鬼刀丸
原文
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885556562/episodes/1177354054885556578
今ではなく遠い昔――魑魅魍魎が跋扈する時代。
ある國にて、人々に畏れられる一匹の
その
無造作に伸びた黒い髪。子供と見紛う程の小柄な体躯。頭の横から生える、二本の角。
鬼である。
それが何処から顕れたのか、知るものはいなかった。いつからその山に住み着いたのかを知るものもまたいなかった。
当然、そのものの名を知るものなどいるはずもなく、ただ
何処かの
その姿から、いつしか自然とこう呼ばれるようになる。
これは、人と
瘴気渦巻く常闇と。
煙る血潮の香に満ちた。
◇
ある時。
きっかけは一匹の
名を
それは大陸からやってきた
――其状如牛、白身四角、其豪如披蓑。
牛のような姿に、白い体と四本の角。体毛は蓑を被ったようであったというのである。
そして。
――是食人。
人を喰らった。
仇討ち――それを建前に
その
大きな犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似て、目はあるが見えず、耳はあるが聞こえない。自らが動くことは不得手だが、人がどこへ行くかは良く解る。悍ましき
牛や羊のような体に、曲がった角、虎の牙、人の手、人の頭を持つとされ、嬰児のような鳴き声で、人を捕って喰らうとされる。財産、食物、全てを貪るものという名を冠された、凄まじき
翼の生えた大虎の姿を持ち、人が争いをしていると正しい方を喰らい、誠実な人がいるとその鼻を喰らい、悪人がいると獣を捕まえて贈るとされる。自然現象すらをも自在に操る恐ろしき
その姿は人面虎足。猪の牙、二尺(約60cm)の犬の毛、一丈八尺(約4.40m)の長い尾を持つ。常に天下の平和を乱そうと考えており、その性は尊大かつ傲慢。一度戦い出せば退くことを知らず、相手か自分が死ぬまで暴れ続ける禍々しき
この四匹の
いずれも“凶”の名に恥じぬ古の大妖。
それを、
猛虎の俊敏性を以て襲い来る爪牙を。
巻き起こされる竜巻を。
万象を貪り喰らう大顎を。
撃ち付けられる野太い尾を。
正面から受け止め、弾き、斬り返していく。
激戦であった。
それまで幾多の
過去に彼が相対したいかなる
ただ強く迅いだけではない、怖ろしく狡猾な頭脳には、己の剛腕のみを頼みにした力押し一辺倒の戦法が通用せず、四匹の
また、四凶の中でただ一匹だけ、自らは戦いに混じろうとしない
己が尾を齧りながら、不気味な顔で天を仰ぎ嗤うこの異形の妖の能力は、“先見”。
その眼は光を映さぬ代わりに他者の動きを予見し、それを逐一他の三匹の
おかげで
それでも、
最早ただの力押し一辺倒ではない。それまで培ってきた膨大な戦の経験を以て、襲い来る千変万化の攻撃を受け止め、躱し、切り返していく。
五匹の
そしてその頃には、互いの心中にも変化が生じ始めていた。
四凶たちにとって、これは己が強さを誇示するための戦いであった。
しかし、
『この鬼は、ここで殺さねばならない』
それは畏れであり、怒りであり、高揚であった。
一方の
それまで、戦いとは生きるためのものであった。
食らうために戦い、死なぬために戦ってきた。
それが、四凶との戦いを経て、初めて自分の中に、純粋に戦いそのものに愉悦を見出し始めていたのである。
愉悦。
その、身に慣れない感覚に気付き戸惑った一瞬の隙を、四凶は逃さなかった。
それが、大きく開かれた
いや。
その上下に並んだ不揃いの牙に、
獲物を噛み砕かんと顎を締め付ける
生臭い吐息を全身に浴び続ける
牙が食いこむ両の手足は、顎を支えるのに精一杯でぴくりとも動かせない。
故に。
鬼特有の鋭い犬歯がぎらりと光った、次の瞬間。
天地を震わす絶叫が、響き渡った。
苦悶の声を上げる
眼窩を通じて脳髄を穿り回された
未だ痙攣を続ける
そこへ、犬の遠吠えのような声の響きと共に、一陣の烈風が吹き荒れた。
――窮奇、廣莫風之所生也。
広莫風。つまり北風のことであり、
一瞬で重力を失い、眼下に破壊され尽くした棲家の山と自分が今しがた討ち取った
その視線の隙間を縫うように肉薄した
すかさず大太刀を振るって反撃した時には、有翼虎の
再び突風。
落下しかけていた
そこへ迫る
衝撃。
血の華が虚空に咲く。
いかな
正面からの戦闘は不利と判じた四凶は、空中にて暴風の檻に閉じ込め、じわじわと嬲り殺す戦術に切り替えたのだ。
その度に、
いつ、どこから来るやも知れぬ攻撃の波を前に、備えることを止めた。
ただ静かに、気を研ぎ澄ました。
その姿を見た
鬼の剛腕に自身の速度をも上乗せされた一撃に、
二匹の
その間にも虎の体に組み付いた
喉を潰されていた
ついに地面に激突した二匹の
それでも、まだほんの僅かに残ったその命の残り火を踏み潰そうと大太刀を構えた
虎の足を持ち、猪の牙を備えた
幾本かの山の木を薙ぎ倒してようやく止まった
激突。
衝撃が大気を震わせる。
猪の牙を掴み取った
二匹の
本来ならば。
それでも、ずるり、ずるりと、
地面を踏みしめる足と、猪の牙を掴む掌には、
そこから繋がる体には、
どろどろと、赤黒い血を垂れ流し続けている。
流れ出る血と共に、少しずつ失われていく力。
徐々に、だが確実に、
最初は踵が岩肌に接し。
次に腰が。
背が。
肘が。
頭が、聳え立つ岩壁にめり込んでいく。
山が、崩れた。
度重なる人智を超えた暴虐に、ついに耐え切れなかった山肌が、その一部を崩落させたのだ。
寸での所で身を引いた
崩落は数秒続き、腹の底に重く響く音が周囲を満たした。
やがてそれも収まり、立ち込める粉塵を風が撫ぜていく。
先程までの騒乱が嘘であったかのように、空白の時が流れる。
降り積もった岩塊の中から鬼が姿を現す気配もない。
『勝った』
そう確信し、踵を返した
それを、瀕死の重傷を負い、それでもその戦いの行方を見続けていた
崩落した岩肌の一部が爆ぜ、それと同時に駆け抜けた漆黒の颶風が
ぼたぼたと生臭い血を滴らせ、それは
その、
瞼が失われたかと思うほどに見開かれた眼球は赤々と妖しの光を放ち、怖ろし気な牙の並ぶ口は耳元まで裂け、荒々しい呼吸の度にどす黒い瘴気を吐き散らしていく。
手足の爪は鋭く伸び、四つ足にて大地を踏みしめる。
喉を潰され、片翼をもがれ、脚を折られた
残るは一匹。
――渾沌。
己だけではまともに動くこともままならないこの奇怪な
ゆっくりと歩み寄った
元より光を映さぬ両の眼に、更に虚ろの孔が開く。
次に、音を伝えぬ耳。
香を解さぬ鼻腔。
最後に、言葉を伝えぬ舌に、
七つ目の孔が開くと同時、大犬の姿をとっていた
顔に七つの孔を開け、人の形を取ったその怪異は、喉を震わし、初めて言葉を発した。
「ばけ、もの……」
それを最後に、かつて
◇
苛辣極まる戦いであった。
大陸にてその名を馳せる古の大妖――四凶をも全て返り討ちにした
当然、その名が広く知れ渡るにつれ、同じように挑みかかるものたちも増えていきはしたものの、ついぞ彼を殺しうるものは存在しなかった。
その鬼は、あまりにも強すぎた。
いつしか戦いを挑む
なにものをも寄せ付けぬ圧倒的な強さ。
彼のものの住まう地に手を出す愚か者などいるはずもなく、人々はやがて、その鬼を畏怖の念ではなく、畏敬の念を以て仰ぎ始めた。
曰く、鬼神。
或いは、闘神。
そして、かつての異名をとり、刀神、と。
それでも、
自由気ままに生きる。
それが、
今も、そう。
大岩に寝転がり、退屈そうに虚空を仰ぎ見る名もなき鬼。
「……ハラヘッタ」
彼はいつの世にも、変わらず其処に在り続けた。
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