えいらきの鳥居

 ある夏の日。


 僕とは別のゲーム会社で働いている、専門学校時代の友人の真田さなだと飲むことがあった。

 そんな事は、ままあることなのだが、その日は真田の会社の先輩も一緒に飲む、ということになったのだ。


 真田と二人だけなら、あくまでプライベートな飲み会となるのだが、そこに彼の先輩が混ざるとなると、どこか接待じみていて、落ち着かない。

 どうして呼ぶのかと真田に聞いてみると、どうやらその先輩は以前別のゲーム会社にいたらしく、その際に作っていたゲームが、その時僕と真田が大ハマリしていたものだったのだ。

(ソーシャルゲームで、僕はそれに当時すでに十数万も課金していたのだ)

 現金なもので、それを聞いた僕は、早く飲み会の日が来ないかと首を長くして待ち始めた。 


 仕事終わりの金曜日の夜。

 待ち合わせ場所で、待っているとほどなくして真田とその先輩がやってきた。

 お互いに自己紹介を済ませて、予約していた店へと向かう。


 道中でその先輩と軽く話をし、指輪こそしていなかったが、彼が既婚者であることを知った。

 家で妻が待っているので深酒は出来ないが、と言ったからである。

 この業界で既婚者というのは珍しい。

 実際、僕が会社に勤めていたころは、周りは殆ど独り身だった。無論、僕もだ。

(ちなみに真田には恋人がいた)


 適当に雑談をしている内に店についた。

 金曜の夜だけあって人で賑わっていて、僕たちは奥の座敷に案内された。


◆◆◆


 お酒を飲みつつ、仕事の話で盛り上がり、僕は聞きたかった例のソーシャルゲームの話を振り始めた。

 僕がそのゲームの大ファンであることを告白したうえで、出来ればで良いので、当時の苦労話を聞かせてほしいとお願いした。

(運営中のタイトルであったので、中々難しいかもしれないが、と前置きもした)


 先輩は快く当時の苦労話などを聞かせてくれたのだが、どうにも反応が少し鈍いようだった。

 話すべき内容を考えている、というのとは、また違う感じだった。


 もしかすると、開発中に嫌なことがあったのかもしれない。

 そもそも、この人は以前の会社を辞めて来ているのだ。開発中のトラブルの話など、特に思い出したくないものではなかったのだろうか。

 気づいたとき、僕はこの話をどうにか別のものにすり替えられないか逡巡していた。


「そういや、ソシャゲの夏のイベントって、なんか夏祭りのやつばっかりですよね」

 と、真田が言った。

 これだ、と思いすかさず僕は、

「確かにね~。ホラーとかやればいいのに」

「お前、ほんまホラー好きやなー」

 そこからは僕がホラー好きであることの説明や、好きな作品についての話題となった。


 どうにか話題を変えることが出来た僕は、ホッとしてしまったのか、ついつい饒舌になってしまっていた。

 以前たまたま読んだ『SIRENシリーズ』と『零シリーズ』の開発者の対談記事を思い出し、その話をした。


「幽霊をファブリーズで撃退するんやろ」

「ほんまかどうかは知らんけどな」


 などと真田と二人で茶化しあい、やがて話は『ホラーゲームを作れるのか』という話になった。

 これは、クリエイターとしての力量がどうこうではなく、精神的に可能かどうか、という話だった。


 一般的にゲーム開発は一年以上かけて行うものだ。

 そんな期間、精神衛生上よろしくない画像データやら映像データやらを見続けるわけで、何なら仕事が忙しくなれば、暗い会社に一人残ってホラーゲームのデバッグをする日も出てくるかもしれない。


 実際、僕が務めていた会社でも、その手のゲームでデザイナーの募集があったが、精神的に無理そう、と断っている人がいた。

 僕は怖い話は好きだが、四六時中どっぷり浸かりたいかというと、そうでもない。

 何より、ファブリーズの話もそうだが、そういう怖いものを作っていると『寄ってくる』というのを、どこかで聞いた気がする。

 僕は怖い話は好きだ。しかし、当事者になりたいとは思わない。


 先輩もそうでしょう? と僕が話を振ると、先輩は苦笑いを浮かべて、そうだね、と返事をした。


「ただその、寄ってくるって話ですが、少し違うかもしれません」

「寄ってこないんですか?」

「あぁ、いや、そっちじゃなくて、その」

 と、そこで先輩の言葉は詰まった。

 しばらく間があって、

「作ってなくても、あることはあると思うんです」

「――何か、そういう話を知ってるんですか?」


 明らかに、その手の話を知っているだろう先輩の反応を見て、ついつい僕はそんなことを聞いてしまった。

 真田はついさっき電話が鳴って、離席している。その席には、僕と先輩の二人だけだった。

 今度はもっと長い間の後で、先輩は口を開いた。


「そうだね。もし、似たようなことにあなたの身に降りかかった時のために、少し話しておきましょうか」

 そして、ぽつぽつと先輩は喋り始めた。


 ここから先は、その時の先輩――佐々岡順二ささおか じゅんじさんの視点で話をまとめたものだ。


◆◆◆


 開発中のタイトルでスタッフが諸事情により抜けるという話は、正直珍しい話ではありません。

 ゲーム開発というものは、ドツボに入ってしまうと恐ろしく過酷で、しかもストレスの強い仕事です。


 そうした環境から体や心を壊して、そのまま休職する人間も少なからずいます。

 私の同期にも、そういう人間は何人かいました。

 だから、その時の人事についても、とくに思う所はありませんでした。


 休職してしまった前任者に代わり、私が急遽プランナーとして編入されることになったのは、ソーシャルゲーム案件でした。

 今はまだリリースされておらず、初期開発の段階のものです。


 ソーシャルゲームは開発が難しく、様々な端末への対応や、運営計画を踏まえたうえでの、ゲームデザインの作成を行い、リリース直後の運営を見越したうえでのコスト運用も考慮する必要があります。

 純粋に売り切りのゲームを作るのとは、違う部分での悩みも多かったはずです。

 おそらく、そうした様々なものが積み重なり、しんどくなって前任者はやめてしまったのでしょう。


 ――などと思っていたのですが、同期のプログラマーから、女絡みでやめたと聞き、どこか肩透かしを食らったような気になったのを覚えています。


 前任者は川岸かわぎしという男で、私と同じ三十代の独身の男でした。

 女遊びをするようなイメージは無かったのですが、まぁそこは、人は見かけによらなかったということなのだろう、と当時の私は考えていました。


 今更ですが、ゲーム開発は、マイルストーンという、おおざっぱなスケジュールに基づいて進行しますよね。

 アルファ版、ベータ版、マスター、といった具合に、ゲームを段階的に作成していき、段階ごとにデバッグを行い、開発を進めていきます。

 契約によりけりではありますが、この各バージョンのゲームデータが中間成果物となっていることがほとんどで、これが無ければ、開発期間中のお金はクライアントから降りてこないものです。


 なので、というか……。

 あなたも体験したことがあるかと思いますが、各バージョンのゲームデータの納品日が近づくと、自然と現場にはある種の緊張感が生まれますよね。

 といっても、健全なプロジェクトなら、締め切りが近くなったが故に、普段よりも工数に気を配るようになっただけの話ではあるのですね。

 ……まぁ、中々そういう事も無いですよね。ほとんどが徹夜作業でギリギリの対応、とか。

 ――すみません、話が逸れました。


 私が編入されてからの最初のマイルストーンは、ベータ版の納品でした。

 正直、納品済みのアルファ版に、各種サブの機能を実装したものを確認するだけの作業であったので、そこまで忙しくはなかったのです。

 とはいえ、やはり納品日前日はどたばたするもので、その日もチームのメンバー全員で会社に遅くまで残っていました。

 その日は、夜の十一時過ぎまで皆残って作業をしていました。

 プログラマーからの報告待ちで、とくに急ぎのタスクを抱えていなかったため、私はリソース周りのチェックを行うことにしました。

 よくある話ですが、先のバージョンで使用する予定の未完成のリソースが紛れ込んでいて、それをバグ報告として上げられるのが嫌でしたので……。

 

 まぁ、そんなわけで中を見ていると、そこで妙なものを見つけたのです。

UI用のリソースフォルダの中に、見慣れない画像データが紛れ込んでいて、ファイル名は日付らしいの『1989-12-12.png』となっていました。

 開いてみると、それは崖を背にして立っている鳥居の写真でした。崖の向こうには海が広がっています。もちろんこんな物は全く知らないデータです。


米盛よねもりさん……?」

 で、すぐにチームのデザイナーに確認撮りました。

 ただ、こちらも当然「なんじゃこれ」と返すばかりで、身に覚えが無いという風です。

「なんか、入っちゃってるのかねぇ。プログラマーの環境って最新ですー?」

「ロム焼く前に更新してるよー」

「んー、じゃあ、俺が変なのを上げちゃってるのか……?」

 などと、デザイナーとプログラマーがやりとりをして、ほどなくして「いや、ないなー」というデザイナーの声がフロアに響き渡りました。


 リソースをアップロードするデザイナーの所には、この画像データはなく、またロムを焼いているプログラマーの環境にも、この画像データは無い。

 けれども焼きあがったロムの中には、このデータが格納されている。


 確認できたのはandroid用のロムファイル上でだけでしたが、ios用のロムファイルにも、このデータは含まれているのかもしれない。

 妙なところで行くと、android用のロムファイル(apkファイル)の中では、ゲーム内のリソースはデータ解析に対応するために、暗号化されて格納されているのですが、しかし、この鳥居のファイルだけはそのまま、png形式で保存されていたのです。


 ロムを焼く際、あるいは暗号化の処理を行う際に、過去のデータが悪さをしたのかも、とプログラマーは言ったのですが、結局その日は分からずじまいで、ベータ版では放置することとしました。

 クライアントもさすがに、apkファイルを開いて中身を見てくるといったことはなく、ベータ版は無事にチェックを通り、その時はそれで事なきを得たのです。


 以降、何度もロムを焼きましたが、その度に鳥居のファイルはロムに入り込んでいました。

 アップロード元のフォルダを確認しても、そのファイルは見当たらず、結局どこから入り込んでいるのかは分からないまま、開発は進んでいきました。


 途中、チームの誰かが、オカルトめいたことを言って、写真の場所を探そうともしました。

 実際、そういう系のゲームで心霊現象めいたことが起こるという話はよく聞きましたので、私としても半信半疑くらいで受け止めていました。


 ただ、その時の私としてはゴミデータがアプリ内に紛れ込んでいるという事の方が重要で、これにどう対処すべきかしか考えていませんでした。


◆◆◆


 アプリ配信、一カ月前に差し掛かった段階で、その鳥居のファイルが紛れ込む理由は分からないままでした。

 チームのメンバーは半ばあきらめ気味ではありましたが、開発責任者の私としては、諦めるわけにはいきませんでした。


 由来不明のゴミデータを入れたロムの配信がバレたら、何を言われるか分かりませんでしたから。

 面倒ではあったのですが、何かしらの策は講じておく必要があったのです。


「消したら?」

 焼きあがったロムデータに、例の鳥居のファイルが入っていて、私がそれとにらめっこしていると、米盛がそんなことを言いました。


 時刻は既に夜中の0時を回ろうとしていて、会社には私と米盛、ほかには自分のチームのスタッフ数名しかいませんでした。

 その時は、それでも良いかも、などとは言ったのですが、それでは根本的な解決にはなっていません。

 しかも、削除できるのはandroidだけで、iOSはロムデータの中身を見ることが出来ないので、もし入っていても削除をすることは出来ないのです。


 ただ、その日はもう疲れ切っていたので、最終手段として使用可能か、という確認も含めて、例の鳥居のファイルを消すことにしました。

 マウスカーソルを当てて、右クリックでウィンドウを開いて、削除を選択。


 ――ですが、何も起こらない。


 鳥居のファイルは依然、そこにあったままだったのです。

 何度か試してみたのですが、鳥居のファイルが消えることはありませんでした。

 パソコンの不調かと思い、再起動を試みましたが効果は無く、ほかのメンバーに削除を頼んでも、やはりそちらでも鳥居のファイルを消すことは出来なかったのです。


「ウィルスとちゃうんか……?」

 数度目の再起動を試したところで米盛がそんなことを言いました。

「いやでも、これ、本当にただのpngですよ……」

 セキュリティソフトを何度か走らせましたが、何も反応は無く、それはこのデータがただの画像であることを示していました。

 結局その日は、画像データを残したままにして、ロムを作成しました。


 ロムデータの提出の翌日。

 前日は徹夜作業でしたので、その日は午後出社となりました。


 気だるい体をどうにか起こして、洗面所で歯を磨いていると――ふと、背後に妙な気配を感じました。

 一応振り返りましたが、もちろんそこには誰もいません。


 家には自分一人しかおらず、当時は独身でしたので、誰かが家に居るようなこともありませんでした。

 しかし、どうしてかその日は、この家の中に自分以外の何かが居るような気がして、日も高いうちから妙なことだとは思いつつも、逃げるようにして家を出たのです。


 自転車に乗り会社までの道を急ぎました。家での気配が原因か、普段よりも自転車のスピードを出して走っていたのですが、

《ねぇ》

 と、不意に誰かに呼び止められたような気がしました。


 声に反応して、思わずブレーキをかけてしまい、気が付けば私の体は宙に放り出されていました。

 幸い、軽度の擦り傷で済んだのですが、私はそれよりも、自分を呼び止めた人物が何者なのかのほうが気になりました。

 ただ、周囲を見回しても、転んだ私に視線を向ける人ばかりで、それらしい人は、一人もいなかったのです。

 

 出社してから、私は前日のバグ対応を進め、空いた時間で上司に連絡をつけ、事の次第を報告しました。

 正直、その時の私は日ごろの疲れや、不気味な気配や怪我などで、少しまいっていたように思います。


 上司は私の話を聞き、件の画像リソースを確認したうえで、「まぁバグにさえならなければ」と、その画像データの混入を許可し、後日対応に変更してくれました。

 ――そして、鳥居の画像データが入ったまま、そのアプリは配信されました。


◆◆◆


 アプリのリリースから二か月後。

 リリース直後のバグ対応から一段落し、運営も落ち着き始めた頃、私はふと気になって、例の鳥居のファイルを探していました。

 あの件に関して、特別何か対策をしたわけではなかったのですが、何かの拍子に消えていないとも限らないとも思ったからです。といっても、ほとんどそれは私の願望に近く、例の画像は当然のようにそこにあったままでした。


「まだあるんか、それ」

 画像を開いて見ていると、いつの間にか後ろにいた米盛に声をかけられました。

「そうみたいですね……。あ、仕様書で何か分からないことがあった感じですか」

「次のアップデートに入れ込む新機能のことでちょっと――って感じやったけど……」

 と、そこで写真を見る米盛の表情が、ほんの少し険しくなりました。


「――そんなんあったか?」

 ここ、と米盛が写真の中の崖を指し示しました。

 よく見るとそこには、何か白い布のようなものがありました。


「布ですか……?」

「うん。前、そんなんあったか? 毎回ってわけやないけど、ロム更新ある時はちょくちょくその写真見ててんやけど、そんなん見たことないで」


 米盛の言葉を聞き、私はもう一度、その写真を注意深く見ました。

 白い布の下に、人の手のようなものが見えた気がしました。

 布を見てからはロム更新を行う度に、鳥居のファイルを確認するようになりました。

 そのうちに、私の中で渦巻いていた疑惑は確信へと変わっていきました。


 ――写真は更新されているのです。


 誰かがこの写真を更新していて、それがロムの中に紛れ込んでしまっていることになります。

 これがウィルスでないにしても、ロム内部のデータに干渉され、それが誰なのかが分からないのはマズイ話です。

 ですが、再調査を米盛に依頼するも収穫は無く、上司にも再度報告を行いましたが、こちらも害がないなら問題なしと返されました。


 結局、依然として鳥居のデータを含んだまま、ロムは配信され続け、写真もまた更新され続けていきます。

 最初は布にしか見えませんでしたが、それが着物の袖だと分かり、袖から伸びた手で、人がそれを着ていることが分かり、水にぬれた長い黒髪が見えた時は、それが女であることが分かりました。


 そして、その女が崖から這い上がり、こちらへと向かって来ていることも理解したのです。


◆◆◆


「貞子やん」

 昼食の時に、同期の岸本に画像データの事を話すと、彼はそう言いました。

 すでに画像データの事はチーム内でも広まっており、ウィルスの線から徐々にオカルト方向の話へと変わりつつありました。

 そのためか、誰もこの写真を触ろうとせず、放置されたきりになっていました。


「貞子はテレビやろ」

「モニターに向かって歩いて来てる時点で似たようなもんやろ。それよか、そのデータどないするねん」

「ほったらかし、でも良いとは言われてるけど……」

「ほな、それでええやろ」

「でもな……」


 このままで良いのだろうか、という迷いだけが私の胸にありました。

 後日、米盛もそう思っていたのか、写真の鳥居がある場所を突き止め、それを私に教えてくれました。


 場所はS県。

 会社からはかなり遠く、交通費だけでもそこそこかかるような場所ではありましたが、気づけば休日出勤の代休を使って、その場所へと向かっていました。


◆◆◆


 S県についたのは昼過ぎでした。

 正直空腹を感じていましたが、鳥居を確認するまでは落ち着けそうになく、そのまま電車を何回か乗り換えて目的の場所へと向かうことにしました。


 事前の調査で分かっていましたが、目的地は漁港の近くでした。

 港には漁師たちの船が停泊しており、近くの市場は活気に満ちていて、辺りには磯の香と波の音、そして漁師たちの景気のいい話し声が響いていました。

 それを聞きながら、私は鳥居へと向かいました。


 鳥居の場所は事前に把握していたので、特に迷うこともなく着くことが出来ました。

 私としては、あの写真通りに鳥居があって、それだけだと思っていたのですが、いざついてみると――鳥居が無かったのです。


 ……えぇ。

 鳥居は当時あった地震で倒壊してしまって、鳥居があった崖はその場所が削り取られたようになっていたのです。

 立ち入り禁止の看板の向こうに海が広がっているだけで、そこにはもう何も無かったのです。


 正直、鳥居があったところで、何かが解決されるわけではないと思っていたのですが、ただ、その時は唯一の手掛かりが無くなってしまったような気がして、途方に暮れていました。


 どうすることも出来ず、漁港に降りてきたころには、すでに昼を過ぎていて、先ほどまでの活気も鳴りを潜めていました。港を抜けて、商店街を一人ぶらぶらと当てもなく彷徨っていると、突然声をかけられました。


 驚いて振り返ると、そこに居たのは、なんと前任のディレクターの川岸でした。

 聞けばここは彼の地元らしく、退職した彼は実家に帰っていたそうなのです。お互い、久しぶりに会い、積もる話もあるのですが、いかんせん当時の私は、言うなれば彼の後始末をしているような立場の人間だったので、なんと話をして良いのか分からず困惑したことをよく覚えています。


 ただ、立ち話というのもなんですので、二人で近くの居酒屋に入ることになりました。

 私は帰りがありますので飲まず、川岸も遠慮してかビールをちびちびと飲むだけでした。しばらくお互いの近況を語り合い、やがて話はやはり退職に絡んだものになりました。


「聞いてええかどうか、分からんけど……」

「やめた理由?」

「――まぁ、な。言うて、ただの興味本位やし、無理そうやったら言わんでもええけど」

「いやいや、俺もこれは言っとかなあかんかと思ってたから、ええよ。ぼかしとってもしゃあないしな」

 川岸は半分くらいになったジョッキをテーブルに置いて、腕を組み、目をつむり、しばし考えこむような表情をしました。

「俺も、実際はよう分からんねんけど――多分、精神的にまいってたんやと思う」

 と、切り出したのです。


 まぁ、ゲーム会社ではよくある話です。私の友人も、うつ病で何人も会社を辞めていましたので、そこはさほど驚きませんでした。

 ただ――少し引っかかったのは、彼が言った『よう分からんねんけど』の部分です。


「――まぁ、この業界では珍しい話やないし、俺も下手しいなるかもしれんし――」

「いや――鬱とは違うと思うんや、多分。まぁ正直、普通に考えたら鬱やと思うねんけど」

 と、何やら煮え切らないことを言い始めたのです。


 気になった私は、気にするな、喋ればスッキリするだろうと、適当なことを言って川岸にしゃべらせました。

 しばらくはそれでも、どこか渋るような態度をとっていましたが、やがて根負けしたのか、ぽつぽつと語り始めました。


「俺に恋人おるんは、知ってるっけ?」

「まぁ、何かで聞いた気はするわ」


「最初は、そいつと電話で喋ってる時やってんけど、なんか彼女が俺の後ろで女の声がするとか言うんや。

 誰や誰やて聞かれたけど、でも俺はそん時会社の喫煙所におって、近くに女なんておらんかったんや。

 最初のほうは聞き間違いやろ言うとったんやけど、でも、日またいでも、いつにかけても、後ろから女の声が聞こえる言うて、しまいにはそれが原因で別れてしもた。

 それで、ちょっと気は滅入ったけど、そっからが酷かった。


 別れる前は聞こえんかった、その女の声がな――聞こえるようになったんや。

 最初は誰かが遠くで喋ってるような聞こえ方しててんけど、どんどん、その声が近なってきてるような気がしてな。

 初めの方は何言うてるか分からんかったけど、徐々に何言うてるか分かり始めたんや。


 ケイちゃん、ケイちゃんって。

 別れた彼女と同じ呼び方で、俺を呼んどるねん、そいつ。


 はっきり聞こえた段階で、こらあかんわってなって、病院行ってんけど、まぁストレスって診断されて、薬出されたんや。出されたからには飲むけど、そんなん全然効かんくてな。


 あんまり認めたくなかったけど――何かに憑かれてると思ったんや。


 そんで近くの神社に駆け込んで、お祓いをしてもらったら、ちょっと楽になってな。

 ただまぁ、そんな状態で仕事も出来んし、正直自分で自分がおかしなってるのは分かったから、それで会社辞めて、実家に帰ってきたんや」


 まぁ、それでも未だにちょっと幻聴は聞こえるけどな、と付け足して川岸は、一息ついてからビールで唇を湿らせました。


 私はその話を聞きながら、ある事を思い出していました。

 あの写真と、自分を呼び止めた声の事です。


「そういや、お前は何でこっちに来とるんや」

 そのまま話をするのはどうかと考えましたが、私はあまり嘘が得意なほうではありませんので、ある程度は正直に話すことにしました。


「――ここ、鳥居あるやろ」

「鳥居……? あぁ、あの海のところのあれか」

「うん。まぁ、あれを見に来たんや」

「なんでや。あんなもん見てもしゃあないやろ」

「いや、その……。実は、今開発してるロムの中に、あれの写真が入ってもうて……。まぁ、それで興味本位というか、そんな感じで――」

「あ、それもしかしたら、俺かもしれん」

「は?」

 ちょっと待ってな、と川岸は自分のスマホを操作して、私にあの鳥居の写真を見せてくれました。


「すまんかったな……。会社辞める結構前のタイミングで、一回こっちに来ててんけど、そん時にこの写真を撮ったんや。そんでそのまま会社のPCに繋げてもうて……って感じやな……」

「なんでそんな鳥居の写真を撮ったんや」

「昔の遊び場やってん。帰省した時に寄ってみたら、なんや懐かしなってもうてな……。それで撮ったんや。『えいらき』がおるいう噂がある所で、誰も近寄らんかったから、秘密基地や言うて、いろいろ持ち込んでたな……」


「――『えいらき』ってなんや」

 ふと、川岸の説明に違和感を覚え、私は問いました。

「バケモンや」

 すると彼は不敵に笑ってそう答えました。


「友達の誰かが本か何かで読んだんやと。あの鳥居の近くには、そういう名前のバケモンがおって、なんや危ないから誰も近寄らんらしい」

「もしかしてお前の幻聴って――」

「『えいらき』の仕業ってか? いやいや、それは無いやろ。俺は子供のころから、ずっとあっこで遊んでてんで。ほんまにあっこに何かおるんやったら、子供のころにいかれとるわ」

「……まぁ、それもそうかもしれんけど……」


 結局その日は、そのまま電車の時間が来たために、お開きとなり、私は家に帰ることになりました。

 朝起きて会社に行って仕事をして――という普通の日々がしばらく続きました。


 ただ、アプリのアップデートは行われるもので、川岸と会ってから最初のアップデートの時のロムチェックで、一応中を見てみると、やはり例の写真はそこにあったのです。

 女も前に見た時よりも、もっと近づいて来ているようでした。


 ◆◆◆


 深夜。

 会社に一人残り、デバッガーに回す前の事前チェックを行っていた私は、疲れていたことと、翌日が休みだったこともあって、妙にハイになってしまって、ふと明日の朝一番に神社に行ってお祓いをしてもらおうと思い立ったのです。

 とはいえ、お祓いをしてもらうにしても、何をどうやって祓ってもらえば良いのかが分かりませんでした。写真をお祓いしてもらえば良いのは分かるのですが、その写真も今はただの電子データです。

 さすがにこれをどうこうは無かろうと、何故か勝手にそう思い込んでしまったのです。


 だから。

 印刷したんです、その写真を。


 自分のパソコンから、会社共用のプリンターにデータを飛ばして、しばらく待っていました。

 白紙が吸い込まれて、ガー、ガー、ガーと、写真が印刷されて出てきます。

 正直、あまりその写真は見たくは無かったのですが、ちゃんと印刷されているかは見ておかなければならないので、薄目でちょっと見てみると、妙なことに気が付きました。

 いないのです、女が。

 正直最初は見たくなかったので、あまりちゃんと見ていなかったのですが、徐々にその範囲を広げていっても見当たらず、ついには写真をまじまじと見て、女を探し出すまで行いましたが、それでも女の姿は見つかりませんでした。


 私はそこである事に思い当たり、さぁっと血の気が引きました。

 ――外に出たんじゃないか、と。

 こうして紙として印刷されたために、外に出てしまったのではないかと。

 

 ――と、その時でした。


 ぺたぺた。


 不意に部屋の外の廊下から足音がしました。

 それも何故か、ぺたぺたと、濡れた足で歩いた時のような音です。

 それがだんだん、だんだんと、近づいてくるのです。

 もう私は気が気ではなくなってしまって、どうしようかと逡巡している内に、不意にガチャリと、部屋の遠くでドアノブが回る音を聞いてしまったのです。


 入ってくる。


 そう思った私はとっさに近くの机の下に潜り込んで隠れました。


 当時、私がいた会社のフロアは『コ』の字型になっていて、入り口がそれぞれ端にありました。

 私は一方の入り口の近くに居たのですが、音が聞こえたのは反対側の入り口からでした。


 息をひそめて隠れていると、扉が開く音がして、誰かが部屋の中に入ってきました。

 部屋の床はカーペットが引かれているので、廊下の時のように大きな音はなりませんが、それでも誰かが歩くような音ははっきりと聞こえました。

 おびえながら机の下で息をひそめていた私は、けれど心のどこかで、会社の誰かが戻ってきただけだろう、とも思っていました。

 こんなオカルトじみた話があるわけがないと、そう思い込もうとしていたその時。


『ジュ、ンジさ、ん』

 と、向こうの方から私の名前を呼ぶ声が聞こえたのです。

 ぎこちない言い方でしたが、はっきりと聞こえました。


『ジュン、ジさん……ジ、ュンジ、さん……ジュ、ンジさん』

 それから何度も何度も、その声が聞こえてくるのです。だんだんと言い方を調整しながら、そして、その声はだんだんと近くなってきます。

 ギ、ギ、ギという足音とは別に、衣擦れの音も聞こえるようになりました。


 もう間違いない。

 あの写真の女が自分を探しに来たのだと思い至り――私は意を決して机の下から飛び出して、近くの入り口から逃げようと思いました。

 そうして呼吸を整え、さぁいざと思ったその時――


 濡れた青白い脚が目の前に現れたのです。

 心臓が止まりました。

 肉付きからして、その足は女性のものでしたが、その太ももの裏や踵にはびっしりとフジツボが生えていました。

 何年も水底に沈んでいた水死体のようでしたが、肌が腐っていたわけでもなく、みずみずしさすらあったかと思います。


 そしてその足は、そこから一歩も動かなくなりました。

 早く、早く、どこかに行ってくれと、心の中で念じました。


 ですが、そのうちに、視界の端に何か黒いものを見つけました。女の髪の毛です。


 女が机の下を覗こうとしていたのです。

 せめて見ないようにしようと目をつむりました。

 衣擦れの音が聞こえ、女が腰を折ってここを覗こうとしているのが分かりました。


『ジ、ュンジさん、ジュン、ジさん』

 女が私の名前を呼び続けます。

 女の吐息が聞こえ、息が首元にかかり、背筋に冷たいものが走りました。

 これらが遠くなるように必死に、必死に祈りながら目をつむり――。


『順二さん』

 そして女の声が聞こえ、私は意識を失いました。

 

 鼻先に水滴が落ちて、その冷たさで私は目を覚ましました。

 気づけばすでに朝になっていたのです。

 目を開けた時、女はどこにもいませんでした。

 やり過ごしたと思い、机の中から這い出すために床に手をついたとき、手のひらに冷たさを感じて、ぎょっとしました。

 私が隠れていた机の周りに、濡れたものが這い回った跡のようなものがあったからです。

 

 私はそのまま近くの神社へと向かい、お祓いをしてもらいました。

 気休め程度ではありましたが、それでも幾分か気は楽になりました。

 幻聴は聞こえなくなり、今現在は特に問題も起こっていません。

 ただ、少し気になる事があるとすれば、あの外に出てしまった『えいらき』がどこに行ったのか、という事です。


 机の周りの濡れた跡は、そのまままた部屋の出口に続いていたのですから。


◆◆◆


「すみませんね、何かオチが弱くて」

 向かいに座る佐々岡さんが苦笑した。その一言で、周囲の喧騒が耳に届くようになって、僕は自分でも知らぬ間に彼の話を聞き入っていたことに気づいた。


「いえいえ、十分に怖い話でしたよ」

「そうですか。それは――良かったです」


「ところで、『えいらき』って、どんな字を書くんですか」

 僕の問いに、佐々岡さんはニヤリと笑みを浮かべた。質問の真意に気づいたのだろう。

「気づかれたようですね」

 スマホを操作して、佐々岡さんがその『えいらき』の漢字を入力する。

 これです、と差し出された画面には『栄螺鬼』と書かれていた。


「サザエオニ、ですね」


「そう。おそらく子供時代の川岸の友人は、この栄螺の部分を『えいら』と呼んでしまったのでしょうね。それで、下の鬼とくっつけて、『えいらき』になったと」

「大人たちは口頭で子供たちに伝えたりしなかったんでしょうかね」

「さぁ……。そこは分かりませんが、子供には害が無いと思っていたから、かもしれませんね」

「あぁ……。栄螺鬼は成人男性を狙うんでしたっけ……?」


 僕は過去の案件で調べた妖怪図鑑の知識を引っ張り出して答えていた。


 栄螺鬼というのは、海の妖怪である。

 姿かたちは女のそれと同じで、男性を狙って悪さをするのだという。

 内容には諸説あり、結婚している男性を奪ってしまうだとか、男性の睾丸を食って逃げてしまうだとかがある。


 ただ、どれも決まって襲われるのは成人男性であって、子供というのは無かったはずだ。

 そういうわけで、逆説的に子供には害がない、という考えに至っても、まぁ、無いことは無いのだと思う。


「はい。とはいえ、それで子供には無害、というのはいささか楽観が過ぎるとは思うのですが」

 それもそうですね、と言って、ジョッキの中のビールをあおる。

 佐々岡さんのジョッキも空になっていたので、店員を呼んでビールのお代わりを頼んだ。

 ふと横を見たが、まだ真田は戻っていない。電話が長引いているようだ。

 届いたビールに口をつけ、飲みながら次の質問を考える。それを聞くべきか否か迷う所だったが、酒の勢いも借りて、僕は聞くことにした。


「さっきの話ですけど」

「はい」

「栄螺鬼は、2匹居たんじゃないでしょうか」

「二人、ですか?」

「はい。佐々岡さんの所に現れた栄螺鬼と、川岸さんの所に来ていた栄螺鬼は別のものなんじゃないかと。栄螺鬼が人に憑りつく妖怪なら、佐々岡さんが川岸さんに会った時、川岸さんはまだ幻聴が聞こえるって言っていたと思うんですけど、じゃあその時、栄螺鬼は川岸さんに憑りついていたと思うんです」


「……なるほど」

「佐々岡さんの所にも栄螺鬼は現れましたが、その頃は川岸さんに憑いているはずです。だから、栄螺鬼は2匹居た、と考えたほうが良いと思うんです。あの写真は入り口になっていて、栄螺鬼はあれを通ってこっちに来てるんじゃないかと、そう思うんです」


 と、そこまで僕が言うと佐々岡さんは、何やら神妙な顔をしてこちらを見返していた。

 ――そこで僕もある事に気づき、質問しようとしたその時。

 何か言いたげにしていた佐々岡さんが、突如ハッと何かに気づいて、自分の胸ポケットから携帯を取り出して、誰かと喋り始めた。


 ――今、何かが鳴るような音がしただろうか。


「――うん、うん。わかった、わかったから……」

 ふぅとため息をついて、佐々岡さんは携帯をポケットにしまう。

「仕事ですか……?」

「いや、妻ですよ。いつ帰って来るのかと聞かれましてね」

 苦笑しつつ佐々岡さんは荷物を持って立ち上がる。

「真田さんには申し訳ないのですが……。すみません、今日の所はこれで」


 と、佐々岡さんはそそくさと出て行ってしまった。

 一人残された僕は残ったビールを飲みつつ、真田が戻ってくるのを待った。

 程なくして、入れ替わりに近い形で真田が帰ってきた。


「佐々岡さん、帰りはったな」

 戻って来て早々に真田がそう言った。

「なんや、外で会うたんか」

「おう。入り口の所でな。奥さんからはよ帰れ言われたって。――でも、あれやな、あの人結婚してたんか」

「なんや知らんかったんか」

「いや、まぁ指輪もしとらんから独身なんかなって。前職の時の話で、独身や聞いてたからてっきり今も独身やと」


 何となく嫌な予感がした。けれど、それが何なのかは分からず、とりあえず真田の電話の件を聞くことにした。

 長い電話だったが何の電話だったのか、と。

「彼女からや。俺と喋ってるときに、後ろで女の声がする言うて浮気やと思われてもうてて」


 後日、真田にスマホの中のアプリを全て削除するよう言い、僕も自分のスマートフォンからアプリを全て削除した。

 最初は真田も嫌がっていたが、近くの河川から佐々岡さんの水死体が上がると、僕の言う通りにしてくれた。


 さらに後日、佐々岡さんの葬儀で分かったことだが、彼はやはり独り身だった。

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