第29話 優しい光景

 クミルに礼をされたのが、照れくさかったのだろう。さくらは、クミルからベッドの上に視線を移す。

 ベッドには少し膨らんだ、使い古しのリュックが置かれている。


 孝道にお金を渡し、買いに行かせた下着や歯ブラシ等の日用品を、中に詰めたのだろう。

 大した量ではない、大した額がかかった訳でもない。だが、大事にしていると感じれば、嬉しくもなる。


「礼をされる事はしてないよ。それより車で、孝則が待ってるんだ。行くとしようかね」


 病室の入り口に体を向けて、さくらは言い放った。しかしクミルは、首を横に振る。


「さくら、さん。わたし、あるきたい」


 その言葉に、思わずさくらは立ち止まる。振り返ると、目を皿の様にしてクミルを見つめた後、貞江と三笠を交互に見やった。


「まあ、そういう事なんだ。これから生活する場所を、自分の目と足で確かめたいそうだ。簡単な地図を描いたから、迷う事も無いだろう」

「一応、タオルや水は持たせますので」


 二人の言葉で、さくらは悟る。

 既にひと悶着有ったのだろう。そして二人は、クミルの熱意に負けて、譲歩したのだ。

 ならば、敢えて自分が語る言葉はあるまい。


「そうかい。なら先に帰ってるからね。ゆっくり歩いておいで」


 さくらは、多くを語らずに、病室を出る。その後に、三笠達が続く。

 待合室を超え自動ドアを潜ると、熱気が襲ってくる。温度差にやや眩みながらも、さくらと三笠は車まで歩いた。


 クミルは、車に荷物を積み込むと振り返り、やや名残惜しそうに、診療所を眺めている。

 彼にとって、二週間は長かったのか、それとも短く感じたのか。どちらにしても、滞在していた場所だ。思う所は有るだろう。

 そんなクミルに、伸江が心配そうに声をかける。


「いい? 絶対に無理はしない事、わかったわね? 休みながら、歩きなさい。それと水分補給を忘れないでね」

「はい。ゆっくり、あるく。もらったみず、ちゃんと、のむ」


 一方車内では、三笠が事情を孝則に説明をしていた。


「はぁ? あいつ、倒れねぇだろうなぁ?」

「問題あるまい」

「過保護かい?」

「余計なお世話だ。来ないなら、行くぞ!」


 やがて、がなり立てる音が、徐々に遠くなる。クミルは車を見送ると、徐に歩き出した。


 じっとりと重くなった空気が、まとわりつく。たった数歩、足を動かしただけでも、汗が噴き出す。

 クミルは、日差しを遮る様に手をかざす。指の間から差し込む強い光に、少し目を細めながら、空を見上げた。


 ふうっと息を吐くと、クミルは汗を拭う。そして、蒼穹に浮かぶ白色の城から、青々とした緑へ視線を落とす。

 見慣れた自然に溶け込む、見慣れない光景は、クミルに驚きを与える。新たな出会いに溢れ、好奇心が走り出す。


 疎らに並ぶ、主を失った灰色を通り過ぎれば、息をする建物に辿り着く。しかし、弾む心とは裏腹に、クミルの息は上がっている。


 慣れないのは、日差しだけだろか? 熱気を受けて、溶けださん程に熱くなった路面が、クミルの体力を奪う。

 クミルは建物の影に避難すると、リュックからペットボトルを取り出して、喉の渇きを潤した。

 そして、丁寧に折りたたんだ地図を、ズボンのポケットから取り出す。


「ここ、やくば。もうすこし、さき。まがる」

 

 影に居ても、流れ出す汗は止められない。だが、それすらも今のクミルには、喜びであった。


 逃れようのない暑さ、体全体で感じる痛みが示している、お前は生を全うしろと。

 生きている。その実感こそが、一つの許しなのだろう。


 自分だけが生き残り、安全な場所で安穏としている。それを悔いない日は無かった、これからも悔やみ続けるだろう。

 だが、それでいい。変えようが無い、事実なのだから。後悔という重荷を抱えても尚、前に進むべきなのだから。

 それが、生き残った者の、定めなのだろう。


 クミルは、再び歩き始める。

 役場から少し歩けば、地図に描かれたポイントに辿り着く。そこからは、見慣れた路面に変わる。


 久しぶりに感じる、土の感触を確かめると、ほっとする。

 クミルを安心させるのは、足から伝わる感触だけでは無かろう。その瞳には、畑が映っている。


 鮮やかに色付いた、様々な作物が目に飛び込む。風に運ばれてくる肥やしの香りは、懐かしさすら感じさせる。

 クミルは、畑に近づくと、膝を突く。そして土を手に取り、じっくりと眺めた後、匂いを嗅ぎ、感触を確かめる様に握る。


 クミルは、これまで農奴として暮らしてきた。土の良し悪しは、わかっているつもりだ。


 この畑の土は素晴らしい。故郷でも、これだけの土は見たことが無い。また、これだけ豊かな実りを付ける畑も、見たことが無い。

 土の作り方や作業の工程に、大きな違いが有るのだろう。


 故郷を思い出し、やや郷愁を覚えながら、クミルは畑を見つめる。

 暫くすると、遠くから声が聞こえてくる。


 一つは、村の住人だろう。聞き覚えの有る声だ。他の声は、人間が発するものではない。


 件のゴブリンは、さくらと村長の妻みのり、息子の孝道に慣れていると、三笠に教えられた。

 クミルは、それを聞いた時、目を皿の様にした。


 さくらに懐くのは、理解が出来る。

 助けてくれた恩人だから、心を許しているのだろう。


 だが、元来ゴブリンという種族は、臆病で警戒心が強い。

 人を見かければ、姿を隠すか逃げ出す。また、集落に近づく人間を、集団で攻撃する。

 過去に、人間と触れ合うゴブリンが存在した事実を、クミルは知らない。


 そしてゴブリンは、小さな動物を狩る捕食者で有ると同時に、大型の害獣から狙われる被食者でも有る。

 また計算高く、狡猾な一面も持つ。


 集団での狩りや、狩りで使用する罠も、その一例であろう。人を恐れる割に、人里近くに集落を作るのも、食料確保の保険で有ろう。


 彼らが特別なのか、それとも特別な環境に適応したのか。明らかに、普通のゴブリンとは違う。


 このまま、この場所でじっとしていれば、彼らがクミルを見つけるだろう。

 孝道は兎も角、ゴブリン達とは、これから一つの家で生活するのだ。今、会っておいても、損にはなるまい。


 ただ、彼らはクミルの事を覚えているだろうか? 警戒はされないだろうか?

 クミルが思考を巡らせていると、声が近づいて来るのを感じた。


「おい! お前、クミルだよな? そうか、今日が退院だったな。でも、なんでこんなところに居るんだ? 車は乗らなかったのか?」


 話しかけて来た男性は、会話をした事が有る。自分に色々な物を届けてくれた人だ。

 一見、ぶっきらぼうに見えるが、とても優しい。


 今の彼からは、ほんの僅かな疑念、それと心配する感情が伝わってくる。村長の息子故に、事情を把握しているのだろう。

 ただ、何と言って説明すればいい? 自分がここに居るのは、我儘を通した結果だ。そのまま話して、返って心配をかけないだろうか?


 それと、男性の背後に隠れる様にして、二匹のゴブリンが顔を覗かせている。

 やはり、警戒心が強いのだ。それに、自分の事を忘れてしまったんだろう。それを責めても仕方ない。

 だが、どうやって、彼らと意思疎通すればいい?


 クミルが葛藤している中、孝道は返事を待っていた。


 炎天下の仲、退院したばかりの奴が、何をしている? 歩いてここに来たのか? 歩いても平気なのか?

 そう言えば、農作業の経験が有ると言っていた様な気がする。うちの畑に、興味があるのか? もしかしてギイ達と同じく、手伝ってくれるのか? それはありがたい。

 だが今、彼を悩ませているのは、そんな事では無いだろう?


 今、彼はもどかしさの只中に居るはずだ。

 覚え始めたばかりの日本語では、意思を上手く伝えられないだろう。どんな言葉を返していいか、わからないのだろう。

 それ以前に、ほぼ初対面の相手と、どんな会話をすれば適当なのか、迷っているはずだ。


 言葉遣いは、気にしなくてもいい。話す内容も。

 ただそれは、ある程度親しい間柄なら、通用する事だろう。ほぼ、初対面なら気を使うはずだ。

 特に、クミルという男は、そんなタイプに見える。


 互いに、距離感が掴めずにいる。互いに次の言葉が、かけられずにいる。それは、思いやりの結果なのかもしれない。

 そんな、もどかしさを打ち消そうと、行動に出たのはギイとガアであった。


 ギイ達は、孝道の後ろに隠れるのを止め、クミルに近づいていく。

 そして、静かに片手を差し出した。それは、初めて孝道に会った時に、行った挨拶の一つ。

 ギイ達は、行動の意味を理解して、クミルに接しようとしている。孝道の表情に笑みが浮かぶ。


「これは、挨拶だ。ギイ達の手を、握ってやれ」


 孝道の言葉が、クミルの心に染み渡る。

 優しい人達と、特別なゴブリンなのだ。悩まなくて、いいのかもしれない。自分は自分らしく、彼らと接すればいいだけなのかもしれない。

 孝道につられる様に、クミルにも優し気な笑顔が浮かぶ。


「ぎい。があ。よろしく、おねがいし、ます」


 そしてギイとガアは、握られた手に少し力を籠める。この瞬間、互いに確信をした。

 種族が違う、言葉が通じない。だが、心配する事はない。多分、上手く行く。この相手となら、一緒に生活が出来る。


 優しい光景に包まれ、さくらの家に新たな住人が出来た。

 しかし、彼らはまだ知らない。村に暗雲が立ち込めている事に。

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