銀縹

 まるで映画のようだ。スクリーンの向こう側でなら有り得そうな光景は、何の隔たりもなく目の前に広がっていた。

 朝焼けがビルの隙間から光る早朝。夜の紫紺が残っている空の下に、――銀色の獣の姿があった。

 濃い銀の毛並みが未だ弱い太陽の光に反射して美しい。ぴんと立った大きな耳の先端、その片方だけが折れているのがわかる。手を伸ばせば触れられる距離に獣がいたが、動物園で見るような獣とは違う。

 ふさりとした銀の毛並み、長い尻尾。目線の高さよりもずっと高い位置に、片耳の先端が折れている大きな耳が見えた。しなやかで無駄のない躯体は、しかしよく見掛ける大型犬のサイズからは掛け離れていた。乗用車、――成人男性が一人、背に乗っても問題ないくらいの大きさがある。

 何故こんなところに“獣”が、それも見たこともない程大きな、狼のような生き物がいるのか。



 ――なんだ、これ。



 首を傾げようにも異様すぎる光景に身動ぎすら出来なかった。何よりも空気が張り詰めすぎていて、指先からびりびりと痺れを感じる。早朝のJR蒲田駅東口、バスロータリーには恐ろしいくらい人気がない。駅構内から漏れ聞こえていた電車の発車音が掻き消えてしんと静まりかえっているのが不気味であった。何度か訪れた事もあるがこんな状況は初めてだ。待ち合わせ場所だからと何も考えずにバスロータリーへ続くエスカレータ脇の階段を下りたところで、ぐるりと空気が裏返ったような奇妙な心地がしたことに気付いたが、多分それでは遅かったのだ。続いてブルートゥースのイヤホンから全く音が出なくなって、不審に感じながら耳から外して顔を上げた。

 一瞬だけ獣と目が合う。

 美しい銀の光が散る、澄んだ空の縹色をした瞳が一瞥するように向く。きれいだ。あんまりにも異様で、非日常のような光景で、こんな大きな獣を目の前に考えるべき内容でもなかっただろうに、ただただ単純に“きれい”だと思えた。

 視線が合ったのは殆ど一拍のみで、獣はすぐに前を向いた。ぐる、と獰猛な唸りが上がる。薄く開かれた口元から覗く、鋭く並んだ牙。よく見ると左脚、自分が立っている側の前脚で何か紙切れみたいなものを踏みつけていたし、そのやけに長い爪が覗く足の毛並みは朱色に染まっていた。ロータリーの中央に建つ細い螺旋型のモニュメントに向かい、獣が“何か”を睨み付けている。

 逆光ではないのに、上手く視認することが出来なかった。人のようだ。人間が立っている。灰褐色の衣服なのか全身が均一な色味で構成されていた。

 目を眇めて息を詰めた。

 ばけものだ。

 側頭部から、腕らしきものが生えている。腕のないミロの彫像、その頭部に不自然に腕を生やしたものが、そこにはいた。

 認識した途端、異形の人型の背が膨れあがって皮膚を食い破りぬめりとした触手が姿を現した。腕とはまた別の細長いその一本が、迫る。

 まるで映画のようだ。スクリーンの中の出来事を劇場で座して観るような、現実味が薄い。けれどここは現実で、野外で、スクリーンなんて目の前にない。待って、これ、もしかして死にそうなんじゃないのか。思ったけれど身体は動かなかった。

 獣が押さえつけていた“何かが”、迫る触手の前に立ちはだかる。

 一枚の、紙だ。

 こちらに伸ばさなかった別の触手が獣へと向かい、前足を絡め取り、足部分を切断して身の内に戻っていく。

 咆吼と血飛沫。猩々緋が撒き散らされ銀の毛並みをさらに汚していく。

「――っ」

 紙が眼前で制止する。ぴたりと真っ正面、表面なのか裏面なのかはわからない。何が書かれていたのか、今となっては思い出すことすら出来ない。ただ、血で汚れ、破れているのだけわかった。不自然に斜めに繊維が千切れて下部がぎざぎざになっている。

 息を呑むことしか、出来なかった。

 どろりと“紙”であったものが形状を、蜜のように変化させた。

 朝焼けに輝く、黄金の蜜。ひゅ、と喉が鳴る。


 その先は覚えていない。

 暁、銀と晴天、それと、蜜色。

 全て、己の行く末を形作ったものたちだった。


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