第51話 信川村塾
クミル達が、台所に向かったのを見届けると、さくらは振り返る。
そして、三笠と孝道に向かい言い放つ。
「あんたら、昼は食べたのかい? それとも急ぐのかい?」
「いや。私の用事は終わった」
「俺は買い出しだけだからな」
「じゃあ、食べて来な。作るのは、あたしじゃないけどね」
「なぁ、さくらさん。本当に、クミルが作るのか?」
「あの子が言ってたじゃないか、用意するってさ」
「孝道。感想は、食べてからにしよう」
「まぁ、そうだけどな」
お茶の淹れ方が上手くなった事と、料理の腕は比例しない。まともな料理が作れるのかと、疑念を持つのは仕方ない。
しかしクミルの努力は、さくらの舌が覚えている。ニヤリと口角を吊り上げて、さくらは言い放つ。
「あんたら。びっくりするよ」
「そうなのか?」
「いや、流石にあいつが努力家だからって、無茶だろ」
女性男性問わず、料理が出来ない者も存在するのだ。ましてや、クミルの生い立ちを知っていれば、当然に出る言葉だ。
包丁ならばいざ知らず、コンロまで使いこなせるとは、到底思えまい。
「そう思うなら、台所を見に行くといいよ」
挑発する様に言い放つと、さくらは居間に向かう。顔を見合わせた三笠と孝道は、台所へ向かった。
それは、単純な好奇心であった。ただ、孝道だけではなく、三笠も高を括っていた。
しかし二人が目にした調理の光景は、想像を遥かに超えていた。
トントンと、リズミカルに音を立てて、食材が刻まれていく。火加減を調節しつつも、器用にフライパンを振り、食材を炒める。
味付けの後、炒め物を小皿に取り、ギイとガアに味見を頼む。そして、ギイ達の反応を見て、クミルは味を調整する。
ちゃんと料理をしている。文句の付けようがない、手際の良さだ。
「……凄いな」
「あぁ……」
「孝道……お前、これが出来るか?」
「いや、無理だ」
三笠と孝道は、唖然としていた。入院中のクミルを知る三笠は、余計にだろう。
少し前まで、何も知らなかったはずだ。どれだけ努力すれば、この域に辿り着けるのか。
難を言えば、ギイとガアだろう。手伝おうにも、如何せんキッチン台には、手が届かない。
木箱の上に立ち、洗い物をしているが、ガタガタと揺れ、足元が不安定なのが見て取れる。
「ギイ達には、ちゃんとした踏み台が必要だな」
「その位なら、俺が作ってやるよ」
「そうしてやってくれ」
驚きの後に、じわじわと感動が追いかけて来る。
これ以上は見る物が無いというより、楽しみは後にとっておきたい。そんな感覚なのだろう。
三笠と孝道は、キッチンの観察を止めて居間へ向かう。
居間に入ると、それ見た事かとばかりに、薄笑いを浮かべたさくらが座っていた。
さくらは、手招きして二人を座らせると、お茶を淹れる。
「どうだった?」
「多少は出来る様になったと、思っていた。だが、想像以上だ」
「俺には、到底真似できない」
息子を誇らしげに自慢する母親の様に、したり顔でさくらは胸を張る。
そんなさくらに、三笠は言い放つ。
「さくら。お前は、クミルを見習った方がいい。心が籠ってないとは言わない。だが、お茶の淹れ方が、少し杜撰だ」
「先生。回りくどい言い方じゃなくて、はっきり言ってやれ。クミルの方が上手いってよ」
「それは流石に失礼だぞ、孝道。なぁさくら、時間をかけるのも、悪くないだろ?」
「ははっ、確かにね。この歳になって、教わったよ。この村と、あんた達、それにあの子らにもね」
やがて調理が終わり、昼ご飯が運ばれてくる。
昼のメニューはご飯と味噌汁、そして大皿に盛りつけた野菜炒めだ。野菜炒めは、ちゃぶ台に運んだ後で、クミルが取り分ける。
銘々が舌鼓を打ち、平らげていく。
そして食事を終え、片付けが済むと、再び皆でちゃぶ台を囲む。
「そんで、どうするんだ?」
「授業の事か?」
「ああ、正直言うとな。先生には、あんまり無理をして欲しくない。うちの手伝いより、授業に専念してくれていい」
「無理をしてる自覚は、無いのだがな。体を動かさんと、鈍るしな」
「だけどよ。こいつらの授業はどうすんだ?」
「手伝いと言っても、二時間程度だ。その後に行っても、充分だ。体力的に無理はない」
「先生、過信は良くないぞ」
「わかってる」
孝道が話しを切り出し、三笠が答える。
そして、最初は口を挟まずに、さくらは二人の意見を聞いていた。ただ、クミル達が静観していたのは、また別の理由だろう。
三笠の事だ、日本語だけでなく、色々な知識を教えてくれるはずだ。それはクミル達にとって、嬉しい事だろう。
ただ三笠が、村で一番の高齢なのを理解している。体力的には無論の事、身体的にも無理が利かない。
そんな人に、時間を貰うのだ。おいそれと要求を口に出来まい。
「孝道。先生が無理しない様に、今まで以上に見ててやりな。あんたなら、出来るだろ?」
「当たり前だ! 先生には、助けて貰ってるんだ」
「それと、これはお願いだけどね。ギイとガアの面倒を、見てくれないかい?」
「手伝ってくれるのは、助かる。でも、大丈夫なのか?」
「問題は無いはずさ、孝則達が上手くやる。それと畑の手伝いは、クミルも加えてくれないかい?」
「あぁ、それも構わねぇ。寧ろ助かる」
「わかってると思うけど、クミルは退院して間もない。けどね、リハビリ程度の運動は、必要だよ」
「そういう事か。理解した、さくらさん」
「クミルの体力が戻ってきたら、郷善と相談しな」
「それも了解した」
孝道が頷いた後、さくらはクミル達に視線を向ける。
「あんたら、明日から少し忙しくなるけど、大丈夫だね?」
「ギイギギ!」
「ガアガア!」
「そうかい、いい子だ」
「ありがたい。けど、かじ、じかんなくなる。どうしよう」
「そんな気は、使わないでも良いんだよ。家事を任せる為に、覚えさせたんじゃないからね」
外に出る時間が増えれば、それだけ家事をする時間が減る。しかし、そんな心配は無用だと、さくらは首を振る。
ギイとガアは、家に居ても時間の使い方を知らない。同じ人間であるクミルでさえもだ。
農奴として暮らしてきたクミルは、寝食の時間以外を労働に費やしていた。言わば、遊びの概念が無い。それは、ギイとガアも似た様なものだろう。
常に体を動かし、何等かの労働をしていた者から、それを取り上げればどうなる。突然、休めと言われれば、どう感じる。
不安になるだけだ。だから、家事を教えた。それは、異なる常識を学ぶ、一つの手段に過ぎない。
「ゆっくりやりな。焦る必要は、どこにも無いんだよ」
さくらの言葉に一同は頷く。
そして、洋二を終えた三笠と孝道は、さくらの家を後にした。
「そうだ、孝道。追加で買ってきて欲しい物が有る」
「メモするから、ちょっと待ってくれ、先生」
「いいか? 筆記用具を一式だ」
「ノートと鉛筆、消しゴムってとこか?」
「予備も含めてな。代金は、私が払う」
「良いプレゼントになりそうだ」
「そう思ってくれると、嬉しい」
孝道は三笠を家に送り届けると、洋二の家に向かう。そして洋二を連れて、買い出しへと向かった。
一方、さくら達は賑やかな午後を過ごした。
外に出られる事が嬉しいのだろう。そして、授業がどんなものなのか、楽しみで仕方ないのだろう。ギイとガアは、終始はしゃいでいた。また興奮の余り、なかなか寝ようとはしなかった。
クミルもまた、ギイ達ほど表には出さないが、楽しそうに明日の事を語っていた。
明くる朝、クミルが目を覚ましキッチンへ向かうと、そこにはさくらの姿が有った。
「おはよう、ございます、さくらさん。きょう、はやい、なぜ?」
「ああ、ちょっとね。最初くらいは、弁当でも作ってやろうかと思ってね」
「べんとう、なに?」
「それさ」
キッチン台に置かれているのは、薄い板を曲げて加工した容器。中には、握り飯と幾つかのおかずが並んでいた。
「すごい! さくらさん、これ、つくった?」
「みんなで、お昼に食べとくれ。先生の分も有るからね」
「さくらさん、うれしい。ありがとう、ございます」
「礼は要らないよ。それより、ギイとガアを起こして、畑に連れて行きな。もう、孝道は畑に行ってるはずだよ。朝ごはんは、桑山の家で食べておくれ」
「はい、わかりました」
弁当を持って送り出されるなんて、初めての経験だろう。
これから起こる出来事に胸を膨らませ、ギイ達は出掛けて行く。
跳ねる様に歩くギイとガアを、クミルが諫める。そんなクミルの瞳は、朝日を映したかの様に、キラキラとさせていた。
畑に着くなり、孝道から威勢のいい声がかかる。
「おう、早かったな。あぁ、そりゃ何だ? もしかして、弁当か?」
「ギイギ、ギギギイ」
「ガアガ、ガアガガ」
「さくらさん、つくってくれた」
「さくらさんが? まぁ取り敢えず、それは家に置いて来い。場所はわかるな?」
「ギイ!」
「ガア!」
「よし。お前等、クミルを案内してやれ。弁当を置いて来たら、作業を始めるぞ!」
「よろしく、おねがいします」
楽しそうに歩くギイ達の背中を眺め、孝道は煙草に火を付ける。そして煙を吐き出すと、独り言ちた。
「ったく、わざわざ弁当なんて。あのばあさんは、負けず嫌いなのか? いや、そうじゃねぇか。あれを見たかったんだろうな」
ギイ達が戻ると、作業が開始される。
農奴として生きて来たクミルは、畑の作業に慣れている。多少、作業の内容が変わっても、直ぐに対応できるだろう。ただ、機械の操作を除いてだろうが。
「チビ共はともかく、クミル。お前は、機械に慣れておけよ」
「ギイギイ!」
「ガアガガガ!」
「ぎいたち、きかい、さわりたい、いってる」
「駄目だ! お前等にはまだ早い! 痛い思いをしたくなければ、言う事を聞け!」
早朝の作業を終えると、朝食を食べに孝道の自宅へ向かう。少し休憩を取ると、午前の作業に取り掛かる。
午前の作業は、三笠が合流する。クミル達が来た事で、手が余っている為、三笠は郷善の畑を手伝う事になった。
作業をしていると、あっという間に時間が過ぎる。
昼時になり作業を中断すると、三笠とクミル達を車に乗せ、孝道は家に送り届ける。
三笠の家に到着し、居間に移動すると、皆で弁当を広げる。
「ほう。さくらも、やるな」
「ギイギ、ギギイ」
「ガアガ、ガガアガ」
「そうだね、さくらさんは、すごいね」
三笠は、昼食を桑山の家で取る事が多い。しかし今日だけは、弁当が最良なのかもしれない。
授業開始の日に、同じ弁当をつつく。それは、親睦を深める意味でも、丁度いいだろう。
クミル達にとって、喜びの時間はまだ続く。
昼食が終わり、空の弁当箱を布で包んだ後、三笠は用意しておいた筆記用具を配る。
「ギイギイ、ギイギイ」
「ガア、ガアガガ」
「ありがとう、ございます」
「なに。礼には及ばんよ」
「それで、せんせい。これ、くれる? なに、つかう?」
「勉強に使うんだ。使い方から、教えてやろう」
貰える物は、何だって嬉しい。そんな気持ちになるのは、人間だけではないだろう。
筆記用具を受け取ると、クミル達は揃って頭を下げる。そして、笑顔を浮かべた。
「さて、お前達に渡したのは、ノートと鉛筆、それに消しゴムだ。ノートには、文字を書く。文字を書く道具が鉛筆だ。書き間違えたら、消しゴムで消す。実際にやってみようか」
ゴブリンは、独自の言語を有していても、文字という概念が無い。
農奴として生きて来たクミルは、文字という存在を知っていても、仕事に必要が無いから覚えていない。無論、それを綴る道具もだ。
文字とは何か、鉛筆の持ち方、書き方から、最初の授業はスタートした。
それはギイとガア、そしてクミルにとって、楽しい時間の始まりになる。
勿論、久しぶりの教鞭を執る三笠にとっても、心を躍らせる時間の始まりだった。
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