08 私はお前から離れない

 開店をして一刻、客が増えてくると厨房は戦場さながらだ。いつもは仲のよい彼らの間を怒号が飛び交う。もっとも、仲がよいからこそ、罵倒し合ってもあとを引くことはない。

 口汚い言葉は子供の頃から聞き慣れているものの、隊商で耳にしていたそれは醜く憎々しい罵り合いだった。殺し合いに発展したこともあるくらいだ。

 だが、ここの怒声は違う。厳しいことを言い合うのは、注文を受けてから少しでも早く、美味い品を客に提供するためだ。

 皮肉っぽい見方をすれば、所詮、客の落とす金のためだろうということにもなる。だがそれにしたって、殺して金を奪うより、相手の腹と気分を満足させて代価を受け取る方がずっとよいに決まっている。

 炊き上がった釜の飯をかき混ぜ、鍋に出汁を追加し、皿を洗っては床に跳ねた油を拭き、クレスの仕事は盛りだくさんだ。

「クレス、薬味が足りない。刻んでくれ」

「はいよっ」

 どれも雑用と言えば雑用だが、何かを切ったりする行為の方が「調理」らしくてクレスは好きだ。レセルを貯蔵庫から引っ張り出して水場から洗った刃物を取ってくると、小刀はきっとお預けになるだろうということをふっと思い出した。

 もう半ば以上諦めている。運よく財布が見つかったとしても金はまず戻らず、バルキーは少年への褒美を考え直すだろう。残念だが仕方ないと思っている。

 だから、それに落胆するのではない。クレスが思ったのは、彼がそれを告げるより先にバルキーが小刀のことを思い出さなければいいな、というようなことだった。「明日が楽しみだな」なんて言われたら、答えに困ってしまう。

(一段落したら)

(俺から言おう)

 少年はそう決意したのだが、その機会がくるよりも先に、食堂の方から彼に声がかかった。

「――クレス! リンがきたわよ。少し休んだら?」

 ウィンディアの声だ。いちばん忙しい時間帯は抜けたものの、洗い物などはすぐにたまる。クレスは逡巡したが、バルキーの許可が出た。

「昼間の友だちか。行ってこいよ」

「え、いいの」

 クレスは驚いた。友人と競い合うのはいいことだなどと言ってはいたが、休憩に入るのでは切磋琢磨することにならないのではなかろうか。

「俺はそんなに石頭じゃないつもりだ。ウィンディアのことだけは別だが」

 自覚はあるんだな、と誰かが呟いた。じろりとバルキーは背後を睨む。ウィンディアが手招きしていた。少し躊躇ったが、クレスはバルキーの言葉に甘えることにする。

(でも)

 少年は内心で首をひねった。

(何かおかしなこと、言ったような?)

 どうしてここでウィンディアの名前が出てきたのだろう。もしかしたら、と少年は思った。

(バルキーは、リンがウィンディアに手を出すとでも思ったんだろうか)

 年齢的にはちょうどぴったりと言うところだ。父親はそれを案じて、クレスに見張ってこいと言ったのかもしれない。

 そう思うと何だか可笑しくて、クレスは笑いをこらえながら食堂の方に向かったが――リンの姿を認めると、少し困ってしまった。

 と言うのも、リンの座るすぐ隣では、先にそちらへ行ったウィンディアが盆を胸に抱えて、実に楽しそうに笑顔を見せていたからである。

(これは)

 リンがウィンディアに何か囁き、ウィンディアがまた笑っている。

(バルキーが見たら、リンは出入り禁止食らうかも)

 若者はアーレイドの人間ではないから、もう二度と〈赤い柱〉亭にくるなと言われても痛くもかゆくもないかもしれない。だがそんなことになれば、お互いに後味が悪いだけだ。

 クレスの立場でいちばんいいと思われるのは、自分がリンと同席して、リンがウィンディアを口説いてなどいなかったとバルキーに証言することである。

「クレス」

 少年に気づいてリンは軽く片手を上げた。クレスも同じようにする。

「これ、クレスが作ったのか」

「俺は手伝いだけだよ」

 少年が肩をすくめると、どうかしら、とウィンディアが言った。

「父さん、やってみろって言わなかったの?」

「いきなり客には出せないだろ。賄い飯で練習させてはもらえるかもしれないけど」

「何だ。それなら私を実験台にすればよかったのに」

 リンが言う。クレスは瞬きをし、ウィンディは手を合わせた。

「あら、それ、いい案じゃない?」

「余程に食えないものでなければ、きちんと金は払う」

 食事を安く上げようというんじゃない、とリンは言った。それはそうだろう、とクレスは苦笑した。これまでの気前の良さを見れば、リンがそんな手段で節約をしたがるとは思えない。

「でも今日はもう、食べてるじゃないか」

「それじゃ明日」

 リンは当然のように言った。クレスはきょとんとする。

「明日」

そうアレイス。私は、お前がどんな料理を作るのか気になるんだ」

 何でまた、と思った。明日にも財布は見つからないだろうからこうしてまた飯を食いにくると、そういう意味に聞こえるが、それは見つけると言い張るリンらしくないような気がした。

 リンの考えることはよく判らないけれど、〈赤い柱〉亭の売上げが増えるのであれば特にクレスに文句はない。それじゃ明日、と同意することにした。

「そう、明日もくるのね。きっときてね」

 ウィンディアがにこにことしているのを見て、クレスはまたも、少し心配になった。

(この調子だと、バルキーがうるさいかもなあ)

「クレス、座ったら?」

 ウィンディアが少年を促す。

「もし父さんの目でも気になるなら、私も一緒にいるから」

「……ん?」

 もし彼女がこの友人を気に入ったのなら、バルキーの目を気にするべきはウィンディアである。何故、クレスが気にしなければならないと?

(ちょっと変わってるけど、言い訳なのかな?)

 クレスはそう考えた。やはりウィンディアはリンを気に入って、でもそうはっきりと指摘するのもされるのも嫌で、クレスを隠れ蓑にしようとしているのかもしれない。何だかややこしいが、たぶんそういうことかなとクレスは見当をつけた。

「いや、他の客人から給仕の君を取るようではいけない。私はかまわないし、クレスもかまわない。戻ってくれて問題はない」

 リンがそう返し、クレスはやっぱり首をひねる羽目になった。ウィンディアは特に残念そうな様子を見せることもなく、うなずいて仕事に戻る。改めて、リンはクレスに座るよう促した。

「もう一度、あの近辺を歩いてみた」

 リンはそう切り出す。

「ひとり、それっぽいのを見つけたんだが、尾行はあまり巧くなくてね。気づかれて逃げられた」

 リンがとても簡潔に説明してくるものだから、クレスはうんうんと聞いてしまいそうだった。だが、盗賊のあとをつけるなど危ない真似であると気づく。

「あんまり無茶するなよ」

「無茶はしない。分はわきまえている」

 というのが金髪の若者の返答だった。

「腕力のありそうなのと一対一になれば、負ける。そんなのが相手なら、例え気づかれていないと確信していても、人気ひとけのなさそうな小道にはついていかない」

 リンは細い。クレスがもう少し筋力を身につけたら、たぶん、簡単に勝てる。当人も自覚はあるようだ。

 ただ、クレスが力をつけたいと思うようには、非力を気にしていないような印象がある。

 分をわきまえる。

 負け惜しみではなくそう言ってのけられるリンが、何だかすごく大人であるように感じた。

「何だ?」

「何でもないよ」

 不審そうな問いかけに首を振り、クレスは続きを求める。

「それで? 誰を見かけてどうしたって」

「追った。だが結論から言うと、そいつは」

 リンは躊躇った。この若者のそんな様子は初めてで、クレスは興味をそそられる。

「そいつは?」

 少年は促した。リンはうなる。

「……そいつもまた、お前の財布を失ってた」

「……はあ?」

「あの鏡を使った。私はお前の頭上に見たのと同じ袋を見たんだ」

「あのさ、リン。言いにくいんだけど」

「言わなくていい」

 リンはむすっとしていた。ウィンディアの前ではにこにこしていたのに、一変である。

「〈鏡〉が偽物、或いは不良品の可能性が出てきたってことだ」

「うん、まあ、そういうことかな」

 クレスとしては最初から、鏡のお告げなど疑わしいと思ってそう言おうとしたのだったが、リンは本物であることを前提に効果を試している。

「事情が判るまでは私はお前から離れないことにした」

 リンは言い放った。クレスは少し呆れ、何て物好きなんだろう――と思った。

「お前から離れない、か。そりゃまた、仲がいいな。微笑ましいってのかね?」

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