白い日傘の令嬢は今日も猫耳メイドに首輪をつけて散歩している

竹内緋色

プロローグ



 それは遠い昔のことかもしれないし、もしかしたらつい最近のことだったかもしれない。


 その少年はまだ幼く、背丈は大人の腰程度しかなかった。

 少年は雑踏の中、迫りくる大人の足を必死で躱しながら地面を蹴り上げ走っている。その目は欲望に満ち溢れ、キラキラと太陽の光を反射させながら短い足を前へ前へと運んでいた。

 その小さな手には彼の欲望の全てが握られていた。

 しかし、求めるあまり、せり出してきた足にぶつかって、大きく尻もちをついたのだ。

 その足の持ち主はヘッドフォンをしており、足になにかぶつかったことは分かったものの、それが何であるか分からず、尻もちをついた少年など視界に入らなかったかのように人々の茂みに入り込み、消えていった。

 少年は自分の手から大切なものがなくなっていることに気がつく。

 左右を見渡すが、それはどこにも見当たらない。

 否、探すことすらできなかったのだ。

 少年の目には太く恐ろしい足が何本も映った。それが自分を傷付けようとしているように見えて、目を閉じてしまっていたのだ。

「やあ、少年。キミは何を望むんだい?」

 やさぐれたような荒々しい声に少年は一度肩を大きく揺らすが、恐る恐る目を開けてみた。

 少年に手を差し伸べるのはその声しかなかったのだ。

 少年の目には黒い帽子を被った、芝生のような髭の男が目に入った。帽子からちらりと見える男の瞳は尖っており、恐ろしいことこの上ない。

 しかし、少年は不思議なことに、その男を怖いとは思わなかったのだ。

「おじちゃんは誰?」

「おじちゃんか? おじちゃんは超絶イケメンモテ男さ」

 少年はしばらく黙っていた。男の言葉に呆れていたのだ。

「おい、何か言えよ。おじちゃん超絶クールとかさ」

「ぼく、大切なもの落としたの」

「…そうか」

 男は目に見えて落ち込んだ様子だった。

「分かった。少年の探し物はこれだろう?」

 男は少年の手に一枚の硬貨を乗せる。100円玉だった。

「おじいちゃんからもらったんだ。おこづかい。いい子にしてたからって。これでやおい棒10本加えられるね!」

 少年は嬉しそうな顔をした。男は複雑な心境だった。

「そうか。少年。俺は少年にいいことをした。だから見返りを貰わなくちゃいけない。それはこの世界で最も確実で、そして正しいルールだ。少年はおじちゃんのお願い聞いてくれるね」

 少年はこくりと頷く。

「ありがとう。少年。では、俺のお願いを聞いてもらおう。俺の願いはただ一つ。俺の姿をずっと覚えていてくれ。その純粋な瞳が死んだ魚の目のようにくすんでしまうその時まで、俺をその瞳に閉じ込めておいてはくれまいか」

「お安い御用だぜ!」

 少年は誰かの真似のような口調ではっきりとそう告げた。

「ありがとうな、少年。これはこの俺、魔人様と少年との契約だ」

 男は少年の腕をひっぱり、さっと立たせると、その背を押して先へと進ませた。

 少年が後ろを振り向いたときにはもう、男の姿はどこにもなかった。

 少年は少しの間男がいた場所を眺めていたが、首を進むべき先へと戻し、再び、人々の雑踏の中へと姿を消していった。


 カラン。

 てらりと光る皮の靴に一枚の硬貨があたり、音を立てる。

 少女は両手を添えていた日傘から右腕だけを離し、その硬貨を音もなく拾い上げる。

 明らかに場違いな赤いゴシックドレスを身に纏った少女を気に留めるものはいない。少女は100円硬貨の重さを確かめるようにしばらく手の中で遊ばせると、周りをうかがった。

 人々の雑踏の中、落とした硬貨を探している人はいない。

 それは無用のものなのだと少女は確信した。

 ただ、気になったのは人々の腰ほどしか背丈のない子どもが急いで道を駆けていくことだった。

 それは何気ない日常の風景。しかし、少女はその少年がやけに気になった。

 少女はドレスに密かに作り上げたポケットに硬貨を落とし込むと、そのまま踵を返して人々の雑踏に紛れていった。


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