3話 愛があれば大丈夫!
「じゃあ、また明日来るわ」
そう言って、アルテシアはオズワルドの執務室から出た。ふふん、と鼻歌を歌いながら、カートを返すために厨房へと向かう。途中、使用人たちに時折変な顔をされたが、ほとんどは「ああ、またか」といった様子で過ぎ去っていった。
シュミル王国にやって来てから五日目。アルテシアは毎日のように厨房へ行き、クッキーを作って届けていた。
しかしやっていたのはそれだけではなくて。
カートを返し、自らにあてがわれた客室へ向かう。勢いよく扉を開ければ、そこにはユイリアとシュミル王国から借りた侍女たちがいて、すでに準備は整っているようだった。アルテシアは口角をつり上げる。
「じゃあ、今日もよろしくお願いするわね、ユイリア先生」
するとユイリアも口端をわざとらしくつり上げ、言った。
「その前にお召かえですよ、アルテシア様」
着替えをしたあと、アルテシアはユイリアと向かいあうようにしてソファーに座った。二人の間にある机にはうっすらと図案が書かれたハンカチと刺繍針、刺繍糸、刺繍枠などの刺繍セットがそれぞれ二つずつ置かれている。
これからユイリアの指導のもと、ハンカチに刺繍を施していくのだ。目的はもちろん、オズワルドに渡すため。クッキーを初めて届けた次の日から少しずつ練習を始めており、今日やっと渡すためのハンカチに刺繍をしていく予定だ。今までは練習のため別の布に簡単な刺繍を施したりしていて、出来に関してあまりいい感想はもらえていないが、まぁなんとかなるだろう。
「さて、」とユイリアが言う。
「始めましょうか」
「ええ、分かったわ」
アルテシアの真面目な返事にユイリアは鷹揚に頷き、刺繍枠とハンカチを手に取った。そして「見ててくださいね」と言うと、刺繍枠のうち金具のついていない方を机の上に置き、図案がその刺繍枠の上に来るよう、ハンカチをかけた。そしてもう一つ、金具のついている方の刺繍枠を重ねて嵌め、そして調整をしながら金具を締めていく。
「――このような感じに用意してください。上の刺繍枠を嵌める際には金具は緩めた状態で、最後きつく締める直前にはもう一度ハンカチが張った状態か確認すると良いでしょう」
「ふーん……これってそういうふうに使うのね。今まで全く知らなかったわ」
そう言いながら、アルテシアは刺繍枠にハンカチをセットしていく。まずは金具のついていない方の刺繍枠を机の上に置いて、そこにハンカチを乗せる。次に金具のついている方を上から嵌めて……。
「はい、皺をとってくださいね」
「ええ」
ユイリアに言われ、アルテシアは刺繍枠の上にできた皺をとる。なくなったところで金具を締め始め、そして言われた通り、金具をきつく締める直前にできてしまった皺をとると、ぎゅっと金具を締めた。
「よし!」とアルテシアは声を出す。ちゃんと綺麗にできたと思ったのだが、ユイリアはそうは思わなかったようで。彼女は「触ってみてください」とアルテシアに自らがやった刺繍枠とハンカチを差し出した。
アルテシアはそれに触れ、思わず「あら」と声を漏らす。
二つの刺繍枠とハンカチは大差ないように見えたのだが、触ってみると明らかに張り具合が違ったのだ。ユイリアのやったものの方がピン、と張っていて、上から指で押さえると抵抗がある。対してアルテシアのやったものに触れると、抵抗はあるもののやはり弱い。どこか弛んだ感じがする。
「意外と差が出るものなのね。びっくりしたわ」
「でしょう? まぁ、このままでも十分にできますが、少しやりづらいかもしれません。交換します?」
「いえ、いいわ。出来具合なんかよりも、ちゃんと愛を込めて最初から最後までやったのかが重要だと思うもの」
ふふん、とアルテシアは笑う。昔、うんと幼いころ、ユイリアが花冠を作ってくれたことがあった。子供が初めて作ったためか、その花冠はとてもぶきっちょで……だけど、とても嬉しかった。
下手かどうかなど関係ない。大切なのはこめられた愛情。
だから、アルテシアもオズワルドに手製のクッキーを届けていたし、今回、初めての刺繍を施したハンカチをプレゼントしようと思っていたのだ。
昔のことを懐かしみながら、笑顔を浮かべる。
「ささ、早く縫いましょ。私やってみたかったのよ」
「分かりました。ではまず、てんとう虫の方から縫いましょうか」
「分かったわ」
アルテシアは頷き、針と刺繍糸をとる。
「まずは糸を通すのよね? てんとう虫だから……赤色?」
「いえ、外側から縫うので黒色です。糸はだいたい……これくらいで十分でしょう。抜くときはそっとお願いしますね。そうしなきゃバラバラになって大変なことになるので」
そう言ってユイリアは黒い刺繍糸の束からそっと糸を抜いていき、だいたい四十センチのところでハサミで切った。パチン、と音が鳴る。
ふむふむ、とアルテシアは頷きながら針を置き、ユイリアと同じだけ糸を出すとハサミで切った。黒い糸がはらりと弛緩する。
それを見て、ユイリアは「では、」と言った。
「次にここから必要な本数――今回の場合は二本を取り出していただきます」
「え、取り出していいの? このまま縫うんじゃなくて?」
「はい。使っても良いのですが、だいたい初心者は二本か三本が基本なので」
「分かったわ」
アルテシアはユイリアが糸を出していくのを見ながら、自らも取り出す。ふと、そういえばこれって最初からユイリアに任せておけば良かったんじゃ……と思う。そうすれば余分な糸はもっと少なく済んだはずだ。そこにアルテシアの意思を尊重してくれるユイリアの気遣いが感じられて、思わずニマニマと笑ってしまった。
案の定、つっこまれる。
「……どうしたのですか?」
「いいえ、なんでも?」
そう言いながらも、口元は弧を描いたままだ。ユイリアは胡乱げな瞳を向けながらも、いつものことだと判断したのか説明を再開する。
「では、次に二つの糸を結んでいただきます。こうやってこま結びに。両端ではなく、片方だけでお願いします」
アルテシアは頷きながら、糸を結ぶ。これくらいは簡単で、意外と簡単なんじゃない、と心の中で呟いた。
「さて、」とユイリアが言う。
「次に糸を通していただきます。針の穴は小さいので、こうして、先を潰すと入りやすいですよ」
ユイリアは分かりやすく机の上に糸を置き、親指の爪で潰してみせた。そして左手に針、右手に糸を持つと、すっと簡単そうに糸を通す。
アルテシアはそれを見習い、同じように糸を潰して穴に通そうとするが、なかなか穴に入らない。根気よく続け、入ったのは一分ほどしてからだった。
通ったあと、思わずふぅ、と息をつく。緊張していたためか、短時間集中していただけにも関わらず肩が重い。
「なかなか精神力のいる作業ね」
「そうなんですよ。だけど、ここからは楽しくなりますから」
そう、ユイリアは笑顔を浮かべながら言い、左手に刺繍枠を、右手に針を持った。彼女の言葉を信じ、期待をしながら同じように手に取る。
アルテシアが持ったのを確認すると、ユイリアは針を刺し始めた。
「てんとう虫の輪郭はバックステッチという縫い方で進めていきます。まずはこの辺りに針を刺してください」
そう言いながら、ユイリアはてんとう虫の頭の部分に針を刺した。それを見て、アルテシアも同じ位置に針を刺す。すぅ、と針を引いたら糸が出てくるのは何だか楽しくて、思わず笑みがこぼれた。
「では、次に線をなぞるように右側――だいたい二ミリか三ミリ離れたところに針を刺してください。……次は最初に針を刺したところからこれまた同じくらい離れたところから針を出して、最初に針を刺した穴に刺します。これを繰り返して、まずはてんとう虫の丸を縫ってください」
「分かったわ」
アルテシアはユイリアの手の動きを真似ながら縫い進める。まずは左側、次に右側……。頭の中で混乱しないよう唱えながらちまちまと縫っていく。
……そしててんとう虫の輪郭ができると、思わず「終わったー!」と言って机の上にハンカチを置いた。正直、かなり疲れた。簡単そうな作業に見えたけれど、実際はなかなか進まないから、すごく精神力が削られる。
(……これからが楽しいって言ったのは誰だったかしら)
思わず遠くを見つめる。これのどこが楽しいのだろう。まったく分からない。
解放感からぼうっとしていると、「アルテシア様」と、ユイリアに厳しい口調で呼ばれた。
「放り投げないでください。次は糸の始末ですよ。そしたらてんとう虫の中の線を同じようにバックステッチで縫って、その次は赤い部分をフレンチナッツステッチで…………」
ユイリアはつらつらと今後のことを語る。……先は遠そうだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
数日後、アルテシアは今日も今日とて勢いよくオズワルドの執務室に突入した。
「失礼するわ!」
だけど声とは裏腹に、クッキーの乗ったカートは慎重に押す。雑にやってこぼしてしまったら大変だ。せっかく作ったのに食べてもらえなくなるし、なにより材料費が無駄となってしまう。
書類に目を落としていたオズワルドはこちらを見て顔を顰めた。またうるさいのがやって来た、とでも言いたげな表情だ。だけどそれほど嫌がっているようには見えなくて、アルテシアは一人で頷く。以前よりも仲良くなってきたことだし、そろそろ次の段階へ進んでもいいのかもしれない。
ふふふ、と笑いながら、空の皿を回収して新たに持ってきた皿を机に載せる。その最中も頬が緩んで仕方なかった。
ふんふん、と鼻歌を歌っていると、ふと視線を感じて顔を上げた。オズワルドがかなり引いた表情をしていた。これではいけない、と慌てて表情を引き締め、問いかける。
「何かしら?」
「いや、それは俺のセリフなんだが……」
アルテシアはそれを聞いてもずっと笑顔を浮かべていた。にこにこにこにこと笑い続け、……やがてオズワルドが諦めたようなため息をつく。
「……なんでもない」
「そう、なら良かったわ」
そう言うと、アルテシアはポケットから真新しいハンカチを取り出した。数日かけて刺繍を施し、昨夜やっと完成したものだ。
ふふ、と笑いながらさりげなくハンカチを渡す。オズワルドは訝しげな瞳をこちらに向けながらも、渋々とでもいうようにそれを受け取った。そしてアルテシアの施した刺繍を見て、怪訝そうに首を傾げる。
「ふふふ、感謝しなさい、この私が初めて縫った刺繍よ。素晴らしいでしょう? 四つ葉のクローバーとてんとう虫をモチーフに選んだのはね――」
「……四つ葉のクローバー? てんとう虫? …………なるほどな」
長い沈黙のあと、彼はなぜか頷いた。そこにどこかバカにするような声色が含まれているような気がして、アルテシアはくわっと目を見開く。
「ちょっと何よその反応! ほら、ちゃーんとできているでしょう? この黒と赤がてんとう虫で、それを囲む緑と黄緑のやつが四つ葉のクローバーよ!」
ふんっ、と鼻息を荒くして言えば、オズワルドは「…………まぁ、言われてみれば見えなくともない」と言う。
ちょっと! と叫びたくなる気持ちをなんとか収め、アルテシアは深呼吸をした。きっと彼は目がおかしいのよ、と自分に言い聞かせる。なにせ、彼女の目にはきちんと美しい――いや少し崩れているけれども、ちゃんとてんとう虫とクローバーに見えるのだから。きっと彼の視力がおかしいだけだ。……たぶん。
若干不穏な予感して、それを鎮めようと、アルテシアはビシッと勢いよくオズワルドを――正確にはその手にあるハンカチを指で示した。
「万が一、億が一、……無限が一! これがそうだと見えなくても! 愛がこもっているからいいじゃないのっ!」
「…………愛、か」
オズワルドがぽつりと零した言葉が耳朶を打つ。アルテシアは首を傾げた。
「ええ、そう。愛よ、愛。それがどうかしたの?」
「……なんでもない」
なんでもないような顔には見えなかったが、本人がそう言うのならそうなのだろう。無理矢理自分を納得させて、アルテシアは「それじゃあ」と言ってくるりと踵を返した。もちろんその手にはカートがある。
「私、これから寝てくるから。おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
ほんの少しだけ間があったものの、望む返事が帰ってきたことにアルテシアは喜びながら、ふんふん、と鼻歌を歌って部屋を出る。何だか胸の底がぽかぽかとして、幸せだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます