第69話 笑顔の価値
隆は、感性が豊かなのだろう。だから、時に深く傷つく事も有る。それ以上に、他者の優しさがわかるなら、傷ついた心が癒える時が来る。
そして今、光を失った絶望を、様々な色で塗り替えようとしている。
散歩から帰った隆は、スケッチブックを広げた。そしてクミルに、幾つかの絵の具を、パレットに出す様に頼む。
指定した通りに絵の具が並んでいるなら、混ぜるとどんな色になるか、凡その想像がつく。それが、イメージ通りでなくてもいい。
隆は複数の緑を作り上げ、指で掬い取る。
そして色付くには早く、未だ衰える事のない万緑を、紙というステージに描いていく。
次に隆は、幾つかの青を作り出す。ステージに加えるのは、空と流れる川。
それぞれの青は、全く異なる。今の隆に、それを表現するのは難しい。だが、伝えたいのはリアルではない。技術すら必要がない。
クミルの言葉から、隆の中に広がっていった感動だ。
白い紙を、鮮やかな碧に染めていく。乱雑に残したスペースが、入道雲を彷彿とさせる。
薄く引いたベースの淡い緑に、山から麓へ流れる生命の源が生まれる。
恐らく、絵画の専門家は、この絵を評価しないだろう。そもそも、絵として成立しているかも、定かではないのだ。
それがどうした! 構うもんか!
力の限り、想いをぶつけたんだ!
これが、今の精一杯だ!
ただ、近くで見ていた者達には、隆の想いが届いていたはずだ。
ギイとガアは、禁じられていたから、言葉を発しなかったのではない。クミルは、補助を忘れて、見入っていた。
「クミルさん、手を拭きたいので、雑巾を濡らして貰えると助かります」
「……はい」
「クミルさん?」
「あ、ああ。たかしさん、ごめんなさい。たおる、ぬらしてくる。まつ、おねがいします」
描き切った後、隆の服にも絵の具が飛び散っていた。ちゃぶ台の至る所にも、様々な色が撥ねていた。
絵の具だらけの手で汗を拭うと、顔にも色がつく。それは、圧倒の脇から頭を覗かせる、些細な洒落だった。
「あの、たかしさん。えのぐ? かおにも、ついてます」
「どの辺ですか?」
「ほほ? それとあご?」
「この辺かな?」
「あぁ、だめ。たかしさん、えのぐ、ひろがった」
「ははっ、はははっ」
「たかしさん。かお、あらいましょう」
「あはははっ。後で良いですよ」
絵の具を乾かす為に、スケッチブックから外した絵は、ギイとガアが覗き込む様にして眺めている。
そしてクミルに、濡らしたタオルで指を拭いてもらうと、隆は筆を取る。
薄い青をベースに、下塗りをしていく。
次に表現するのは、川の流れ。濃淡を加える事で、水底を表現する。それは同時に、川が澄み切っている証となる。
水底に転がる石には、苔が付いている。小さな川魚の影が見える。
真っ白な紙に、散歩中での思い出が描かれる。
まるで、その目で見て来たかの様に。
決して才能が有った訳ではない。
努力を重ねて来たから、今こうして絵が描ける。足を止めなかったから、絵が描ける。
しかし、それだけだろうか。
「すごい! どうして、こんなにうまい? どうして? たかしさん、みえてない。だけどなんで、あっ!」
疑問の正体が知りたくて、思わず声に出た。だが次の瞬間、クミルは自らの口を塞いだ。言うべきではない事だった。そう思ったのだろう。
隆には、クミルの仕草は見えていない。だが、クミルを安心させる様に、柔らかな表情を浮かべる。
「クミルさん、気にしないで下さい。散歩中にも言ったと思います。この色は、クミルさん、ギイさん、ガアさんが、下さったんです。光を失った僕に、皆さんが色を与えてくれたんです。だから、描く事ができました。どうですか? 僕の絵」
一つ目の絵は、山、空、川、三つの要素を描いた。
二つ目の絵は、川そのものを描いた。
ギイとガアは、身動きすらせず、二枚の絵をじっと見ている。
そしてクミルは、どうやって言葉にすればいいか、考えていた。
山の緑は活き活きとしている。暑さを齎す太陽を、ほんのひと時、雲が隠す。それでも、まぶしい空が確かに存在している。下を見れば、川が流れ涼しさすら感じる。
川面は光を反射し、キラキラと光る。透き通った綺麗な川には、魚が泳いでいる。
確かに、自分達は川を眺めて、休憩を取った。その時に話した事が、克明に蘇る。
絵画とは、こんなにも感動を与える物なのか。凄いという一言では、この気持ちを表せない。
クミルは、日本語が上達したのを自覚している。それでも、知らない単語は、無限と思える程に有る。
さくらみたいに、的確な指摘が出来ればいい、それをどう言ったら良い?
「たかしさん、ごめんなさい。うまくことば、いえない。でも、わたしたちのおもいで、えのなか。たぶん、このえみる、きょうのこと、おもいだす」
クミルは不安そうに、言葉を紡ぐ。それを打ち払う様に、隆は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。最高の褒め言葉です!」
実の所、隆も緊張をしていたのだ。
それはそうだろう。他人が評価してくれなければ、自分がどんな絵を描いたのか、わからないのだ。
隆は、今日の楽しかった事を、絵に残したつもりだ。絵を見て、同じ事を感じてくれたなら、それ以上に嬉しい事は無い。
「所で、ギイさんとガアさんは、お帰りになったんですか?」
「いえ、います。たかしさんのえ、ずっとみてます。むちゅう?」
「ははっ、嬉しいな。すっごく嬉しい!」
ギイ達の心を、敢えて伝える必要はあるまい。その様子さえ教えれば、彼らの気持ちがわかるだろう。
程なくして、正一と園子が戻って来る。
正一は、スマートフォンを取り出すと、二枚の絵を写真に収める。そして自慢げに、住民用の掲示板へ投稿した。
クミル等三名は、飛び散った絵の具を拭きとり、後片付けを行った後、帰宅した。
帰宅した後、ギイとガアは一目散にさくらの下へ走り、興奮気味に今日の出来事を話した。
「楽しかったかい?」
「ギイギ。ギギイ、ギギギギイギ」
「ガアガ。ガガア、ガガア。ガガガ、ガガアガア」
「そうかい。隆も今日は楽しかったんだろうね。この絵には、隆の楽しいが詰まってる。良い絵だよ」
「ギイギ?」
「ガアガ?」
「本当さ。絵を描くって、難しいと思うだろ?」
「ギイ」
「ガア」
「隆は、技術を磨いて来たから、こんな絵が描ける。だけどね、技術の先に心が有る。この絵には、あんたらとの思い出が息づいてる。難しかったかい?」
「ギイギ」
「ガアガ、ガガアガ」
「そうかい。賢いね、あんたらは」
☆ ☆ ☆
やはり、隆さんは凄いです。
隆さんは感性が豊かなんだと、さくらさんが言ってました。
言葉の意味は、何となくしかわかりません。でも隆さんの様子を見ていると、その意味がわかるような気がします。
今日も、隆さんと一緒に散歩に出かけます。
ギイとガアは、隆さんの役に立てた事が嬉しかったのか、色んな物を拾ってきます。
私も、出来るだけイメージし易い様に、頑張って話します。日本語がなかなか上手く喋れず、思った事を伝えきれないのが、歯痒く感じます。
隆さんの体に負担をかける事は、よくありません。ですが毎日の散歩は、少しずつ時間が伸びている気がします。
隆さんが楽しそうにしてくれると、私も嬉しくなってくるんです。なので、うっかり時間を忘れてしまいます。
そして隆さんは、帰宅するとキャンバスに向かいます。
最初から隆さんの絵は、とても上手でした。日々、更に上達してる気がします。
それに、段々と手伝う事が少なくなってきます。
隆さんの使い勝手が良い様に、道具の位置を決めておきます。それだけで、隆さんは見えているかのように、道具を手に取ります。
たまにギイとガアが手伝いますが、私達に出来る事は少なくなってます。
ですが、こんなに直ぐに、慣れる事が出来るのでしょうか?
僕には、真似が出来ません。ですが、ひたむきに絵を描く、隆さんを見ると感じます。
大切なのは、どうやって思いを体現するかでしょう。
最初に隆さんが、直接指に絵の具をつけて、絵を描いたように。
ああやって、自分の想いをキャンバスにぶつけたように。
私は、隆さんに出会えてよかったです。
ギイとガアを見ると、彼らの気持ちが伝わってきます。想いは私と同じ。
「そうだよね、凄いよね、嬉しいね。ギイ、ガア」
「ギイ!」
「ガア!」
☆ ☆ ☆
ある日の夕方、さくらは茶菓子を持って、三堂家を訪れた。
「よかったじゃないか」
「さくらさんのおかげですよ」
「園子さん。感謝は、クミル達にしてあげな」
「あの子達は、本当によくやってくれてますよ。最初は心配で、見に行ったりしてたけど」
「あの子らはね、色々なものを乗り越えて来たはずだよ。だから、強いし優しいんだ。何より、他人の痛みをわかってやれる」
「確かに。でもね、私はさくらさんにも、感謝してるんです」
「何を藪から棒に」
「藪から棒って。それよりも、最初はどうなるかと思いました。あの子らが心配するのは、無理はない事ですし」
「息子夫婦の事かい?」
「私は、何も言い返す事が出来ませんでした。お二人があの子達を説得してくれなければ、隆の笑顔は無かったと思うの」
「あはははっ。そんな事を考えてたのかい? 馬鹿だね、あんた。あのさぁ、隆がああやって、笑える様になったのは、あんたら夫婦が甲斐甲斐しく世話をして、笑顔を絶やさない様にしてるからだろ?」
「また、見たような事を」
「そりゃ、あの様子を見てればわかるよ。隆は安心してるだろ? あんたら夫婦が、隆に安心をあげてるんだ。まぁ、旦那の方は、相変わらずだろうけどね」
「あははっ、そうかも。でも、画材を買って来たのは、あの人よ。絵の事を何も知らない人が、隆から色々と教わって、買って来たんだから」
「正一も、たまには役立つじゃないか」
「たまにじゃない! 園子も余計な事を言うな」
「はい、はい」
隣の居間では、隆が絵を描いている。そして、クミル達はそれを手伝いながら、真剣な瞳で見つめている。
絵を描きながらも、隆とクミルは言葉を交わす。ギイとガアは、隆の様子を見て、ポンポンと背を叩き、道具を手渡す。
短い期間でも、心を通わす事が出来る。そして隆の笑顔が、クミルやギイとガアを笑顔にする。
それをさくらが笑顔で眺める。無口な正一に、笑顔が生まれる。笑顔の溢れる空間を眺め、園子にも笑みが浮かぶ。
詳しい事はどうでもいい。
こうやって、みんながこの家で笑ってる。それが何よりも嬉しい。
「園子さん。いいもんだね」
「えぇ。本当に」
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