第13話 現実からの逃走

 一度抱いてしまった疑念は、限りなく膨らみ、全てを塗りつぶす。

 そして、朦朧としながらも、青年の頭は現実を受け入れようと働いていた。

 じっとりとした風、流れ出す汗、それは現実である。そして現実は語り掛ける。

 

 ここは、お前の世界ではない。


 青年は知っている、噂で聞いた事がある。

 この世には、渡りという奇妙な能力があると。その能力を使えば、文字通り世界を渡る事が出来る。

 その噂を聞いた時、青年は笑い飛ばした。

 何故かそんな記憶が、青年の中に蘇る。そして記憶は告げている。


 それが、お前をこの地に送った力だ。


 ここが神の国ではなく、現実だとするなら、あの老婆は何が目的でこんな場所に連れて来た?

 いや、あの老婆は自分を助けてくれた、治療できる場所に連れて来てくれただけだ。

 なら、ここは何処だ?

 どうやったら、帰る事が出来る?

 

 いや、違う。

 帰ってどうする。


 あのとき見た夢が、本当の事だったら、村は無い。それに、畑だって荒らされている。

 もしかしたら、国すら無いかもしれない。

 そんな場所に帰ってどうする?

 

 いや、あれは夢だ!

 冒険者達は、逃げ切れたはずだ。そして、村の人達も逃げる事が出来たのだ。そして、国のお偉いさんがこの事を聞き、兵隊を派遣してくれる。

 今頃は、あの化け物は駆逐されただろう。

 冒険者達は、仲間を一人失った。でも、生き残った冒険者も居るのだ。僅かな報酬を受け取って、あの冒険者は次の仕事に赴いたはずだ。

 そして、村の人達は、元の生活に戻ったはずだ。


 だけど……。

 どっちが現実的なのかと言えば、前者の方だろう。そして自分が見たのは、夢にしては現実感がある。

 淡い期待をしても、無駄なのだろう。

 

 受け入れろ。


 青年の頭は、そう告げる。だが、納得はしたくない。

 帰れば、仲間が待っている。あの老婆には申し訳ないが、ここが違う世界なら、帰るべきなのだ。

 どれだけ現実が残酷であったとしても。


 だが、帰る方法は?

 渡りなどという、奇妙な力を自分は持っていない。母なら、母なら持っている可能性が有ったかもしれない。でも、母はこの世にいない。

 残してくれたのは、ネックレスだけ。


 困った時は、形見のネックレスを握り、神へと祈る。それが、青年の習慣であった。

 いつもそこに有った物がなく、少し寂しくなった胸の前で、青年は握りこぶしを作る。

 誰に何を祈っていいのか、わからずに。それでも、何かに縋りたい。

 青年の心は、訴えていたのだろう。


 こんな現実は、認めない。

 認めて堪るか!


 診療所から、山道口付近まで、歩いてもそう時間はかからない。そして、道は一本で、迷う事もない。

 青年は既に三十分ほど、徘徊していた。間隔は広く、あまり役に立っていないが、無いよりはマシ程度の街灯を頼りに、フラフラと歩いていた。


 頭と心が、激しく衝突している間に、青年は辿り着いていた。薄暗いがわかる。ここが、霧を抜けた後に到着した場所だ。

 既に霧は無くなっている。それでも、青年は祈った。

 帰りたいと、そう祈った。


 だが、本当にこれが現実なら、帰る方法などない。

 その瞬間、青年の中に色んなものが押し寄せて来た。

 

 最初から知っていたはずなのだ。

 それなのに、自分を偽った。そして、神の国だと思い込んだ。

 そうすれば、残酷な現実から目を背ける事が出来たから。死と直面した時に見た光景は、現実なのだ。

 帰っても何も無い。

 

 老婆に懐いたゴブリン達も、同じだ。彼らは、あの集落の生き残りだろう。そして、彼らも帰る場所はない。それをどこまで認識しているかは、わからない。

 だが、置かれている状況は、自分と大差ない。


 全て失ったのだ。

 自分は全て失って、ここに居るのだ。

 死んだほうが良かったのか?

 あの時、生きる事を望まない方が良かったのか?


 あの老婆が、神ではない事は、わかっていたはずだ。

 ただの人間で有る事は、わかっていたはずだ。

 だが、ゴブリンを手懐ける人間など、見た事もない。

 そして、見ず知らずの自分を、生かそうと懸命に蘇生処置をしてくれた。

 そんな人を見たら、聖人か神のどちらかだと勘違いするだろ? 仕方がないじゃないか!

 

 自分の傷は深かったはずだ。

 あの老婆は確かに、自分を救ってくれた。だけど、自分の傷を治してくれたのは、母の力だ。

 母が祈りを籠めた、宝石に宿った力だ。

 

 助けて欲しいと願ったから、あの老婆が現れた。

 生きたいと願ったから、宝石の力が自分の傷を癒してくれた。

 そして、老婆が願ったから、この場所に辿り着いた。


 もう、帰る術はない。

 みっともなく足掻くな、理解しろ!

 村に帰っても、誰もいない。みんな、あの化け物に殺されたんだ。

 認めろ! 現実を受け入れろ!

 お前は、この見知らぬ世界で、生きていくしかないんだ!


 青年は泣いていた。

 涙を流して泣いていた。

 声を上げて泣いていた。

  

 青年は幸運だっただろう。

 化け物に襲われて、瀕死の状態であったにも関わらず、生きているのだから。

 そして、見知らぬ世界で治療を受け、自力で歩けるまでに回復したのだから。


 同時に青年は、不幸なのだろう。

 あの時、体から分離した魂は、倒れた後に起きた事を、見させられたのだから。

 冒険者が、村の人達が、蹂躙されていく様を、目に焼き付けさせられたのだから。


 だから、全ての現実を否定した。そして、全てを偽った。

 だが、それはあくまでも一時のまやかしでしかない。


 現実は残酷に、突きつける。

 自分の置かれた状況を、はっきりと教えて来る。

 

「どうして! どうして! 僕はなんで死ななかった! なんで、僕はのうのうと生きている! みんな死んだんだ! 僕だけ、生き延びたんだ! そんなものに、何の意味がある! 僕みたいなのが生き延びて、何の意味がある! どうしてだ! どうして!」

 

 青年は蹲り、何度も路面を叩きながら、泣き叫んでいた。拳から伝わる痛みよりも、現実を受け止める痛みの方が強い。

 どうしようもない痛みが、青年の心を抉っていた。

 

 生きている幸運すらも否定し、泣き叫ぶ青年は、正にどん底に有るのだろう。

 そして一方では、兄妹達が走っていた。


 ゴブリンの兄妹は、青年よりも少しだけ、冷静に事実を受け止めていたのかもしれない。

 何より兄妹は、ここが慣れ親しんだ森ではない事を、理解している。


 幼い為、森から出て人里に行った事はない。だけど、仲間達からある程度は聞いている。

 人間と、人間の里についてを。


 人間は、自分達と違って、食べ物を作る。だから、森の実りが無くなったら、人間が育てた物を奪え。

 だが、人間は狡猾だ。罠を仕掛けて、自分達が来るのを待ち伏せている。罠にかかって、死んだ仲間は沢山いる。

 気を付けろ、人間は恐ろしい生き物だ。

 気を付けろ、本当に怖いのは、森の奥に住むヌシ達ではなく、人間なのだ。


 兄妹は知っている。

 自分達を助けてくれた、あの人間は優しい。信用が出来る。

   

 兄妹は聞いている。

 人間に関わるな。人間を見たら、直ぐに逃げろ。


 多分、どちらも正解なのだ。兄妹は、特に理由は無く、漠然とそう考えた。

 恐らく兄妹は、己の心に従っただけなのだ。


 食事をくれて、見た事の無い化け物がいる場所から、別の場所に連れて来てくれた。おまけに別の人間が、治療までしてくれた。

 そんな人間が、怖いはずがない。

 

 だが、怖い人間もいるんだろう。

 仲間達が嘘を言っているのではない。たまたま、怖い人間と出会っただけなのだ。


 だけど、森から逃げた時に出会った、あの傷ついた人間からは、敵意を感じなかった。死にかけだったから、そう感じただけかも知れない。

 少なくとも、ここに辿り着くまで、あの人間は自分達を排除しようとはしなかった。

 

 ただ、間違いなく感じているのは、人間は人間、ゴブリンはゴブリン。

 住む場所が違えば、交わる事が無い。

 そんな人間とゴブリンが関わったから、あの優しい人間が仲間に責められていた。


 あの優しい人間には、迷惑をかけたくない。

 助けてくれたのだから。

 優しくしてくれたのだから。


 仲間から責められるのが、一番つらい事だ。仲間から、見捨てられるのが、一番いやな事だ。

 だから、あの優しい人間が、仲間外れにされない様に、せめて遠くへ。

 

 森ならば、生きる術を知っている。

 だから、あの山へ。


 ゴブリン達は、走る。畑を抜けて、その向こうへ。

 妹の手を兄が引いて、がむしゃらに走る。そして、木が生い茂る場所まで辿り着く。


 だが、ゴブリン達を待っていたのは、懐かしい故郷と同じ匂いでは無かった。

 そして、悪夢は蘇る。

 それは、どれだけ悲鳴を上げても、決して救われない残酷な過去。そして、目の前を覆い尽くす、真っ暗な闇であった。

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