第21話 言葉の壁

 時は、騒動が有った翌日に戻る。

 時刻は午前八時、既に夏の強い日差しが、容赦なく照り付ける。

 九十五歳の老体には、中々に辛い道程をゆっくりと歩き、三笠は病院を訪れた。


 自動ドアを通り抜けると、受付窓口に向かう。そして、慣れた手つきで、カウンターの上に置かれた、呼び出しボタンを押す。

 続いて、ボタンの隣に置かれたリモコンを操作し、冷房を起動させる。


 ベンチソファーに腰かけ、手拭いを懐から取り出すと、顔から滴る汗を拭きとる。冷房の風を全身で受け止めるかの様に、両手を広げて体を伸ばす。

 そして深く深呼吸をし、息を整えた頃、窓口から三笠を呼ぶ声が聞こえた。


「先生? どうしたんです? 連絡を頂ければ、お伺いしたのに」

「いや、そうではない。私は快調そのものだ。それより貞江。昨日は、泊まりだったのか?」

「ええ。入院患者が居る間は、仕方がないですね」


 三笠の問いに答えると、貞江は受付窓口から姿を消す。そして、お茶を乗せたお盆を手に、待合室へと入って来る。

 貞江が持って来たのは、机の上に置いておいたペットボトルのお茶を、注いだだけの代物である。


 汗をかいた後に室内に入り、直ぐに冷房の風を浴びたのだ。冷茶では、体を冷やしかねない。淹れたての熱いお茶では、飲みにくい。

 それは医者というより、貞江自身の配慮であろう。


 お茶を渡された三笠は、口にふくんだ後、ゆっくりとお茶を喉に流していく。飲み干すと、軽く頭を下げて、コップを貞江に返す。

 

「有難い、助かった。ただ、こういう時、医師が一人なのは、心許ないな。息子の一人でも戻ってくれば、お前も楽になるだろうに」

「仕方がないですよ。あの子達も、それぞれ患者を抱えてますから」

「それなら、せめて往診を控えるべきだな。どうせ役場に居ても役立たずなんだ。診療の送り迎えを、孝則にさせるか」

「お父さまは、あれでもお忙しいんですよ。今朝も様子を見に来てくれましたし」

「冗談だ。孝則が頑張ってる事は、よく知っている。それで、様子とは? あの青年の事か?」

「はい。さくらさんが、気にしているだろうからって」

「それで、様子はどうなんだ?」

「だいぶ、落ち着いてます。さっき、朝食を食べ終えた所です」

「そうか、ならいい」

「所で先生も、あの青年に用が有るんですか?」

「ああ。会議の時に話しをしただろ? 言葉を教えるんだ。今日は、顔合わせ程度に、寄ってみた」

「そうでしたか。それで、ここまで歩いて来られたんですか?」

「仕方あるまい。それこそ、孝則を呼び出す訳にも行くまい。案内を頼めるか?」


 患者の下へ連れて行く様に乞うと、三笠はゆっくりと立ち上がる。

 貞江はゆっくりと歩き、三笠を先導する。そして病室の戸をノックし、静かにノブを回した。

 

「※※※※、※※※※。※※※※※?」


 病室に入ると、青年の視線が向けられる。そして青年は、腕を動かしながら、何かを告げる。

 言葉の意味はわからない。しかし、青年の表情は、至って普通であろう。

 怒っている感じは受け取れない、かと言って悲しんでいる訳でもない。何か不満が有って、訴えている風でもない。青年の言葉は、挨拶の様なものであろうか?

 この時、三笠の脳は、猛烈な勢いで回転を始めた。


 貞江の事は、医師として認識しているのだろうか?

 そもそも、医師という存在を、彼は知っているのだろうか?

 彼の視線は、違和感を感じて向けたものではない。

 恐らく貞江の事は、なにがしかの形で受け止めているのだろう。

 しかし、私の事はどう感じるだろうか?

 見知らぬ他人、それも老いぼれが、突然現れたんだ。驚いても不思議ではない。

 誰だって、見知らぬ他人を見れば、訝し気な目で見るだろう。

 だが、彼の仕草は驚いた風では無かった。

 先ほどの言葉は、ただの挨拶だったのか?

 だとすれば、彼はとても凄い人物ではないか?

 

 彼は、見るからに痩せている。

 どんな環境で、暮らしてきたのだろう?

 満足な食事が、出来なかったのだろうか?

 それとも、何か病を抱えているのだろうか?

 

 昨晩は、かなり取り乱していたと聞いている。

 だが、今はすっかり落ち着いた様子である。

 なぜ、そんなに落ち着いていられるのか?

 不安は無いのだろうか?

 

「※※※※※?」


 じっと見つめられているのを、不思議に感じたのだろう。青年は首を傾げて、再び何かを告げる。

 三笠はハッとした様に、頭を下げる。そして、徐に口を開いた。


「私は、三笠英二です。み、か、さ、え、い、じ、です」


 ゆっくりと、一つ一つの言葉をはっきりと発音し、区切る様にして三笠は話す。

 そして、自分を指さして、何度も名前を繰り返した。

 繰り返していると、青年は三笠の言葉に合わせて、発音しようと試みる。


「※、※、※、※、※、※」


 最初は、上手く発音できない。しかし、ゆっくりと何度も繰り返す毎に、聞き取れる言葉に変わる。


「み、か、さ、え、い、じ」

「※、※、※、※、※、ジ」

「良くなってきたな。もう一度、み、か、さ、え、い、じ」

「※、※、※、※、イジ」

「いいぞ、その調子だ。み、か、さ、え、い、じ」

「※、※、※、エ、イジ」

「どんどん良くなるな。もう少しだ、頑張れ! み、か、さ、え、い、じ」

「ミ、※、※エ、イジ」

「いいぞ、いいぞ! もう少し、もう少しだぞ! み、か、さ、え、い、じ」

「ミカ、サ、エ、イジ」

「そうだ! アクセントを変えろ! みかさ、えいじ」

「ミカサ、エイジ」

「そうだ! それが、私の名前だ!」


 三笠は、軽く挨拶だけして帰ろうと考えていた。しかし、その考えは、頭の中から消え去っていた。

 青年が三笠の名前を言う為に、頑張っていたからだけではない。

 青年にも、伝えたい意思が有るのではないかと、思ってしまったのだ。


 気持ちを伝える手段なら、幾らでも有るのかも知れない。ジェスチャーだけでも、少しは伝える事が出来る。だが、正確に意思を伝えるのは、言葉が一番なのだろう。

  

 また、この世界でも言語によっては、発音の仕方が異なる物が有る。

 根本的な声帯や喉の使い方が異なれば、その言語を真似て発音する事さえ、難しいだろう。

 しかし、同じ人間なのだ。発音の仕方に慣れれさえすれば、言語の習得は可能であろう。それは、青年も同じだ。

 

 ひたすら繰り返す事で、青年は日本語の発音が出来た。

 後は、色んな言葉で同じ事を繰り返し、慣れていけばいい。同時に言葉の意味を覚えていけばいい。


 自国の言葉でさえも、あやふやな日本人が多くなっている。一朝一夕で言語の習得など出来るはずがない。


 しかし……。


「早く、君の口から、君の考えている事を聞きたい」


 画一的、普遍的、言い方は色々だ。それは、一定の水準を保つ為に、必要な教育姿勢だろう。

 どの生徒にも、意思が有る。それぞれに成長の仕方が違う。ロボットじゃない、叩き込んで覚えさせるのは間違いだし、意味の無い事だ。


 三笠は、長い教師生活の中で、色んな生徒と巡り合った。教師として三笠は、個を重んじて来た。 

 反応の薄い生徒の、意識を向けさせる努力をして来た。覚えの悪い生徒でも、諦めずに繰り返す意義を伝えて来た。


 今、青年が口にしたのは、名前だけだ。

 だが、青年は真っすぐに三笠を見つめて、真摯に取り組んだ。そんな反応を示されると、三笠でなくとも気持ちが昂るだろう。

 ましてや三笠は、根っからの教師なのだ。そんな三笠の教師魂に、青年は火を付けた。


 そして、熱い気持ちは、必ず伝わるのだ。


 青年の目を見ればわかる。

 言葉を覚えようとしてくれている。

 言葉が通じず、意志が伝わり辛いジレンマから、抜け出す努力をしてくれる。

 

 青年は、一歩を踏み出した。その一歩は、とても貴重な一歩なのだ。


 早く、君の事を聞かせてくれ。

 どんな暮らしをしてきたか、どんな世界で生きていたのか、そこには何が有って、何が無いのか。

 色んな事を教えてくれ。


 この村の事を、教えてあげたい。この村の人達の事を教えてあげたい。日本という国がどういう国か、教えてあげたい。

 この村で採れる作物の事を教えてあげたい。

 

 少しずつでもいい、君と話そう。


 途中で、貞江が用意してくれていた昼食を一緒に取り、日本語の練習は夕方近くまで続いた。

 それは、さくらの家から戻った貞江が、目を皿にする程。余り無理をさせるなと、三笠が叱られる程、熱心に続いた。


「オカエリ、ナ、サイ。サダエ、サン」


 その言葉を口にした青年の表情は、とても晴れやかであった。

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