02: 常識は、最良の守神である
常識は、最良の守神である .1
幼い頃よく言われたものだ。
淑やかさとは縁遠い性格だったのは自分でもよく記憶しており、何かにつけてあちこち走り回って両親には迷惑を掛けた。次いで、決まって注意されて、でもやっぱり落ち着いていられなくてうずうずと別に興味が移ってしまったのを窘められた。
大抵そういうとき、こんな台詞を浴びせられていたものだ。
ひとの話はちゃんと聞きましょう。
道理である。しかし目の前の青年に同じ言葉を浴びせる際は意味合いが変わる。
「……おなか、空かない?」
会話の邪魔にならない程度の音量で軽快なジャズをBGMとして採用している朝のカフェテリアを利用する人間は少ない。春夏秋冬製薬研究所の中庭に建つ片流れ屋根の建物の二階。利用客は限られていて、別館のAEUに所属している泊まり込みの人員が殆どだ。茉莉花が座っている窓際席の周囲も空席ばかりで、この三日間で顔見知りになった人々がカフェテリアを利用していても気軽に話し掛けては来ない。原因はわかり始めている。
まあ、妥当だと茉莉花ですら思ってしまう。
石像の如き一辺倒の表情、固く閉ざされた形の良い唇。瞬きをする度に頬の上に薄く影を作る長い睫毛。眺めているだけであれば目の保養だろう。特筆すべきはその虹彩だ。両眼に填まった瞳は真冬の晴天を切り取って填め込んだような色合いを見せ、角度によって水平線の淡い銀の光が見え隠れする。明るめのブルーのニットカーディガンは瞳の色も相俟って似合っている。陽光に照らされた銀灰の髪は彼が呼吸をする度にふわふわ揺れ柔らかく光を反射する。
整った容姿に灯る表情は無い。正直、何を考えているのか全く読めないのだ。
「朝ご飯、何か食べた?」
この質問は毎朝している気がする。そろそろやめた方が良いのではないか、とこの間は医療フロアで世話になっている小武方にも助言された。茉莉花ですら無意味に感じ始めていたが、でもここで止めてしまって何になるのだと言うのだろう。
続けることも何になるのか、と問われれば、返答のしようがない。
固ゆでの卵をマヨネーズと胡椒と和えた卵サラダに、紅茶、それとバターが染みこむ薄切りのトースト。カウンターで注文した朝食を少しずつ食べ進めながら目の前に座る青年の顔を伺う。最早茉莉花がこの場にいないかのように振る舞っている彼は静かに座ったままだ。
いっそ静か過ぎるくらいに。
さくさくとトーストを囓っていようが一口大に千切られたロメインレタスと卵をフォークで掬って口元に運ぼうが朝食の感想を述べようが、茉莉花が今日の天気について話をしようが、無反応を通されている。
カップに注がれていた紅茶、最後の一口を喉に流し込んで、数瞬悩んだ後に椅子を引いて席を立ち上がる。食器を返却口へ返し、厨房の中へ向かって「ごちそうさまでした」と挨拶してからカフェテリアから出る。
その後ろから、きっちり三歩の距離を開けて、青年がついてきた。
三日間ひとつも変化ない距離感だ。ちらと後ろを振り返っても目が合うことはない。
春夏秋冬製薬研究所の中庭はそれなりの広さがある。バスケットコート二面分はあるだろう。尺としてバスケットコート等と比較出来るようになったのは高校の部活の手伝いで友人からあれこれ教えて貰えていたからだ。そうでなければさして身体を動かすことに興味を向けなかった茉莉花は比較対象に困った事だろう。
結局、あの朝待ち合わせをしていた友人とは連絡すら取れていない。取ったとして、では何を言えば良いのだろうと迷ってしまうのも事実だ。
カフェテリアと売店が入った建物から出てすぐ右手にある柱廊はどことなく博物館や美術館の庭を思わせる西洋風の凝ったつくりだ。初めて見た時は夜だったし、他にも考えなくてはならないこと、第一見ていられる状況下ではなくなってしまったことが原因してゆっくり観察する暇もなかった。
この敷地の建物は印象はぱっくりと二つに分かれる。近代的なつくりで片側全面硝子張りの機能的な印象を与える建物が本館。アールデコ風の建築様式(というのはディミトリから教わった)の美術館とも見紛う見た目をしている方が別館。二つの建物の間には噴水が置かれており、囲むように柱廊があり、柱廊は本館と別館を繋いでいる。
紙片持ちの異劫に襲われた後、この中庭は散々な状態で修復には時間が掛かると考えていたがその予想は外れた。ガーデンランプは思い切り割った。芝生は荒れ放題を極めていて、柱だって砕けていたはずなのに、外に出たらそんな痕跡ひとつも見せずに元通りになっていた。
紙片の力でなんとか難を切り抜けて気を失い、茉莉花が目を覚ますまでに要した時間は凡そ半日ほどだという。周とディミトリから今後の茉莉花がどのような身の振り方をすべきか話を聞いたあと、疲れてすぐに眠ってしまった。次に目が覚めたら何もかもが夢だったのではと淡い期待を抱かなかった訳ではないが、そんな都合の良い話は勿論ない。
「……あのさ」
「……」
「あのさ! いい加減、何か反応くらいしたらいいじゃん! わたし何かした!?」
ふい、とそっぽを向かれてさらに腹が立った。
どんな字を書くのかと予想もつかなかった名は、やはり予想もつかないくらい複雑な名前であったが振り返って見れば“ひととせ”という苗字も珍しい。
話は遡る。
『もう三回か四回くらいは会ってるかな、こちら、祠季野柘澄くんです。つっくん、ほら、ご挨拶』
第三地下書庫で周とディミトリから話を聞いて一夜明けたあと、別館地下四階の医療フロア区画で朝から再三の身体検査を終えたタイミングで周が青年を連れてきた。
茉莉花が一番最初に研究所で目覚めた際に出会った、文庫本を取りに来た青年だった。印象的な空色の瞳から茉莉花が予想した通りであれば、狼のような獣になる力――つまり聖躯と呼ばれる力を持つ人間だ。周に前に出されて機械的に頭を軽く下げた青年に一度だけ視線を合わせられたが、すぐに逸らされた。
『その仏頂面なしにしてって言われてたでしょ? コミュニケート不足は人間関係の構築の阻害要因だ。良いこと無いよ、つっくん』
『……その巫山戯た呼称も随分な阻害要因になってると気付かない人間が何を偉そうに』
『嫌だったんだ? ちゃんと返事してくれるしこっち向いてくれるじゃないか。嫌なら無視すればいいのに』
馴れたものだとやり過ごす青年の表情にやはり変化はない。改めて見ても精緻な人形を思わせるほどに整った容姿である。
『――わたしが、異劫に襲われた時に助けてくれた、』
『そうそう。お察しの通り君が異劫と同時に遭遇したおっきな獣が彼。聖躯適合を示した機関の人間だよ、AEU実動班所属。聖躯名は
つっくん、挨拶して、と青年より数センチ低い位置から顔を覗き込むようにする周。懇願の視線に軽い溜息を吐いた青年が、祠季野柘澄だ、と、小さい声量であったがはっきりと届く声で言ったので、慌てて手を差し出した。
『あの、ありがとう、何度も助けてくれて……改めまして、日向茉莉花です。よろしく』
幾度も救われていたからずっと礼が言いたかった。茉莉花が今ここに立っていられるのはディミトリと彼のお陰だ。
しかし差し出した掌を青年は一瞥して、また溜息を吐き出す。
『……端末を』
『え?』
『端末を出せ』
初め、何のことだか全く理解出来ずに首を傾げた。そして二度目の重たい溜息が聞こえたことで、やっと気が付いて着ていたカーディガンのポケットに手を突っ込んで薄いスマートデバイスを取り出した。有無を言わさぬ様子で指図されて唇が半開きになったままで宙ぶらりになった掌は当初の目的を果たせずに指示通り、その日の朝小武方から預けられた端末を差し出していた。茉莉花が使っていたスマートフォンは既に破損しており、使い物にならないと聞いた。当面、この施設内から出る予定はないにせよ決して狭くはない研究所の中での連絡手段として使用して良いとタッチパネル式の端末を渡されていた。ちなみに一般的なインターネットブラウザはインストールされていたが外部ネットワークには接続出来なかった。イントラネットを介して割り振られた特定のアカウントと連絡を取ることを目的とされているようだ。
端末をひったくるように取られ、勝手に画面を操作した青年はまたぞんざいな態度で端末を突き返してきた。
画面を見てみると、見知らぬアプリが開かれていて、地図のような画面に赤い点が二つ光っていた。
『部屋から出る際は必ず一報を。同伴者がいる場合、離れて護衛する。目障りなようなら同様にするから申し出てくれて構わない』
『……は、……?』
『だからちゃんと説明しようねって話したよね僕……、茉莉花くんびっくりしてるじゃないか』
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