月下狂瀾夜想曲 外伝集

谷兼天慈

第1話「さよならは言わない」

 彼女の目に映るその惑星は青かった。

 白い雲が棚引き渦を巻き、所々に茶色い陸地が見え隠れし絶妙なコントラストで出来上がった神の芸術作品。

 トレーシアは飽かず眺めていた。

 ここはその惑星から百五十万キロ離れた場所。

 ガラス───だろうか、彼女と惑星を隔てる透明の仕切りは。

 彼女の周りは冷たく光る金属ばかり。

 だけど彼女にとってはここは己の思い出の場所でもあった。

 愛しい人との蜜月の───

 愛する我が子を産み落とした場所でもある。

「いつ見ても何て美しい……」

 呟く彼女。

 見つめる瞳は黒檀色。

 流れる髪は濡れ羽色の黒。

「…………」

 と、彼女の何かを察知する表情が。

 彼女とガラスの間の空間が一瞬揺らぐ。

「!」

 そこには一人の人物が立っていた。

 身体全体をマントで覆っていて、しかもすっぽりとフードで顔を隠しているためどんな人物かが判らない。

「誰っ?」

 彼女は恐い顔つきで叫んだ。

 その人物はユラリと一歩前へ出た。

 後退るトレーシア。

「トレーシア」

 くぐもった声が漏れた。

 フードの人物はどうやら男らしい。

 彼女は訝しげな顔をした。

「誰なの?」

「あなたは僕を知らないでしょう。でもあなたの願いを聞き遂げに来た者と言えばわかるでしょうか」

 彼女の表情がパッと輝いた。

「それでは貴方は……」

 フードの男が頷く。

 彼はマントの下からある楽器を取り出した。

 それは細長い三本の弦の張ってあるフィドルだった。

 弓をあてがうと男は言った。

「これを弾く前にもう一度聞きます。本当にいいのですか?」

「それが私の願いです」

 男は弾くのを躊躇っていた。

 再び聞く。

「あなたのお母様のように人間として転生を繰り返しませんか?」

 彼女は首を振った。

「かりそめとはいえ人間に転生をした事もあります。私は疲れました。姉たちの眠る場所に行きたいのです」

「そうですか……」

 彼は仕方がない、と言った風に声を落とした。

 再び弓をフィドルにあてがった。

 彼女は静かな表情で彼に向き直る。

 そんな彼女に、繰言のように呟く男。

「正直なところ、僕は惜しい気がするな。もっとも消すことには何の感情もないけど。ただ、この世界にとってもあんまりいいことじゃないと思うけどな、あなた方女性が次々と消えていくのはね」

 男はかなりのお喋りのようだった。

 そして彼はまだ躊躇っていた。

「僕はフェミニストなもんでね」

 彼女には男がフードの下で微笑んでいるのが何となく感じられた。

 しかし次の瞬間、彼はフィドルを奏で始めた。

 物哀しい音色が紡ぎだされる。

 まるで死者を送りだす葬送曲のように、それは彼女の心を捉え魂を揺さぶった。

(ああ……これで……すべてが終わる……)

 彼女は目を閉じた。

 死に行く人間が走馬灯の如く人生を振り返るように、彼女もまた自身の永く通り過ぎていった一生を噛みしめた。

 瞼の裏に焼きついて離れない、人間として生を受けたあの故郷。

 もう何処の世界にも存在しないその惑星。

 神々に愛された青い宇宙の真珠。

 さんざめく少年少女たち。

 宇宙への憧憬。

 真実の愛。

 冒険。

 そして───

 眦から一粒煌めきの雫が零れた。

───ファサァァァァ………

 砂が崩れ落ちるように彼女の肉体は空中に霧散していった。

 微笑みを浮かべた彼女の幻影だけを残して───

 それは遙か昔、気の遠くなるほどの昔に、かの地で伝えられた物語の、胸に鋭い木の切っ先を打ち込まれ、灰のように霧散していった、人の生き血を吸って無限の時を生きたという者どものようだった。

 それを知るものが、果してこの世界にいるものかどうか───

「…………」

 暫く彼は奏で続け、そして、ふっとその手を止めた。

 彼は振り返り、彼女の眺めていたその惑星を見つめた。

 思わずため息が漏れる。

「この惑星だけは無くなってほしくないものだな」

 彼はそう呟くと、来た時と同じく唐突にその場から消え去った。

 後にはガラスに映る惑星だけが、誰もいなくなった場所を見つめているだけであった。



 ティナは闇の空間に浮かんでいた。

「お母様?」

 母の夢を見ていたような気がする。

「あ……」

 その彼女の目にぽっかりと青い惑星が見えた。

 だが───

 宙に浮いていたと思っていた彼女は硬く銀色に輝く床の上に立っていた。

「ここは……」

 何となく見覚えがあるような場所だった。

 目の前にはガラスを通して見ているように、懐かしいくらい美しい青い惑星が見えていた。

「もうこの惑星に帰ることはないのね」

 ティナは驚いてしまった。

 彼女の口が勝手に喋りだしたからだ。

 そしてその声は自分の声ではなかった。

 そう、聞き間違えようもない彼女の母の優しい透き通るような声だった。

「ええ、トミー。二度と戻れない。よく目に焼きつけときなさい」

 ティナは──彼女の意識の入った母である身体は──声のした方を振り返った。

 そこには十七歳くらいの少女が栗色のフワフワした髪を肩に垂らして立っていた。

 そしてティナは聞く。母の声で。

「皆は?」

「眠りについたわ」

「そう。私たちもカプセルに入らなきゃならないわね」

 二人はジッとそのまま動かずに青い惑星を見つめていた。

「とうとう出発ね」

 ティナは不思議な気持ちで口を動かしていた。

 きっとこれはお母様の過去の映像なのね。

 そしてこの栗色の髪をした少女はもしかして……

 彼女はティナの言葉に黙って頷いていた。

 その時。

「オ二人トモ、ソロソロかぷせるニ入ッテクダサイ。アトハ、コノ私ニ任セテ一時ノ夢ヲ見ルノモ良イデショウ」

「やだ、ジュークったら」

 栗色の髪の少女がコロコロと笑った。

「そうよね。ジュークってコンピュータのくせにほんと人間みたいなこと、時々言うんだから」

 栗色の髪の少女の言葉を受けて、ティナはスラスラと言葉を喋っている。

「ははは……、ソウデスカ?」

「ほーら、笑うコンピュータなんて聞いたことないわ」

「全くだわね」

 彼らの笑い声がこだました。


 そして───

 突然暗転した。

 目の前が真っ暗になった。

 ここはどこだろう。

 あたりはまったく何も見えない真の闇。

 まるでイーヴル神のもたらす暗闇のようだ。

 だが、嫌な感じはしない。むしろ、温かい───

「愛しています」

 母の声だ。

 ティナの口もとからその言葉はもれる。

「ずっと貴方をお慕いしていました」

 するとティナの身体が誰かにギュッと抱き締められた。

「あ……」

 ティナは思わずため息をついた。

「一度で、たった一度でいい。私を抱いてください」

「私はその想い出を抱き締めて生きていきます」

 彼女の唇が優しく塞がれた。

 ティナの心が喜びであふれんばかりになった。

 これはお母様の喜びだ。

 きっとお父様との想い出に違いない。

 だけど私のお父様ってどんな人だったのだろう。

 お母様から死んだと聞かされたけれど、名前も顔も教えてもらえなかった。

 ただ、自分のように銀色の髪と黒檀色の瞳を持っているということだけしか───

「ティナ」

「!」

 いつの間にかティナは一人で暗闇に漂っていた。

「ティナ……」

「お母様……?」

 相変わらず闇が広がっている。

「愛しい娘……私が長い生涯の中で真実愛した人のくれた一粒の宝石」

「お母様!」

 ティナは力の限り叫んだ。

 普段の彼女からは考えられないほどの行動だった。

「死を恐れないで。本当に怖いのは愛する気持ちが無くなること。あなたは敵さえも愛せる、そんな慈愛に満ちた愛の女神になってほしい」

「私はお母様の傍にいたい」

 姿は見えなかったが彼女は母が微笑んだような気がした。

「いつか母の元に来る日が必ず訪れるでしょう。でもそれは遙彼方の未来のことです。それまで母のように真実の愛を見つけて幸せになってほしい」

 だんだんと母の声が遠ざかっていく。

「さよならは言いません。必ず常磐の彼方で逢えるから……」

「待って、お母様」

「忘れないで……ティナ。愛するということを……」

「お・か・あ・さ・ま────」



「おいっ!! ティナ!!」

 身体を揺すぶる者がいる。

 誰? 痛いわ。そんなにきつく揺すらないで。

「起きるんだよ!! おいっ!!」

「はっ!」

 ティナは目を開けた。

 彼女の目に飛び込んできたのは男の顔──、一重の大きな目をした生意気そうな表情の男──

「ドーラ……」

 しばらくその顔をじっと見つめて呆然とするティナ。

「大丈夫か……?」

 ドーラにしては珍しく優しい口調である。

「!!」

 すると、ティナはがばっとドーラの胸に飛び込んだ。

「ど、どどどーしたんだ?」

 いきなり抱きつかれてびっくりのドーラ。

「夢を見たの」

「夢?」

 ティナはどうしてか洗いざらい彼に聞いてもらいたいと思った。

 一人で抱え込むには、私はあまりにも精神が幼すぎる。

 こんなことでは──こんなことでは邪神とは戦えない。

 こんな、こんな私は本当に神たる資格があるのだろうか?

「あ……」

 ティナの小さく細い身体を包み込むようにドーラが抱きしめた。

 まるで夢の中でお父様に抱きしめられたみたい──

「話しちまえよ。神だなんだっていったってさ、おめーだってこんなにちっちゃな女の子なんだよ。母さんと別れちまったんだろ。ふつーだったらこんなにちいせー時から別れて暮らすなんざ、さみしくてしかたねーはずだぜ」

「ドーラ……」

 ティナは抱きしめられて、心が安定してくるのを感じた。

 お父様だけじゃなく、お母様にも抱かれてるみたいだとも思う。


 きっと私はお母様がいなくてもやっていけると思う。

 そして、おそらくもうお母様は生きてはいまい。

 あの人は私が物心ついた時からいつも儚くなってしまいたがっていたような気がするもの。

 それがなぜなのか、私のような子供にはまだ理解できないことだ。

 でも──いつか、いつかわかるようになるだろうか。

 いつか、母の愛を知ることができるだろうか。

 私も母と父のように生涯たった一度の愛とも呼べる相手が見つかるのだろうか。

 母は「人を愛しなさい」と言った。

 私は「愛の女神」だと。


「私のもとからさよならしていかないで…」

 囁くようにティナは呟く。

「え…?」

 ドーラは聞き返した。

 ティナは顔を上げてこの逞しい青年を見つめた。

 何て生命力に溢れた人なのだろう。

 この人はきっと有史以来の神格化を遂げる人間となるに間違いない。

 新しい神は、きっと淀んだ血筋の神々を払拭して若々しい血筋をもたらしてくれる。

(離れたくない……)

 ティナはなぜか強くそう思った。

 その気持ちがいったいなんなのかわからないまま。

「お母様のように私から離れていかないで」

 ティナは泣きそうな顔でそう言った。

 今まで見せたことのない表情。

「…………」

 それをじっと黙ったまま見つめるドーラ。

 そしてドーラは力強く言った。

「言わない」

 それは、今まで見せたことのない真剣な顔だった。

「絶対さよならは言わない。ずっとお前の傍にいてやるさ」



         初出2000年8月22日

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