第9話「炎のフレイア」

 一組の男女が甘い睦言を交わしあっているまさにそのころ───

 その村は湖のそばでひっそりと月明かりに照らされていた。

 百もない家屋、村人もさほど多くはいないだろう。

 それでも、太陽のもとで人々は助け合い、明るく笑いあいながら日々を平和に過ごしているにちがいない。

 そんな牧歌的な雰囲気を漂わせた農村だった。

「殺すんじゃないよ!」

 突然、女の鋭い声が上がった。

「ウゥゥ……ウォルフ殺さない……」

「こ、殺さない……」

「ウウウウ……」

 見ると、村の唯一の目抜き通りと思われる場所に数人の者たちが立っていた。明らかに村人とはちがう。

 腰を低くして両手をだらりとした者たちに囲まれたさきほどの声の持ち主である女。その女が再び大声で指図する。

「さあ、ウォルフども。ここへ人間たちを連れてこい。女子供、ひとり残らず!」

 その女はビシリと虚空へ指を突きつけた。

「ウゥゥゥ……連れてくる……」

「オォォォ……人間どもを……」

「ウウウウ……」

「オオオオ……」

 動きだしたその者たちの姿を月光が照らしだした。

 人───といえるのだろうか。確かに姿形は人間と同じようだった。

 少し前かがみになった身体。だが、ちゃんと二本足で立っている。

 腕も二本、指もそれぞれ十本きちんとついている。

 ただ、衣服は身につけておらず、身体を剛毛がおおっていて、吟遊詩人の詠にも出てくる狼の顔を持つ下級魔族ウォルフのようだ。

 いや、まさにそいつなのだ。

 ピンとはった大きな耳、キラキラと輝く獣のまなこ、始終よだれをたらす大きく裂けた口からは、凶暴さを誇示するかのような鋭い牙が見え隠れしている。

「ウウウウ……」

 狼男は唸り声を上げた。

 月の光を浴びながらゆっくりと動きだす。

「殺すんじゃないよ……」

 それを満足げに眺める女。

 腕を組み、冷たい視線を投げかけている彼女の態度は尊大であった。

 女はあの不届きな男を切って捨てた無慈悲な上級魔族、炎のフレイアだった。

 血のように真っ赤な彼女の髪が、風もないのに燃え盛るように揺れている。

 それはまったく尋常な眺めではない。

 まるで水中に立っているように、フレイアの赤く豊かな髪は重力に逆らって空中に漂っていたのだ。

 見るものがいたら、その一種異様な眺めに恐れと同時に何かしらの神々しさを感じたかもしれない。

 それほどフレイアは美しく、そして理知的であった。

 だが、同時に背筋も凍るような冷然たるまなざしを周囲に投げかけていた。

「ウォルフ」

 軽蔑したようにツンとあごをそらせると、彼女は言った。

「こういう時には都合のよい愚鈍な下級魔族だが……」

 冷たい目をさらに冷やかにさせる。

「地神はこんな無能なものばかり造って、なんて愚かな神だったのだろう。なのに、なぜあたしの愛するディーズさまはあんなに仲良くなさっていたのか……わからない……」

 内心の困惑さを表に出さず、フレイアの言葉は淡々としていた。

「だが、それも今となってはどうでもよいことだ」

 フレイアの赤い目が輝いた。

 燃えていると言ってもいいかもしれない。

「この炎の神器……」

 彼女は左手を前に突き出し、てのひらを上に向けた。

──ズ、ズズズゥゥゥ─────

 なんと、彼女の形のよい手のひらから、剣の切っ先が現れてきた。

 ずぶずぶとイヤな音とともに。

 みるみるうちに見覚えのある剣の姿が見えてくる。

 複雑な意匠を凝らした鍔、そして、例の禍々しいまでに赤みを帯びた宝石。

 相変わらず刃は鏡のようになめらかな輝きを見せている。

「待ってなさい」

 フレイアが艶然とした微笑みを浮かべた。

 すっかりその刀刃を現し、彼女が炎の神器と呼んだ大剣は彼女の手のひらの上、なんの支えもなく浮遊している。

「すぐに力を取り戻させてあげる」

 フレイアはそう言うと右手で大剣の柄を握りしめ、浮遊の呪縛から剣を解き放った。

「キャァァァァァ────!!」

 そのとき、甲高い悲鳴が夜の空気を突き抜け、同時に村は喧騒に包まれはじめた。

「ウワァァァァァ───!!」

「助けてくれぇ────!!」

「子供、子供だけは────!!」

「お父さぁ───ん!」

「お母さぁ───ん!」

 静かだった村に人々の上げる叫び声が満ちていく。

 人狼の魔族ウォルフたちが、次々と人間たちを屋内から連れだしているのだ。

 そんなとき。

「こぉのぉぉぉ────!」

 ひときわ高く怒声が上がった。

「ん?」

 若々しい声に興味をそそられ、フレイアは首を巡らせた。

「ギャッ!」

 すると、ひとり──いや、一匹というべきか──のウォルフが、潰れたような叫び声を上げてその場に崩れた。

 男がひとり、緑色に光る剣をかまえて立っている。

「ほぉ……魔法剣士か……」

 フレイアの目が細められた。

 見るからに剣士といった風体の若者、成人したてといった感じの男が、険しい目をウォルフどもに向けている。

「オレたちの村を好きにはさせない」

 彼は勇ましく明言した。

「グウウウ……」

「オオオオ……」

 一瞬、ウォルフたちはひるんだ。

 だが、すぐにまた行動を起こしはじめた。

 若者に近づき、剣を取り上げようとする。

 そんな狼男の動きを牽制するかのように、若者は目にもとまらぬ速さで動き、雄叫びを上げた。

「イヤァァァァァ────!」

「グェッ!」

 また一匹、ウォルフが剣に倒れた。

「去れ! 魔族ども!」

 十分勝てると見て取ったのか、気をよくした若者が言い放つ。

「それとも皆殺しになりたいか!」

 それを聞いたフレイアがゆっくりと歩きだし、若者に向かって言った。

「威勢のいい坊やだねぇ」

「!」

 フレイアの声に、若い剣士は仰天した。

「だっ、誰だ!」

 鋭く誰何する。

「手下を始末するのはかまわないんだけど、ちょおっと困るんだよね。こいつらの仕事はあたしの趣味じゃないからさ」

「お、おまえは……」

 言いよどむ若者。

 その彼の目が、冷たく微笑むフレイアの喉くびに向けられた瞬間、大きく見開かれた。顔色は真っ青だ。

「その痣は……」

 絶句する若者。

 剣をかまえる両手が震え、脚はガクガクとし、立っているのもやっとといった状態だ。

「な、な、ななんで…こ、ここに…じ、上級魔族が……」

 かわいそうなくらい声が震えている。

「ああら…あたしも有名になったもんね」

 左手を腰にあて、右手の剣をチャリチャリともてあそびながら、フレイアはにっこりと笑う。

 それは親しげで、とても恐怖を感じさせるものではなかった。

 だが、次の瞬間フレイアは冷たい表情になり、真面目な声で言った。

「光栄に思いなさい」

「ひ……」

 いつのまにか若者の鼻面に、フレイアの持つ剣の切っ先が突きつけられていた。

「あたしが炎の神器を操るのはこれが初めてなの。その記念すべき最初の人間、それがおまえになるのだから!」

 言うが早いか、剣がひるがえった。

「ぐおっ!」

 若者のたくましい身体が、まるで野菜でも切ったかのように易々と両断された。

──ブワァァァァ───!!

 同時に大量の血がふきだす。

 腹から上と下に別れてしまった胴体。

 その切り口から、まるでシャワーのようにあたりにまき散らされる血、血、血───

「キャアアアアア────!」

 若者のそばにいて、その血をまともに引っ被った村娘が金切り声を上げた。

「ウワ────ッ!」

 とたんにわらわらと逃げだそうとするその他の村人たち──が、すぐに逃げさせまいとする人狼どもに行く手をはばまれた。

「逃げられはしないわ」

 互いに抱きあい震える村人たちの前に、フレイアはツカツカとやって来て言った。

「安心なさい。あたしはこう見えても慈悲深い女よ。お前たちはここでこの剣の……」

 血のりがべったりと付着した剣をかざす。

「この炎の神器の生贄となるけれど、一太刀で葬ってあげる」

──ザワ……

 彼女のその言葉に息をのむ村人たち。

 目は恐怖に見開かれている。

「痛みは一瞬のこと。なるべくキレイに殺してあげるわ」

 フレイアは微笑んだ。

 その微笑のなんと美しいことか。

──ジリ……

 一歩、また一歩と、まるでヘビが獲物を捕らえようとするかのごとく確実に歩を進めていく。

 右手にもたれた炎の神器には、さきほどまでべっとりと血がついていた。

 だが、なんと彼女が歩いていくたびにじわじわと消えていく。

 まるでそれは砂に水が吸い込まれていくような、そんな眺めであった。

 すでに村人たちは抵抗する気力をなくしてしまっていた。

 彼らは目に恐怖の色を浮かべたままフレイアをただ見つめるのみ。

「恐怖を感じているのね」

 近づきながら喋りつづけるフレイア。

 その声は奇妙なほど優しかった。

「死など恐れることはないわ。お前たち人間は死ねば転生する。永遠不滅の魂のお前たちが何を恐れることがあるというの」

「じゃが、記憶は白紙に戻る」

 突然、落ちついた声が村人の間から上がった。

 ふと立ち止まり、声のした方へ目を向けるフレイア。

 その目に一人の老人の姿が映る。

「ワシら人間は、たったひとつの人格、そして記憶を、神や魔族のように持ちつづけることはできん。転生があると言われても、ワシらはそれを確かめるすべはない。嘘かまことかわからぬものをどうして信じることができよう。恐怖を感じるのは当然ではないか」

 老人は淡々と喋った。

 どうやら村の長老らしい。

「嘆かわしいことだわ」

 フレイアは嘆息した。

「神が失われてから、確かにずいぶんと経ったことにはちがいないけれど、こんなにも神の教えを信じるものがいなくなっているとはね。昔ならば神の言葉は絶対だったのに」

「信じられなくしたのはその神じゃぞ」

 憤りをこめて老人は言い切った。

 そんな彼をぎろりとにらむフレイア。

「それ以上の神への侮辱、許さないよ」

 言い放つ言葉も痛烈だ。

「…………」

 凄味のある目つきに老人は押し黙る。

「馬鹿で憐れな人間たち───」

 それでもフレイアは、一変して和やかな目つきになった。

 しかし、口調は穏やかだが、ついて出る言葉は人間たちへの非難に満ちたものだった。

「お前たちはあまりにも知らなさすぎる。世界のことも神のことも、そして己自身のことも。永遠ともいえる時を、たったひとつの自我、たったひとつの記憶で生きつづけなければならないやる瀬なさ、恐怖。そして、それを感じることを己自身に禁じなければならない神や魔族のやり切れなさを。あたしから見れば、お前たち人間は恵まれていすぎるよ。やり直しができるからね。真っ白な状態から再び新たな物語を織りなしていくことができる。それはお前たちに与えられた最大最高の贈り物だ。少なくともあたし自身はそう信じている」

 老人は神妙な面持ちで聞き入っていた。

 だが、厳然とした態度は崩さなかった。

「それはそうかもしれん。じゃが、上級魔族よ。ワシらから見れば、お前たち神や魔族の方が恵まれていると思うぞ。これは心の問題であって、状況の問題ではないのじゃ。たとえ永遠に生きつづけなければならないとしても、生きているかぎり人は成長していかなければならん。変化を恐れて何もしないのは人間だろうが神だろうが、愚かな行為でしかない」

 老人の言葉はしっかりとしていて、聞くものを納得させる何かがあった。

「……………」

 フレイアは黙ったまま彼の言葉を聞いていたが表情は険しい。

「お前さんはとても聡明な魔族のようじゃ。だから本当はわかっておるのじゃろう? やり直したければやり直せばいい。誰もそれを止めるものはいないのじゃから」

「ええいっ!」

 フレイアはイライラしたように叫んだ。

 何かを吹っ切ろうとするかのように、握りしめた剣を激しく振る。

「ごたくを並べるな!」

──チャリ!

 フレイアは剣の切っ先を老人の顔間近に突きつけた。

「人間どもに……何もわからぬ人間どもに、あたしの気持ちがわかってたまるか……神も人間も何者かがはっきりしているのに、あたしたち魔族はそれがわからない。考える頭を持たない下級魔族はまだましだ。あいつらは神が造りだしたものであるとわかってる。だが、あたしたち上級魔族は神に造られたものじゃない。あたしたちは神や人間と同じく、魂があるのだ。けれどあたしたちは神じゃない。それどころか人間でもない。そんなあたしたちがなぜこの世界に存在している?」

 フレイアの声に悲痛な響きが加わった。

「それは誰も知らない。あたしたち自身でさえそれを知らないのだ。神のように強い魔力を持ち、人間のように千々に乱れる想いが、あたしたちを苦しめる。下級魔族のように何も考えず、ただ生存していることはどんなに楽だろう。いったいあたしたちは何のためにここで生きている? あたしたちの存在理由とはいったい何なのだ? そうやってあたしたちは、悩んだり思いあぐねたりして限りなく思考を巡らせる。それこそ永遠に……それがどんなに辛く苦しいことか、おまえたち人間にわかるか? わかりはしまい。おまえたちは待っていればいいのだ。今のその生が終わるのを。そうすればまた新しい生がやって来るのだから……」

 フレイアは絶望と虚脱に支配された目で、老人をひたとねめつけた。

「おまえに何がわかる。おまえは人間だ。魔族じゃない。同じ種族でもないものが、どうして他の者の気持ちがわかるというのだ」

「…………」

 老人はじっと黙ったまま何も言わない。

「許さない。あたしの心を、あたしたち上級魔族の心を踏みにじった……」

 憎しみに満ちた目──もう何者も彼女の心を解きほぐすことはできない。

 それは老人たち人間にとって、あまりに理不尽な展開だったろう。

 そして───

──バシュッ!

 声もなく、老人の首がとんだ。

 彼の目は不思議と穏やかだった。

 まるで何もかも悟ったような目だ。

 フレイアはそれを感じ、さらに逆上した。

「くぉのおぉぉぉ──────!」

──ドシュッ!

──ズバッ!

──ザシュッ!

 次々と切り殺されていく村人たち。

 なぜか人々は黙ったまま目を閉じ、恐怖の声を上げないまま殺されていく。ただ、身を寄せ合い震えているだけだ。

 それがよけいに彼女の心を逆撫でた。

「うおぉぉぉぉぉ─────!」

 彼女の声は周囲の空気をビリビリと震えさせた。

 だが、獰猛な声で吠えながらも、彼女の目は悲しげだった。

 まるで泣いているような表情だった。

(ディーズさま……)

 フレイアは心に思い浮かべる。

 炎の神の、愛してやまないその人の姿を───

(あのお方さえ復活なされば、あたしを慰めてくださる。きっと、きっと……たったひとり、あたしを理解してくれるあのお方さえ…あのお方さえ降臨なされば……)

 そして、フレイアは剣をふるいつづけた。

「ディーズさまぁぁぁぁぁ─────!」

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