柔らかな刻

中澤京華

前編

第1章 希望の光

1-1―悲しみの筵

 根津珠樹ねづたまきは母と妹の三人で埼玉県朝霞市にある小さなアパートの一室でひっそりと仲良く暮らしていた。父、将夫まさおは事業に失敗し、借金を抱え、一緒に暮らしていたアパートを出て別居。母、多岐子たきこが医療事務の傍ら老人介護のヘルパーの仕事をしながら、母子家庭の扶助を受け、なんとか家計を営んでいた。妹、彩菜あやなは生後間もなく両目を失明するという障害を背負っていた。


―妹の目の障害のことが父を家から遠ざけた一因であったことを珠樹はうすうす感じていた。


 盲目の妹を見る時の父の嫌悪と侮蔑に満ちた失望の翳りが浮かんだ目つきが痛烈に心に刺さり、珠樹はいつからか心痛を抱えるようになっていた。その冷たい視線は珠樹に向けられる温かく穏やかな眼差しからは想像もつかないような冷酷さを放って盲目の妹に向けられていた。珠樹にとって、父がいなくなってしまったことによる寂しさという感情より安堵の気持ちの方が大きくなってしまったのは、妹のことで父母が諍いを起こしている現場を隠れ見てしまったときから、珠樹自身の内観に父に対する疑念が生じてしまっていたからかもしれない。昔のことを思い返せば、突然、借金取りが家に押し掛けてきたこともあった。父がいなくなったことでそんなややこしい騒動からいつの間にか解放されるようになり、家族でほっとできる時間が作れるようになったといっても過言ではなかった。


しかし、その一方で、突然前ぶれもなく襲ってくる酷い偏頭痛にも珠樹は悩まされるようになっていった。近くの病院で診察してもらったところ、自律神経失調症と診断された。心身共々できるだけ穏やかに毎日を過ごすようにと医師からは伝えられたが、母も毎日忙しく仕事に出かけていたため、家の中の細々とした用事を母が帰ってくるまでにほどほどに終わらせておくことも珠樹の日課だったし、盲目の妹、彩菜と過ごすひとときも大切にしたいと珠樹は思っていた。


 そんな折り、珠樹は当時通っていた中学校で所属していたテニス部の友人たちからの無言のにも遭った。今迄親しく話していた友人を筆頭に自分を避けはじめた部員たちの冷ややかな視線と嘲笑のむしろを気にしながらの失意のどん底のような日々が過ぎていった。珠樹は毎日の忙しさを言い訳に自分に対するいじめを黙認し、自分の心を闇雲に押し殺すようにテニス部を休むようになった。

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