鬼刀丸

原文

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885556562/episodes/1177354054885556578



 今ではなく遠い昔――魑魅魍魎が跋扈する時代。

 ある國にて、人々に畏れられる一匹の妖怪ばけものがいた。

 その妖怪ばけものは山ひとつを縄張りとし、他の妖怪ばけものどもからも一目置かれる存在であった。

 無造作に伸びた黒い髪。子供と見紛う程の小柄な体躯。頭の横から生える、二本の角。

 鬼である。

 それが何処から顕れたのか、知るものはいなかった。いつからその山に住み着いたのかを知るものもまたいなかった。

 当然、そのものの名を知るものなどいるはずもなく、ただあざなのみが、その國に住まう人々に、人ならざるものどもに、畏れを以て語り継がれていた。


 何処かの戦場いくさばで拾いでもしたのか、所々が毀れた胴丸と、刃先が欠け、角鉈のような姿となった刀――7尺3寸余り(約2.20m)はあろうかと言う大太刀のみを持ち物とし、切れ味などとうに失ったその得物を、その体格からは想像もつかぬ剛力にて振り回し、幾多の命を屠り去った殺戮の鬼。

 その姿から、いつしか自然とこう呼ばれるようになる。


 鬼刀丸きどうまる


 これは、人と妖怪ばけものが同じ闇を呼吸していた時代から、やがて陽の明かりが夜を侵し人々が影を畏れなくなるまで、数多のときを渡り歩いた一匹の鬼と、一振りの大太刀の物語。

 瘴気渦巻く常闇と。

 煙る血潮の香に満ちた。

 妖怪あやかし絵巻の、はじまりはじまり――。


 ◇


 ある時。

 鬼刀丸きどうまるは山中を駆け、戦っていた。

 きっかけは一匹の妖怪ばけものであった。

 名を獓𤝱ごうえつ

 それは大陸からやってきた妖怪ばけものであった。

 ――其状如牛、白身四角、其豪如披蓑。

 牛のような姿に、白い体と四本の角。体毛は蓑を被ったようであったというのである。

 そして。

 ――是食人。

 人を喰らった。


 獓𤝱ごうえつは海を越えてなおその名を馳せる鬼刀丸きどうまるの存在を知り、これを下して自らの名を上げんと挑みかかってきたのである。

 鬼刀丸きどうまるはこれを返り討ちにした。

 獓𤝱ごうえつとて、大陸では広く名の知れた古強者である。これが異国の地にて一匹の鬼に敗れたという噂は瞬く間に伝えられ、結果新たな妖怪バケモノを呼び寄せることとなった。

 仇討ち――それを建前に鬼刀丸きどうまるを討ち取る為に。

 その妖怪ばけものは全部で四匹いた。


 大きな犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似て、目はあるが見えず、耳はあるが聞こえない。自らが動くことは不得手だが、人がどこへ行くかは良く解る。悍ましき妖怪ばけもの――渾沌こんとん


 牛や羊のような体に、曲がった角、虎の牙、人の手、人の頭を持つとされ、嬰児のような鳴き声で、人を捕って喰らうとされる。財産、食物、全てを貪るものという名を冠された、凄まじき妖怪ばけもの――饕餮とうてつ


 翼の生えた大虎の姿を持ち、人が争いをしていると正しい方を喰らい、誠実な人がいるとその鼻を喰らい、悪人がいると獣を捕まえて贈るとされる。自然現象すらをも自在に操る恐ろしき妖怪ばけもの――窮奇きゅうき


 その姿は人面虎足。猪の牙、二尺(約60cm)の犬の毛、一丈八尺(約4.40m)の長い尾を持つ。常に天下の平和を乱そうと考えており、その性は尊大かつ傲慢。一度戦い出せば退くことを知らず、相手か自分が死ぬまで暴れ続ける禍々しき妖怪ばけもの――檮杌とうこつ

 

 この四匹の妖怪ばけもの、世に纏めて四凶と称される。

 いずれも“凶”の名に恥じぬ古の大妖。

 それを、鬼刀丸きどうまるは四匹同時に相手取っていた。


 猛虎の俊敏性を以て襲い来る爪牙を。

 巻き起こされる竜巻を。

 万象を貪り喰らう大顎を。

 撃ち付けられる野太い尾を。

 正面から受け止め、弾き、斬り返していく。 

 激戦であった。

 それまで幾多の強者つわものたちを一刀の下に斬り捨ててきた鬼刀丸きどうまるにとっては、初めてのことである。

 過去に彼が相対したいかなる妖怪ばけものとも、四凶たちは違っていたのだ。

 ただ強く迅いだけではない、怖ろしく狡猾な頭脳には、己の剛腕のみを頼みにした力押し一辺倒の戦法が通用せず、四匹の妖怪ばけものそれぞれの持つ分厚い毛皮と肉の前に、刃の毀れた大太刀はまるで刀としての用をなさなかった。

 また、四凶の中でただ一匹だけ、自らは戦いに混じろうとしない妖怪ばけもの――渾沌の存在が最も厄介であった。

 己が尾を齧りながら、不気味な顔で天を仰ぎ嗤うこの異形の妖の能力は、“先見”。

 その眼は光を映さぬ代わりに他者の動きを予見し、それを逐一他の三匹の妖怪ばけものに伝え続けているのだ。

 おかげで鬼刀丸きどうまるの攻撃は悉く躱され、代わりに四凶たちの爪や牙は過たず鬼刀丸きどうまるの体へと突き立てられていく。


 それでも、鬼刀丸きどうまるは負けていなかった。

 最早ただの力押し一辺倒ではない。それまで培ってきた膨大な戦の経験を以て、襲い来る千変万化の攻撃を受け止め、躱し、切り返していく。

 五匹の妖怪ばけものを中心に、周囲の地形をも変えるほどの戦乱の嵐が吹き荒れ、誰のものとも知れない血潮の雨が降り注ぐ。

 

 そしてその頃には、互いの心中にも変化が生じ始めていた。

 四凶たちにとって、これは己が強さを誇示するための戦いであった。

 しかし、鬼刀丸きどうまるの強さを目の当たりにし、それを十分認めた今となっては、それはもう二の次のこととなっていた。

『この鬼は、ここで殺さねばならない』

 それは畏れであり、怒りであり、高揚であった。


 一方の鬼刀丸きどうまるは、己の内部に生じた変化に戸惑っていた。

 それまで、戦いとは生きるためのものであった。

 食らうために戦い、死なぬために戦ってきた。

 それが、四凶との戦いを経て、初めて自分の中に、純粋に戦いそのものに愉悦を見出し始めていたのである。

 愉悦。

 その、身に慣れない感覚に気付き戸惑った一瞬の隙を、四凶は逃さなかった。


 鬼刀丸きどうまるの視界が、赤黒く塞がれる。

 それが、大きく開かれた饕餮とうてつの口腔の肉だと気づいた時には、既にその大顎は鬼刀丸きどうまるの体をそっくりと呑み込んでいた。

 いや。

 その上下に並んだ不揃いの牙に、鬼刀丸きどうまるの手足が食い込み、辛うじて口を塞がれるのを防いでいる。

 獲物を噛み砕かんと顎を締め付ける饕餮とうてつと、それに抗う鬼刀丸きどうまるの力が鬩ぎ合う。

 生臭い吐息を全身に浴び続ける鬼刀丸きどうまるは、しかし、このままでは本当に呑み込まれるのも時間の問題だと分かっていた。

 牙が食いこむ両の手足は、顎を支えるのに精一杯でぴくりとも動かせない。


 故に。

 鬼刀丸きどうまるは、唯一動かせる首の筋に力を込め、自らもその口を大きく開いた。

 鬼特有の鋭い犬歯がぎらりと光った、次の瞬間。


 天地を震わす絶叫が、響き渡った。

 饕餮とうてつの巨体が大地をのたうち回り、その口元から唾液と鮮血に塗れた鬼刀丸きどうまるが吐き出される。

 苦悶の声を上げる饕餮とうてつの、そのだらしなく開かれた大顎から、先端を噛み千切られ、ぼたぼたと赤黒い血を垂れ流す長い舌が覗いている。

 鬼刀丸きどうまるは二三度咀嚼したその肉を不味そうに吐き捨てると、やはりどろりとした粘液に塗れた大太刀を構え、饕餮とうてつの左眼へ深々と突き立てた。


 眼窩を通じて脳髄を穿り回された饕餮とうてつの体が不自然に痙攣する。

 鬼刀丸きどうまるは、その剛力をもって大太刀を振り上げ、内側から頭蓋を砕き割った。

 未だ痙攣を続ける饕餮とうてつの体から、鮮やかな赤色の液体と柔らかな桃色の肉片が飛び散り、鬼刀丸きどうまるへと降り注ぐ。


 そこへ、犬の遠吠えのような声の響きと共に、一陣の烈風が吹き荒れた。

 窮奇きゅうきである。

 

 ――窮奇、廣莫風之所生也。

 広莫風。つまり北風のことであり、窮奇きゅうきはこれを自在に操るとされた。

 鬼刀丸きどうまるの体が宙へと舞い上げられる。


 一瞬で重力を失い、眼下に破壊され尽くした棲家の山と自分が今しがた討ち取った饕餮とうてつの死骸を見た鬼刀丸きどうまるは、自分の身に何が起きたのかを理解し、着地に備えて姿勢を整えながら素早く四方に視線を巡らせた。

 その視線の隙間を縫うように肉薄した窮奇きゅうきの爪が、鬼刀丸きどうまるの背中の肉を抉った。

 すかさず大太刀を振るって反撃した時には、有翼虎の妖怪ばけものは遥か彼方の虚空にて嘲笑うかのようにその羽を広げていた。

 再び突風。

 落下しかけていた鬼刀丸きどうまるの体が宙を躍る。

 そこへ迫る窮奇きゅうきの爪牙。

 衝撃。

 血の華が虚空に咲く。


 いかな鬼刀丸きどうまるとて、空を飛ぶ能力までは持ち合わせていない。

 正面からの戦闘は不利と判じた四凶は、空中にて暴風の檻に閉じ込め、じわじわと嬲り殺す戦術に切り替えたのだ。

 鬼刀丸きどうまるの動きを逐一先読みする渾沌こんとんの指示に従い、窮奇きゅうきが風を起こし、その凶爪を振るう。

 その度に、鬼刀丸きどうまるの体に傷が増えていく。


 鬼刀丸きどうまるは力を抜いた。

 いつ、どこから来るやも知れぬ攻撃の波を前に、備えることを止めた。

 ただ静かに、気を研ぎ澄ました。

 その姿を見た窮奇きゅうきが、無防備に晒された心の臓に狙いを定める。

 鬼刀丸きどうまるの狙いを察した渾沌こんとんがそれを制する暇もなく、豪速にて飛来した窮奇きゅうきの、怖気を振るう牙が並んだ口腔へと、鬼の貫手が突き出された。

 鬼の剛腕に自身の速度をも上乗せされた一撃に、窮奇きゅうきの喉笛が潰され、くぐもった悲鳴もまた虚空に消えた。

 

 二匹の妖怪ばけものは互いに鮮血を撒き散らし、縺れ合いながら落下していく。

 その間にも虎の体に組み付いた鬼刀丸きどうまるは、その背に生える大翼の片方を、力任せに引き千切った。

 喉を潰されていた窮奇きゅうきは絶叫の代わりに新たに喀血し、それが風に乗って鬼刀丸きどうまるの顔を汚していく。

 ついに地面に激突した二匹の妖怪ばけもの

 鬼刀丸きどうまる窮奇きゅうきの体を下敷きにし衝撃を殺していたが、その犠牲となった窮奇きゅうきの被害は甚大であった。

 それでも、まだほんの僅かに残ったその命の残り火を踏み潰そうと大太刀を構えた鬼刀丸きどうまるの身体を、凄まじい衝撃が襲った。


 檮杌とうこつ

 虎の足を持ち、猪の牙を備えた妖怪ばけものの全力の突撃が、鬼刀丸きどうまるの体を水平に吹き飛ばした。

 幾本かの山の木を薙ぎ倒してようやく止まった鬼刀丸きどうまるの目の前に、再び暴虐の妖怪ばけものの突撃が迫る。

 鬼刀丸きどうまるは、避けなかった。

 激突。

 衝撃が大気を震わせる。

 猪の牙を掴み取った鬼刀丸きどうまると、両の眼を爛々と燃やした檮杌とうこつの額がかち合い、その視線が火花を散らして交わる。


 二匹の妖怪ばけものは、がっぷり四つに組み合った。

 妖怪ばけものとしての両者の力は拮抗していた。

 本来ならば。


 それでも、ずるり、ずるりと、鬼刀丸きどうまるの体が後ろに押されていく。

 地面を踏みしめる足と、猪の牙を掴む掌には、饕餮とうてつの牙によって開けられた大穴が。

 そこから繋がる体には、窮奇きゅうきの爪によって抉られた大小無数の傷痕が。

 どろどろと、赤黒い血を垂れ流し続けている。

 流れ出る血と共に、少しずつ失われていく力。

 徐々に、だが確実に、鬼刀丸きどうまるの体が押し込まれていった。

 

 最初は踵が岩肌に接し。

 次に腰が。

 背が。

 肘が。

 頭が、聳え立つ岩壁にめり込んでいく。


 鬼刀丸きどうまる檮杌とうこつの咆哮が交わった、その時。

 山が、崩れた。

 度重なる人智を超えた暴虐に、ついに耐え切れなかった山肌が、その一部を崩落させたのだ。

 寸での所で身を引いた檮杌とうこつの眼前で、こちらへ向かって伸ばされた鬼の手が岩塊に飲み込まれていく。

 崩落は数秒続き、腹の底に重く響く音が周囲を満たした。


 やがてそれも収まり、立ち込める粉塵を風が撫ぜていく。

 先程までの騒乱が嘘であったかのように、空白の時が流れる。

 降り積もった岩塊の中から鬼が姿を現す気配もない。

『勝った』

 そう確信し、踵を返した檮杌とうこつの頭が、弾け飛んだ。


 それを、瀕死の重傷を負い、それでもその戦いの行方を見続けていた窮奇きゅうきの眼が捉えていた。

 崩落した岩肌の一部が爆ぜ、それと同時に駆け抜けた漆黒の颶風が檮杌とうこつの頭を呑み込んだ所を。


 ぼたぼたと生臭い血を滴らせ、それは窮奇きゅうきの目の前に立った。

 その、かお

 瞼が失われたかと思うほどに見開かれた眼球は赤々と妖しの光を放ち、怖ろし気な牙の並ぶ口は耳元まで裂け、荒々しい呼吸の度にどす黒い瘴気を吐き散らしていく。

 手足の爪は鋭く伸び、四つ足にて大地を踏みしめる。

 喉を潰され、片翼をもがれ、脚を折られた窮奇きゅうきは、それでも最期に懸命の抵抗を見せ、それを鬼の腕の一振りにて無に帰され、絶命した。


 残るは一匹。

 ――渾沌。

 己だけではまともに動くこともままならないこの奇怪な妖怪ばけものは、すでにその運命を受け入れていた。


 ゆっくりと歩み寄った鬼刀丸きどうまるは、その鋭く尖った指の爪で、まず渾沌の眼を穿った。

 元より光を映さぬ両の眼に、更に虚ろの孔が開く。

 次に、音を伝えぬ耳。

 香を解さぬ鼻腔。

 最後に、言葉を伝えぬ舌に、鬼刀丸きどうまるは続けて孔を開けていった。


 七つ目の孔が開くと同時、大犬の姿をとっていた渾沌こんとんの体がずるずると収縮し、やがて枯れ果てた老人がその姿を現した。

 顔に七つの孔を開け、人の形を取ったその怪異は、喉を震わし、初めて言葉を発した。


「ばけ、もの……」


 それを最後に、かつて渾沌こんとんであったものは、動かなくなった。


 ◇


 苛辣極まる戦いであった。

 大陸にてその名を馳せる古の大妖――四凶をも全て返り討ちにした鬼刀丸きどうまるの名はさらに上がり、最早妖怪ばけものどもにとっては知らぬもののない存在となっていった。

 当然、その名が広く知れ渡るにつれ、同じように挑みかかるものたちも増えていきはしたものの、ついぞ彼を殺しうるものは存在しなかった。

 その鬼は、あまりにも強すぎた。

 いつしか戦いを挑む妖怪ものもいなくなる頃には、彼の大妖の存在は、人間たちにとって別の意味を持ち始めた。


 なにものをも寄せ付けぬ圧倒的な強さ。

 彼のものの住まう地に手を出す愚か者などいるはずもなく、人々はやがて、その鬼を畏怖の念ではなく、畏敬の念を以て仰ぎ始めた。

 曰く、鬼神。

 或いは、闘神。

 そして、かつての異名をとり、刀神、と。


 それでも、鬼刀丸きどうまるにとって、己が他者にどう呼ばれているかなど、大した問題ではなかった。

 自由気ままに生きる。

 それが、妖怪ばけものの本来の在り方であった。


 今も、そう。


 大岩に寝転がり、退屈そうに虚空を仰ぎ見る名もなき鬼。


「……ハラヘッタ」


 彼はいつの世にも、変わらず其処に在り続けた。

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