第8話 戸惑いの放課後

 次郎の担当授業は週に2コマしかない。

しかし教員の仕事は何も授業することだけではないのである。まず授業の前に授業準備をしなければならない。平たく言えば授業計画を立てて進行の確認をし、教材を用意する。


 授業についていけない生徒や欠席などで進行が遅れている生徒のフォローアップも考えなくてはならない。その上でカリキュラムに定められた課程を消化する必要がある。週に2コマというが、次郎の場合2科目を受け持っているのでこの作業が二倍になるということだ。


 慣れないデスクワークに辟易しながら、人もまばらな職員室で次郎は一人ごちる。


「ガキの頃は先生ってのは何であんなに口うるさいんだと思っていたが…」


 むしろ口うるさい教師のほうが仕事をしていたのだ、と今なら分かる。正直、出欠や生活態度など個人的にはどうでもいい。やりたいやつはやればいいし、やりたくないならどこで何していようが知ったことではない。


 しかし学校の中では否応でもクラス単位で行動する機会は数多い。その際に頭数が足りなかったり、馴染めない生徒がいたりすると別に対応を迫られることになる。要するに仕事が増える。そうならないようにするためには、普段から目配りしておく必要がある=口うるさくなる、というわけだ。


 結局己の都合で動いているのだが、それが教師の仕事だ。そもそも学校に通うために入学したのだから、本人のためにもなるといえる。


――ガキどもなんて、俺にとっては鵜飼の鵜みたいなものだ。ジェムを取らせるために奴らを使ってるに過ぎん。


 次郎は不必要に生徒に干渉する気はない。目的のためには情など捨てる。馴れ合うような余裕はないんだ―――無意識のうちに次郎の右手が胸のジェムを抑えていた。


「……島田先生!」


突然耳元で名前を呼ばれて慌てて次郎は振り返った。


「福来……!」


眼鏡のフレーム越しにジットリとした視線を送ってくる、三つ編みの少女がそこにいた。


「な、なんか用事でも…」


椅子に座った次郎よりも、ほんの僅かながら立っているフクの視点が高い。そのせいか妙な圧迫感を感じて次郎はたじろいだ。


「やっぱり忘れてますね」


フクがグイッと一歩前に出て、次郎の手を引っ張る。


「そうだと思って取り立てに来ました…約束のご褒美下さい!」



◆◆◆


 夕方の日差しが斜めに差し込み、無人の教室を朱に染めていた。遠くでカラスの鳴く声がする。


専門学校の放課後は早い。

用もない教室にたむろする生徒もおらず、校舎の中は静かだ。


――そんなところで俺は……一体何をしてるんだろう?


次郎の虎頭は、今。

少女の揃えられた太ももの上にあった。


「大丈夫ですか……?先生」


「いやもう全く全然大丈夫ではない」


このときほど表情に乏しい虎頭に次郎が感謝したことはない。頭に感じる太ももの弾力に内心狼狽している。


フクへの褒美。それは次郎の時間を三分間、フクのために与えること。

授業の質問でもされるのかと思っていた次郎だったが、その予想は大きく裏切られた。


『頭をモフモフさせてください!』


手をワキワキを蠢かせて、フクが要求したのはそんな行為だった。


「もう前からずーっと気になって気になって……私、猫とか大好きなんですけど!虎を撫でたこと無いんです!!」


「そりゃ普通は無いだろう……」


フクの言い草に脱力する次郎。こいつは俺を何だと思ってるんだ……そんな呆れもあったが、約束を果たせと迫られると次郎も弱い。

 

 膝枕の体制をとったのも、この方がモフモフしやすい、というフクの主張に次郎が折れたからだった。


「3分だけだからな」


次郎の念押しは聞こえてるのだろうか。フクはゴクリと唾を飲む。


「それでは…失礼させて頂きます」


ずしりと重みを感じる虎の頭に、内心フクは躍り上がっていた。逸る心を抑えつつ手を伸ばす。

頭頂の丸みにそって指先を滑らせると、柔らかな獣毛が指の腹をくすぐった。


――ひゃああ……


その感触にフクの胸が高鳴り、頬が紅潮した。想像以上に艶めいた毛皮は、夕暮れの光を反射しながら波打っている。


「先生って、毛並み良いですね……」


「そんなこと初めて言われたぞ…」


虎頭の縞模様をなぞるように、フクの指が自在に動く。その都度、ピクリピクリと虎の耳が震えるのをフクは見逃さなかった。

ふふ、と微笑んでフクは問いかける。


「気持ちいい…?先生」


次郎は戸惑っていた。虎頭になってから数年間、人に触れられたことはない。

ノロワレに触るような恐れ知らずは居ないからだ。それ故に次郎は知らなかった。


指が毛並みを漉くたび襲いくる、ゾクゾクするようなこの悦楽を。

それでいて妙に心が安らぎ、酩酊感にも似た快楽の波が、フクの動きに合わせて寄せては返してくる。


――こ……、この娘……とんでもないテクニシャンなのでは。


そんなことを思いながら、まどろみのような心地よさに次郎の瞼が落ちていく。


ゴロゴロと喉が鳴っていることも次郎は気付かなかった。


かわいい。


名前のつけられない切なさが、胸を締め付けるのをフクは感じていた。大型猛獣の頭は膝に委ねられ、その重みが心地よい。


ぴこぴこと時折動く虎の耳に吸い寄せられるように、いつのまにかフクは唇を近づけていた。


次郎の金色の目が見開かれる。


初めての快楽に溺れかけていた次郎の脳裏を、校長の言葉がよぎったのだ。


――『外典げてんともがら』。


生徒の中に潜んだ暗殺者の影。


次郎の肢体が跳ね上がった。


「……ッ⁉」


声出す間もなく床に組み伏せられたフクが、のしかかる次郎を驚きの目で見ていた。


無人の教室。この熟練の手管。

次郎は内心舌打ちした。

俺は何という間抜けなんだ。


――暗殺者は、フクだ。

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