第2話
「うわぁあああ?! 何事だ!!?」
俺は叫ぶ。そして渾身の力を両手に込めた。首にがっぷり食らいついた警官を引き剥がすためだ。何が何やら分からない。分からないがとにかくこの警官をどうにかしなくてはならない。というか、命が危ない。警官の噛みつきっぷりはかなりのもので今もどんどん首筋に歯が食い込んでいっている。おまけに警官の野郎は首を力強く捻って明らかに俺の肉を食いちぎりにかかっているではないか。
「痛い痛い痛い!!! 離してください!! 離せ!!!」
しかし、警官は俺の叫びには無反応だ。獣めいたうなり声を上げながら俺の首に食らいついて離さない。そしてびくともしない。俺がどれだけ力を込めても全然警官は離れない。力がものすごく強い。
どうしてこうなった。俺はまた殺人鬼に追いかけられていた時と同じ思考に走る。殺人鬼からは逃げ切ったのにどうしてだ。なんで再び命の危機にさらされているんだ。しかも今度の刺客は市民を守るはずの警官だ。一体俺は何に巻き込まれてしまったんだ。どうして俺ばっかりこんな目に逢わなくてはならんのだ。クソッタレ! 俺は死に物狂いで足掻きながらまたも世の不条理に八つ当たりしていた。
「うごぉおおお!!!」
俺は全身全霊で警官と格闘する。しかし、警官はなおも俺の首に食いつく。そして、あ、ヤバイ、と思った。警官の食いつきはどんどん深さを増し、明らかに首の傷つけてはならない部分に迫りつつあった。これはまずい。ここまでくると引き剥がすことさえ躊躇われる。力ずくで警官の歯を外したらそのまま血が吹き出してお陀仏になるのではないか。もはやどうすれば良いのか分からず俺の思考と動きはパニックになり始めた。
まずい、死ぬ。
俺の頭に浮かんだ考えはそれだけだった。
が、
―ざくり
にぶい音とともに警官の体から一気に力が抜けた。食いついた首筋の歯からも力が消えそのまま警官は地面に倒れ伏した。俺が呆気に取られて見れば、警官の後頭部が横一文字に切り裂かれていた。傷は大きく深い。明らかに即死だった。
視線を上げればそこには刃物をぴゅう、と振って血を払った殺人鬼の姿があった。
「え...?」
俺は何が起きたのか良く分からなかった。助かったのだ。俺を殺そうとしていた警官が殺され、俺の命は救われたのだ。そして、警官を殺したのはさっきまで俺を殺そうとしていた殺人鬼。状況だけ見ればつまるところ、殺人鬼が俺を助けたということになる。
「な、なんで...」
「なんでって、あんた死にかけてたじゃないですか」
殺人鬼は平然と答える。
「い、いや。でも、お前はさっき俺を殺そうと...」
「はぁ」
殺人鬼はひとつため息を吐く。うんざりした様子だ。ひどく心外だった。
「まぁ、あの状況で追いかけたらそう思われるのも仕方ないですけどね。私はあんたを殺そうなんておもっちゃいませんでしたよ」
「じゃ、じゃあなんで」
「まぁ、それは詳しく話すと面倒なんで言いません。それにそれをする必要無くなりましたしね」
殺人鬼の言っていることは良く分からない。しかし、話すと案外普通だ。ひょっとしてまともなやつなのでは、と思い始めるがその思考は足元に転がる警官の死体が見えたところでストップする。
「こ、殺したのか?」
俺はたまらず問う。
「殺したんじゃない。壊したんです。こいつはとっくの昔に死んでますからね」
「なに言ってんだ」
「あんたに分かりやすく言うならこいつはゾンビなんですよ。動く死体、だから私は別に人殺しをしたわけじゃない」
「ええ...」
俺は何が何やら分からなかった。そして、やっぱりこいつはまともじゃないんだと思った。完全にイカれている。人を殺しておいて『こいつはゾンビだから殺しても人殺しではない』などとなんというサイコ野郎だろうか。おれはじり、と一歩後ずさった。それを見て殺人鬼は鼻で笑った。
「まぁ、信じてもらえるなんて思っちゃいませんけどね」
「あ、当たり前だろ」
「まぁ、良いですよ。もう、信じてもらう必要もないですからね」
「?」
さっきからこの殺人鬼の物言いはなにか引っ掛かった。明らかに俺の扱いに関して何か見切りをつけているように感じられるが。などと思っていると殺人鬼はカチリと音を鳴らしてその手に握っている刃物を振り上げた。
「え? ちょっと待て。なんのつもりだ」
「何って。あんたを殺すつもりですけど」
殺人鬼は平然と言ってのけた。
「い、いや。さっきは俺を助けてくれただろうが。殺すつもりはなかったんだろうが。なのになんで」
「事情が変わったんですよ」
そう言って殺人鬼はその刃を俺に振り下ろした。
「うぉおおおお!!」
俺は間一髪でそれをかわした。本当に間一髪だった。
「ちょ、ちょっと待て。話し合おう」
「話し合ってる場合じゃないんですよ。だってあんたはこれからゾンビになるんですから」
「な、なんだって?」
「さっき、このゾンビに噛まれたでしょう」
そう言って殺人鬼は切っ先で足元に転がる警察官を指した。
「だから、あんたはこれからゾンビになるんです。今はまだ大丈夫ですけど時間の問題なんですよ。だから、二次災害が出る前に手を打つってわけです」
「いやいや、待て待て」
何を言っているのか全然分からない。ゾンビだと言って警官を切り殺した後に、その警官に噛まれてゾンビになるから殺すなどとさっきに輪をかけてサイコだ。もしやそういう邪教の信徒なのだろうかと俺には思われた。
「本当はこうならないようにいつも気を配ってたんですけどね。まぁ、だから半分は私のせいなんですけど。話を聞かなかったあんたも悪い」
殺人鬼はまたため息をつく。この殺人鬼は俺にも非があると言いやがった。あの状況で逃げ出さないやつなんて居るのか。
「だから、申し訳ないんですけどここで死んでもらうしかない。と思います。この状況は私も初めてなんでなんとも言えないんですけどね」
そう良いながら殺人鬼はまた刃を振りかぶる。俺は全力で叫びながら思いっきり後退した。
「うおおおおぉお!!」
「中途半端に避けると苦しいだけですよ。ちゃんと止まってれば痛みも苦しみもなく一瞬であの世に送ります」
「ちょっと待てちょっと待て。俺の話を聞いてくれ」
俺は手を前に出して殺人鬼を制止する。サイコだか邪教の信徒だか分からないが何がなんでも俺は生き残らなくてはならない。俺は全力で頭を使い、殺人鬼の発言からなんとかこの場から逃げ出す口実をでっちあげる。
「そ、そうだ。この状況は初めてなんだろ? イレギュラーなんだろ。なら、そんなに焦って対応すべきじゃないんじゃないのか?」
「そんなこと言いましてもね。もし、あんたがゾンビになって他の誰かを襲ったら取り返しがつかないんですよ。だから、早めに処理しなくちゃならない」
「でも、イレギュラーなんだろ? 他に仲間とか居るんだったらさ。そういう人に意見を聞くのが良いと思うんだよな」
「あんたの意見を聞いてる余裕があるか分からないんですよ」
「でも、この状況の落ち度はお前にもあるんだろ。お前の言いように従ったら半分は俺は被害者だ。少しくらい俺の要求を聞いてくれても良いんじゃないのか」
「......」
殺人鬼はフードの向こうから黙って俺を見つめた。
「それに、これからゾンビになるってことは俺はまだ人間なわけだ。なら、俺を殺したらさっきのやつとは違って本当の殺人だぜ? お前はそれで良いのかよ」
「......」
「それから、もうひとつこれは俺の本音になるがな。俺は死にたくないんだよ。だから、もし死なずに済む道があるってんならそっちを選ばせて欲しいんだよ」
「......」
殺人鬼は黙ったままだ。何を考えているのか俺は冷や汗を滴ながらうかがった。
「頼むぜ」
最後にそう付け加えておいた。実際俺は死にたくないのだ。土壇場ででっち上げた理屈ばかりだったがある意味本心を包み隠さず言ったとも言える。あまり出来の良くない脳みそが人生で一番上手く回った瞬間だった。
そして、やがて殺人鬼は構えた刃物を下ろした。
「土壇場ででっち上げたにしては筋の通った理屈を言いましたね」
土壇場ででっち上げたことは見破られていた。そして殺人鬼はまたため息をついた。
「分かりましたよ。分かりました。確かにあんたの言うことも間違っちゃいない。すぐに殺すのは性急かもしれませんね。確かに」
「だろう?」
俺は殺人鬼の言葉にほっと胸を撫で下ろす。どうも戦闘体勢は解いたように見受けられた。
「まぁ、一番確実なのはすぐに殺すことなんですが」
「いやいやいや」
気のせいなのか。俺はまた一歩後ずさる。
「心配しなくてもあんたのお望み通りまだ殺しませんよ」
「ほ、本当にか」
「ええ。言っちまったらあんたが死にたくないって言うのと同じように私も人殺しなんてしたくありませんからね。仕方ないです。私のアジトに行くことにしましょう」
「ほ、本当か! 良かった」
良かった、本当に良かった。どうやら助かるらしい。そして殺人鬼は俺をそのアジトに連れていくつもりらしい。そこに仲間が居るのだろう。そいつにこの状況を打破する情報を聞くのだろう。
そして、俺は大通りに目を向ける。走って数秒だろうか。この殺人鬼の意表を付けば逃げ切れる距離だ。俺はこの殺人鬼に付いていってアジトとやらに行くつもりなど毛頭ない。どう考えても頭のおかしいやつが居るに決まっている。そうして俺がそれとなく横目で逃走経路を確認していると、
「逃げようたってそうはいきませんよ」
殺人鬼の言葉と同時に俺の腹に強い衝撃が加わった。そして、強烈な鈍痛。見れば殺人鬼の持つ刃物の柄が俺の腹にクリーンヒットしていた。
「まぁ、やっぱり私の言ってることを信じてるなんて思っちゃいませんけど。あんたには私がサイコ野郎か邪教の信徒に見えてるんでしょう。でも、付いてきてもらわなくちゃ困るもんでしてね。これくらいはさせてもらいますよ」
「ぐぬぅ...」
俺は力なく倒れる。何とかかんとか這ってでも大通りに出ようとした。何とかかんとか全身に力を入れようとした。しかし、無駄な足掻きだった。俺の意識は痛みによってそこでふっつりと途切れた。
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