第22話 引っ越ししたい木下さん

 2月下旬のある日、玉城さんが私のところにやって来た。


 「課長。少しご相談があります。菰野の夕月荘に住んでいる、木下博子さんのことなんですが…。ここ1週間ほど、引っ越ししたいという電話が毎日のようにかかってくるんですよ。どうしたものかと思いまして…」


 「玉城さん。木下さんは、何故引っ越しがしたいんでしょうか?」


 「隣人とのトラブルのようです。事あるごとに隣人男性から『出ていけ!』と罵られるのだそうです」


 木下博子さん…30歳の単身女性である。仕事が長続きせず、収入が不安定ということで、大阪府南部福祉事務所時代から保護を受けている。「境界性パーソナリティ障害」という診断を受けており、不定期で藤井クリニックを受診している。


 「玉城さん。木下さんがどこに住むかは自由です。自費転居したいということであれば、我々が関与する余地はありません。でも、転居のための費用を福祉から出して欲しいということであれば、話は別ですが…」


 「木下さんは、福祉から転居費用を出して欲しいと言っています。その男性が怖いので、町外に出たいと…」


 「…うーん。男性が怖いだけでは理由になりませんね。病気療養上転居の必要性が認められるという理由で転居費用を支給することは可能ですが…。その場合、主治医の藤井先生の意見を求める必要があります。もちろんその前に、我々も臨時で家庭訪問をして状況を把握しておかなければなりませんがね」


 翌日、私と玉城さんは木下さん宅を家庭訪問した。彼女の部屋は1階の一番奥まったところである。彼女は終始うつむきがちで、我々とは視線が合わない。そして、隣人男性が怖いので引っ越しをしたい。引っ越し費用を認めて欲しい。今も男性の声が聞こえると主張し続ける。


 「木下さん。ここは角部屋ですよね? その男性というのは、玄関に向かって右のお部屋に住んでいるということですかね?」


 玉城さんが木下さんにそう告げると、木下さんはコクリと頷いた。


 「玉城さん、私ちょっとお隣さんの様子伺いしてみますわ」


 私はそう言い残し、玄関を出た。しかし、隣の部屋には人気がなく、電気メーターも動いていない。ふと2階を見上げると、年配の女性の姿があったので、役場の人間であることは告げずに事情を聞いてみた。


 「すみません。ここのお部屋なんですけど…どなたか住まれてますか?」


 「いや。もうだいぶ長いこと空き部屋やよ」


 「このアパートに、男性の方は住まれてますか?」


 「いや、全員独りもんの女性よ。そこの角の木下さん以外はババアばっかり」


 ん…? 木下さんは嘘をついているのか…? 私は木下さんの部屋に戻り、木下さんに確認をしてみた。


 「木下さん。たまたま外におられた住民の方に伺ったんですが…お隣は長いこと空部屋のようですね。それに、このアパートには男性の方はいないとのことです。その怖い男性というのはどこの方なんでしょう?」


 「課長さん。今も声が聞こえるでしょ? ほら、玄関に立っている…」


 「玉城さん。今すぐ藤井クリニックに電話を入れて、受診予約をしてください。これ…幻聴と幻視ですわ。統合失調症を発症している可能性があります」


 私は木下さんに聞こえないように、玉城さんの耳元で呟いた。玉城さんはすぐに部屋の外に出た。


 「木下さん。我々がいるから大丈夫ですよ。ほら、今玉城が追い払いに行きましたから安心してください。木下さん、顔色が良くありません。夜は眠れてますか? 我々が一緒に行きますから、よく知っている藤井先生の診察を受けましょう」


 木下さんが抵抗するのを覚悟の上で、私は木下さんにそう告げた。私の予想に反し、木下さんはすんなりと受診に同意した。


 公用車で木下さんを藤井クリニックに連れていき、藤井先生の診察を受けてもらった結果…


 「森山課長、玉城さん。パーソナリティ障害と統合失調症…実は症状的には紙一重なところもあるんですよ。木下さんの年齢や、今の状態を踏まえると…おそらく統合失調症の発症で間違いないと思います。少し落ち着いてもらうために、入院が必要だと思います。入院先はこれから少しあたってみますので、お時間をいただいてもよろしいですか?」


 木下さんは、泉州市の「秋桜ホスピタル」という精神科に任意入院することになった。予定期間は1か月である。


 「玉城さん。ちょっと意外な展開でしたね。その『男性』とやらが幻聴と幻視が生み出したものだったとは…」


 「課長、臨時で家庭訪問してよかったです。百聞は一見にしかずですよね。ありがとうございました」


 「玉城さん。今回はこんな結末になりましたけど、引っ越ししたがるケースは結構多いです。経験上は、近隣トラブルが多いですね。基本、人間関係が苦手な人が多いですからね…」


 「確かに課長のおっしゃる通りですよね。私はまだこの世界は2年弱ですけど、いろんな意味で不器用な人が多いと思います」


 「玉城さん。ちょっと話が本筋からずれるかもしれませんが…何故ケースが保護に陥るかわかりますか?」


 「えっ?」


 「もし玉城さんのご両親やご兄弟が生活に困っておられたら、あなたどうしますか?」


 「それはもちろん、可能な範囲で助けます。家族ですから」


 「玉城さん、そこなんですよ。扶養は生活保護に優先します。ケースの大半の人は助けてもらえてないんです。それは、家族関係が破綻しているからですよね。家族から見放された人は、何らかのトラウマ…人間不信になってると思うんですよ。そんな状態で、他人さんとの良好な関係を築けると思いますか?」


 「うーん…。難しいでしょうね…」


 「ケースの人たちってね、皆寂しいんですよ。私はそれを理解してから、仕事がスムーズに運ぶようになりました。価値観の違いから、腹の立つこともたくさんありますけど…とにかく相手さんの言い分だけはよく聞いてあげてください」


 「課長。去年の研修で、課長がおっしゃられてたことを改めて思い出しました。課長が大阪府に戻られても、このことは絶対に忘れません!」


 玉城さんは、真剣な眼差しで私にそう告げた。秘書課からやってきてすぐの不安そうな彼の姿は、もうそこにはなかった。

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