第1話『事件』

美空みそらさんが亡くなったのは、この部屋で間違いないんですか」

 静かな口調も相俟ってか、その音に温度はなく、淡々と事務作業を進めているような感覚を美晴みはるは覚えた。

 現場はワンルームマンションの一室。整然と敷き詰められた本棚や均等に並べられた机上のリモコンに化粧品からは被害者の几帳面の性格が窺える。部屋の奥には彼女が生前最期にいた場所と思われるベッドが部屋の雰囲気をぶち壊す程に彼女の血で赤黒く変色していた。

 美晴に質問を投げたのは、ぼさぼさに髪をのばした見るからに貧乏そうな男。しゃがみこんで、本棚の本を眺めているだけで、とても捜査をしているようには思えない。長い前髪で視線がどこを向いているのか判別が難しく、無精髭を蓄えたその顔からは生気というものが感じられなかった。

「はい。殺害された女性は鷺宮さぎみや美空みそら。二十八歳。近郊にある大手美容品メーカーに勤め、開発業務に携わっていました」

「彼女の死因は?」

「胸に包丁を突き刺しての出血性ショックが原因です。それ以外に目立った外傷はありません」

「警察の見立てはどうでしょう」

「はい。警察は自殺と断定しています。理由としては鍵は内側から掛けられていましたし、殺された時に誰かが部屋にいた痕跡は見当たりません」

「その根拠は?」

 ムッとした美晴は仕方なくベルトに装着したホルダーからスティックを一本取り出し、空に弧を描くように振った。すると、淡白な光が部屋一面に広がる。すると程なくして、数種類の色の光の粒が宙に舞い上がる。傍から見れば幻想的な風景かもしれないが、捜査の基本事項であり、警察学校の時から考えれば何万回も唱えた呪文だ。今さらどうも思うことは無い。

「今何をしているんですか?」

 そこで美晴はふん、と鼻を鳴らした。

「こちらは『空間残滓メモリーダスト』と言って、空間に存在する人間の残滓ダスト──この部屋に存在した証を視覚化する魔法です。色が濃いものほど、この場の滞在時間が長いことを表しています。そして数が多ければ多いほど、滞在した時期が近いことを表します。この一番数が多く白い残滓ダストがこの部屋の主──つまり彼女の残滓となります」

 美晴の言う通り、室内には白の他に赤や紫といった色が点々と存在し、それぞれが濃淡様々に舞い上がっている。

「なるほど」

 美晴の熱弁虚しく、男は犬が匂いで探索するが如く、周囲をくまなく舐めまわすように動き回っている。

「ちょっと、辞めてもらえませんか。故人の部屋を犬みたいに嗅ぎ回るのは」

「いやあ、失敬。人のいた残滓がわかるなんて、魔法も捨てたもんじゃあありませんね。せっかくだから臭いだけでもと思ったのですが」

「な……本当に匂いを嗅いでいたんですか。無味無臭に決まっているでしょう」

 冗談で言ったつもりが、まさかの当たり判定に美晴は口をあんぐりとあけた。

「すいません」

 何故か若干照れながら男は謝った。

 美晴は男にも聴こえるようにわざとらしいため息を吐いた。

 なんでこんな男を上層部は寄越してきたんだろう。不満が爆発しそうになるのを堪えるのも限界に近い。

 男とは現場で初めて出会った。現場に出向く際、上司から「問題児だが優秀な探偵だ」と言われたが、今のところ問題児の部分しか見えてこない。美晴が現場に着いた時にはもう男が被害者の玄関先でうろうろしていた。恐る恐る声をかけると、男は「初めまして」と言いながらよれよれの名刺を一枚美晴に寄越した。そこには『飄堂ひょうどうまこと』と記してあり、名前から言動全てがまやかしのように怪しかった。

「でも、やっぱりおかしいですね」

 

ようやく気付いてくれたかと、美晴は安堵し、「以後気を付けていただければいいんです」と諭すように男──飄堂へ語りかける。

 飄堂はきょとんとした表情を浮かべたが、美晴の言っていることが理解すると首を横に振った。

「ああ、違います違います。僕の言動のおかしさではなくて、この現場のおかしさの話です」

「何を言っているんですか?」

「ここには美空さんの他に誰かがいた形跡があります」

「……え?」

 美晴はきょとんとした表情を浮かべた。

「先程もお伝えした通り、彼女が亡くなった時には誰もこの部屋にはいなかったことは残滓が証明しているじゃあないですか」

「その残滓が残っていない理由はわかりかねますが、亡くなった時、もしくは亡くなった後に誰かが部屋に入って部屋をこの状態にしたのは明白です」

「……どうしてわかるんですか」

「まずはこの本棚」

 そう言って飄堂は本棚を指差した。先程見たが特に違和感は感じられなかったのに、彼は何を言っているのだろうか。そんな美晴の心情を無視して、飄堂は話を続ける。

「この本棚にはきっちりと本が敷き詰められており、整頓されているように思えますが、よく見ると所々に不自然な点があります。例えばこの小説の並び。五十音に並んでいるように見えて実際はばらばらです。そして、漫画の段に移ると、所々に巻数の入れ替わりが発生しています。この部屋を見る限り被害者は几帳面な性格であることは一目瞭然です。トイレやお風呂などの水周りでも水滴ひとつ落ちていない。これは素晴らしいことです。しかし、こと本棚に関してはそれがまるでない。まるでというには少々語弊があるかもしれませんが、それが感じられないものとなっています。果たして几帳面な被害者がそんなミスを犯すでしょうか。これだけ整然とされた状態であるならば、この本棚に気持ち悪さすら感じる可能性だってあるでしょう。この気持ち悪さを放置している理由は恐らく被害者が殺された後に並べたからだと思われます」

「本棚だけで、そんなことまでわかるんですか」

「本棚だけではありまさん」

 飄堂はリモコンを指差した。机のエッジに沿って左側に置かれたそれはどこからどう見ても几帳面な被害者の性格をあらわしていると美晴は感じた。

「美晴さん、それを持ってもらってもいいですか」

 美晴は飄堂の言う通り、リモコンに右手を伸ばす。そこで飄堂から突然「動かないで」と言われ、驚きながらも、言われるがままに身体を静止させた。

「これを見てどう思いますか?」

 飄堂の問いに美晴は逡巡する。そして一つの答えに帰結した。

「置き場所が逆?」

「その通り」

 飄堂は満足そうに頷いた。

「この部屋の主は美晴さんが思っている以上に几帳面な方です。部屋の隅々まで導線を考慮した物の配置となっている。だからこそその小さい隙間に生じたズレが違和感として残ってしまう」

「でも残滓が……」

「逆に確認しますが、『空間残滓メモリーダスト』を用いて捜査するに当たって何かフェイクをいれることは可能でしょうか? 例えば残滓を残さないように工作を入れることは可能かと聞いています。昔でいえば、指紋が残らないように指紋を拭き取ったりしていましたよね」

 大昔の先人が仕掛けた偽装工作の一端を言われても美晴にはぴんとこなかった。そういった偽装を欺くために今の魔法があると思っていたからだ。

 魔法は万能であり、絶対。

 美晴の脳裏に学校の教師や大人達が挙って声を上げていた言葉が反芻される。

「可能性は……あるかもしれません。でもそれが可能かすらも私にはわかりません」

 美晴のなかの常識が崩れおちた瞬間であった。

「ありがとう」

 飄堂は美晴の肩をぽん、と叩いた。

「その言葉のお陰で可能性が広がりました。さあ、真実を見つけましょう。真実は魔法の中にあるのではありません。現実の中にあるのです」

 飄堂は口角を上げ、にっと笑う。

「じゃあ事件のあらましを教えていただけますか?……あなたのお姉さんの死について」|

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