第5話
彼女に取って、皇宮はあまりにも退屈な場所であった。
決められた作法を守りながら、満足に遊ぶことも出来ず、退屈な礼儀作法や皇族としてふさわしい動作を強制的に学ばされる。
教わる勉強は、幼い頃から彼女に付き従う学のある食客達よりも簡単で、面白さの欠片もない。
元々、父親譲りの頭脳を持つことから、宮中で教わる勉強は彼女にとってはあまりにも容易く、意味を見いだすことを考えることの方が必死だった。
あまりのおてんばぶりに、彼女の家庭教師や女官達が苦情を両親に報告し、父は常に苦笑していた。
父親はともかく、病弱な実母に叱られることは無かったが、困らせる度に悲しげな顔をする母の姿には心を痛めた。
だが、それでも彼女にとって皇宮暮らしは決して、快適とは言えなかった。
息が詰まりそうな狭い世界は窮屈であり、食客達から聞かされる皇宮の外は、彼女にとって憧れの世界だった。
初めて供を連れて、郊外へと出て街に出た時のことを彼女は今でも覚えている。退屈な宮中とは違い、決して綺麗とは言えないが、見る物全てが当時は不思議に輝いて見えた。
お決まりの中で作られた調度品や儀礼、そんなものとはかけ離れ、自分にまとわりついていた空気が流れるような感じがした。
だが、彼女はそのときまだ知らなかった。決して、外の世界は彼女が思っているような綺麗な世界ではなかったということを。
「姫様、起きましたか?」
途端に現実へと戻された亜麻色の髪をした姫君は、夢の世界から現へと呼び戻される。
すると、見慣れた黒髪の青年の背中に自分がおんぶされていることに気づいた。
「え、どうしてこんなところに?」
「覚えていないんですか? 442空戦連隊の面々と、さっきまで飲み食いしたというのに?」
乾パンやビスケットで訓練を見学していた後、急遽第3艦隊へと転属が決まった第442空戦連隊は、栄転ということで、駐屯地にて肉や魚を焼き始めて酒宴を始めた。
たまたま見学に来ていた二人も、顔見知りであることからそのまま参加させてもらった。
そんな宴からの岐路が今である。
「何ですの、この頭痛は……」
「お茶と間違えて酒を飲むからですよ」
盛大に始まった宴会は、荒くれ者達を先導に始まった。
新機種であるバッカニアの導入に浮かれていたこともあり、どこで調達したのか分からないほど大量に用意された食べ物も酒も、凄まじい勢いで消費されていった。
ハッセやイェーガー、そしてオルガと珍しく沢木も盛り上がっており、ここぞとばかりにレイタムも好物のウイスキーを飲んでいたのだが、それをアウナがうっかりと飲んでしまった。
「少しは姫様らしくしてくださいな。シエン公も嘆かれますよ」
自分の酒を間違って飲ませたとはいえ、酔っ払ったアウナの姿は実に酷かった。気づけば、勝手に人の肉や魚を食べるわ、意地汚く焼いている途中の肉や、つまみも取り上げ、酒以外の飲料を、自分の体を水槽か何かに見立てるように飲み干し、手が付けられないほどであった。
「また迷惑をかけてしまったのですね」
頭を抱えているアウナだが、一番頭を抱えたいのはレイタムだ。姫君に酒を飲ませて、醜態を晒せてしまった。
もしこれが主君であるシエン公や、食客達の筆頭であるマオに知られたら、怒られるどころではすまないだろう。
「ごめんなさい」
てっきり、また自分のせいにされるかと思ったレイタムは、姫君の謝意に驚いた。
「まだ酒が残ってますか?」
今度は言葉ではなく、背中の肉をつねられた。思わぬ痛みにひっくり返りそうになるが、鍛錬を怠っていないレイタムはすぐに体制を立て直す。
「危ないじゃないですか!」
「お兄様が悪いんです!」
先ほどとは対照的に、年相応なふくれっ面をするアウナにいつもの姫様ということで逆にレイタムは安堵した。
こうした無邪気なところは初めて会った時と全く変わっていない。
「……お兄様、五年前のことを覚えていますか?」
「ずいぶん懐かしい話をされますね」
五年前、また二十歳にもなっていないレイタムは、ルオヤンへと留学に来た。
それまで辺境にある故郷で戦い、戦乱が落ち着いたことから仲間達に見送られて、レイタムはルオヤンへとやってきた。
「忘れるわけがありません。私は、姫様と出会ったことで道が開けたんですから」
故郷では義勇兵をやっていただけで、コレと言った地縁が無かったレイタムは、ルオヤンに入る学校すら決まっていなかった。
どこかで働き下宿しながら、学を納めようと思っていた、そんな無計画ではあるが、戦場から遠のいた日々を過ごせることにレイタムはどこか前向きだった。
辺境とは違う、華やかな都であるルオヤンは、実際のところ今とあまり変わっていない。
流民の数はともかく、二度の大会戦に敗北した首都星には活気というものが存在しなかった。
変わりに意気揚々としていたのは、太陽系連邦軍の兵士達である。これも今とはまるで変わらないが、不可侵条約を結び、和平を行っている中で太陽系連邦軍は明らかに専横を振っていた。
レイタムが初めてルオヤンにやってきた時も、勝手に屋台の料理を金も払わずに食べ、その味にケチを付けるという、チンピラまがいなことをやっていた。
屋台で食事をしながら、首都星でも辺境の野蛮な軍閥のようなことをやっている奴がいると思いながらレイタムはそれを見ていたが、予想外だったのは、そんな兵士達に対して物怖じしないで一人の少女が説教をし始めたことであった。
「下がりなさい無礼者!」
少女の声量とは思えないほど大きな声に、兵士達も屋台の主人もびっくりしていたが、すぐ冷静になった兵士達は小馬鹿にしながらその少女の態度に銃を突きつけた。
普通ならばそこで尻込みするが、その少女は不当な暴力に屈することなく堂々と彼らを非難し、民である屋台の主人を擁護してみせた。
あまりの正論に兵士達も動揺していたが、多勢に無勢な上に、立場が上であることから逆上した兵士達は、短絡的な手段での解決、つまり、暴力による解決を実行した。
だが、彼らは逆にコテンパンにされてしまった。
「あのときは、私も世間知らずでしたから派手に立ち回りましたが、よく姫様は戦おうとしましたね」
幼い頃のアウナに襲いかかろうとする連邦軍の兵士達に対して、レイタムは面倒に巻き込まれたと思いながら一人で十人の兵士達をたたきのめした。
生まれてから、ひたすらに戦い続けて少年兵をやっていたレイタムから見れば、脅すことしか出来ない兵士を倒すことなどあまりに容易いことであった。
「でも、お兄様が助けてくれましたよ」
「私がいなけりゃ、どうしてたんですか?」
五年前の彼女は十一歳、今は十六歳になったとはいえ根っこの部分はあまり変わっていない。無鉄砲なところは今でも変わっていないが、怒りは充分なほどに真っ当なのは父であるシエン公と同じだ。
「でも、そのおかげでお兄様はお父様の食客になれたんですよ」
アウナの言う通り、あの一件で彼女を守った事からレイタムはシエン公の食客になれた。
そして、そこではルオヤンのどんな有名な塾や学校では学べないほど、優れた知識や学を修めた食客達に学ぶことが出来る上に、シエン公という名君に仕え、レイタムは多くの事を知り、今に至る。
あの時のアウナの無鉄砲さが、レイタムの未来を切り開いたという見方も出来た。
「また同じようなことが起きたら、私のことを助けてくれますか?」
甘えるようにつぶやくアウナに、レイタムは素っ気なく「そのときはすっ飛んで逃げます」と答えた。
「酷い!」
「流石に今はまずいですよ。太陽系連邦の連中とのいざこざなんてやらかした日には、私がシエン公に切られます」
五年前のレイタムは今よりも無鉄砲だった。それまではずっと戦場の中で、生きるか死ぬか、そのどちらかで生きてきただけに、迷いが無かった。
だが、それは結局のところ考えることを、半分ほど放棄していたようなものだ。日々生き残ることだけで精一杯な戦場では、ゆっくりと思考を巡らせるような状況など存在しない。
そして、目の前の戦場という極限状態で生きていく上では、ゆっくりと思考を巡らせている暇などなく、むしろ思考する時間よりも生き抜く為の判断力が優先される。
戦場に特化し過ぎたレイタムにとって、あのときの行動は今見ると恐ろしいほどの短慮で無鉄砲であった。
マオらシエン公の知恵袋ともいうべき軍師達から、様々な学問を身につけたレイタムは、それ以前を「バカだった時代」と認識している。
後ろから弾が飛んでくるようなこのルオヤンでうかつな行動は、それだけで命取りになる。
幸い、そのようなことにならなかったのは自分が単に運が良かっただけだ。
「ましてや、それで姫様に怪我を負わせたとなれば、私は腹を切らなくてはなりませんからね」
この無鉄砲な姫様を見ていると、バカだった過去の自分を嫌でも思い出してしまう。だからこそ、いろいろと手を焼いてしまうのだろう。
「お兄様のバカ」
またすね始めた姫君に、レイタムは五年前と変わらないのは不幸なことなのか、それとも幸運なことなのか、ふと考えた。
体は少しは成長しているが、まだまだ配慮が足りていない。だが、少なくとも内にある正義感と真っ直ぐな気質だけは変わっていないことは幸運ではないかと思った。
だが、そう思った矢先にレイタムは彼女を背負ったまま立ち止まった。
「どうしましたの?」
「姫様静かに」
久しぶりに感じる空気が張り詰めるような感覚。戦場で感じた命のやりとりを行う独特の空気が流れている。
街灯もまばらな下町、その夜の闇に紛れていれば普通の人間ならば気づかないだろうが、血の臭いだけは隠すことは出来ない。
「姿を見せろ」
懐に入れてある一本の棒をレイタムは取り出す。特殊な金属で加工された棒は一瞬にして大刀へと変化した。
「姫君の警護役だと思っていたが、なかなかどうして、我らを察知するとは驚きだな」
「能書きはいい、誰の刺客だ?」
気づけば、ここまでのんきに刺客達に囲まれていたとは我ながら間抜け過ぎる。だが、ここで気づかなければ、もっと最悪な事になっていた可能性もある。
「刺客は語らぬ」
「姫様しっかり掴まってください!」
レイタムが叫ぶと共に頭目と思わしき男の懐から
特殊な超合金で出来た大刀は
「遅い!」
吠えるようにレイタムは叫ぶ。そして、人の頭よりも大きな刃の一閃が横薙ぎに数名の刺客達を切り裂く。
果実を切り裂いた時に出る果汁のように、鮮血が夜の闇に散る。嗅ぎなれた血の臭いがレイタムの鼻孔をくすぐる。
少年兵として戦場で数え切れないほどの殺人を行い、今では一流の武人達ともレイタムは稽古を行っている。その技量は落ちるどころかより磨きがかかり、洗練されていた。
さらに大刀は刺客の一人を頭から腰まで両断する。
「お兄様!」
強く自分の背中にしがみつくアウナに「目は閉じていてください」とレイタムはささやいた。
高貴な姫君に、この生々しい殺し合いの光景はあまりにも凄惨過ぎる。その原因を作ったのは自分だが、そんなツッコミを入れる暇はない。
すでに八人はいた刺客は数分で半数以下に減った。気配を消すのは上手ではあるが、動きは決して良くは無い。
「つまらんぞ」
普段アウナやその他食客、沢木ら知人に見せるような人当たりのいい顔ではなく、戦場という非日常がまだ、人生の半分を占めているもう一人のレイタムがつぶやく言葉に、アウナが背中で震えている。
そして、刺客達もまた瞬く間に五人が単なる肉塊になったことに怯えているのが分かる。
「人を闇討ちしようとして、返り討ちになって死ぬのはつまらんと言っているんだ。誰に雇われたのかは知らないが、あんまり武人を舐めるな」
頭目と思わしき刺客にレイタムは大刀を突きつけた。拠点制圧などで
それだけに、下手な
「武人如きが!」
その言葉と共に、
本来ならば引き金を引いた時、相手が倒れるが、レイタムを倒すにはいささか数が少なすぎた。
「曲芸は俺には通用しない。そして、かくれんぼの時間も終わっているぞ」
まだ何名か隠れていた刺客達がいたようだが、目に見えるものだけが敵ではないことを嫌というほど理解しているレイタムにとって、人影などから
容赦なくはじきとばした光弾は、そのまま刺客達へと跳ね返され、彼ら自身を打ち抜いていた。
その隙を逃さずさらに二人の刺客を切って捨てると、レイタムは頭目らしき男の両膝を切り裂いた。
なんとも形容しがたい、悲鳴が下町中に鳴り響く。膝から下が無くなり、再生治療や機械の補助が無ければ赤ん坊と同じくハイハイしかできない体になったことと、両足を切られた痛みが襲いかかっているのだろう。
「さて、残りはお前一人になったな」
ドスを利かせた声と共に、レイタムは生き残った刺客の腹部を思い切り踏みつけた。
悲鳴が絶叫に変わり、両足からは止めどなく血が流れる。だが一切の容赦をせずにレイタムは「黙れ」とささやいた。
「誰の差し金だ? 殺しの経験時間なら俺は、人生の半分以上を血で染めてきた。お前のような薄汚い刺客を切って捨てることなんざ、息をするよりも簡単なことだ。両腕も切ってやろうか?」
喉元にレイタムは大刀を突きつけるも、気づけば刺客はすでに事切れていた。口元を覗くと、毒の臭いがする。
おそらく、口の中に掴まった時の為に毒を仕込んでいたんだろう。夜の下町とはいえ、まさかここまでの数の刺客に襲われるとは思ってもいなかった。
「お兄様……」
気づくと、背中にしがみついていたアウナが、ガタガタと震えていた。命を狙われた恐怖と、命のやりとりの結果が生み出した惨劇を目の前で見れば、誰でもこうなる。
「大丈夫ですよ姫様」
いつもは気丈で天真爛漫な姫君だが、流石のレイタムもいつもの皮肉ではなく、落ち着かせようとした。
「血が……いっぱい……人が……死んで……」
日常が非日常へと変貌する瞬間、人は恐怖と共に思考が停止する。その原因を作ったのは、この刺客共だが、その刺客共を返り討ちにしたのは自分だ。
大刀を懐にしまうと、レイタムは膝を突いて震えているアウナを落ち着かせようとする。
「嫌!」
アウナはとっさにレイタムを拒絶する。予想外の反応だったが、この惨劇を作ったのは自分自身だ。その原因を作った自分に対して恐怖を抱くのは当然のことだろう。
そして、こうした反応にはレイタムも慣れていた。
「姫様、私はここにいますよ」
いつもよりも優しく、ささやくようにつぶやきながら、レイタムはアウナをそっと抱きしめる。
五年前はまだまだ子供だったが、五年も経過すれば、女の子も立派な乙女になる。そんなことが一瞬脳裏をよぎったが、今はそんなことを考えているだけの時間はない。
「……お兄様は……人を……」
「私の役目は、姫様をお守りすることですよ。その使命は、死んでも果たします」
自分の使命は刺客を殺すことではない。それはただの結果だ。この姫君を守ること。今はそれだけがレイタムが果たすべき使命であった。
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