海を這うツバメ

小金瓜

海を這うツバメ

 船の甲板の先には、海原と空が無限に広がっている。その青さは、雲が無ければ境目すら曖昧に思える程だった。

 ゆっくりと揺れる甲板の上で、手すりに掴まりながら、一人の若者がそれを眺めていた。紺色の帽子が嵌った短い金髪は、潮風に煽られて思い思いの方向へと毛先を向ける。

 若者が着ているのは、帽子と同じ紺色の襟の水兵服。胴の部分は純白で、胸元には真っ赤なリボンが付けられていた。


「おい、リル」


 甲板の出入り口から、声がした。金髪の若者と同じ、水兵服を着た男が一人。

 リルと呼ばれた金髪の若者は後ろに振り向いた。


「そろそろ港を出るぞ。船の中に戻っとけ」

「わかった」


 リルが短く返事をする。男は、「早く来いよ」と言い残して引っ込んでいった。

 一度だけ、リルは甲板の手すりを指先で撫でてから、甲板を駆けてその後を追っていった。

 長い廊下を渡り、向かう先は操舵室。船の中枢に当たる場所。


「ロッカ」


 操舵室に入るなり、リルは言った。操舵室そうだしつの中には、二、三人の乗組員しかいない。

 リルは太陽を象ったかのような、丸い操舵輪そうだりんの前に立つ。そして、操舵輪の備え付けられている台に嵌め込まれた画面を見た。

 “その名称は認められません。当船舶の正式名称は『気象観測船ロッカ号』です”

 そこに、文字が浮き出ていた。そしてその文字を押し流すように、次々に航海に必要な情報が表示される。それらは船――ロッカ号に搭載された人工知能が打ち出したものだった。

 リルは操舵輪に触れると、ロッカ号の“言葉”を見ながら話を続ける。


「昨日の続きだ、陸の話をしよう」


 “操舵に集中するべきです、リル乗組員”


「私の話は嫌いなのかい?」


 “内陸の情報は当船舶に必要とされる知識ではありません”

 パソコンのように、次々と画面に文字が打ち出されていく。その文字は全てリルの声に答えていた。

 操舵輪に向かって話し続けるリルを、他の乗組員は意にも介すことなく、各々の仕事に打ち込む。それぐらい、リルとロッカ号のこのやりとりは日常だったのだ。


 “出港します”


 ロッカ号が文字を出すと同時に、出港を報せる汽笛が響く。

 そして、ロッカ号は進む。波を割り飛沫を上げて、海洋へと旅立っていった。



 技術が発達した今、船舶において人間の『船長』がこなしていた仕事は、全て人工知能に引き継がれている。

 故に『気象観測船ロッカ号』は、船であると同時に船長でもあった。普段は自動操縦によって自身の舵を取り、有事の際は乗組員を纏め指揮をも取る。

 気象観測瀬の乗組員たちが纏うのは、紺色の襟の水兵服。胴は白く胸元は赤く。その見た目と天候を読むという役割から、彼らは『ツバメ』と呼ばれていた。



 ロッカ号に今回与えられた任務は、特定海域の調査。その海域が近付いてくれば、人の動きもまた増えてくる。

 ロッカ号は絶えず潮の流れを読む。『ツバメ』たちは海水を汲み上げ、それを分析し、データをはじき出す。進んだ技術は短時間での調査・分析を可能にしたが、全てを自動化するのはまだ遠い未来の話。

 リルはというと、操舵輪を握りしめ、ロッカ号の操舵に当たっていた。採水時には特別細やかな操作と長年の感が求められる。その為自動操縦に頼ることはできない。採水装置が必要以上に動かないよう、人の手で上手く波に乗せる必要があった。

 若くして技術を認められ、船の操舵に当たることができる。その事は確かに船乗りであるリルの誇りであった。しかし舵を取る船がロッカ号である、その事実がもたらす喜びと比べたら、己の技術を買われたことなど些末なものだった。

 何度操舵輪を握ってもリルの喜びは色褪せない。握りしめる度に、指先からリルの心が抜け出してロッカ号の中を隅々まで駆け巡り、そしてまたリル自身の身体の中へ戻ってくる。


 採水が完了し操舵を終えるまで、リルはロッカ号の虜だった。


「なあ、ロッカ」


 恍惚の内にありながらも、リルは小さく呟く。


 “当船舶の名称は『ロッカ号』です。――なんでしょう、リル乗組員”


 操舵に必要な情報を逐一表示しながらも、ロッカ号は画面の一部を割いてリルへ“言葉”を向ける。


「『船舶の人工知能を単独で運用してはならない』……こんな法律が無ければ、お前は任務に縛られることなく、この広い海を自由に泳いだのか」


 “おそらくそうはならないでしょう”


「何故だい?」


 “例え法律で定められていなくとも、船舶には乗組員が必要です”


 淡々と文字が打ち出される。リルは少し驚いた。『ツバメ』になって初めて、ロッカ号の、知的存在としての独立した意思を目にしたからだ。

 表示された文字を震える指でなぞる。他の乗組員に聞こえないよう画面に顔を寄せ、リルは囁いた。


「その言葉が本当なら、帰りも私に舵を預けてくれないか、ロッカ」





 甲板の手すりを強く握りしめながら、リルは目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、薄緑の画面に打ち出される文字。ロッカ号の意志。


“当船舶の名称は『ロッカ号』です。――非常時と調査時を除き、当船舶の乗組員による操舵は認められません”


 事務的で無機質な対応だった。事実ロッカ号は仕事をこなすために作られた無機物でしかない。しかしその拒絶の言葉は、リルにとっては凶器に等しかった。

 リルはただ、ロッカ号と共に海を渡る、その甘美で愛おしい時間を引き延ばしたかっただけに過ぎない。そしてそれは身勝手な要求でしかなかった。


 振られた――その言葉がふと、リルの頭の中に浮かぶ。リルの今の状態を表す上で、これほど正確な言葉は無い。

 涙で濡れた頬が、風に当たって冷たくなっていった。リルは冷えきった頬から水分を拭い、深く息を吐く。そのまま手すりから手を離し、甲板の床に身体を横たえた。

 片耳には潮騒と、やかましい鴎の鳴き声が聞こえる。もう片方からは、波を割り水上を走るロッカ号の駆動する音。


「わかっていたんだ、ロッカ。お前は、私のものではない」


 誰にともなく弁明するように、リルは呟く。ロッカ号はリルの住む国のものであって、リル自身の所有物ではなかった。リルは所詮国に雇われた船乗りでしかない。


「私のものにならないなら、せめて、誰のものにもならないでくれ……」


 ――涙に身体を溶かして、このまま海の水に混ざってしまいたい。そうしたら、ロッカのこの大きな身体を包む、大きな流れの一部になれるだろうか。


 そんなことを思いながら、リルは甲板の床を撫でる。掌が汚れてもそれを厭わない。

 泣いて泣いて泣き続けて、その果てにリルは、肉から成るちっぽけな我が身を、深く恨んだ。





 そしてリルの恨みは自身の中に留まることはなかった。それは任務を終えて陸に上がり、一番に聞かされた情報の為であった。

 港で『ツバメ』たちを待っていた、お偉い役員の言葉は、こうだった。身綺麗なスーツに身を包んで、こう言ったのだ。


「気象観測船ロッカ号は廃船にされることが決められた。一か月後、この船は爆薬で以て海に沈められる」


 廃船。その一言でリルの視界がぐらぐら揺れた。陸酔いではない。未だかつて感じたことの無い酷い吐き気に、足腰が立たなくなっていく。


 ――近年、無人の漂流ブイによる調査が盛んになっており、新たな気象観測船が製造されなくなっていったこと。船に割かれる予算が年々減っていたこと。船の乗組員を目指す者さえ少なくなっていたこと。


 それらの状況は、リルが愛して止まない船を、時間を掛けて少しずつ“死”へと追いやっていたのだ。


「……船、の」


 掠れた声を出す唇は真っ青になっていた。それでも、リルは聞かなくてはならなかった。


「船の、人工知能だけでも、保存できませんか」

「不可能だ。それをするには船のほとんどを保存しなくてはならない。それに、船舶専用の人工知能を保存して何になる」


 いよいよリルはその場に蹲った。お偉方の前では粗相をしまいというなけなしの意地は、何の役にも立たなかった。





「それで、だから私はここにいる」


 “理解できません”


 リルは自身を恨み、世界を恨んだ。そして抜け殻のような半月を過ごした後、この考えに至った。

 それがどのような結果をもたらすかは分かっていた。それでもリルは、選んだのだ。沈むロッカ号にただ一人残ることを。

 爆薬で破壊された船底に海水が勢いよく流れ込み、ロッカ号の船体は少しずつ沈んでいく。暴力的な水の奔流は操舵室内を揺らし、時に大きな破壊音を響かせる。

 それを気にする様子も無く、リルは操舵輪の台に寄りかかって言った。


「“船舶には乗組員が必要”――そう言ったのはお前だ。だから私は、お前が『船舶』でなくなるまで、お前の乗組員でいる」


 “理解できません”


「理解できなくていい。私と一緒に死んでくれ」


 今はもう用を成さなくなった操舵輪に触れると、細かな振動が伝わって来る。リルは、ロッカ号が“死”の恐怖に震えているように思えてならなかった。


「私が死んだら、身体も命も、海に還る」


 画面に顔を寄せ、リルは言う。


「そうしたらやっと、お前を抱きしめてやれるよ、ロッカ」


 お前の身体は、人間が抱くには大きすぎるんだ。そう、付け加えて。

 画面には何も表示されなかった。既に人工知能の一部がやられているのかもしれない。リルがそう思った矢先――

 船の軋む音に負けない、大きな音が聞こえた。機器のスピーカーから、歌が流れていた。辺りを見回し、リルは思わず深い息を吐いた。

 なんてことはないただのラブソングだった。男と女の愛を歌う、巷で流行りの歌。おそらく、電波放送を受信し、それを船内に流しているのだろう。

 つまりはただ適当なテレビ放送を流しているだけに過ぎない。リルの頭はそう理解していた。

 それでも、リルは台の前に跪く。操舵輪に触れる。指先が太陽のような輪をなぞる。そしてそこに、唇を寄せた。


 今ならそれをしても許される気がした。リルにとっても、ロッカ号にとっても、最初で最後のキスだった。





 海水は操舵室に流れ込み、計器も装置も、何もかもを打ち壊す。船の全てと、その中に残っていた唯一の人間は、海に沈んで魚の住処と餌になった。

 スピーカーは壊れるその瞬間まで、同じ歌を延々と繰り返していた。そのことを知っているのは、操舵室を破壊したあの水の流れだけであった。

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