第14話 蘇る悪夢

 さくらは兄弟を、柔らかに包み込んでくれた。強張った心を、甘やかに解してくれた。

 そして兄妹は、新天地に希望を求めた。


 不安はあった。でも、さくらが居たから、一歩を踏み出せた。兄妹にとって、さくらとの出会いは、大きな転機であった。

 兄妹は、無意識に記憶を封じようとしていた。何故なら、心を簡単に壊す程に残酷な出来事だったから。


 ☆ ☆ ☆


 それは、突然の事だった。

 ある夜、遠くから飛来した巨大な何かが、轟音と共に森に落ちた。森に墜落した何かは、ゴブリンの集落の近くを通って、深部へと進む。


 森に住む、多くの生物は、轟音に恐れて身を隠した。

 不運なのは、ゴブリン達だろう。集落の近くで、轟音が鳴り響いたのだから。

 ゴブリン達は、集落を放棄して、直ぐに音がする方角から離れた。


 翌日、ゴブリン達は集落へ戻った。そして周辺を探索すると、木がなぎ倒された後が有り、深部に続いていた。

 恐らく、轟音はこれが原因だろうと、判断した。それは、同じく様子を見に来ていた他の種族も、同様に考えたのだろう。

 森に住む者達は、楽観視していたのだ。


 森には、深部に住むヌシを頂点にした、生態系が作られている。そして、秩序がある。

 特定の植物を食べる虫がいる。その虫を食べる小動物がいる。虫が特定の植物を食べ尽くせば、食料を失った虫の数が減り、小動物も飢えて数を減らす。

 その行為は、生命の循環を断ち切り、自らの命を削る。よって森の生物は、生態系を崩さない様に、特定の種を絶滅させたりはしない

 そしてヌシは、森の恵みが失われない様に、増え過ぎた生き物を食らい、総体数を調整する。

 

 なにより重要なのは、感謝して森の恵みを食らう事である。

 森に生かされている事を忘れて傲慢になれば、いずれ森の生態系を破壊する事になる。


 そう。例え、深部に繋がる道が出来たとしても、生態系が守れている限り、ヌシが深部から出てくる事はない。

 ましてや森の恵みが、失われる事はない。そう考えていた。

 だが、それは間違いであった。

 

 やがて、森の深部から瘴気が広がっていく。

 瘴気に侵された木の実を食べた小さな動物が、狂ったように暴れだす。そんな事態が、森の中で幾つも起こり始める。

 肉食の生物が、集団で暴走を止めて、事なきを得た。しかし肉食の生物は、倒した獲物を食らう事はなかった。これを食らえば、同じ様に狂いだすと、本能的に察したのだろう。

 

 瘴気は森の恵みを奪っていく。そして、恵を失った生物は、徐々に森の外へと住処を移していく。

 それは、小さい生物の餌場を奪う事に繋がった。


 やむを得ず小さな生物は、餌を求めて森の外へと出る様になる。

 イノシシやウサギの様な動物だけではない、ゴブリンやノームといった人型の生物も、森の外に生きる糧を求めた。


 森に起きた異変は、これだけではなかった。

 森では見た事が無い化け物が、現れる様になった。それは、森の奥からやって来る。そして、大きな体躯であるトロールでさえも、殺して食らった。


 森の生物達は、確信していた。

 その化け物が、何かはわからない。決して、ヌシの仕業ではない。森に住む者ならば、食い散らかす事は決してしない。

 ただ間違いなく、森に脅威が訪れたのは、事実であった。

 

 空を飛べる生物は、直ぐに森から逃げ出した。しかし、全ての生物が、森を離れる事は出来ない。

 森が全てなのだ。そこしか、生きる場所を知らないのだ。

 何より森の外には、人間の世界が広がっている。脅威が見知らぬ化け物から、人間に変わるだけ。森から出れば、待っているのは死なのだ。


 残された小さな動物は、瘴気に侵されて、狂気に成り果てる。そして人型の生物は、次々と謎の化け物に襲われる。

 ゴブリン達も、例外ではなかった。


 集落を襲ったのは、大きな狼であった。それがただの狼ではない事は、一目で理解が出来た。


 瞳は、何も映していない。景色はおろか、目の前の獲物さえも、映していない。

 口はだらしなく開き、鋭い牙の間から、涎を垂れ流す。爪には血がこびり付き、数多の生き物を無慈悲に殺したのがわかる。

 何よりも、目を逸らしたくなる程の禍々しい瘴気が、体から溢れ出ている。


 兄妹が生き延びる事が出来たのは、奇跡としか言いようが無い。それは仲間と両親が、その身を犠牲にして起こした奇跡であった。

 

 皆が、勇敢に立ち向かった。しかし、化け物にとっては、赤子の手を捻る様なものだろう。

 大きな爪で、切り裂かれる仲間がいた。弄ばれる様に追い立てられ、頭を砕かれる仲間がいた。食い千切られ、臓物をまき散らしていく仲間がいた。

 両親は、兄妹が逃げる時間を稼ぐ為、その身を化け物に捧げた。


 森の生物達は、命の循環を理解している。故に、同じ森に住む者の餌となっても、怨嗟を残す事はない。

 命に感謝し食らい尽くすなら、仲間の犠牲は浮かばれもしよう。だが、化け物が行ったのは、食事ではない、狩りでもない。


 化け物の虚ろな瞳は、何を映すのか。

 少なくとも、飢えを満たそうとして、行った事ではないだろう。どれだけ殺戮を行っても、化け物が満たされる事は無いだろう。

 どす黒い意志に支配され、操られるだけの悲しい化け物は、何を思うのだろう。

 間違いなく、森の生物達が生命の循環に戻る事は、二度とないだろう。

 

 その光景は、兄妹の心を深く抉る。

 それでも、壊れそうになる心を、必死に繋ぎ止め。震える足を、懸命に動かし。止まった思考を、全力で回転させ。兄妹は必死に逃げた。

 それは、仲間達の勇敢さを受け継ごうとした為、犠牲を無駄にしない為、それだけである。


 しかし、恐怖は刻まれた。そして今、再び森へと足を踏み入れ、恐怖は蘇った。


 引き裂かれながら、仲間が必死に叫ぶ。


「子供達を逃がせ!」


 血を吹き出しながらも、化け物の足にしがみ付くのだ。そして、命がつきるその瞬間まで、叫び続ける。


「逃げろ! 早く逃げろ!」


 仲間が次々と倒れる中、両親は恐れる事なく化け物に立ち向かう。


「時間を稼ぐ。早く行け!」

「生きなさい! 逃げなさい! 生き抜きなさい!」


 倒れていく仲間と両親。どす黒い意志に支配された、悲しい化け物。二度と見たくないと思っていた光景が、はっきりと脳裏に浮かぶ。


 足が竦む、目の前が暗くなる、ガタガタと体が震え、否応なしに思考は停止する。妹は兄にしがみ付き、兄は妹を力強く抱きしめる。

 互いの体温を感じなければ、立つ事さえも難しい。


 勇気を受け継いだはずだ。なのに立てないのか?

 意思を持たず、たた蹂躙するだけの化け物が、まだ怖いのか?

 それとも未知の事柄に、怯えているのか?

 不足の事態に、体が強張っているのか?

 

 どれも正解なのだろう。

 逃げる事さえ怖かった。でも、逃げ切った。兄は妹を守り切った。妹は兄の為に、頭を働かせた。それは、火事場の馬鹿力の様なものだ。

 兄妹だけで出来た事ではない。両親と仲間がそうさせたのだ。


 ここは、懐かしい匂いがしない。あの化け物は居ない。そんな事は、理解している。

 同時に、仲間と両親が存在しない事も理解しているのだ。

 もう、誰も守ってくれない。


 温もりを与えてくれたさくらの手も、離してしまった。

 あの優しさに触れ、その手を取る事で、癒される気がした。恐怖から逃れられた気がした。だが、ここにさくらはいない。

 もう、あの手を取る事は出来ない。


 生き延びろ。その言葉は、忘れていない。だが、もう動けない。やがて、妹が蹲る。そして、兄は妹を庇う様に、覆いかぶさる。


 声にならない叫びであったろう。妹は、声を殺して泣いていた。そして兄は、妹を守り切れない不甲斐なさに、涙を流していた。

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