィスのドアが映る。ひしゃげて折れ曲がったドアが。

だがそれ以上に、彼女を凍り付かせる出来事に直面してしまう。


「ゴミ……カイシュウ……」

「い……いや……!」


覗いた瞬間、男と目が合ってしまった。慌てて身を隠そうとして、身体が椅子にぶつかり音を発してしまう。

 男が動き出す気配があった。居場所が知られて、こちらへと向かって来るのを感じ、いよいよ女の恐怖心は最高潮になっていく。

椅子にぶつからなければ。そんな後悔が女の胸の中に広がる。

いや、覗かなければ。覗いた瞬間に目が合ってしまったのだ、音を立てなくとも男は自分の居場所を、それで把握していただろう。

 男が近付いてくる気配が、全身に伝わってくる。どうする? どうする!? どうすればいい!!?

混乱した思考が、頭の中で目まぐるしく右往左往する。これから我が身に起きる最悪な展開の想像が。この窮地を脱する為のシミュレーションが。逃げる途中にあった別の道を選んでいれば、という後悔の念が。

 ゆっくりと距離を縮められるのを感じながら、パニックに陥った女は動けない。


──そうだ!


 絶体絶命。絶望しか待ってはいないのか。思った瞬間、頭の中でこの状況から逃れる策を思い付いた。


──ギリギリまで引き付けて、全力でデスクから飛び出し入口へ!


 幸い、男の動きは鈍重だ。この方法ならばきっと逃れられるはず。絶望に染まりかけた心に、光が射し込んだ気がした。

神経を研ぎ澄まし、男との距離を測る。一歩、二歩、三歩。


──五歩目で飛び出し、入口に向かって全力疾走する!


早鐘を打つ心臓を宥めながら、そのタイミングを見計らう。四歩目……次だ。次を逃しちゃいけない。

緊張感で萎縮しそうな気持ちを、自ら鼓舞して奮い立たせる。そして、五歩目を感じ取る。


──今だ!!


 飛び出そうとして、彼女の身体はまるで石にでもなったかのように動かなかった。活発な精神とは裏腹に、肉体は恐怖心に支配されガチガチに固まっていた。

否。活発と思っていた精神もまた、肉体の状態を把握出来ない混乱の極みにあったのだ。


「カイシュウ……ハイキ……」


 ノイズ混じりの不明瞭な声と共に、男の脚がデスクの横から出てきたのが見えた。女の心を、絶望が支配する。

 錆び付いたドアのように、ぎこちなく横を見上げて。

視界に映ったのは自分に向かって伸ばされる男の手と、窓の外からこちらに突っ込んでくる何者かの姿だった。


****


「アラートは三十七階、と。ならこんなものか」

『ちょっと紫狼!? アンタ何してんの!』


 遡ること数分前。腕に装着したデバイスを操作している紫狼に、頭に着けたヘッドセットのスピーカーから怒鳴り声が響く。

耳元で大声を出されて眉をしかめながら、タッチパネルに指を踊らせる。肩を固定していたアームが外れ、ドローンが背後に着地した。


「何って、準備に決まってるだろ? 異常事態が発生してる真っ最中なんだから」


 ヘッドセットから左目まで伸びたモノクル、そのモニターからオフィスビル内の映像が流れる。ちょうど女性職員が、オフィスの一室に飛び込んだところが映っていた。


『そうじゃなくて! なんで勝手にガルーダを動かして屋上なんかに行ってるのよ!?』

「下から律儀に向かうより、こっちの方が早いからに決まってるっしょー」

『アンタねぇ……』


 怒鳴り声にも紫狼は軽い調子で返し、それに対して通信機の向こう側から聴こえてくる反応は、心から呆れたとしか表現しようのない声。

ちなみにガルーダとは、ついさっき背後に着地したドローンの通称である。人間一人程度なら軽々と運搬可能な飛行能力を備えた、新型ドローン……の試作機。


『ガルーダはまだ試験運用段階だって言ったでしょ!? それをいきなりそんな高層ビルの屋上まで飛ばすなんて……』

「あー、わかったわかった。説教なら帰ってから聞くから。それより要救助者が大ピンチだぜー?」

『え? ……いけない!』


 耳元に聴こえる慌てる声はどこへやら。屋上の縁に片足を乗せ、左腕のデバイスの先端からフックを引き出す紫狼。

そのフックを段になった屋上の縁の内側に掛けて。


『紫狼!? 何をする気よ、ちょっと!!』

「こうするんだ……よっとぉ!」


 通信の向こう側では紫狼の状況も、ガルーダのカメラを通してモニタリングされている。そして紫狼がなにやらしている事をオペレーターが問い詰めるが……

深呼吸を一つ吐き、紫狼は勢いを着けて屋上からその身を投げ出した。


「そろそろ、だな」


 ビルの壁に沿って、勢いよく身体を落下させながら、呟く紫狼。耳元ではオペレーターが何やら言ってるが、身体を凪ぐ風の音で聞き取れない。


「……うっし!」


 景気よく声を放ち、両足でビルの壁を蹴る。同時に左腕から伸びたワイヤーが止まって、紫狼の身体が宙ぶらりんの状態になった。

さきほどの蹴りによってビルとは反対に身体が振られ、やがて振り子の原理で再びビルの方へと流されていく。

目の前のガラスの向こう側では、今まさに男が女性職員に襲い掛からんとする光景が繰り広げられていた。


「ドンピシャ!」


 右の手首を内側に曲げると、腕に着いた端末の頭から小さな杭のような物が飛び出す。マイクロアンカー、強化ガラスを突き割るのを目的とした機具。

勢いをつけてビルに迫りながら、ストレートを放つように右腕を後ろに引き、窓に衝突する瞬間を狙って真っ直ぐ突き出した。鋭利なマイクロアンカーの先端が窓ガラスを貫き、続けて掛かる紫狼の突進力によって一気にひび割れて。


「キーック!!」

「ガッ!?」


 オフィス内に飛び込むと同時に放たれた紫狼の蹴りが、男の顔面に直撃しその身体を吹き飛ばした。蹴り飛ばした勢いそのままに、身体を回転させて床に着地する紫狼。


「大丈夫?」

「え……!? あ……」


 素早く立ち上がると、窓際にへたり込んだ女性に声を掛ける。彼女は事態を飲み込めないのか、呆けた顔で言葉にならない声を出すばかりで。


『ちょっと紫狼!! アンタ何やってんのよ!? ビルの窓を割るなんてなに考えてんのよ!!!』

「うるっさいなぁ。緊急事態なんだからしょうがないだろ? 始末書ならちゃんと書くって」

『馬鹿! 割れたガラスが彼女に刺さったらとか考えないの!?』

「あぁ、それに関してはちゃんと計算してるよ。ここのガラス、かなりしっかりした強化ガラスで飛び散らないんだよ」


 オペレーターと会話を交わしながら、見つめる窓にはひび割れながらも器用に繋がって、まるで良く出来たインテリアのようになったガラス片がぶら下がっている。

吹き付ける強風に煽られて、そのオブジェのようなガラス片が靡いていた。


『あ、そうなんだ……じゃなくて! 修理代だって安くないんだからもっと被害の少ないやり方を……』

『あー、アーニャくん。それはいいから』


 一瞬納得しかけながらも、それを振り払い文句を畳み掛けるオペレーターの声を遮り、男の声がヘッドセットから聴こえてきた。


「班長!?」

『とりあえずは要救助者は無事なようだね、紫狼くん』

「あー、ですね。見たところ怪我とかしてる感じはありません」


 紫狼を見上げて呆然とする女性の身体を見回して、異常がないのを確認しマイクに告げる。背後で重い音が鳴った。

音に気付き、そちらを見た女性の顔色が変わる。吹き飛んだ男が立ち上がり、こちらに身体を向けていた。


『じゃあ、ホムンクルスの処理を速やかに済ませちゃって』

「了解。MEDのロック解除、許可もらえます?」

『ああ、そうだね。アーニャくん、よろしく』

『は、はい。了解です班長』

「……ん?」


 脚を掴まれてそちらを見れば、慌てふためいた女性が口をパクパク動かしながら、背中の方を指で必死に示してくる。


「カイシュウ……ショリ……!」

「MEDの使用許可まだー?」


 男が声を上げながら、紫狼に襲い掛かって来る。オペレーターへ急かす声を発しながら、紫狼はするりと男をかわして背後に回ると、再び蹴りを見舞う。

綺麗に並べられたデスクを薙ぎ倒しながら、蹴り飛ばされた男の身体が床に転がった。

 床に横たわる男の身体の端々に、映像が乱れた時に出るブロックノイズのような物が浮かび消える。


「ク……LEA……にん……G……」


 両手を床に着き、身体を起こそうとする男の口から出る声が、機械的な耳障りな音の混じったものへと変わった。全身に浮かんでは消えるブロックノイズ。次第に男の肉体がボヤけた感じと鮮明な感じを繰り返し、ブレ始めた。


「不具合が悪化してきたぜ、そろそろ“変異”しそうだ」

『……お待たせ! MEDのロック、解除したわ』

「待ってました!」


 スピーカーから聴こえてきたオペレーターの言葉に、紫狼が嬉々とした声を発しながら、右手を腰の後ろに回す。ホルダーの留め金を外し、素早くそこに収納された端末を取り出した。

 銃のグリップ、或いは刀の柄を思わせる形状の端末をしっかりと握り、胸の前で構える。握った人差し指の先には銃のトリガーのような装置、親指の下にはボタンが配置されていた。


「じゃあ、まずはガンモードで行きますか!」

『了解……MED・GUNモード、データ送信!』


 オペレーターの言葉を合図に、紫狼の手にした端末『MED』が発光し始めた。グリップの上部に薄緑の粒子が集まり、急速に銃身の形を成していく。


「あっ、危ないっ!」


 手の中で具現化した銃を見つめる紫狼に、女性が切羽詰まった声を放った。起き上がった男が、紫狼に掴み掛かろうと襲い掛かるのを見ての行動。

 無防備な紫狼に男の両手が伸びていく。が、その動きは唐突に停止する。バシュッという乾いた音を一つ鳴らしたあとに。


「残念。そんなシンプルな襲撃の仕方じゃ、俺には指一本触れられないぜ」


 動きを停めた男にゆっくりと身体を向けながら、呟く紫狼。手にした得物の銃口は、既に男に向けられていた。

いや、襲い掛かる男の動きを停めたのは、その銃から放たれた弾丸による効果。

 MaterialーEnchantーDevice、通称『MED』と呼ばれる端末の銃型モード。それから放たれる弾丸は、ホムンクルスと呼ばれる虚実の存在の動きを停止させる効果を有している。


「あ、あなたは、一体……?」

「俺か? 俺は」


 目の前で起きた一連の流れを呆然と眺める女性が、紫狼に困惑した声で問い掛ける。銃を構えた格好のまま、紫狼は女性に目をやり口の端を微かに吊り上げて。


「ArksーCityーCustomerーService……ACCSのブレイカー、紫狼だ」


 不敵な笑みを浮かべて、そう答えた。

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