第67話 ひたむきに

 視覚に障害を持つ者にとって、何が一番怖いのか。それは、一律ではない。

 

 突如として光を失った場合、例え手を引かれたとしても、歩く事さえ怖いと感じるだろう。ある程度慣れていたとしても、不意の出来事には対処できない。

 支える側が留意すべき点は、数多く存在する。


 ましてや傷ついた隆の心を、誰が理解出来るだろう。

 全てを理解出来る者など、この世には存在しない。だからこそ、汲み取らなければならない。

 それは、人の感情が薄っすらと伝わるクミルでさえ、同様なのだ。


 手を引くギイとガア、声を掛けて導くクミルは、隆という存在を理解する所から、始めなければならない。

 また隆自身も、自身の環境に慣れる必要が有るだろう。


 当初クミルは、慣れる為の時間を、一週間は優にかかると想定していた。しかし予想以上に、練習は順調に進んだ。


 クミルは細かく声をかける。

 もう少しで玄関です、あと一歩だけ進んで下さい、玄関に着きました、座って下さい、右足を伸ばして下さい靴を履きましょう。

 慣れれば、細かく説明する必要は無くなるだろう。だがここは、隆が育った家ではない。

 

 先ずは、三堂の家に慣れる必要が有るはずだ。

 何処に何が有る、何歩進めば、玄関に辿り着く。居間からトイレに行くには、どの様に歩けばいい。

 これらを頭の中に描ければ、今より自由に家の中を、歩き回れるかも知れない。


 また、クミルとの疑似体験が、功を奏したのだろうか。ギイとガアは、優しく手を取り、隆のペースに合わせて歩みを進める。

 また、普段なら喜びを全身で表すギイとガアが、隆と一緒に居る間は、控える様にしていた。

 

 隆が驚く事を理解し、不安にさせない様に留意する。一つ一つは、小さな配慮かもしれない。そんな積み重ねが、心を軽くする。視覚に障害を持つ者にとって、大きな心の支えとなる。


 盲導犬は、相応の訓練を積んでいる。ならば訓練さえすれば、盲導犬になれるのか?

 その認識は、誤りだ。


 例えば無駄吠えをしない、それは盲導犬の愛情そのものだ。

 人が大好き、だから役に立ちたい。そんな想いが伝わるから、飼い主に安心を与える事が出来るのではなかろうか。

 

 隆が信念を持って、前に進もうと努力をしても、一歩を踏み出す事は中々に難しい。

 支えてくれる者が居るから、安心できる。恐怖と向き合える。


 恐らく一方向だけでは、駄目なのだ。

 ギイ達の優しさが、隆を安堵させ、前を向かせる。隆の勇気が、ギイ達に影響を与える。

 どちらも、未体験の事を行うのだ、拙さは有るだろう。互いの想いが、次の一歩に繋がる。


 最初こそ、緊張が有った。小さな手から感じる温もりが、優しく語り掛ける声が、隆の緊張を解していったのだろう。

 徐々に、隆は委ねる事が出来るようになった。


 そして、庭の外に出る様になると、新しい発見が隆の心を躍らせる。


「空気が澄んでますね。何て言うか、空気が美味しく感じます」

「くうき、おいしい?」

「はい。今まで、当たり前だったんです。空気なんて、どこでも一緒だと思ってましたから」

「たかしさん、いうこと、すこしむずかしい。でも、かぜのにおい、ちがう。わたし、わかる」


 土の匂い、花の匂い、肥料の匂い、風が色々な匂いを運んでくる。

 それらを具に感じ、隆は頭の中でイメージを膨らませる。そのイメージは、クミルの言葉で、より鮮明となる。


「たかしさん、はなある。みちのわき、いっぱい、さいてる」

「へぇ。どんな花ですか?」

「はな、ちいさくて、まるいかたまり。それ、いっぱい。いろも、いっぱい。あか、しろ、えっと、むらさき?」

「なんて花なんだろ?」

「たしか、そんちょう、いってた。せんにちこ?」

「もしかして、千日紅ですか? あの、小さくて丸っこいやつ」

「そう。たかしさん、くわしい」

「ただの、聞きかじりですよ。そう言えば、色がついているのは、花じゃなくて、葉っぱらしいですよ」

「はっぱ? はな、どこ?」

「さぁ? そこまで、詳しくは知らないです」


 楽しそうに話しをする隆を見ながらも、ギイとガアは考えたのだろう。


 隆は、花を目で楽しむ事が出来ない。

 それなら別の方法で、楽しませる事が出来ないだろうか?


 ギイは、ガアに視線を送ると、ポンポンと隆を軽く叩く。

 掴んでいた手を離して花の傍に近寄ると、茎の中心部分を摘まんで手折り、隆に手渡した。

 手渡された物が何かを、隆は直ぐに理解したのだろう。顔に近づけ香りを楽しむと、手で触感を確かめる。


「良い香りです。ぎいさん、ありがとう」


 ギイは返答の代わりに、クミルの体をポンポンと軽く叩く。ガアは、次は自分の番と言わんばかりに、掴んだ手をぎゅっと握る。

 そして隆は、ギイとガアの様子を想像し、顔を綻ばせる。 


 少し歩いては、立ち止まる。そしてクミルは、そこに有る風景を語る。

 クミルの拙い説明で不足した分は、ギイとガアが補う。それで、隆には充分なのだろう。

 音、匂い、触感、それらを存分に活かして、得た情報を頭の中に描く。

 それは、想像する喜びだろう。

 

 また、何がきっかけで、話しが弾むかは、わからない。

 元々、内気な性格故か、隆は進んで友達を作って来なかった。そんな隆が、クミルに気兼ねする様子が少ない。


 恐らく隆にとって、クミルは丁度いい相手なのかもしれない。

 敬語こそ覚束ないが、尊大な態度をとる訳ではない。所謂クミルは、当たりが柔らかいのだ。それが、話しやすい所以だろう。

 また、クミルは興味を持って、色んな事を質問する。だから、話しが尽きない。


 木陰に避難し休憩をする最中、話題は村の景観から、隆が住んでいた場所へと移る。

 隆の説明を聞いても、クミル等は凡そ理解は出来まい。この村に有る物ですら、クミル達には初めて見る物ばかりなのだ。

 それでも、クミルは質問を重ねる。ギイとガアは、話しを続けてくれと、隆の体を揺すってねだる。


「それ以外だと、スカイツリーなんて、有名だと思いますよ」

「すかいつり? なんですか?」

「電波塔なんです。さくらさんの家にも、TVは有りますよね?」

「はい、てれび、ある」

「TVは、放送局から飛ばした電波を受信してるんです」

「じゅしん?」

「電波を拾うんですよ」

「ひろう、わかる。でも、でんぱ、なに?」


 幾ら言葉で説明しても、どれだけ理解しようと頑張っても限界はある。いつしか隆は、地面に指で絵を描き始めていた。

 幼子に教える様に、わかり易く図解を交えて説明をする。この方法ならば、クミル達も理解し易いかもしれない。


 だが、忘れてはいけない。隆は、視覚に重大な障害を負っている。

 そもそも、絵を描く事自体が、技術を求められる。ましてや隆は、光を失って間もない。しかも、専門のリハビリテーションを受けた訳でもない。

 もし描いたとしても、他者が見た時に、それが何かを判別出来まい。

 普通ならば。


「すごい。たかしさん、せつめい、わかりやすい」

「そんな事ないですよ」

「おもしろい。たかしさん、ありがとう。ぎいたちも、よろこんでる」

「そうですか? 役に立てて、良かった」

「たかしさん、え、じょうず。なんで、うまくかける?」

「えっ……、何を……?」


 それは、クミルの何気ない一言であった。

 隆さえ忘れていた。そして説明を受けるクミル達も、気に留めていなかった。

 それだけ、熱の入った説明だったのだろう。気が付いた時には、地面に様々な物が描かれている。


 それが、どれだけ凄い事なのか。

 隆は、江藤から齎された未来の希望を、遥か遠くに感じていただろう。現実には有り得ないと、半ば割り切っていた部分も有るだろう。


 違う。


 努力と才能を、自身で評価して欲しい、隆は江藤が語った意味を、ようやく理解した。

 体が覚えている、意識せずに手が動く、それは努力の賜物だ。そうやって得た技術は、そう簡単に失われない。


 隆の瞳から、一筋の涙が零れる。


「たかしさん? どこか、いたい? なにか、かなしい?」

「違います、嬉しいんです。僕は、何も失ってなかった。失った物なんて、何一つだって無いんだ!」


 隆は、思わず叫んでいた。

 そんな隆を、ギイとガアが両側から抱きしめる。さくらにして貰っている様に、優しく。

 

 その温もりは、隆に宿った光を、より強く輝かせる。

 もう、暗闇の中に有る淡い光ではない。煌々と輝いた希望が、はっきりと道を照らす。


「ありがとう、クミルさん。ありがとう、ギイさん。ありがとう、ガアさん。教えてくれて、ありがとう。僕は、絵を描きたい!」


 これが、本当の始まりなのだろう。隆は間違いなく、大きな一歩を踏み出した。

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