空間修理師のお仕事

化野生姜

ケース1「マンション5階:403号室の大穴」

マンションの壁に大穴が開いていた。


人がゆうに入れるような大穴。

壁紙は無残に剥がれ落ち、中の鉄筋やウレタンが丸見えだ。


その壁をコツコツとメジャーの先で叩いた先輩のユウキは、

部屋の借主である伊藤美咲さんにこう尋ねた。


「いつからこうなったの?」


それに対し、いかにも気弱なOLといった感じの彼女は

困ったようにカレンダーに視線を這わせた。


「…始まったのは、三日前です…最初は、小さな穴だったんです。

 人差し指が入るくらいの小さな大きさの…

 でも、だんだん大きくなっていって、今日になったらこんな…。」


と、そこまでいったところでユウキは手を振り、

「もういいです」と言いながら鞄の中から機械を取り出した。


それは幾つもの古めかしいメーターが付いた箱のような機械で、

ユウキはつまみをいじくると、先の見えない暗い穴に向ける。


その瞬間、機械のメーターが激しく左右に振れ、

ザザーと激しい雑音が周囲に響いた。


「…ふむ、このままにしておくと穴はもっと大きくなりますね。」


機械をしまいながら落ち着いた声を出すユウキに対し、

美咲さんの顔が真っ青になる。


「こ、困ります。早く直してください。

 ただでさえ気味悪いんです。変な風は吹き込むし、

 隣の部屋はまるで見えないし…時々、おかしな声も聞こえて…。」


そして、今にも泣き出しそうになる彼女をユウキは面倒くさそうに制する。


「あー、落ち着いて、落ち着いて。

 別に俺たちアンタらを脅かしたくて言っているわけじゃないんだから。

 大家さんに依頼された以上、ちゃんと仕事はしますから。安心して。」


だが、美咲さんは堪えきれずに嗚咽を漏らす。


「…なんで、なんでこんなことばっかり、

 同僚には影で使えない奴呼ばわりされるし、職場で過呼吸にはなるし、

 お金もないのに壁にこんな大穴まで…もう、どうしたらいいか…。」


そうしてグスグス泣く彼女に対し、ユウキは黙って穴に入り込んだ。

こういう女がユウキには苦手なことぐらい俺にもわかる。


しかし仕事柄、俺が彼女の相手をするわけにもいかない。


そうして迷った挙句、「俺もひどい男だなあ」と思いながら

彼女を置いて穴の中へと入ることにした…

 

…だが、何度入っても気味が悪い。

穴の中は一度として同じ光景が見られないのが特徴だ。


穴の質感はグニュグニュしていたり、硬かったり、水が流れていることもある。


中を得体の知れない虫がいたり、時計や、信号機や、鉄骨や、本や、包丁や、

ダンプカーが突っ込んでいたりすることもあって、本当に訳がわからない。


しかし、ユウキはその中を突き進む。

無表情でどこか耳をすませながら進んで行く。


そして、あるところで止まるとユウキは近くの壁を指差した。


「わかるか?ヒロ。」


俺は、そこに注意して目をこらす…なるほど。

壁を這う鉄パイプの横、漏れ出す光とともに人差し指程度の穴が開いていた。


「パテでふさいどけ。俺はもっとでかい穴を探す。」


そう言うと、ユウキは鞄を背負ってさっさと行ってしまう。

俺は溜息をつくと、工具箱から接着用のパテを取り出し穴をふさぐことにした。


穴は直径1センチ程度。

しかしこいつが厄介で、さっきの話の通り放っておけば

日増しに大きくなっていく代物だ。


穴は別の空間につながっており、その先がどこに繋がるのか

空間委員会のお偉いさんでもはっきりとした予測ができない。


だから俺たち免許を持った空間修理師が応急処置ながらも

専用のパテで接着し、空間の穴をふさぐしかないというわけだ。


そうして、パテを壁に塗りたくる前に、

俺はちょっと好奇心に駆られ、穴の向こうを覗き見ることにした。


みれば、穴の向こうはどこかの猫カフェに繋がっているらしく、

テーブルの上に乗る猫や、お客の食べるサンドイッチに手をつけようとして

店員にテーブルから降ろされている猫の様子が見えていた。


俺はその光景に苦笑した後、猫がいたずらしないうちに

さっさと穴をふさぐことにした。


ものの数分もしないうちに空間はふさがり、あたりは薄ぼんやりと暗くなる。


運が悪いと真っ暗になることもあるので、

俺は足早に別の箇所にできた二つの穴をふさぐユウキの元へと駆け寄った。


「ん、ちゃんと穴塞いだか?」


それに対し、俺は小さく頷く。

「…そうか」とつぶやくと、ユウキは困ったように前を見た。


「…ちょっと長いな。本来なら10分もあれば着くはずなんだが。

 今、どれくらい歩いたかわかるか?」


その問いに対し、俺は、感覚的に15分と答える。


実は、空間内では時間の概念は通用しない。

時計なんてあってもすぐにオシャカになる。


入った時間と出た時間が一時間以上も食い違うなんてよくあることだし、

噂じゃあ、ベテランの修理師が半日経って出てきたら爺さんになっていた

なんていう都市伝説まである。


ゆえに、タイムリミットは20分。

それ以上経つ前に速やかに空間から出るのが鉄則だった。


「…ちょっとヤバいな。一旦体制を立て直そう。」


そう言って、ユウキは踵を返す。

…だが、その時だった。


先ほどまでユウキが行こうとしていた二又の道。

その右側で、俺はチラつく炎を見た気がした。


「ん?なんかあるのか?」


それにユウキも気づいたのか、首を曲げて向こうを見たが、

やがて顔をしかめると鞄を握り直した。


「…ああ、たぶんアレが原因だな。」


そうして、ユウキはがっかりした様子で右の道へと歩き出す。


「くそ、戻っているうちに別の場所に移っていることもザラだからな。

 これだから時間ギリギリに見つかる穴は嫌なんだよ…しかもデカイし。」


確かに、ユウキが見つけた穴はデカイ。

人間なんか余裕で下手をすれば象だって入れるくらいの大きさだ。


「今のうちに鞄から圧縮パテを出しとけ。

 ちょっと手荒いが噴出機で周りから固めてく。

 時間もないし、さっさと終わらせるぞ。」


そう言いつつ、ユウキは歩きつつも鞄から長いノズルのついた掃除機のような

噴出機を取り出し、俺も工具箱からひと抱えはありそうなパテの袋を取り出す。

 

それを装着し、ちょっと穴から距離を置いたところで

ユウキはスイッチを押そうとし…愕然とした様子でつぶやいた。


「…マジかよ。」


…そう、そこで俺も気がついた。


穴の外。そこに火柱が立っていた。螺旋階段と巨大な炎。


十、いや何十人という黒服の女性たちが頭の上にカゴを乗せ、

階段を下りながらも立ち上る炎の中にカゴの中身を投げ込んで行く。


そして、俺は気づく。


女の持つカゴの中。

そこに赤ん坊と同じくらいの大きさの真っ黒な物体が入っていることに。

それが、手足をくねらせ、動かし、何か叫び声を上げていることに。


その中の一人がこちらに気づいた瞬間、

とっさにユウキは噴出機の範囲を広域にセットし、威力を最大にした。


バシュンッ


そんな音がしたかもしれない。

ともかく噴出機の中身は勢いよく出され、穴全体にべちゃりと広がった。


穴の中は真っ暗になり、俺とユウキは素早くヘッドライトのスイッチを入れた。

…もう穴はない。あるのは、先ほどユウキが噴出したパテだけだ。


「多分、向こうからは破れないだろう…外側をふさぎに行くぞ。」


急いでやったからだろう。肩で息をしながらユウキは元来た道を歩き出す。

俺も壁のようになったパテを見つめた後、それに習って歩き出した…。


「…ありがとうございます、こんなに綺麗にしていただいて。」


そう言うと、美咲さんはホッとした表情で胸をなでおろした。


そこには、周りの壁と変わらないただの壁がある。

先ほどまで大穴があったこと自体わからないくらいに。


この空間を埋めるパテは、奇妙なことに塗ると周囲の色と同化するらしく、

原理はわからないながらも何の痕跡も残さずに済む代物だ。


ゆえに、空間修理師がその空間を修理したかどうかは

プロ中のプロの目でしかわからない。


「これで、安心して眠ることができます。」


そうしてぎこちなく微笑む彼女に対し、

ユウキは少し首をかしげてベッドを見た。


「えっと、美咲さんはもしかして一人暮らしかな?」


それに、彼女は少し不思議そうな顔をしながら小さく頷く。


「…ええ、ここは一人暮らし用の社宅なんです。

 だから大穴が開いちゃった時にクビになるんじゃないかと焦っちゃって…。」


その言葉を聞くと、ユウキは静かに言った。


「…俺たちが言うことでもないけどさ。

 会社、辞めた方がいいと思うよ。君には合わない気がするもの。」


その瞬間、彼女の目が泣きそうなほどに大きく開く。


「え…。」


それに、ユウキがたたみかけるようにして続けた。


「実家、両親は元気なんだろ?猫も待ってるみたいだし、

 両親からお金を借りて地元で就職先を探せば、いい仕事が見つかるはずだ。」


その話を聞いて、彼女の目がパチパチと瞬いた。

「…なんで、ウチに猫がいることを知っているんですか?」


それに対し、ユウキは「さてね」と言葉を濁し、こう続ける。


「ともかく、まだ若いんだし、変に自分を会社に合わせていくよりも

 自分にあった場所を探した方が俺は良いとは思うけどね…。」


そう言うとユウキは「料金は大家につけておくから」と言い残し、

鞄を持って外へと出た。


俺も慌てて彼女に挨拶し、マンションの部屋を後にした…


「…穴の向こうで、猫の転がっている居間と思しき部屋と、

 机の上に彼女の名札が置かれた小さな設計事務所の様子が見えたんだ。

 一つは彼女の実家で、もう一つは将来就職する場所だと考えた。

 だから、それを正直に伝えることにした…それだけのことさ。」


車の助手席でユウキは窓の外を眺めながら、そう言った。


「空間は近くにいる人間に合わせて環境を変化させる。

 将来だったり、現状だったり、趣味だったり…

 そういった思い入れの強い場所に空間同士も繋がるんだろうな…。」


俺は、パテで埋めた穴向こうの猫カフェを思い出す。

実家でも猫を飼っていたようだし、彼女にとって癒しの場所だったのだろう。


…しかし、疑問も残る。

空間は近くにいる人間の影響を受けるという。


では、あの炎を吹き上げていた大穴は…?

もし、あの穴の奥が彼女の影響を受けた場所であるならば…


それに気づいたかのようにユウキは小さく笑う。


「…ま、ヒロも気づいていただろうけど、彼女が勤めていたあの会社。

 あれ、裏で相当やばいことをしているらしいからな。

 俺たちは、その一端を見ちまったんだろう。」


そう言って、ユウキは鞄の中の道具をチェックし始める。


「…でも、もう大丈夫だ。俺も最初は騙されていたが、

 向こうも彼女が会社を辞めると聞いて手を引いたって感じだ。

 まったく、何が『アンタらを脅かしたくて』だよ。

 向こうは一人暮らしのOLに決まってるのにさ。」


ブツブツとそう呟きながら、ユウキは鞄のベルトを締めた。


…そう、最初は俺もそうだった。

彼女の部屋に入った時に俺は部屋の中に「二人いる」と認識していた。


しかし、彼女の部屋を出て行く時に気づいたのだ。

部屋の中にある違和感に。穴がふさがれた後にようやく気付いた違和感に。


それは、ベッドの上にいた。

最初こそ、俺はそこにいるのは人だと思っていた。


しかし、違った。穴から出た時に気付いたのだ。


俺たちは、アレをすでに見ていた。

炎の逆巻く螺旋階段の向こう、女性たちのカゴの中で。


それは俺たちが彼女と話をした後に消えた。

煙のように消えてしまった。


でも、確かにいたのだ。あの赤ん坊のような生き物はいたのだ。

俺たちが話をしているあいだ、部屋の中で、誰にも気づかれずに、

あの黒い赤ん坊は、ずっとベッドの上に座っていたのだから…。

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