運命で宿命で永遠の愛
白情かな
第1話
「ごめんなさい」
目の前にいる彼女は先ほどからそればかりを繰り返している。今僕と彼女は恋人関係にあるが、僕が一言わかったよと言えば恋人関係は解消されるだろう。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
それにしても、なぜ謝るのだろうか。泣きながら謝るくらいならば嫌だろうと何だろうと恋人でいてくれたらいい。そうしたら謝る必要も泣く必要もないのだ。別れを切り出すことを泣くほど申し訳ないと思っているのなら必要なのは謝罪ではなく忍耐である。
つまるところ彼女は僕に対する申し訳なさよりも別れた時に訪れる自分へのメリットの方を重視しているのである。離れたほうがましという風に他人から思われることは何とも情けないもので思わず涙がこぼれた。
すると彼女は先刻にも増して泣き始めたので驚いた。号泣である。驚いて僕の涙も引っ込んだ。
「何もそんなに泣くことないじゃないか、言い出したのは君なんだぜ。心の準備をする時間が僕より随分多かったはずじゃないか」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
それにしても先ほどから彼女はごめんなさいとしか言わない。もっとも、本当にだとかそういう形容詞がつくことはあるが。
僕が何かしら言葉を発してもこの調子なのにはほとほと困った。ここは在りし日には情熱的に互いの愛を語り合った人通りのない夜の公園ではあるが、もしも何かの偶然でここを通りがかるような人がいれば僕は社会からの誤解を避けられないだろう。
「なあ、そろそろ泣き止めよ。それでもってごめんなさい以外の日本語を喋ってくれ」
「ごめ……」
「それはもういいから」
彼女の言葉を中途で止める。対話において相手の言葉を遮るというのはかなり感じの悪い行為ではあるがこうでもしなければこの場所が朝日の差し込む公園になってしまう。人通りもあるだろう。
「優衣さんはどうして僕と別れようとするんだい。僕は浮気なんてしていないし、君に対する愛は出会った時よりずっと深い」
「……ごめんなさい」
話にならないとはこのことである。僕の意識は遠くなりつつあった、今対話しようとしている相手は本当に人間なのだろうか。もしかして僕以外の人類はみな高性能なAIか何かでたまたまそれにバグが発生しているんじゃないだろうか。僕がつい目の前の出来事から目を離してしまってから十数秒後彼女は口を開いた。
「なんていうか、和人のことはまだ好きだし、嫌いになったとかじゃないんだけど」
君、やっとバグが治ったのかい。とは言わなかった。
「でも、ごめんなさい」
「優衣さん、僕の性格を知っているだろう。そんなよくわからない理由で別れる気はないよ。というか、ごめんなさいだけで恋人関係を解消できるのなんて自然消滅の兆しがあるような間柄くらいだよ」
僕たちは別に倦怠期を迎えているわけではなかった。
「なんていうか、自分なんかが好かれていていいのかって思うし……なんかもう無理で」
無理。すさまじい言葉である。このあと彼女がどのような言葉を紡ごうとも結局のところ本音は「無理」なのである。これには大変な衝撃を受けた。関係を結ぶことが無理。つまり理が無いとまで言われてしまっては僕はやはり涙をあふれさせることしかできない。しかし引っ込んでしまった涙はもうあふれてくることはなかった。
「僕たちはあれほど愛を語り合ったじゃないか。僕たちの関係は運命だと、宿命だと、永遠だと。それらの言葉を嘘にするのかい優衣さん」
「ごめんなさい」
間髪入れずこれである。同じ言葉を繰り返すだけで話が自分の思うように進むならさぞや楽だろうなと思う。彼女は僕と別れたがっていて、例の言葉で対話を拒否し続ければいつか僕が根負けしてわかったよとかなんとか言わざるを得なくなってしまうのである。言葉を繰り返すだけで自分の思う未来を掴むことができるなんてと彼女を大変羨ましく思った。恨めしくも。
「そうは言うけどさ優衣さん、何かしら理由を言ってくれないとわけがわからないじゃないか。もう僕から好意を抱かれなくても構わないからと言って、人の心があるならもう少し相手が納得できるような言葉を話したまえよ」
「ごめんなさい」
僕もさすがに嫌気がさし始めていた。このバグったAIめ! しかしもしそのAIが優衣さんの有利に働くようにプログラミングされて行動しているとすればこれは確かに有効ではある。
「あのさ、なんかもう疲れちゃって」
続きの言葉を待ったが彼女は言葉を発しない。疲れたことと恋人関係解消にどんな因果関係があるのだろう。
「お風呂に入って早く寝てみるといい」
「そういうことじゃなくて」
彼女が言葉を発さなくなったのでもしかしたら目を開けたまま寝てしまっているんじゃないかと怪しんでてきとうなことを言ってみたが会話が成立する言葉を発したのでどうやら寝ていたのではなかったらしい。
僕たちの間に沈黙のとばりが降りる。
「ごめんね」
また泣き出してしまった。同じ言語を使うのに相手と会話が成立しないというのは数あるストレスの要因の中でも上位に食い込んでくるものだろう。かようにして果敢にストレスをコツコツと与えてくる彼女であるが、それでも僕は彼女のことを愛している。なぜなら未来永劫彼女を愛すると誓ったからだ。相手がその誓いを今まさに破ろうとしていてもそれは些細な問題である。未来永劫を誓うというのはそれほどの重みを伴うのだ。
「なあ優衣さん。僕はちゃんとした理由を言ってくれないなら、いやきっと言ったとしても別れる気はないよ。なにせ僕たちは運命で結ばれ、宿命で結ばれ、永遠を誓ったのだからね。一時の気の迷いなんかで言葉を嘘にしてしまおうだなんて、僕は許さないよ」
「ごめんなさい」
こんなに軽率に謝っていては訴訟社会であるアメリカにでも行ったら彼女は身ぐるみはがされてしまうだろう。将来海外旅行するときには僕が何とか彼女を守ってやらなければなるまい。
それにしてもこんなにも強固に僕と別れようと画策するのだからきっと僕にも悪かったところがあるのには違いないのだ。関係を継続する努力という観点でいえば一切不満を漏らさず唐突に別れを切り出す彼女のほうが努力を怠ったと言えるだろうが別れを切り出すに足る理由を提供し続けた僕も良くはなかったのだろう。
「なあ優衣さん。今のあなたはきっと僕のことを愛してはいないのだろうけど、それはそういう心境にさせてしまった僕が悪かったよ。だからもう一度優衣さんに振り向いてもらえるよう全力で努力をするよ」
「……ごめんなさい」
彼女は言語を失っているから僕は自分の思うままに行動しようと思う。それに運命で宿命で永遠の僕たちの関係であってもその関係を本物であり続けさせるためには努力も必要なのだ。そのための努力を僕は惜しまない。
「とりあえず今日は家に帰ろう。家に送っていくよ」
「……大丈夫、家すぐそこだから」
「そうは言ってもそんな状態のあなたを一人にはできないよ」
「大丈夫だから、さよなら」
彼女は走って行ってしまった。走って行ってしまった人間に頑張って走って追いついてさあこれから君の家に送るよなどと声をかけることを想像したら滑稽に思えてきたので追うことはやめておいた。実際彼女のアパートはここからそう離れていないし、この辺りは治安も良いから大丈夫だろう。
それよりも明日から僕は彼女に振り向いてもらうための努力をしなくてはならない。
依然恋人関係であるのに振り向いてもらわなくてはならないとはこれもなかなかおかしな話である。
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