第11話 目覚める患者
「どこだ? ここは、どこだ?」
青年が眼を開けた時、飛び込んで来た風景は、異様そのものだった。
四方を壁らしき物に、囲まれている。そして見た事の無い物体が、青年を囲んでいる。
ここは、建物なのか? いや、有り得ない。こんな建物は、見た事がない。
そして、青年は自分の体を見やる。
すると、多少でも自分の置かれた状況が見えてくる。だが、それすらも、異様な光景なのだ。
腕に刺さっているのは何だ?
先を見れば、赤と透明な何かが有る。あれは、なんだ?
なんで自分の腕に、こんなのが刺さっているのだ?
それと、幾つも体に張り付いている、この変な物は何だ?
そもそも、自分が寝かされているのは何だ?
寝床? いや、それにしては快適すぎる。これは、天国なのか?
自分に何が起きている?
「何をしてるんだ? 何が起きたんだ?」
清潔に満ちた空間内で、青年は混乱を極めていた。
仕方があるまい。青年は、診療所に到着する前に、意識を失っていたのだ。せめて、自分を支えてくれた神の如き老婆が傍に居れば、状況は多少でも理解が出来たであろう。
青年には、天から授かった能力が有る。それは、ぼんやりとでは有るが、他者の意志が読み取れるというもの。
だが、ここには誰も居ない。そして、周りには見た事のない物ばかり。
呼吸が出来る、肌に当たる僅かな風を感じる。目を動かす事が出来る。恐らく体も動かす事が出来るだろう。
自分が死んでいない事は、何となく理解が出来る。だが、自分が置かれた状況が判然としない。
そして青年は、記憶を手繰ろうと試みる。
はっきりと覚えているのは、子供のゴブリンが老婆に心を許し、移動の手伝いをしてくれた事。そして霧に包まれた後、見た事の無い場所へ辿り着いた事である。
その後の記憶は確かではない。何せ、朦朧とした意識の中で、漠然と事態を眺めていただけなのだから。
奇妙な物体の中から、女性が出て来た。その女性が老婆と話した後、自分を何かに乗せた。それは、微かに覚えている。
だが、それ自体が夢であると言っても、おかしくはない。
霧が晴れたら、違う場所に来ていた。それ事態が、夢である証拠かも知れない。
また女性が出て来た、あの奇妙な物体は何か? 生きているのか、死んでいるのか。死んでいるならどうやって動いているのか?
人間より大きくて、素早い動きをするのは、深部の化け物くらいだ。
仮に、あれが深部の化け物だとして、なぜ人間が五体満足で、体内から出て来られる?
何よりも、自分もその化け物の体内に、入ったはずなのだ。
だが、自分は死んでいない。いや、死んでいないというのが、勘違いなのか?
老婆が懸命になって、自分の命を救ってくれた。
だが、息を吹き返したのは、ひと時の事で有ったのか?
やはり自分は、助からなかったのか?
だったら、目の前にある異様な風景は何なのだ?
あの化け物は、それほど大きくは無かった。そもそも、あれは本当に化け物なのか?
しかし、はっきり言える事がある。
恐らくここは、あの化け物の体内ではない。ここは、建物の中でもない。
こんな綺麗な建物は見た事が無い。おまけに、こんな清潔な空間は、何処にも有りはしない。
「そうか、ここが神の国か」
青年がそう結論付けるのも、何ら不思議な事では無いだろう。
人は死ねば、神の国に召される。そう聞いて育ってきた。
その時の青年は、もしかしたら母に会えるかも知れないと思った。それなら、死んでも悪くないかも知れない、そんな事を漠然と考えていた。
青年が知る建物は、木で出来ている。固めた土の上に、木で柱を組み、板を張っただけ。そして大抵、隙間風が吹き込むし、昼間でも薄暗い。
所謂、雨を防げて、収穫物を置く場所が有ればいい。それが建物なのだ。青年が暮らす村には、そんな建物しか存在しない。
夜になれば、土が冷たくなる。それ故に藁を敷いて寝床にしている。
青年は、寝台の存在を聞いた事がある。土の床に直接寝るのではない、少し高さが有る木の台を作り、そこで寝るのだ。
しかし、青年の体にかけてある、ふかふかの物など存在しない、
家には、煮炊きをする為の窯は有る。それ以外には、作業の道具と収穫物しか置いていない。
どの家も似た様なものだ。家族が多い場合は、納屋と家を別にする事もある。
しかし、納屋には収穫物が、いつまでも貯蔵される事はない。収穫物のほとんどは、兵隊達が持っていく。大体どの家も、がらんどうなのだ。
対して、今の場所はどうだ?
天から吹く爽やかな風が、頬を撫でる。快適すぎる寝床は、安らかな眠りを誘う。
老婆だけでなく、あの女性も神だと仮定しよう。そう考えると、納得もいく。あれは、深部の化け物でなく、神の乗り物なのだ。
驚きの連続である。これが神の国でなく、なんだと言う?
そして、自分が理解出来ないのは、仕方がない事なのだろう。
何故なら自分は、ちっぽけな人間なのだから。朽ちるまで働き、働けなくなれば死ぬだけ、それだけの存在なのだ。
もしかすると、国王や神官の様な存在なら、この状況を理解出来たのかもしれない。国王と神官は、神に最も近い存在だと、聞いた事がある。自分とは全く別の、高尚な存在だ。
だが死ねば、それも関係は無いだろう。なにせここは、神の世界なのだから。
青年はもう一度周囲を見渡す。そして、ゆっくりと体を起こす。最初は力が入らなかった。だが、何度か回数を重ねる内に、力が入る様になって来る。
ゆっくりと、力をいれて体を起こす。そして、布団の中で足をばたつかせ、動かせるのを確認する。
それから青年は、自分の体にくっついている複数の何かを外した。
外した途端に、大きな音が鳴りだした事で、青年は驚いてベッドから飛び降りる。立てばクラリと、視界が揺れるのを感じる。しかし、歩けない程ではない。
そして青年は、耳を塞ぎながら、空間の出口と思われる場所を探した。
出口は思いの外、早く見つかった。よく見れば、囲まれた壁らしき物の一角に、開いている場所が有る。いつの間にか、がなり立てていた音が止んでいる。
そして青年は、開いている場所を通り抜けた。
「うん? また別の空間? ここは、何だ? あれは、座る場所か? 死んだ人間は、ここで待つのか? ここは、神殿の様なものなのか?」
開けた一角を抜けると、そこには別の空間が広がっていた。
そこに並んでいるのが座る場所だと、青年は直ぐに気が付いた。
しかし、触れてみればわかる、椅子にしては豪華過ぎる。木で作られた物ではない、それに何か弾力性の有る物が、敷かれている。
神の国なのだ、椅子が豪華なのも有り得る事だろう。そう解釈すると、青年は辺りを見渡しながら、歩みを進める。
青年は誤解を重ねたまま、一歩ずつ確かめる様に歩む。そして、新たな空間に入った後に一番目を引いた物へ、ゆっくりと近づいていった。
「……これは?」
これまで、不思議な物を目にして来た。それは、一際珍しい物であった。
壁らしき物の中に、大小二つの黒く塗りつぶされている個所が有るのだ。そして青年は、小さい方に近づく。
よく見れば、そこには黒く塗りつぶされた箇所は存在せず、その向こうに暗闇が有る。
「……透けている? これは本当に、壁なのか? いや、神の国だ、何が起きても不思議じゃない」
当然、青年はガラスを知らない。領主が居る街に行けば、窓が付いている建物くらいは有る。だが、窓は木で作られている。
青年には、これが透明な何かとしか思えない。理解の範疇を超えた物であった。
青年は、大きな方にも近づく。
文明社会とは切り離された、集落で暮らしていない限り、それが何であるかがわかるだろう。
何もしていないのに、透明な何かは、勝手に動き出す。
青年は驚きの余り、声も出せずに固まって、暫く動けずにいた。
青年の目の前では、透明な何かが動き続ける。何故、勝手に動き続けるのだ? 青年はそれを、語りかけているのだと理解した。ここから出ろと。
そして青年は、動き出した透明な何かを横目に、慎重に一歩を踏み出す。
「……能力? いや、神の力? 何が起きている? 何だ? 何処だ? ここは、本当に神の国なのか?」
神の国、その中に有る神殿であれば、神の力が及ぶはず。透明な何かと、勝手に動く不思議な仕掛けも、それで説明がつく。
ただ、青年を混乱させたのは、建物の外であった。
真っ暗で、ほとんど何も見えない。遠くに何か、光源らしき物が見える。更にその先に有るのは、恐らく山であろう。
神殿の光が漏れ出て、足元の光景は確認出来る。
土を固めた物よりも堅く、石より柔らかそうな、何かが大地が覆われている。それよりも、風に運ばれてくる匂いだ。
この嗅ぎなれた懐かしい匂いは、間違いなく肥やしだ。畑が近くに有るのだ。
先ほどまで屋内に居た為、青年は時間の経過がわからなかったのだろう。
また、屋内は昼間の様に明るかった。だから普通の建物だとも思えなかった。
当然、屋外に出れば、環境ががらりと変わる。それは青年にとって、理解の範疇外なのだ。
季節的には、熱帯夜が訪れる頃である。
信川村を訪れた時は、昼間で有った。真夏日でも暑さを感じなかったのは、青年の体に異変が起きていたからだ。少なくとも、体温は低下していたはずなのだから。
だが今は、自力で歩ける程に回復している。暑さも感じる。
それは、青年を現実へと引き戻す。
神の国でも、畑が有るのか?
神も食事をするのか?
いや、違う。思い出せ、あの老婆は、ゴブリン達に食事を与えていた。
自分に水を与えてくれた。
神がそんな事をするのか?
するとしたらいったい何故?
そもそも、神はなぜ自分の命を救ってくれた?
国王や神官ならばいざ知らず、自分の様な価値の無い生物を、神が救うのか?
あの老婆は、神ではなかったのか?
だとすれば、ここはいったい何処なのだ?
ここは、見知らぬ現実。
そう思った瞬間、得体の知れない恐怖が、青年の中を駆け抜けた。
神の国と信じていたからこそ、恐怖を覚えなかった。
青年は当初、診療所を神の国に有る神殿だと推測した。故に、好奇心が生まれた。
神の国とは、どんな所なのだろう。仄かな好奇心に誘われ、屋内を探索した。
少なくとも、寝床は快適であったし、椅子はどれだけ長く座っても、尻が痛くならない様に感じた。そして建物の中では、爽やかな風が吹いていた。
極めつけは、透明な何か。確かに、神の国と言える程の不思議な場所だった。
だが、暗闇の中で見たのは、まごう事無き現実である。
山が有り、畑が有る。空気はべったりと、鬱陶しく肌にまとわりつく。
自分が置かれた状況を現実だと判断した時、神聖な場所は、得体知れない何かに変わる。
理解出来ない全ての出来事が、恐怖へと変わる。
「急いで戻らないと! あの老婆は、人間だ。自分を助けてくれたんだ。早く戻ろう、せめてあの老婆が居る場所に戻ろう! ここは神の国じゃない! 自分の知っている場所じゃない!」
気が付いた時、青年は駆け出していた。
何処に向かえばいいのかもわからず、がむしゃらに走っていた。
ただしこれは、不運が重なった為に起きた事態である。
そんな不幸に見舞われたのは、青年だけでは無かった。
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