鬼雨、茨のごとく

駒田窮

小説家になろうにも掲載中です


 一条戻橋の橋桁を白く煙らせていた小糠雨が、叩きつけるような調子に変わったのは、日が暮れて間もなくのことだった。蜘蛛の子を散らしたように、雨に濡れるのを嫌う橋占(辻の占い師)たちが住処に逃げ帰っていく。

 都の北端に位置し、洛中と洛外をまたがるこの橋は普段から人気のない場所だったが、車軸を流すような雨脚でいつになく人の影は少なくなっていた。ましてや、人攫い鬼の噂が囁かれている中で、このうらさびしさも無理もないことだった。

 雨と月明かりに冷たく濡れた夜の京は、喧噪が渦巻く昼間とは趣が異なり幽玄である。あの世から現世に「戻る橋」の名に恥じぬ情緒だ、と軋む牛車の中で男はぼんやり思った。

 見下ろした先の堀河の黒い水面は、幾多もの小さい波紋を広げながら、淡い月の光をにじませている。石橋を打つ激しい雨音が少々耳障りであったが、牛車のゴトゴトという煩わしい物音をかき消してくれているのだと思えば、耐えることはできた。

 むしろ、物憂いの種は別にある。

「坂田殿は日和ったか」

 小八葉と呼ばれる小振りな牛車の中で、若武者・渡辺綱は一人脇息きょうそくに身を預け嘆息していた。主人である正四位下・源頼光の命のもと、彼は都の警邏をしている最中である。

 綱の口から漏れ出た名は、主を同じくする同輩のものだ。先の大江山の鬼退治で背中を預けた仲であり、頼光四天王と称される近臣として共に鎬を削った間柄でもあった男の名。

 本来なら、友誼と尊敬の念と共に発せられるはずのその名が、今は苦々しい思いで塗りつぶされている。

「何故だ、金時。共に都の安寧のために尽くそうと誓ったではないか」

 本来なら口にするのを避けるべき諱いみなを、綱はあえて言葉にした。それが二人の間で許された友誼の証だった。鬼に対峙する者が諱ごときで怯んでどうする、と綱が発破をかけたのが始まりだった。

 大江山の酒呑童子を討伐する遙か昔、遠い過去の記憶である。


※※※


 酒呑童子は京の秩序を乱す、鬼の首魁だった。上背も一間はあろうかという巨躯の持ち主でありながら、身のこなしは軽く木立の間を乗り移って逃げおおせる手口を得意とした。怒りに任せた咆哮は二里先まで轟き、凄まじい膂力で人の体を素手で引き裂いた。乙女の生き血と酒をこよなく愛し、奸計に長けた恐ろしい怪物だった。

 酒呑童子は大江山に牙城を構え、各地に跳梁跋扈する鬼たちを束ね始めた。それまで組織化されていなかった鬼の危険度は、そこから急激に上がった。彼らの「食料調達」、つまり人攫いの方法は洗練されていった。二匹一組で連携することを覚え、宮廷内部の情報を得る方法を手に入れた。どこぞの有力貴族の娘は今年いくつになる、とか屋敷の警備の体制はどうなっている、などの情報はやがて鬼たちに筒抜けになった。脅しや身の代の要求など、悪行の狡猾さも増していった。

 鬼は、元々が人間よりも肉体的に優れている種族である。人が連なって一匹ようやく倒していたものを、あちらが束になったら勝ち筋などありえるはずもなかった。うら若い姫君たちは都から離れた大江山に拐かされ、宿直の者や力不足の陰陽師は見せしめのために惨殺された。血塗られた事件が、京のあちこちで起こり、人々は恐怖に震えた。

 そこに白羽の矢が立ったのが、武勇の誉れ高い頼光麾下の四天王――すなわち卜部季武、碓井貞光、坂田金時、そして渡辺綱であった。長槍、弓、刀とそれぞれ得物は違えども、四人とその主は連携し鬼たちを確実に切り倒していった。

 大江山へと勢力を押し返してからは、今から思えば、あっという間だった。小癪にも貴族風の寝殿造りを模した本丸に押し入り、頼光自らが彼奴の首を当代一の名刀、安綱ではねたのである。大立ち回りを演じる激しい戦いだったが、誰一人欠けることなく大将を討ち取ることができた。

 だが、それで全てが終わったわけではなかった。酒呑童子が都にもたらした災禍は、あれから数年たった現在でも収まる気配をみせない。

 三々五々に散った残党が、復権を目指し未だに暗躍しているのだ。姫君をさらう手口はそのままに、死を恐れない大胆不敵さは増した。失うものがないのだから当然かもしれない。命からがら逃げ帰ってきた姫君の中には、鬼の子を孕んだ末、胎内を食い破られ亡くなった者まであると聞く。

 源頼光はこの事態を危惧し、四天王に鬼の残党狩りを命じた。その任の重みを、綱は重々承知しているつもりである。それだけに、頼光の要請に沈黙を保つ金時への歯がゆさは募るばかりだった。

「殿はこの名刀、髭切すら下賜してくださった。だのに、あやつめ。屋敷にこもって何をしている。どこに迷う必要がある」

 腰に帯びた漆塗りの鞘に手を当て、気分を落ち着かせようとするが、苛立ちは増していく。

 綱が歯噛みしているちょうどその時、彼の乗る小八葉は一条戻橋を渡りきるところだった。

 牛車が軋み、車体が反動をつけて止まったのである。

「どうした、何があったか」

 車体脇の物見から首を出すと、うなじに痛いほど鋭い雨粒が刺してきた。御者は鼻息を荒くする牛を落ち着かせるのに必死で、綱の方を振り返る余裕はないようだった。

「わかりません。急に暴れ出してしまって!」

 獣は障気に敏感である。実際綱自身も、犬が鬼の発する障気を感じ、吠えたてるのを見たことがある。

「確か、鬼き雨うとも言ったな。このような雨は」

 綱は天を仰ぎ、ぽつりと呟いた。

「は......?」

「下がっていろ。私が様子を見よう」

 前簾を押しのけて牛車から飛び降りると、綱は刀の柄に手をかけあたりを見回した。殺気には聡い自信があったが、肌を這う冷気が雨露のためなのか、鬼の放つ障気のためなのかはわからなかった。

 しかし歴戦の勘は、暗闇の中から一つの気配を見いだしていた。

「何者か」

 斬り伏せるまでに二、三歩を要するだろうか。小さな影が橋の欄干に体を預けて佇んでいた。袖を詰めた無地の白い着物が、所在なげに夜の闇に浮かび上がっている。誰何には応じず、その人物はただ綱が歩み寄るのをその場で待っていた。

 女だ、と綱は思った。烏の濡れ羽のような黒髪である。女の頭が動き、目の前に立ちはだかった綱にやっと気づいたように、顔を上げた。

「――」

 刹那、女の赤い瞳の中に、苛烈な炎を見た気がした。荒涼とした大地に吹きすさぶ烈風を、直に受けたような心地がした。息をしようにも喉が焼け肌が爛れる。体中の筋肉がほつれ、自分という存在が、傷んだ布のように風に曝され千切れていく。体の半分以上が灰になって大地に伏した時、綱は助けを求め天に手をかざした。

 そうして、あまりの痛みに叫びそうになった時、誰かのはっと息を呑む声が聞こえた。

 まもなく、指の間からのぞく黒い空から、ぽつりぽつりと控えめに慈雨が降り注いできた。煙を上げ、とぐろを巻くように体に這っていた炎が消えていった。

「雨」

 自分の言葉が発端となり、綱は我に返った。水を吸い重くなった衣と、顔を叩きつける一粒一粒の雨。感覚が戻ってくる。

(私は幻を見ていたのか)

 四肢は健在だった。火傷もなければ、下肢もしっかりと地面に着いている。一条戻橋のたもと。牛の鼻息。激しい雨音。突風に木の葉がざわめいている。

 心象から醒め、綱は女の頬が濡れていることに気付いた。それが雨のせいなのか、涙のせいなのか、綱には判断がつかなかった。ただはっきりしているのは、女の瞳からは、もう先ほどの激情がすっかり消え失せていたということだけだった。

「今夜は......酷い雨です。ここで何をなさっているのですか」

 柔らかい言葉で語りかけると、女は一度唇をかみしめてからこう言った。

「ここは黄泉と通ずる橋と聞きました」

 かつて土御門橋と呼ばれたこの橋が改名されたのは、そう昔のことではない。とある漢学者の男が、ここで亡き父と再会を果たしたという奇談から、自然と人々にこう呼ばれ始めたのである。左京は一条通りにある「戻橋」と。

 綱は改めて女を見つめた。面長だが、端正な顔つきだ。愁眉は形よく曲線を描き、視線は雨粒を追うように地面に落ちている。貴族の娘だとしたら、裳着(女子の成人の儀)をすませて間もない頃だろうか。目の下が赤く腫れているせいか、少し眠たげにも見える。華奢な体を包み込む白い着物は、喪服として用いられるものである。

「親しい方を亡くされたのですね。ですが、その方も黄泉から戻るにも日は選ぶでしょう。橋占が逃げ出すほどの雨です。鬼も出ていることですし、今夜のところは」

 悄然としている女の肩に触れようとすると、骨ばった掌でやんわり払われる。一瞬触れた着物の布地は、なぜか雨水を吸っていないようで、するりと指の間をすり抜けた。

「雨の日でなければいけないのです」

 何とはなしに、待ち人は男だろうと綱は思った。そう感じた瞬間、喉のあたりに物が詰まったような感覚がした。

「お送りすることもできます。お屋敷さえわかれば――」

 渡辺殿、と御者から声をかけられなければ、それ以上踏み込んだことを申し入れていたかもしれない。警邏は主命である。出会って間もない女人を、送るためとは言え同道させることなど、果たして許されるのか。

(私は一体何をこだわっているのだ。先ほどの幻といい、疲れているのか)

 小さく頭を振ると、いくらか冷静さが戻ってきた。

「本当に、よろしいのですね。私は職務に戻ります」

「どうかお行きになっててください。構わないで」

「......それでは。お気をつけて」

 軽く会釈して踵を返すと、綱の背中に小さく声がかけられた。

「渡辺様。どうかもう、この橋はお使いになりませぬよう」

 轅ながえ(牛車の持ち手部)を跨いだ瞬間のことである。はっとして振り向くと、もう女の姿は夜陰に紛れてしまっていた。


 車内に収まると、待たされた御者が気の利いた仕返しのつもりか、

「遠目にもわかりましたよ。あれは男をちくりと刺す薊あざみの君だ」

 と悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。 

「薊の君?」

「棘のある美人ということです。渡辺殿が執心なされるのも無理はない」

「執心などしてはいない。それに、紫は高貴な禁色だぞ。易々と例えに使うものではない」

 そう返しながら、綱は御者の言うことも、あながち的外れというわけではない気がした。薊の花に見とれて棘に刺される、間抜けな男というわけだ。

「薊の君。また会うこともあろうか」

 呟いて一瞬、先ほどの炎の幻影が頭を掠め、綱は一人顔をしかめた。水を目一杯吸った衣が重たく体にのしかかる。

 だが、違和感は疲労のせいだけではない。あの女人には確かに感じ入るものがあった。

「雨が弱まってきました。早くお召し物を代えに戻りましょう」

 その言葉を潮に、再び小八葉は動き始めた。雨音が薄れた分、尾を引くように重たい車輪の音を響かせて。


※※※


 翌日、綱は五条坊小路の金時邸を訪れていた。夜の警邏の前に軽く食事をとりに寄ったという体だが、実際は喝を入れるためである。

 そのため端女はしための配膳を丁重に断り、塗ぬり籠ごめ(寝室)に半ば押し入る形で踏み行った。

 金時の姿を確認するなり胸ぐらをつかんで詰問しようと決めていた綱だったが、その部屋の中を見ては閉口するしかなかった。

 ほとんど人の出入りを許していないのだろう。湿気で空気が淀み、すえた臭いが充満している。外界の光を通しそうな隙間には布切れが押し込められており、薄暗闇の中、部屋の主は、綱に背を向ける形で鎮座していた。彼の前には、立派に拵えられた仏壇がある。さざ波のように小さく聞こえるのは、金時の口から紡がれるたどたどしい念仏だろう。

「渡辺殿か。何しに参られた」

 疲弊しきった、いがらっぽい声で金時は問うた。こちらに向き直るつもりもないらしい。直衣には皺が寄り、何日もまともに着替えをしていないことが伺えた。

「その問いはこちらが返そう。金時、こんな場所で何をしている。なぜ殿の命に従わない。殿の命は帝の命でもあるのだぞ」

「責ならば、大江山の一件でもう十分に果たした。酒呑童子は死んだ」

「十分だと。まだ人がさらわれているのだぞ。貴様の付け焼き刃の念仏で何ができる。刀をとれ、金時」

 黙り込む背中に、綱はさらに詰め寄った。肩口を乱暴につかみ、険のある声音で続けた。

「害なす怪異には死あるのみ。殺生が衆生を救うこともあるのだと、我らは身にしみて知っているはずだ」

「そうだ。そしてその後の虚しさも、痛いほど知っている」

「何を言っている。臆病風に吹かれたか。それとも、鬼に取り憑かれでもしたか!」

「取り憑かれたか、だと?」 

 赤い隈に縁取られた眼に睨み返され、気圧される。黙り込むのは、今度は綱の番だった。

「この身には元々異形の血が流れている。そう、貴殿と出会った時からすでに”取り憑かれて”いたのだ。明かしていなかったな、綱よ」

 金時は綱の手を払い、息を荒くして立ち上がった。

「この話を聞いてまだ、この戦いに大義があるとのたまうならば、貴様は本当の痴れ者よ」

 怒り肩を収めるように自ら腕をさすり、一呼吸おいてから、金時は寂しげにこう続けた。

「さもなくば、人の心をなくした鬼、そのものだ」


※※※


 坂田金時、幼名金太郎。相模国は足柄山で幼少を過ごし、上洛してからは天下に武勇を知らしめた武辺者である。ここまでは都に暮らす者ならば、遍く知るところだった。

 しかし、その出自は、これまで決して明るみに出ることがなかった。彼が人と山姥の間の子と知られれば、宮廷での頼光の立場は危ういものになる。金時を見込み、京に招いた同郷の碓井貞光には、頼光より厳重な口止めがなされた。

「異形の血を帝のお側に寄せたとなれば、叛意と解されても無理はない。奴がいかに見込みがあろうとも、出自までは見過ごせぬ。このことを藤原道長殿に知られれば、儂は官位を追い落とされるであろう。他言してはならん。絶対にな。

 金太郎改め金時にも、よく言い含めよ」


 山姥とは、老婆の形をした人食いの妖怪と言えばよかろうか。野武士、山伏を殺し財物を奪った上で、その肉を食らうのである。この時代、卑しき者を仕官させることすら眉をひそめられるというのに、悪鬼の末裔を引き取るなど、許されるはずもなかった。

 だが飢饉も珍しくなく、木の実だけでは食いつなぐことすら難しい辺境の地でのことだ。錯乱し自らの腕を食いちぎる農民がいる中で、他者の肉を貪るのはまだしも「まとも」であったかもしれない。山林に分け入り獣を狩る代わりに、騙しやすい人間を欺き殺したまでのこと。

 少なくとも金時――いや、金太郎にとって、老婆は確かに母であった。痘痕だらけの、見るに耐えない醜女であれ。側頭が禿げ上がり、笑えば乱杭歯を覗かせる鬼女であれ。

 山姥は腹が空いた金太郎に、萎んだ乳房をくわえさせ、夜泣きすれば調子外れの子守歌を歌ってやっていたのだ。貞光に出会うまで、忌むべき存在だとは一寸たりとも思わなかった。獣が獣を食らうならば、人が人を食らうこともあろうと、金太郎は思っていたのである。


「金時、貴様。人食いを正当化しようと言うのか。まさか、貴様自身も――」

 憤りを隠せない綱を、金時は立ったまま掌で制した。

「三つにもなれば、小さな獣ならば自分で狩ることができたのだ。だがそれで二人の口を賄うことはできん。俺は大食らいだったしな」

 それがあれから受け継いだ数少ない一つかもな、と金時は独りごちた。

「山姥は俺の前で殺しをしなかった。休息を求め山小屋へ来た山伏やら野武士が、いつの間にか姿を消し、気付けば夕餉に新鮮な肉が並んだ。だが、山姥は俺に箸をつけさせなかった。手を伸ばしかけては叩かれたものよ。

 悪行は悪行と、あれは知っていたのだ。知っていた上で、生きるために、止めることができなかった」

「それは紛れもなく正当化だ。違うとは言わせん」

「違うな」

「何が違う。言うてみよ」

 金時は的場に入るような呼吸でふぅと息をついた。そして発せられた言葉は、不思議と静謐なものだった。

「あれに手を下したのは俺だからだ」

「な......」

「無論、碓井殿の手は借りた。だが最期を看取ったのは俺だ。俺が首を取った。あの時俺は、善悪の物差しを自ら選んだ。俺は人間であることを取り、京へやってきた。

 そして貴殿らと出会い、やがて大江山へと踏み込んだ」

 淀んだ空気の中に、さらに重苦しいものが混じった。息をつくのにも冷や汗が滴り落ちるほどであった。金時は神経質そうに無精ひげを何度もなぞった。

「俺は見たのだ、綱よ。酒呑童子を討った後、かどわかされた姫君の様子を一人一人聞いて回っている最中のことだ。貴殿らが残った酒で仮の祝杯を挙げている、あの時だ。

 女がな、泣いて逃げていったのだ。声をかけても止まらず、山の何処かに消えていった」

「食われかけた姫君が動転するのは道理であろう。あるいは気が触れたか」

「違うな。貴殿も俺も、姫君の名や容姿の子細は、検非違使から教えられ、あらかじめ知っていたろう。あの女は、その内のどれでもなかった。

 ――それに、あれは都人にしては、あまりにも純朴な涙だった。俺が見たのは酒呑童子の想い人だったのだと思う。どこかで隠れて彼奴の最期を見ていたのだろう。

 ただの女だ。愛しい者を亡くしたただの女。その背中を射ることができようはずもない」

「鬼が、鬼女が泣くものか」

 綱は思わず腰を浮かせていた。今まで信じてきたことが綻び、崩れようとしていた。

「泣くのだ、綱。俺が一番よく知っている。物の怪にも情はある。でなければ、どうして契りを結び、子を為すのだ? 俺はなぜこの世に生を受け、こうして貴殿と話すことができる?」

「情がなくとも交わることはできよう」

「そうかもしれん。だが、泣くことはできないはずだ」

 金時は綱と相対するように腰を落とし、あぐらをかいた。「食われかけた姫君、と言ったな綱」、金時が静かに言った。

 どん、と蔀しとみ戸どが揺れる音がした。風が巻き、建物の隙間に入り込んで口笛を吹く。夕立だろうか、嵐の予兆が金時邸を囲んでいた。

「姫君は食用に連れていかれたわけでないとしたら?」

「嘘だ。貴様、仏の前で虚言を申すか」

「認められぬのはわかる。だが俺は女たちから直に聞いた。そのどれもが丁重に扱われたと言う。

 ――宮中における北の方(正妻)のように、だ」

 一つ一つの言葉に対抗し、反駁していた綱はついに言葉を失った。考えないようにしていたことが、正視したくなかった可能性が、今金時から明かされようとしていた。

「酒呑童子は、人の世に馴染もうとしていただけだ」


※※※


「酒呑童子が現れる前、烏合の衆以下であった鬼共は確かに人を食らっていた。庇いようもない。奴らが今でもそのような存在であったら、俺も刀で応じていただろう。

 つまり、酒呑童子が変えたのは、戦略のみではなかったのだ。鬼のありよう自体を、奴は変えた。それからは、手に掛けたのは手向かってきた者のみ。人はなるべく傷つけぬよう、臣下に命じていたらしい。後々のために、と。

 もう察しはついているな、綱。姫君は、鬼たちの妻に娶るために連れられたのだ」

 言われるまでもなかった。酒呑童子は、人と鬼の争いを終わらせるため、異形の血を薄めようと画策していたのだ。政敵との間に子を為し、諍いを収めるやり口は、宮中でもそう珍しい話でもない。いわば「政略婚」である。

 酒呑童子からの接触の中に、そうした交渉の末の停戦も含まれていたであろうことは、想像に難くない。だが、討伐隊の急先鋒たる綱の耳には、ついぞそのような話が入ることがなかった。どこかで情報が止められたか。

 脳裡に、主と慕っていた者の穏和な顔が浮かび上がった。殿、と小さく綱の唇が動いた。

「......胎内を食い破った赤ん坊の話は。あれが事実ならば」

「あの話はもっと酷い。後日その姫君の従者に話を聞いたのだがな、姫君は自ら大江山へ戻ろうとしたのだそうだ。都に紛れた鬼と逢瀬を重ね、従者も交えて屋敷を逃げ出す目論見を立てた。

 だがついに密偵をしていた検非違使に捕まり、その時には子を孕んでいた。別当だった姫君のお父上はそれを知り――」

「もうよい。やめてくれ」

 気分が悪くなり、綱は胸元をさすりながら大きく息をついた。相手は素直に口を噤んでくれた。

 懐紙で汗を拭う。間を置いてから先を促すように頷くと、金時が労るように綱の肩に触れた。

「大丈夫か綱。貴殿のそういうところを忘れていた。剣術も心根も、どこまでも正道の武人だ。それゆえ搦め手に弱い」

 直接言葉にはしなかったが、金時は、頼光や藤原道長が保身のために流した噂の存在を、暗に指摘しているのである。鬼は未だに人を食っている。それを調伏せんとする自分たちには大義がある。そういう筋書きだ。

 金時は考えなしの男ではない。頼光への直談判も、帝への上奏も、黙殺されたのだろう。

「虫が百の、獣が十の子をなすことからもわかるだろう。生き物としての強さは、子をなす力と相反する。

 生命の頂たる鬼は、元々子を為す力に乏しい。鬼の純血種は我ら人の幾分にも満たぬだろうよ。あれは哀れな、破滅へ向かう生き物なのだ。

 我らが手を下さずとも、時が刃となり彼らを滅ぼすことになる。ましてや、今や彼らは救世主を失ってしまった」

 だから俺は刀を置き、仏に祈ることにしたのだ、と金時は穏やかな声で言った。それが主命を尊んだ上での、彼の選択なのだった。

 外から土を打つ雨音が聞こえる。その音はどんどん強くなり、やがて唸り声にも似た雷鳴が轟く。薄絹のように淡く部屋を覆っていた闇が、雷光で引き裂かれる。

 日暮れ前の鬼雨であった。


『ここは黄泉と通ずる橋と聞きました』

 昨晩の女の声が脳裏に蘇った。白い肌。眉宇に漂った憂い。大切な人を失ったのかと聞かれ、悲しそうに沈んだ視線。激しい雨にも関わらず、乾いていた衣。


――ただの女だ。愛しい者を亡くした、ただの女


 一目見た時の衝撃から、自分はわかっていたのだ、と綱は思った。鬼は泣くはずがない、情などないと固執していたのは、怖かったからだ。女の瞳の中に、燃えたぎる情念を見たとき、綱は震えた。

 幻術の世界で灰と化し、無様に崩れ落ちた瞬間、なぜか炎は消し止められた。

 綱が我に返ると、女は自分のしでかしたことを恐れるように白い手を握りしめていた。綱と同じように、震えていた......ようにみえた。

「あのとき殺せたはずなのに」

 自分の口からこぼれた言葉が、どちらの意味であるか、綱自身にもわからなかった。そもそも見逃したのは自分の方なのか、女の方なのかもわからない。

 ただ、互いに敵だと知りつつ、一条戻橋の上で言葉を交わすのみで別れた。もうこの橋に来るな、と女は言ったが、綱は直感していた。まだあの女は一条戻橋のたもとで、所在なげに佇んでいるはずだ。

――薊の君。私を待っているか。

 綱は瞳を閉じ、雨の音に耳を傾けた。心まで削り取るような、悲嘆に満ちた篠つく雨。

 瞼の裏に、欄干に身を預ける女の姿が浮かび上がる。衣も黒髪も水滴の一粒なく乾いている。雨粒は女を避けていく。だが、頬だけが濡れている。

 綱は瞑目を解き、金時を正面に見据えた。  

「私は正道の武人だった。武人として、鬼を殺すことで禄を食んできた。正道を歩むが故、道を過つこともあったのかもしれん。

 そのように正道であった人が、横道おうどうを行くことはできるか」

 綱は金時に、あるいはその背後で微笑む仏に、そう問うた。

 金時は無言のまま、首肯を返した。


※※※


 萎れてうなだれた野薊の尖った葉が、重たそうに水滴を弾き落とした。雨が澱みを洗い流したか、山の空気は澄み、涼しげな風が木立を抜けた。

 大江山の奥深く。鬼の居城となる以前は、とある貴族の小さな別邸として使われていた場所である。

 寝殿の庇の下、爽やかな風を受けても、女――茨木童子は座り込んだまま整った顔を険しくさせていた。

「また一雨やったな、茨木」

 彼女の背中を包み込むように、気だるげな声がかけられた。振り返らずとも、衣擦れの音で床から体を起こしたのがわかった。

「起こしてしまいましたか」

「あれだけ盛大に降らせれば、な」

 責めるような口振りではない。瓢ひさごから栓を抜く音がしたのは、むしろ機嫌いい証だった。

「野薊が枯れかけていたので」 

「花を愛でるは人のみにあらず。優しい使い方だ」

 薄衣を羽織り、男は茨木の隣に腰かけた。片手には愛用の瓢を持っていて頻繁に中身を口にするが、酔っている様子はまるでない。透徹した眼差しが印象的な美丈夫である。

「知っているか。人はお前が降らせるような激しい雨を鬼の雨、鬼雨と呼ぶらしい。たまには的を射たことをいうよな」

「大方、老翁の入れ知恵でしょう」

「は、安倍晴明か。違いない。一線から退いても聡い奴よな」

 呵々と笑う男の身体を、茨木は横目で伺った。野薊の葉のよう刺々しい傷跡が、半襦袢から透けて見える。中にはふさがったばかりで赤みがかった生々しいものもある。

 雨をもって草花を癒す力があるならば、なぜこの傷を癒せないのか。幾度なぞっても消えないのが歯がゆくて、男につられて緩みかけた頬がこわばった。

「お前は本当に優しいな、茨木」

 瓢をおいて、男が言った。

「お前の妖術で助かった命は数え切れぬ。俺の手勢だけを言っているのではない。殺さずに済んだ人間の数も計り知れない。

 俺になくてお前に備わっていたのも道理。必然だと思う。それはな、生かす力なのだ」

 男の手が伸び、茨木の白い掌を包んだ。

「それ、俺は使いこなせぬ。融和を謳いながら、俺は所詮、殺しの手管は知っていても命を生かす術を知らん。お前に子を抱かせてやることもできなんだ」

「......これから、いくらでも機会はありましょう」

 男は答えない。頷きも否定もせず、愛しげに茨木のまなじりを拭った。自分は泣いていたのか、とそこで茨木は気付いた。

「じきに頼光の奴と決着をつけることになる。俺は古き『殺す者』として奴らと対峙する。

 だが、おまえは気丈に見えて情の深い女だ。殺しには向かぬ。仇をとるなどと考えるな。『生かす者』として新しい鬼の形を世に示せ」

「私を置いていかれるのですか」

 重ねられた無骨な掌を、精一杯の力で握り返した。男は困ったように微笑んだ。

「俺が燃え広がる燎原の火なら、お前は干天の慈雨。いつでも俺を諫め、包み込み、癒してくれた。お前の優しさはこの胸の奥にまで染み込んでいる。だから、いつでも共にあるのだ」

 傷だらけの胸板に抱かれながら、茨木はそのくぐもった声を決して忘れまいと心に誓った。

「わかるな。いかなる時も共にあるのだ」

「はい」


 源頼光が大江山に踏みいる前日、雨上がりの束の間にあったことである。


※※※


 茨木、と懐かしい声に呼ばれた気がして、女は橋の向こう側に目を凝らした。そこには茫漠とした闇が横たわっているだけである。わかっている。何度も繰り返したことだ。

「ふふ。あの方ならば、黄泉軍よもついくさの頭領でもしていようか。帰ってくるはずもない」

 誰が見ているわけでもないのに、茨木童子は濡れた瞳をごまかすように自嘲した。神世に伝わる鬼の軍勢ならば、酒呑童子も飽くことはないだろう。

 愛しい人は決して黄泉からは帰ってこない。源頼光によって一刀に伏されるのを、茨木はその眼で見ていた。


 ――わかるな。いかなる時も共にあるのだ。


その言葉通り、酒呑童子の気配を感じることはたびたびあった。閨の静寂に吐息を感じたり、漫ろ歩く背後に足音が聞こえたり、こうして雨の日に名前を呼ばれた気がしたこともあった。

 しかしあの日以来、一度も姿を見たことはない。

 自らに妖術をかけることができたならば、永遠に時間を引き延ばしあの頃の幻影を見ただろう。例え泡沫の夢であろうと、確かな幸せがあそこにはあった。

 だがそれはかなわず、茨木は一人こうして一条戻橋のたもとで佇んでいる。今や自分自身、一体何を待っているのかわからない。

 最初はここを巡回路にしている綱を待ち伏せ、復讐を成し遂げるつもりだった。邪魔な橋占たちを雨で追い払い、ひたすら待った。雨には敵の足捌きを鈍らせる意味もあった。どちらも意図した通りになった。

 だが、殺すことはできなかった。綱を妖術に陥れた瞬間、酒呑童子の言葉が蘇ったのである。結果、襲撃は失敗に終わり綱は去った。

 では酒呑童子が帰ってくると本気で信じているのか。否である。酒呑童子は大江山を死地として選んだ。「殺す者」として戦いを選んだと言うが、そうではないことを茨木は知っていた。殺しに向かない者たちを逃がすため、自ら囮になったのだ。それ故敵を一人として討てず倒れても、未練などない。帰ってくる理由がない。

「次は四人相手か」

 綱は茨木童子の正体に気付いただろう。昨晩を顧みて、四天王の残る三人を連れて戻ってくるに違いない。だが、呟いた声に恐怖の色はない。むしろ自分は切られることを望んでいるのかもしれない、と茨木は思った。


 雨音に紛れ、悠然とした足音が聞こえる。昨晩と同じように目の前で止まる。牛車は連れていない。馬もいない。付き人の一人もおらず、若武者は昨日と同じ凛々しい顔つきで茨木の前に立っていた。互いに言葉はない。

 綱が素早く動いた。切られる。そう思って目を瞑った。


 刹那、ふわりと身体を何かが包み込んだ。瞳を開くと、剽悍な武人の顔がそこにはあった。しかし、その表情は穏やかなものだ。

「今夜も雨が酷い」

綱は帯刀していなかった。雨の風情を楽しみにふらりと逍遥してきたような、気取りのない軽装だった。その語り口も気負いなく、この天気なのにからりと言ってのけた。

 綱が茨木の肩に掛けたのは、雨具として使われる桐油衣である。上等な厚手のもので、体の芯から温めてくれる。

 二人を隔てる雨の白壁が薄くなる。綱の顔が目の前にある。目じりに寄せた皺まではっきりとわかる距離だ。愛しい人の仇。かつてあれほど憎んだ相手。

 だが、もう茨木の中に戦意はなかった。怨念の代わりに浮かんだのは、疑問である。

「私は――私は雨に濡れません」

「知っています」

「知っていて、なぜ」

 足元で弾けていた飛沫が和らぎ、問いに答えた綱の声は明瞭に茨木の耳朶に届いた。

「濡れずとも震えていたからです。昨晩の貴女は」

 飾り気のない控えめな笑顔と、その静かな言葉を聞いたとき、茨木は悟った。

 ああ、長い煩悶が、ようやく終わったのだ。


※※※


 渡辺綱は後日、主にこう報告している。

 一条戻橋にて鬼の残党と交戦、重傷を負わせたが逃亡を許す。しかし鬼は片腕を失う深手により、二度と都には現れないだろう。

 証拠を欲しがった頼光は臣下に堀河の底を探させたが、結局何一つ綱の言葉を裏付けるものは見つからなかった。その後この話は世間に知られるところとなり、様々な憶測や流言が飛び交った。茨木童子は片腕を取り戻しに綱の自宅を襲撃したのだ、とか自分の故郷に帰ったのだ、といった物語が面白おかしく換骨奪胎され、後の世に伝わることになる。

 綱本人は事の真相を語らぬまま、その後長く生き、最期は生地である當光寺にて没したという。


                   了

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鬼雨、茨のごとく 駒田窮 @komakyu_novel

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