ACT89.8 まったく、ままならないものですね?


『う、わわわわっ、く、蜘蛛!?』


 自然に囲まれた緑の景色と、いつもよりはさらに低く見える視界。そんな中で、言葉の通りに驚いて、尻餅を付いている自分。

 目前の土の地面には、もぞもぞと動く、手のひらサイズの蜘蛛。

 小さいように見えてとても大きく、その様の気持ち悪さといい、その時に感じた恐怖といい、鮮明に覚えている……とまで想起できた辺り、今、見ているのは、昔の夢だとわかった。

 と、なると。

 記憶の限り、この後に起こることは――


『えいっ』


 横からやってきた小さな何者かが、持っていた木の枝に蜘蛛を絡ませて、その木の枝をぽいっと茂みに投げつけた。

 小さいというのに、テキパキと流麗で、なおかつ勇気のある動き。

 さっきまであった気持ち悪さの象徴は、もはや視界の何処にもいない。


『だいじょうぶ?』

『あ……うん、うん、ありがと、なお』


 そうだ。

 昔から、自分のピンチに、彼女は必ずと言っていいほど駆けつけてきてくれた。


『ちゃちゃ、なにかあったら、わたしをよんで? ぜったいに、わたしがちゃちゃをまもるから!』

『……わ、わかったわ。かならず、まもりなさいよねっ』

『とうぜんっ!』


 力強く笑って。

 彼女は、自分を安心させるかのように、抱き締めてくれた。実際、そうしてもらうことで、何度も自分は安心していた。


 そういえば。

 今と違って、幼少の頃の彼女は、こんな風に自分のことを呼び捨てにしていて……それでいて、ほとんど友達感覚で自分に接してきていた。

 いつからだっただろう? 彼女が自分に対してあんなにも、畏まる態度になったのは。

 いつの間にかそうなっていて、いつの間にか受け入れていたから、まるで思い出せない。

 そして。

 彼女が、最後に抱き締めてくれたのは、いつだったかも――



「ん……」



 と、考えているうちに、急に意識が浮上して。

 先ほどまで見ていた夢の内容も、考えていたことも、すべて――八葉茶々の思考から、抜け落ちていった。


「ふぁ……ん……」


 目覚めた時に茶々が居た場所は、自宅内ではあるけども、寝室ではなくリビングにある三人掛けのソファの端っこだ。

 自宅の居間は、万堂の豪邸に居たときとは比べものにならないほどに広さが無く……でも、結構すぐに馴染んでくれた居心地のいい場所である。

 そして、自分にとって大切な母も、昔も今も付いてきてくれる彼女も、とても近くに感じられる場所でもある。


「……寝ちゃってたみたいね」


 今の状況を把握し、茶々はポツリと呟く。

 思い出した。

 休日の今日は何も予定がないので、茶々は外に出かけることはせずに勉学に励もうと思い、午前中はずっと部屋に籠もりっきりだったのだ。

 付き人である紺本奈央が作ってくれた昼食の後も、二時間ほど自室で勉強して、集中力がどうにも切れてきたので、十分だけリビングでリラックスする予定だったけど。


「リラックスのつもりが、結構経ってるわね」


 リビングのデジタル時計はすでに午後四時を表示しているのを見て、茶々は苦笑。

 休憩は充分に取ったのだから、自室に戻ろう……と思ったのだが、そこで。


「……すぅ……すぅ……」

「?」


 ごく近く。

 詳しく言うならば……茶々の座る、三人掛けのソファのもう片方の端っこから、静かな寝息が聞こえてきた。

 見ると――長身の美少女であり、茶々にとっては昔からの付き人であり、さらには同居人でもある紺本奈央が、ソファに身を沈ませながら熟睡していた。

 いつも『全感覚を研ぎ澄ませるため』と言って両の瞳を伏せている奈央だが、今に関しては、単純に寝ているというのが、長年の付き合いから茶々はわかる。

 ただ、彼女が寝室以外でこのように居眠りをする、というのは少し珍しいような気がした。


「…………」


 記憶の限りでは。

 さっき、茶々に昼食を作ってくれた後に、夕飯の買い物にいってくる、と茶々に断りを入れて出かけていったのだが……今、眠っている奈央の姿を見て、察するに。

 買い物から帰って、必要なものを冷蔵庫や戸棚に仕舞った後に、家事の合間の小休止を取ろうとしたらそのまま眠ってしまった、と言ったところか?

 

「本当にもう、奈央ったら……」


 茶々、大きく息を吐く。

 午後四時となると、奈央はいつも夕食の準備を始めているだけに、一瞬、彼女を起こそうかなと思ったけど……やめておいた。

 母は最近就職した仕事に、茶々は将来のための自己の研鑽にと、忙しい日々を送っている中、彼女は自宅内の掃除、洗濯、お料理、その他諸々の家事を、全部受け持ってくれていて。

 いつだって奈央は、茶々や、母のために誠心誠意を尽くしてくれているのだから、たまにはこういう風に、休息の時があったっていい。

 何より。

 ――紺本奈央が傍に居るから、八葉茶々は八葉茶々で居られる。

 彼女にはどれだけ感謝しても、まったく足りない。

 だから、せめて。


「……お疲れさま、奈央」


 普段、彼女と接しているときは、ちょっと恥ずかしいから言い難いけど。


「いつも、ありがとね。茶々の傍に居てくれて」


 眠っている今なら、その寝顔に、これまでの感謝を正面から言える気がした。

 そして何よりも、


「出来るならこれからも、茶々のことを守ってよね。将来、お爺様やお母様だけでなく、あなたにも必ず恩返しするから――」


 この先の彼女へのお願いと決意も、添えようとしたところで、


「……とうぜん」


 ふっと、奈央は伏せていた目を半分だけ開けて、


「えっ……!?」


 急に、正面にいる茶々に腕を伸ばして、身体を引き寄せて――きゅっと抱き締めてきた。


「ちょ……ちょっと、な、奈央……!?」


 奈央の長い腕は、力強く、それでいて優しい……と、感じると共に、茶々の中で様々な感覚と記憶が甦っていく。

 ――この抱き締め方は、そう。

 昔、茶々をピンチから救ったときに、いつもしてくれていた――


「茶々」

「は、はい?」


 奈央の口から、『様』をつけた呼称ではなく、最近までしていた『お嬢様』でもなく――昔、初めて会った直後の頃の呼び方が漏れ出てきて。

 茶々は、一瞬ドキリとなって、思わず自分らしくない返事をしてしまった。

 そして、



「これからも、何かあったら私を呼んで? 絶対に、私が茶々を守るから」

「――――」



 とても懐かしく、でも、とても最近に聞いた気がする、自分に対して畏まらない彼女の言葉。

 いつも茶々の安心を生んでくれる、彼女の存在感。

 それこそ、ずっとこのまま抱き締められて、己の何もかもを委ねたくなってしまうような……って、


「な、奈央! そろそろ起きて。奈央っ!」

「ん……にゅ……?」


 どうにか気を取り直して、茶々は全力でその腕から逃れようと、まだ自由が利いている手で腰辺りをトントンと打って、奈央のことを起こしにかかる。

 もしかしなくとも、今の奈央は寝ぼけており、そしておそらく昔の夢を見ている延長でこのような行動に及んでいる。

 抱き締められて、奈央の身体の柔らかさと体温、香りを存分に感じてしまうこの状況。

 なんだか、心がざわついてしまって。

 なおかつ、落ち着き癒される誘惑も感じられて。

 ごちゃごちゃとした感情が入り乱れて、胸がいっぱいになりそうで。

 これ以上は、なんだかよろしくない。

 非常に、よろしくない。


「奈央!」

「……はっ」


 そんな思いで、もう一度彼女に強く呼びかけると。

 はたして、奈央は完全に覚醒したのか……ごく間近に茶々がいることと、自分を抱き締めているこの状況に気づいて、切れ長の紺色の瞳をいっぱいに見開き、


「も、も、も、申し訳ありません! 私としたことが、お嬢様にとんでもない粗相を……!」


 茶々を解放して、しかもソファから飛び退いたかと思いきや、中空で三度半くらい横回転しつつ土下座の姿勢で着地をするという離れ業をやってのけた。

 さっきの寝ぼけ具合もだが、このトリプルアク●ル土下座にも、茶々は結構驚いた。


「そ、そこまで畏まらなくて良いわよ。ただ単に寝ぼけてただけ……というには、わりとレアな寝ぼけ方だった気がするけど」

「お、お、お嬢様に対してこの失態、私、到底自分で自分が許せません……! つきましては、お嬢様の怒りを鎮めるために、この場で腹を切ってお詫びをする所存でございます……!」

「落ち着きなさい、奈央。あなたらしくもない。あと、怒ってないから」

「で、ですが、お嬢様……」

「茶々が許すって言ってるの。あと、今はお嬢様違うから」

「う……め、面目ないです、茶々様」


 動転が動転を呼んでいたと自覚したのか、奈央は今一度深呼吸して、それからしゅんと肩を落とす。

 あの、いつも完璧かつ瀟洒であった奈央がここまでポンコツなミスを犯すのは、それこそ初めてのことかもしれない。


「ふ……ふふ、あはははは」


 ……そう思うと、なんだか逆に笑えてきた。


「ちゃ、茶々様?」

「いや、ね。今まで何もかもが完璧だったから、奈央にもこういうことあるんだなって。昔からずっと傍にいたから距離は近かったけど、そこからさらに奈央が近くなった気がして、それが茶々にはなんだか嬉しいの」

「なっ……!」


 その言葉を受けて、奈央、少し赤くなる。照れているらしい。

 これもまた、茶々には可笑しくて、なおかつ初めて可愛いと思った。


「これからもどんどん失敗しなさい、なんてことは言わないけど。茶々はもっと、奈央を近くに感じたいわ」

「――――」

「だから、失敗を気にしないで、もっと気楽に構えてなさい。その上で、これからも茶々のことを守ってちょうだいね」

「は……はい。仰せのままに、茶々様」


 赤くなりながらも、かろうじてといった状態で頷く奈央。

 その返事に、茶々は満足げに頷いて、


「それで、いつでも、茶々のことを――」


 と、言いかけて。

 先ほどの彼女の感覚を思い出して、茶々は急速に自分の中で何かの感情がこみ上げてくるのを感じた。

 想起するのは、先ほどの感覚と――それこそ、ずっと昔から胸の中にあった感覚。

 近くで感じた、彼女の柔らかさ、温かさ、心地よさ、心のざわつき、安息への誘惑、一切合切――


「茶々様?」

「…………ううん、なんでもないわ」

「???」

「さて、部屋でもうちょっと、勉強してくるわ。夕食の時間になったら、また呼びに来てね」

「あ……はい、もうそんな時間ですね。急いで用意させていただきます」

「奈央。焦らず騒がず、よ」

「心得ております」


 押し寄せてくる何かをどうにか押さえて、茶々は自室に戻る。

 この、感覚。

 親戚で幼なじみである仁科朱実と接している時の、甘く温かな気持ちや。

 最近友達になった、乃木真白と接している時の、大胆に対する危なっかしさの気持ちとは。

 また、異なっている。

 ……最近、本当に様々な気持ちが押し寄せてきて、ちょっと、困る。

 でも。


 ――それこそが、人を好きになるということなのかも知れない、と。


 八葉茶々は、なんとなく気づいている。

 そして。


 ――複数の人を好きになるのは、許されることなのかな、と。


 いつも、考え、悩んでいる。

 だから。

 隣に居て、傍に居て、とは言えても。


 あの頃のように抱き締めて、と。


 いつも、茶々は彼女に言えずにいる。


  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 ……ついつい、失態を犯してしまいました。

 紺本奈央、一生の……とは言いませんが、不覚は不覚です。

 ただ、その失態の最中――愛しい彼女を抱き締める感覚は、とても懐かしく、とても嬉しく感じてしまったのも、また事実でございます。

 もう、訪れることはないものだと思っていただけに。


 ――出来るならば、もう一度。

 寝ぼけている状態とか、究極を言えば主従の関係とか、そういう要素は取っ払って。


 ただ単純に、あの頃のように。

 彼女のことを抱き締めたい、と思うのですが。


 茶々様のお気持ち、行く道の邪魔したくない。

 いつでも影ながら支えていたい。

 そんな気持ちが私の中で先行して、自分を戒めてしまいますし。


 そうやって生まれる現状維持にホッとしてしまう自分もいるのですから。


 ……まったく、ままならないものですね。

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