『黎明の空』

千代音(斑目炉ヰ)

第1話

愛しいと想えど写真の中の人

湖畔に浮かぶは何時ぞやの


「私は何も残してやれなかった」


声なき声に言葉も出ぬ無様

膝を付き唯唯、貴女の墓前で己の過ちを悔やむ


「私はお前を亡くして全てを失ったよ、私の全てはお前だったと気付くのさえも遅かった」


雨粒が点、点と嗤う

秋空は何処までも清々しい灰色

芒が後ろ指を立てる


「嗚呼、俺も死んでお前の所に逝きたいな

でも、そんな馬鹿な事したらお前は叱るよな

解ってる、解ってるよ」


石畳は体温を奪う

感覚は麻痺、雨は強く身体を刺す

「静かだね、出会った頃を思い出すよ

君は初心でいて、とても可愛かったよ

本当に俺のこと好いてくれて尽くしてくれて…

結婚式の白無垢の君、美しかった

忘れられない

忘れるもんか

俺は君を心から愛していた


それなのに、

畜生…

畜生が、

殺してくれ、頼む、殺してくれ

俺を

情けない、悔しい、己が憎い

こんな、こんな最期

望まれなかったぞ」


どう使用もない不安と孤独

取り戻す事が不可能な時を

自ら歩む事の出来なくなった脚を

懐の小刀で傷を付ける

滴る朱は着物に滲み

墓石は無情、口無しであった


「使い用のない脚さえ無ければ

健全で在れば

この脚さえ、この脚さえ

何故弱くして産まれた

護るべき妻さえ護ってやれない

屑だな」


ふと我に返り観る阿呆

周りは薄暗く、霧が蠢く


「…醜い行為をして何になる」


刃を収め車椅子に手をやる

身体は痺れ果てていた


「自分の家にも独りで帰れないのか、困ったものだな」


遠くにボンヤリと薄明かりが動く

其れが近付くや否や、

微動だにしない身体に羽織りを掛ける


「旦那様、また奥様の所に居られたのですか

探しましたよ、夕げの時間も過ぎてます

椅子に乗れますか、わたくしに身体を委ねて下さい」


車椅子の鈍い感触

此処に来ると時間の概念は無くなるようだ


「旦那様!?御御足どうされたのですか?まさかまた御自分で…」


口元を緩ます、恥でしかない


「兎に角、お屋敷に戻りましょうね」


頷く己は蘇価値など皆無であろう





​───────





屋敷は冷徹に己を見下す

相応しくない後継者

血筋は嘘を付かない


「旦那様を探している最中、お仏壇から奥様のお写真が倒れまして

きっと墓前に居られるんだろうと思いました

奥様が教えて下さったんですねえ

今日は冷えますから早く屋敷に帰したかったんじゃないでしょうかねえ」


醜い脚に包帯を巻きながら微笑む


「思っていないよ、そんな事

妻は私を恨んでいるよ

最期まで尽くしてくれたのに、思い出せなかったんだ

きっと憎いだろう

写真が倒れたのは、私が己自身を傷付けていたから、嘲笑ったんじゃないかな」


「そ、その様な事申されては成りません!

奥様は恨んでなんかありません!

お命が尽きるまで旦那様の心配をされてましたよ

わたくしめに後は頼むと、託して下さったんですよ」


「…そうか」


何も耳には残らなかった

清い心遣いも無駄にする様

最低の字もさぞや似合う事であろうか



​───────

この使用人は妻が拾ってきた者

餓死寸前の少年にありったけ食わせた

其れからコイツは妻に恩返しと言う理由でこの家の仕事をした

俺も動けない分助かっている

​───────



「部屋に戻る」


「夕げはどう致しましょう?」


「すまない、今日は何も入れたくない」


「畏まりました、お湯には浸かられますか?」


「いや、いい もう寝ることにする」


「では、お布団の準備を…」


「大丈夫だから、お前も休みなさい」





​───────





襖を占め、孤独に堕ちる

壁の染みも障子の穴も暗い部屋では化け物のように思える


箪笥から櫛を取り出し髪をとかす

生前、妻が使っていた化粧台

顔に白粉をはたく

紅を惹き、髪を束ねる

妻のように振る舞う


「あら、そろそろ毛先を整えましょうね」


「庭の薔薇が咲きましたよ、貴方」


「…貴方」


鏡に映る、痩せこけた男


「…また、呼んでくれないか

貴方って…」


「はははっ

なんとも気色の悪い姿だな

恋しくて堪らないんだ

お前の香りがするよ」


すかさず袖で拭う

目頭が熱くなっていた

押入れの隙間から冷気が漏れる

床につかなければ


「布団も毎回綺麗に締まってくれて」


硬い布団はまるで石

隣で手を握る人はもう亡いと解っているのに

童唄を欲しがり

脳裏に甦る情景を失うまいと眠りにつく





​───────





ー『どうか、責めるのを止めて生きて下さいまし』ー


ふと、柔い軽らかな

聞き覚えのある声


ー『強く、歩いてご覧なさって』ー


墓の脇にある湖畔が見得た

彼岸の花が咲き乱れ

朱い絨毯に佇む影


君は…





​───────





ガタガタと雨戸が開く

ドタバタと駆けずり回る



ギギギ、ギギ


「あら、旦那様

すみません、起こしてしまいましたか」


「…おはよう

車椅子… か?」


「はい、勝手ながら点検させてもらいました!

昨日の雨で、錆と汚れが気になりまして…」


「私の世話と掛け合わせて、この家の切り盛りは大変だろう」


「いいえ、わたくしめは幸せで御座いますよ」


「…そうか」


「旦那様?お涙の痕があります

拭うものをお持ちしますね」


「…夢だったのか」


「え?」


「彼岸の季節だから」


「奥様ですか?不思議ですね、わたくしの処にも来て下さったんですよ」


「…そうか、きっとお前の事を気にしてたんだな」


「いいえ、旦那様の事をお気にしていましたよ」


「…」


「旦那様、車椅子に乗られますか?」


「…杖を持って来てくれ、蔵に仕舞ってある」


「畏まりました」





​───────





「持って参りましたが、車椅子を…」


「処分しといてくれ」


「え?いえ旦那様

思い切りが過ぎますよ

少しづつ練習して行きましょう」


「俺も妻のように人を支えられる様な人間に成りたい

お前にも楽をさせたいんだ」


使用人は涙ぐんだ


杖の感触は何年ぶりだろうか

己の脚で立つことさえ出来ないと錯覚して居ただけではないのか、

根気は何処から来るのか、

俺には理解知りえないが


「だ、旦那様… 無理をなさらずに!」


一時期は斬ってしまおうかとも悩んだ

両足に感触は無い

筋肉の使い方も党に忘れた

冷や汗が吹き出る


小鹿のように震え

使用人に凭れながら

まずはの1歩を歩んだ

その瞬間崩れ倒れたが

久しぶりに心から笑みを浮かべた


「きょ、今日はお赤飯炊きましょうね!」


「何を馬鹿な、別に目出度い事では無いよ」


秋空は透き通るガラスレンズ

何処までも遠くを観れる

そんな気がした





​───────





だが、晴れることはない心の闇


「お前が幾ら俺に声をかけてくれたって、お前を失った哀しみは消えないよ

脚はまだ使えそうだった

お前の所まで歩いて行くよ

やはりな、俺はココまでの落ちぶれさ

辿りついたら、とことん叱っておくれ」





​───────





「旦那様ぁ?旦那様ぁ?どこに居られますか?

お赤飯の買出しに行って参りますよぉ?」





猫が横目に毛繕いをする

小鳥は餌をつつく


お国の為の正義とはこのもどかしくも痒い一生を歩み続ける為だったのか













「今、逢いに逝くよ」
















​───────





仏壇には奥方の写真の横に二人笑うなんとも幸せな写真が置かれていたそうだ


仏前で、男は己の首を自ら裂いたのだ


第一発見者は使用人の若造

その証言は

「旦那様の楽にさせたいと言う言葉がこびり付いて離れない」

と言って泣き崩れたそうな

なんとも、解読難解



「まぁ、自殺と扱うのが妥当でしょうねえ」


「奥方が自分より早く亡くなられたんだ、きっと辛かっただろう」


「記憶を失っていた期間が合ったそうだね」


「死に顔は笑っていたそうじゃないか」


「こりゃなんとも言葉にならない話だな」


「人間は支えがなくちゃあ、生きていけない

特に男はね」





​───────





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『黎明の空』 千代音(斑目炉ヰ) @zero-toiwaku

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