第22話 完結のヴァニラ
金沢から帰ってきてから何日か後、私は立花さんにヒロシさんとの最後の日のことを話した。何があったかも予想はついていただろうけど、それでも立花さんは、私を受け入れたいと宣言してくれた。でも、私はその答えを保留した。そして、もう一度ヒロシさんに会いたい。その意思を立花さんに伝えた。
立花さんもそれを許してくれたが、だからと言って私は、何をどうしていいのかわからなかった。
あれからずっと、今の今までヒロシさんの行方は知れない。
そして、ヒロシさんの行方がわからなくなってから二か月後、私は立花さんのプロポーズを受ける決心をした。一つの条件の下に。そしてこの秋には挙式を上げる。
そのことを報告するために『膳』の女将さんを訪れていた。
私は立花さんを連れずに、一人で来ていた。そうするようにとの女将さんからの指示があったから。
いつもの様に親方と女将さんが待ち受けてくれていた。
女将さんの表情は今日もいつもに増して優しい。
ヒロシさんの優しさの原動力は、もしかしてこの女将さんだったのかもしれない。いや、逆にヒロシさんの優しさがこの女将さんをより優しくしたのかもしれない。そう思えるほど、今日の女将さんの表情は穏やかだった。
「アリサちゃん。やっと一人で来てくれたか。ヒロさんとの約束でな。アリサちゃんが一人で来たときに渡してくれって、言われてるもんがあんねん。」
そう言って渡された一冊の本。
その本のタイトルは『ヴァニラ』。
この本の重さったらなかった。今まで手にした本の中で最も重い本だった。と同時に私にとってかけがえのない想い出の本である。その本を手にしたまま溢れ出る涙が止まらない。私は思わず女将さんの腕の中に飛び込んでいた。
「ヒロさんがな、ある日ひょこっと現れて、ちょっと出張に行ってくるって言うてな、アリサちゃんがもし一人できたら渡してくれいうて預かったもんなんや。何の本かは知らんけど、アリサちゃんに渡したらわかるっていうて、それ以上のことは絶対なんもしゃべらんかった。まあ、もともと口の堅い人やったから、聞いても無駄やと思たし、ちょっとうっちゃらかしといたんや。せやけど、それからすぐのことやろ、ヒロさんおらんようになったん。あれから、アリサちゃんが独りで来るのんずーっと待ってたんや。」
「女将さん、ありがとう。」
再び涙が溢れてくる。「あの人、覚えてくれていたんだ。」私はその本を握りしめたままその場で泣き崩れた。
私は女将さんにようやく抱えられて椅子に座った。
「これはね。もう一年以上も前に私が書いてってお願いした小説なの。私がモチーフなのよ。あのね女将さん、アリサ、去年の今頃はキャバクラ嬢だったの。それもちょっとエッチな。ヒロシさんとはそこで知り合ったキャバ嬢とお客の関係。あの人はそんな私に本気で恋をしてくれたの。立花さんにだってまだ話してないわ。ヒロシさんは言わなくていいっていうの。でも、結婚する前にはちゃんと話しておくつもり。」
「ヒロさんが話さんでええっていうねやったら、言わんでもええんちゃうか。知らん方が幸せなこともあるんやで。」
「それを受け止めてくれないなら。私は婚約を破棄します。そして、ヒロシさんを探しに行く旅に出ます。」
「あかん。そんなことしてヒロさんが喜ぶとでも思てんのかいな。おばちゃんそんなん許さへんで。あんたはな、このまま立花さんと結婚して、今の仕事を成功させて、ヒロさんがいつか戻ってきたときに、ちゃんと挨拶できるようにしとったらええねん。」
私は結局ヒロシさんを不幸にしただけの女なのだろうか。
自分の罪の深さを思い知らされる。
「結局私はヒロシさんの大きすぎる愛を受け止められなかったんですね。」
「ヒロさんの優しさを全部受け止められる人なんかおらんで。あんたはウチが見てきた中で、一番あの人の想いを受け止められた女や。それは自信を持ったらええねん。」
私はバックの中の小物入れを出して女将さんに見せた。
「去年の秋、ヒロシさんが私を北陸旅行に連れて行ってくれたときに、私にとって一番の宝物になったものがあるんです。」
そう言って取り出したのは、透き通るように白い貝殻。
「ヒロシさんと二人で、海岸で探し当てた私とヒロシさんとの愛の証し。世界中のどんな宝物よりも大事なもの。」
そう、あの欅の根元に埋めたはずの貝殻だった。
私は、結局あの欅の根元にこの貝殻を埋めて帰ることはできなかった。一瞬、ツバメに目を取られたヒロシさんの目線を避けて、埋めたフリをしたのだった。
これは私の命の次に大事なもの。今でもそう思っている。それを遠い地に埋めて帰るなんてできなかった。
「そのことも立花さんは知らんねやろ。」
「いいえ、このことは知っています。でも、立花さんもそれは大事にとっておくようにと言ってくれています。」
女将さんは、その貝殻を手に取ってもう一度私の手に握らせる。
「大事にしまっとき。ほんで、タンスの奥底にかたづけとき。もう二度と出すことの無いような奥の方に。」
「えっ?」
怪訝な顔をして尋ねると。
「あんたはな、立花さんと結婚するんやろ。それやったらもうヒロさんのことは忘れなあかん。ヒロさんのためにも。そのためにヒロさんはあんたの前から姿を消したんやろ。ヒロさんが言うとった。立花さんが『アリサちゃんを幸せにする自信があるのか』って聞かれて、すぐに答えられんかった自分が許せんかったと。アリサちゃんがな、ヒロさんの愛を受け止め切れんかったって思ってたんと一緒やねん。せやから、ほんまにあんたらはお似合いやったんやな。」
そう言って女将さんは目頭を押さえる。
「こんな言い方がええのかわからんけど、ヒロさんの苦悩を無駄にしたらあかんねん。」
私の目からまた涙がが溢れてくる。
「ヒロシさんのことを忘れる事なんてできません。それにもう忘れられない・・・。」
そこまで言って言葉を飲んだ。
「せめてあと二十年、いや十五年ヒロさんが若かったら、こないなことにならんかったかもなあ。」
女将さんが嘆くようにつぶやく。
「いいえ、年の差があったからこそ、ヒロシさんは私により一層優しかったし、私もそれに甘えることができたのです。」
そう言って私は涙を堪えた目でニッコリと笑みを投げかけた。
「ありがとうございました。また来ます。それと、もしヒロシさんがこの店に訪ねてきたら、絶対に連絡下さい。お願いします。」
私は女将さんに深々と頭を下げて、礼を述べた。
そして今、私は確実に感じている。私の胎内で動き始めている鼓動を。
それから三年後。
私は子供を連れて『禅』を訪れていた。
今日も私の耳には貝殻のイヤリングが光っている。
「まあ、久しぶりやねえ、アリサちゃん。お店は順調か?」
「はい、おかげさまで。あれからヒロシさんはやっぱり・・・。」
「梨のつぶてや。誰にって、ウチに連絡せんなんて、そんなんあるか?」
親方も奥から顔を出してくれた。
「アリサちゃん、久しぶりやなあ。ヒロさん、いったいどこへ行ったんやろなあ。」
気がつけば親方は子供の頭をなでていた。
「この子は?」女将さんが私にたずねる。
「ヒロヤスっていいます。三歳になりました。」
「えっ?ヒロヤスって、あんた。」
「お察しの通り。ヒロシさんの子供です。」
「ええええええっ。」
親方も女将さんも、それこそ、今までにこれ以上のことは聞いたことがないかのような驚き方をする。
「金沢で過ごしたヒロシさんとの最後の時間。私はヒロシさんに愛してもらいました。そのときに授かった子です。私はこれで子供が授かったら踏ん切りがつく。そう思ったんです。だから、ホントはその時にもう答えは出ていたんです。もう少し早く、それを言い切れる勇気があったら、そう思うと今さらながら悔やまれます。」
私は溢れ出そうになる涙を堪えて話を続けた。
「そのあとすぐにあの人がいなくなって、ホントに大事な人は誰なのかが判りました。もう後悔したくない、そう思ったので、この子を産みました。」
「この子のこと、立花さんは知ってるん?」
「もちろんです。だから二人の名前をあわせて付けたんです。ヒロシさんの子供を産むことが、立花との結婚の条件でした。もし彼がその条件を飲んでくれなかったら、私は本当にヒロシさんを探す旅に出ていたかもしれません。でも、私のその想いを受け止めてくれた彼の愛には全力で報いたいと思っています。」
女将さんは、大きな腕を私の体に巻きつけて、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「誰があんたをこんな大きな人間に仕立てたんや。それにしても、立花さんも偉いなあ。」
「結果的にはこれで良かったんです。あの人、子供が作れない体質だったようですから。なので私との間の子供はいないんです。だからそれはもう可愛がってくれてますよ。」
親方はニコニコと微笑みながら子供と遊んでいる。
女将さんは私の手を握り、
「強いな。あんたみたいな若いときに波乱万丈な人生を体験すると、そんな強い人間になれるんかいな。」
私は大きく首を振って答える。
「いいえ違いますよ。ヒロシさん見たいな大きな人に愛されたからですよ、きっと。」
「そうやな、きっとそうやな。」
そして、私はさらにバッグの中から小瓶を取り出す。
「女将さんに差し上げます。私は今でも愛用していますが、ヴァニラの香水です。ヒロシさんが愛してくれた匂いです。女将さんもよかったら使ってください。」
私はヴァニラの香水が入った小瓶を女将さんに手渡すと、
「忘れることが大事じゃない。ずっとヒロシさんのことを忘れずに、想い続けることも大切なことだと思います。」
そう言って女将さんの手をとり、そして抱き合っていた。
ホントにもう一度ヒロシさんに会いたい。
そして、彼の抱擁の中で、以前のアリサに戻って、彼の優しさに溺れたい。
ヴァニラの香りをふんだんにさせて・・・・・・・。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます