ミッシング・アンダー・ザ・サン
小田牧央
1.往診
1
この数日、雨が降り続いていた。傘を差した初老の男が、視線を斜めに落とし歩いていく。レンガを敷き詰めた歩道には、規則的に白いレンガで菱形の模様が作られていた。
鼠色した薄手のコート、白髪混じりの髪に老眼鏡。痩せた手で杖を握り、左足を少し引きずっている。水溜まりを避けながら、菱形模様を数える。声にはださず、心の中で、深い理由も目的もなく、ただ数え続ける。
年代物のフォードが車道を通り過ぎた。水
視界にポプラ並木が広がった。ゆったり間隔を空けて並ぶポプラは、冷たい雨に打たれ色づき始めている。やがて美しい黄金色に輝くだろう。
水飛沫は歩道までは届かなかった。手の平を上に向け、雨の強さを確かめる。目的地は近い。このまま傘なしで歩こうか。
「父さん」
顔を上げる。歩道の脇、古い造りのビルの三階、手をふる姿があった。娘のナンシーだ。ブラウンの髪を肩まで伸ばし、明るい笑顔は四十代間近には見えない。
軽く手を挙げ応えてから、ロバートは見えないコーヒーカップを手にし、飲み干す仕草をした。ナンシーは指でオーケイのサインをし、窓枠から奥へと消えた。
段を数えながら、階段を上がる。湿気のせいでリノリウムの床に靴がこすれ、猫のような鳴き声をあげる。ジーンズを履いた青年が下りてくる。見覚えのある顔だったので、すれ違いざま軽く挨拶を交わした。どこからかポップソングが聞こえてくる。雨空に似合わない陽気な曲だ。
三階に着く。通路を進む。目指すドアは、細く開いていた。ドアノブに手をかける。話し声が聞こえた。来客だろうか。小さくノックしてドアを開く。
「夜、眠れてる?」
娘の声がした。くぐもったような、少し遠い感じの声だった。
誰もいない。窓を背にしたデスク、壁一面を占める書架。ソファセットの中央に置かれたローテーブルには、ハードカバーの本が積まれている。デスクの脇、AV機器が並ぶラックの、視線の高さにモニターがあった。なにかが映っている。窓の光の反射が邪魔し、よくわからない。
ソファの横を回りこみ、モニターに近づく。水色のパジャマを着た少年が映っていた。椅子に座っている。まだ若く、ひどく痩せている。十代後半だろう。
その若者が誰なのか、ロバートはすぐに察した。新聞やテレビで目にしたのと同じ顔だ。
モニターに映っている部屋は、この建物の上層階にある病室だろう。窓辺にいるため、光線がほぼ真横から射している。少年は膝をだらしなく広げ、骨ばった腕を両足の間にだらんと垂らしている。
「頭が痛いとか、重い感じがすることは?」
娘の声がした。フレーム内に姿はない。撮影カメラよりも手前にいるのだろう。少年は、なにも反応しなかった。短く刈った髪、淀んだ灰色の瞳。まばたきしなければ、死んでいるように見えたかもしれない。
少年の背後に、誰かが立った。少女だった。軽くウェーブした黒髪、ヒスパニック系の顔立ち。黒い瞳は、悲しげにも無気力にも見える。少年の両肩に手の平を置く。サイズが大きすぎるのか、セーターの袖から指先だけが覗いている。少年が
「さんじゅうなな」
気配がした。ロバートがふりかえると、戸口に娘が立っていた。コーヒーカップを乗せた受け皿を、両手にひとつずつ持っている。いつもと同じパンツルックで、顔は化粧気がない。
「勝手に触らないでほしいんだけど」
足早に父の横を通り過ぎる。遅れて、コーヒーの香りがした。
「私が来たときには、映っていたよ」
「そう? 停めるの忘れたかな。まあ、いいけど」
コーヒーで手をふさがれたナンシーは、ローテーブルを見下ろすと少し考えこんだ。やがて片足を上げると、積んであった書籍を左右に薙ぎ払った。
「そんなテーブルマナーを教えたことはあったかな」
ソファのほうへ歩きながら、ロバートは小声で言った。
「自分で勉強したの。母さんは元気?」
カップをひとつ、ナンシーはテーブルに置いた。
「またパートを探している。どこかの豪邸で、家政婦をやりたいそうだ」
「前の仕事はどうしたんだっけ。ほら、犬の散歩」
「犬が死んだんだ。老衰でな。自分より年寄りだったと聞いて、驚いていたよ」
微笑みながら父娘は軽く抱きあった。ナンシーはデスクへ、ロバートは肘掛けに杖を立てかけてから、一人掛けのソファに腰を下ろした。
「あれは」モニターをみつめながらロバートは言った。
「例の少年だな」
ナンシーはなにも答えなかった。デスクの上にあったリモコンを手にし、ボタンを押す。少年と少女の顔がブラックアウトした。どこからか、スローテンポの曲が聞こえてくる。誰かがラジオでも聞いているのだろう。
魅せられて駆けてゆく
遠い空の彼方にセスナが消える
女の子たちが呼んでいる
誰かが大きなヘマをしたらしい
道行く誰かに叫んでる
身動きするのを禁じてる
銃を手にした男たちが
目と目を見交わし歩いてく
なにも思いだせない素敵な日
波に乗って陽気に騒ごう
死んだ馬たちは風になって
そしてもう二度と帰らない
「マシュー・エステベス」ロバートはカップを手にした。
「十六歳、殺人犯」
香りを愉しみ、口に含む。クリーム少なめ、砂糖なし。
「わざわざ雨の中、そんな話をしに来たの?」
ナンシーはリモコンを放り投げると、宙で一回転させた。
「お前が困っていると思ってな」
「そう」
リモコンに指を複雑に絡め、娘はあらぬ方向をみつめたまま口を閉じる。しばらく沈黙が続いた。
ナンシーは大手製薬会社、トレバー製薬の研究員として精神病理学を研究している。本来なら肉親といえども、業務内容を明かすことは許されない。
しかし、ロバートは別格だった。スタンフォード大学の教授として四十年以上にわたり神経生理学の研究に携わり、輝かしい功績を残してきた脳科学の権威。その人の来訪を拒む者などいなかった。
「前頭葉
不意に、ロバートがつぶやく。リモコンを取り落とす音がした。
「キルヒャーに聞いた」
あのバカ。呻き声をあげたナンシーが、顔をしかめる。キルヒャーはナンシーの同僚の一人であり、ロバートを崇拝と呼んでいいほど尊敬していた。
しばらく、ナンシーの顔に葛藤の色が浮かんだ。片肘をつき、手の平で顔の半分を覆うと、コーヒーを口に含んだ。
「父さん、秘密は守れる?」
「いままでの実績を買ってくれ」
「いままでのじゃダメ。これは凄くまずいのよ。外に漏れれば会社は信用失墜、母さんと一緒に私もパートを探さないといけなくなる」
「冗談がうまくなったな」
「自分で勉強したの」
コーヒーカップを受け皿に戻し、ナンシーは「冗談になればいいけど」と小声でつぶやいた。眠気を振り払うように、首を左右にふる。
「父さんは、どこまで知ってるの?」
「クラスメイト二人を殺した少年が新薬を人体実験され、頭がおかしくなり今度は父親を撃ち殺し、病院に閉じこめられて今は廃人になりつつある」
「ありがとう。客観的な意見を聞けて嬉しいわ」
椅子の背もたれに身を預け、ナンシーは天井を仰いだ。
「バカバカしい、父さんに話したところで」
長い溜息をつく。両手を顔にあて、口を閉ざす。
「話せば楽になることもあるさ」
「あの子は、もう、どうせ」
「荷物が重いと思ったときは、周りを見ろ」
この言葉を娘にかけるのは、これで何度目だろうか。
「誰か押しつけられる奴を探すんだ。一人で背負っちゃいかん」
ロバートは、待った。ここまで来れば、水の流れの行き先は知っていた。
やがて背もたれからナンシーは身を起こした。初めは涙声だったが、次第に落ち着きを取り戻し、一人の科学者として事実を語った。
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