Incubator~助けた義兄が敵の標的になっています!~
山吹弓美
一:上総弓姫
00.十年前の思い出
ズバン、と威勢よく肉を斬る音がした。ほんの少し間があって、
「……グォ……ゲ、ボ」
切り裂かれた喉から最後の息と共に黒い血を吐き出して、青黒い毛皮に包まれた獣はぴくりと一瞬震えた。宙をさまよっていた人の胴体ほどの太さを持つ尾がぱたり、と力無く投げ出される。
それを合図に私は、危ないからと言われて隠れていた物陰から飛び出した。
「お兄ちゃん、すごーい!」
私と同じように声を潜め、戦いの様子を見守っていた村の人たちのわあっという歓声に追いかけられるように、私は一番にお兄ちゃんのところへと駆け寄っていく。
その時私はまだ八歳で小さくて、おまけに地面はお兄ちゃんと獣の戦いであちこちがでこぼこになっていたから、お兄ちゃんに飛びつくまで時間がかかってしまった。
「うん、やっぱ誠哉お兄ちゃんは強い! ゆみき、お兄ちゃん、だーいすきっ!」
それでもやっとたどり着いた。ぎゅっとしがみついたら、お兄ちゃんは慌てたように剣を鞘にしまった。ああそうだ、いつも危ないから触っちゃ駄目だって怒られたっけ。
「あ、こら
そんなことを言いながら、でも誠哉お兄ちゃんは私を抱っこしてくれた。お兄ちゃんに抱き上げてもらうと、いつもよりずっと遠くまで見渡せるから、私は大好きだった。
抱っこしてほしい理由はもうひとつ。私の髪は黒くて癖のない髪だけど、誠哉お兄ちゃんの髪は色素が薄くて光に当たるときらきらと銀色に輝く。その髪を手で触るのが、私は大好きだったのだ。
「平気! 汚れたら洗えばいいもん!」
だから汚れるのなんて、まったく平気だった。そう答えてお兄ちゃんにしがみつくと、「まったく、しょうがないな」と困った顔をしながら私を抱え直してくれた。
「こらあ弓姫! 洗うのは弓姫じゃなくて母さんだろーが!」
あ、無粋だ。せっかくの私と誠哉お兄ちゃんの楽しい時間なのにー、と幼い私が頬を膨らませながら声のした方に視線を移す。そこにいたのは黒髪で、八歳の私より二つ年上の少年だった。
一方、私を抱き上げてくれている
「疾風、何だよってうわ、こら、危ない」
小走りに誠哉お兄ちゃんのところまで駆け寄ってきた疾風兄さんは、ぽかぽかとその脇腹を小さな拳で叩く。一瞬バランスが崩れてヒヤッとしたけれど、誠哉お兄ちゃんが私をしっかりホールドしてくれたので落っこちることはなかった。
まったくもう、これだから子供は怖いなあ。危機感がまるでなかったんだから。
「このやろこのやろ、あのマジュウは俺がおっきくなってから倒すつもりだったんだぞ! 何で誠哉兄ちゃんが倒しちゃうんだよー!」
「え、そうだったのか? あはは、ごめん」
疾風兄さんの主張に、誠哉お兄ちゃんは少し困ったように眉尻を下げた。お兄ちゃんの手がやや乱暴に黒い髪をなでると、疾風兄さんは悪戯っ子の笑みを浮かべる。
そうだ、疾風兄さん、この頃は誠哉お兄ちゃんに構って貰いたくてしょうがなかったんだっけ。
「ま、いいや。今回は村のピンチだったんだもんな。俺はあのマジュウよりもっと強い奴を倒して、誠哉兄ちゃんよりすごい剣士なんだって認めてもらうからな!」
疾風兄さんは小さな身体で偉そうに腰に手を当てて、そんな感じで宣言した。『誠哉お兄ちゃんよりすごい剣士』ということはつまり、この村で一番強い剣士になるのだということ。
気が付くと、疾風兄さんはいつもいつもそう言ってたなあ。
その宣言は、一応達成されるにはされたのだけれど。
目標を失うという形で。
「こら疾風、だったら早く大人になるんだな!」
「そうそう。少なくとも、専用の
近所のおじさんたちが、そう言って疾風兄さんを囃し立てる。疾風兄さんは自分よりずっと大きな男の人たちにくしゃくしゃかき回されながら、「あったりまえだー!」と威勢よく答えていた。
私はそれを誠哉お兄ちゃんの肩の上から見下ろしながら、こんな日がいつまでも続けばいいなと楽しく考えていた。
村外れの広場には、武装した村のおじさんや若い人たちがいっぱい集まっていた。皆その手に武器や農具を持ち、魔獣の革とその魔獣を産み出す『卵』の殻で造られた鎧……鎧花を着けている。
これから、山を登って戦に向かう準備をしているのだ。
「お兄ちゃん!」
私が呼びかけると、一際目立つ青紫の鎧花をまとった誠哉お兄ちゃんはぱっとこちらを振り向いてくれた。
お兄ちゃんは青い色が好きでいつもそういう色の服を着ているけれど、鎧花を着たお兄ちゃんはいつもと違って緊張しているように私には見えた。
「弓姫。何だ、起きる前に行こうと思ってたのに、もう起きちゃったのか」
「うんっ。だって、こんな時でもなきゃ誠哉お兄ちゃんの鎧花姿なんて見られないもん」
困った顔のお兄ちゃんに、私はそう答えてからぺたんとその表面に手を置いた。他の人のものより殻の部分が多いお兄ちゃんの鎧花は、ちょっぴりひんやりしていたなあ。
そのまま表面をぺたぺた触っていたら、後ろから頭にぽんと大きな手が置かれた。振り返ると、そこに立っているのは私の……私たちのお父さんだった。
誠哉お兄ちゃんの鎧花は、職人であるお父さんの手になる一点物である。疾風兄さんにも、もっと大人になったら専用のものを造ってやるという約束をしていた。何だかんだ言っても親馬鹿だったんだ。
一方、おじさんたちが着ている鎧花はいわゆる量産物で、少し頑張ってお金を貯め込んだら誰でも買えるものだ。
辺境の村では自分の身は自分たちで守るのが基本だから、量産型の鎧花はたいていの家にあると言っていい。それらの入手や整備も、専門の職人としてお父さんは一手に引き受けている。そういう関係で、実はうちはそこそこお金持ちだったようだ。ううむ、今考えると私っていいとこのお嬢さんだったんだなあ。全く自覚はなかったけれど。
「誠哉」
「父さん。行ってきます」
「ああ、行ってこい」
お父さんとお兄ちゃんは言葉少なに挨拶を交わした。私はそんな2人を交互に見比べながら、何でわざわざお見送りにくるのかな、お兄ちゃんたちはすぐ帰ってくるのに、と心の中で思っていたんだった。
と、お兄ちゃんが地面に膝をついた。私と視線の高さを合わせてお兄ちゃんは、にっこりと笑ってくれた。へへ、疾風兄さん、朝寝坊して損したねと思ったのは今でも間違ってない、と思ってる。
「じゃ、弓姫。行ってくるね、疾風にもよろしく」
「うん。行ってらっしゃい、誠哉お兄ちゃん」
目一杯に笑ってみせた私に大きく頷いてくれて、お兄ちゃんはすっと立ち上がる。下から見上げたその顔は、既に戦に挑む剣士の顔へと変貌していた。
「よし。みんな、準備はいいかな?」
「おお、いつでもいいぜ誠哉坊!」
「坊はそろそろやめて貰えませんか? じゃあ、行きましょう」
三軒先の鍛冶屋のおじさんに苦笑しながら答えて、誠哉お兄ちゃんは都合35人だったかのおじさんたちの先頭に立って村を出て行く。遠くなっていく後ろ姿が、私の覚えている最後の姿だった。
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