紙片のエクスペリエンス
鼓 智晶
序章
幸福な禍殃
花の名を継ぐ女と、原初の魂を継ぐ男をあいしていた。
二人が浄福たる思いを抱えて生きていく――、ただ、それだけが願いだった。馬鹿げた願いだと思われるかもしれない。だけれど、紛れもなく、自らの身の内に沈め保ち続けた『願い』だった。
叶える為ならなんだってしよう。
この身を捧げても構わない。
献身とも違う、既に『願い』自体が己と同化していた。何をすべきか。問い掛けすら必要ない。
何せ答えはとてもシンプルであった。
きっと、己はその為に生まれてきた。
美しい薔薇色の髪や瑠璃の瞳。甘い砂糖をまぶした緑柱石の瞳、薄いショコラ色の髪。最愛の友人達に己が何かを施せる。
己の至福の形は、そこに在ってくれた。
「――その血を浄化するために、“これ”は出来た」
前脚を矢で穿たれ転倒し、絶命した馬が三頭。暗い森、闇夜を照らす洋灯は割られた後で、めきめき、ぱちぱちと足許で炎が揺らめいている。
仮面と外套で真っ黒に彩られた追っ手の手に握られた短剣に炎の橙色が反射する。落馬の際に利き足が折れていた。
だが、構うことはない。
二人は逃がした。
「いつか、必ずおまえ達の理想と妄執は打ち破られる」
地を這うような声だと、自分自身で感じた。
右手を持ち上げる。左掌の真上に歪みが生じ、象牙色の古ぼけた本が現れる。内臓が混ぜられて口の端から何かが零れ、口腔内に鉄の味が満ちた。
脳裏で、鈴を転がすような声と張りのあるアルトの声に名を呼ばれる。フランスの片田舎、町外れの小さな書店が己と、彼と、彼女にとっての楽園。
彼等を取り巻く幸福の全てを、守りたかった。
「“真理”は
もう一度、名を呼ばれた気がした。
紅茶の香り、焦げたマドレーヌ、幾度も読み幾度も討議を重ねた数々の名書。
紙と、インクの匂い。
腹に熱が生まれた。視線を下げれば腹から刃が生えていた。痛みと、熱。
掛かったなと嗤いたくなった。次の瞬間、男はその身より“写本”を砕いて解放した。
たった二人の友人の幸福を願い生まれた
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