信川村の奇跡

東郷 珠

一章 未知との出会い

第1話 プロローグ

 どんな世界にも、恒久的な平和は無い。平和の定義は普遍的ではなく、時として一握りの悪意ある者によって蹂躙される。

 それは繰り返されてきた歴史が語る、一つの真実である。


 ☆ ☆ ☆


 その森は大きく様々な生物が暮らす。森の中には秩序が有り、生物達は森の恵みを得て暮らしていた。

 草花を食す昆虫、それを食べる鳥等の小さな動物、肉食獣は小さな動物を食す。ノーム、ゴブリン、トロールと言った、知性の有る人型の生物は、木の実や動物の肉を食べ、やがて土に還り大地を潤す。

 森の最奥には、体調は四メートルを優に超える大型の肉食獣も確認されている。ただ、森の深部に住む生物は、光を嫌い深い森の奥から姿を出す事は無い。


 何世代にも渡り秩序が保たれ、森の恵は循環していた。森の外には人里が有る、人間もまた森の恵みを得て生計を立てる。作物を育成する人間にとって、森から流れて来る水は何よりも貴重な資源であった。


 しかし、平和は残酷な程、簡単に壊される。


 その日、森の中に轟音が鳴り響いた。その音は終わりを告げる音であった。それは、空から降り注いだ巨大な落下物であった。森を破壊しながら横断した落下物は、中央付近で止まった。

 その落下物が、森に異変を齎した。


 それ以来、森には見たこともない巨大な化け物が現れる様になった。巨大な化け物は、森の住人達を蹂躙していった。

 先ず、森の深部に住む巨大な肉食獣が、化け物の餌食となった。次に、人間よりも体格の大きいトロールが、化け物の餌となった。食い飽きる事のない化け物は、森の賢者と呼ばれるノームを食らい尽くす。多分に漏れず、ゴブリンも奴らの餌となった。

 

 ほんの僅か、逃げ延びた者もいた。しかしほとんどが、化け物の餌食となった。そして生態系の頂点が入れ替わると共に、森に住む獣達は外側へと生活の場を移していった。


 ☆ ☆ ☆


 数週間位前から青年の住む農村には、畑荒らしが出ていた。

 農村近くには深い森が有り、害獣が住処を作っている。ごくたまに、迷って森から出た害獣が、畑を襲う事が有る。ただ畑には囲いが有り、被害が出る事は無かった。


 ただ、ここ一週間程は囲いが壊される様になり、日を追う毎に被害が大きくなる。辺境で、これと言った産業もない村では、日々の生活を支えるのは、自らが育てた農作物となる。

 これ以上、自分達の糧を奪われる訳には行かない。村民の合意の下、村長は害獣対峙の為に冒険者を雇う事に決めた。


 貧しい村では村民が出し合っても、大した報酬を用意する事は出来ない。依頼に応じた冒険者は、明らかに若く、装備が充実していない駆け出しの冒険者であった。

 そして青年は、地理に疎い冒険者を案内する為に、案内役として選ばれた。


 もし、パーティーメンバーの中にベテランが一人でも居たら。

 もし、森に入る前に入念な準備をしていれば。

 もし、森に点在するヒントを見落としていなければ。

 もし、この場所が辺境ではなく、王都に近かったら。

 もし、普段は森から出ない害獣が、森を離れて畑に食料を求めた原因を想定していたら。

 もし、冒険者ギルドの長が、異変に気が付き迅速な行動を起こしていたら。


 一つでも、もしもに対する行動を起こせていたら、この後に起こる悲劇は未然に回避出来たかもしれない。


 冒険者はベッドの上で死ぬ事は出来ない。冒険者の世界では良くある事である。なにせ報酬と命を、天秤に賭ける職業なのだから。

 ただし青年や農村部に住む人々には、関わり合いの無い世界である。だが、運命は残酷だった。


 その日、森の中は明らかに異様だった。鳥のさえずりが聞こえない、虫の羽音もしない。妙な静けさに包まれていた。

 森に入った四人の冒険者と青年は、その事に早く気が付き、森を去るべきだった。そして村へと急ぎ、事態の深刻さを告げ、避難を促すべきだった。

 そもそも、なぜ森に住む害獣達が、森を離れて村にまで食料を求めたのか。それは害獣達にとっての脅威が、森に存在するからであろう。


 突如として現れた何者かによって、森を住処にする害獣達は餌場を奪われた。そして害獣達は、森の外へと餌場を求める様になる。それ自体、村にとっては大きな問題である。

 しかし、もっと大きな問題も既に内包していた。その原因に誰かが気付いていたら、後の悲劇は生まれなかった。


 森の奥まで進んでいくと、やや開けた場所に着く。そこで冒険者達は、異様な光景を目にする事になる。


「な、なんだこれ?」

「ゴブリン…じゃないですかね?」

「にしても、この数は…。それにこの様子じゃ、随分時間が経ってるぞ!」

「数が問題じゃねぇ。獣に襲われたって、こんな事にはならねぇ!」


 集落だったのだろう。そこには多数の死骸があった。

 正確には食い荒らされた残り滓である。大人子供問わずに、食われたのだろう。

 赤黒く染まった大地に、死骸が転がる。腕がもがれ、腹は食いちぎられて、内臓が飛び出している。死骸は腐り悪臭を放ち、蛆やハエがたかっている。

 無造作に食い荒らされた事は、容易に推測出来る。だが、それ自体が異様なのだ。


 一つ、害獣は餌を粗末にしない。この惨状を見る限り、単なる狩りは考え辛い。

 一つ、大人のゴブリンは知恵が有り、集団で戦う術を身に着けている。

 

 ゴブリンは雑食である。また臆病な生物でもある。自衛の為に集団で生活し、集団で狩りを行う。

 そう、臆病だからこそ、この森の中で生き抜く事が出来た。


 言い換えれば、集団で戦闘行為が行える種族に対し、集落全体を全滅させ得る害獣が、この森に存在する事になる。それがいったいどれ程の脅威なのか、言わずもがなであろう。

 だが、僅かな経験を経ただけの、若く自尊心に満ちた冒険者達には、その脅威は響かなかったのかもしれない。


 鼻が曲がる程の悪臭と惨劇に、青年は嘔吐を繰り返していた。そんな青年を放置し、冒険者達は集落の状況を調べていく。


 ただ調べていく内に、異様さは増していった。特に戦闘行為らしき形跡が、見当たらないのだ。

 ゴブリン達は一方的に蹂躙されたとしか思えない。幾らゴブリンがおとなしい生物であったとしても、有り得ない事だ。

 自らの命を守る為に、戦わない生物は存在しないのだ。

 

 そして、疑問は更に深まる事になる。

 集落のはずれ辺りに、森の木々がなぎ倒されているのを、冒険者が見つけた。それは、巨大な獣が強引に道を作った様にも見える。

 異様な有様に、流石の冒険者達も唖然となっていた。


 そして一人の冒険者が、えずいている青年を強引に立たせると、集落のはずれまで引きずって来る。そして、問いただした。


「この森には、こんな事が出来る化け物がいるのか?」

「い、いえ。そんなまさか」 

「じゃあ何か? これは夢だとでも言うのか? 人が何人も通れそうな道が、出来てんだぞ!」

「そんな事は。でも」

 

 この時、青年は有る事に気が付いた。そして、瞬間的に顔面蒼白になった。


「あ、あ、あ、あ、あの。あの、あの、あの」

「なんだ、落ち着け! どうしたんだ!」

「こ、これ、これ。この方面は深部です。深部からここまで繋がってます。それで…」


 青年はどもりながらも、指を差して冒険者達に説明する。流石に冒険者達も気が付いたのだろう。一斉に真っ青な表情に変わっていった。

 木が薙ぎ倒された道の先は、森の最深部である。もし惨状の原因が、深部の害獣が暴れ出したのだとしたら。

 

「くそっ!」


 冒険者のリーダーらしき存在が、土を蹴り上げる様にして、怒りを露わにする。 

 

「なんだかわからねぇ。でも、やべえ! 急いで村へ引き返すぞ!」


 リーダーが焦った様に早口で捲し立て、村へ戻ろうとしたその時であった。木々の間から、唸る様な声が聞こえた。

 次の瞬間には狼型の化け物が二体、飛び出して来た。


 虚を突かれ、冒険者達は混乱する。その間にも、無慈悲に狼型の化け物は、冒険者達に迫る。

 リーダーが、剣を抜いて化け物の一体を止める。しかし、もう一体は冒険者の一人に噛みついた。

 体長は五メートルを優に超える大型の化け物である。大きな顎で胴を食いちぎられ、冒険者の一人は絶命した。

 

「急いで逃げろ! 村へ伝えろ!」


 リーダーが怒声を上げる。恐怖で足が竦んだのか、残り二人の冒険者は、腰が抜けた状態でガタガタと震え失禁をしている。

 

「何してる! 早く逃げろ!」

 

 度重なるリーダーの怒声も耳に入らないのか、二人の冒険者は只々震えていた。リーダーは、剣を振り回し、化け物の一体を懸命に止める。

 冒険者の一人を食いちぎった化け物は、怯える二人の冒険者に迫った。


「こっちだぁ!」


 その時、青年の声が森中に響き渡る。そして青年は、何度も大きく手を叩き、自分の存在をアピールした。

 大きく顎を開き、冒険者に襲いかからんとしていた化け物の視線が、青年へと向く。この瞬間にターゲットは、冒険者二人ではなく、青年へと変わった。

 そして青年は走り出した、村とは別の方角へ。


 なぜ、こんな行動したのか、青年は自分でも理解出来なかった。血塗れになったゴブリンの死骸を見て嘔吐し、その後も震えていたにも関わらず。

 別段、体力に自信が有る訳では無い。逃げ足にも自信は無い。

 喧嘩が弱く臆病な青年は、村中の男衆からは見下されている位なのだ。


 会ったばかりの冒険者を助ける謂れはない。正義感などカッコいいものでもない。勇気などこれっぽちも無い。

 なぜかその瞬間だけは、そうするべきだと漠然と考えた。そして、体が自然と動いた。


 不確かな感情に押され、青年は森の中を走る。そして、母の形見であるネックレスを握り絞めながら、青年は神に祈った。


「お願いします。助けて下さい。助けて下さい。助けて下さい」


 村を守りたかったのか、冒険者達を守りたかったのか。そのどちらでも無く、どちらでも有るのだろう。

 自分独りの命を救って欲しいのか、自分を囮にして何かを守りたかったのか。そのどちらでも無く、どちらでも有るのだろう。


 青年が化け物から感じたのは、激しい憎悪だった。

 深部の化け物など見た事が無い。故に、どの様な存在かはわからない。しかし、化け物からは森の王者足る風格は、微塵も感じない。

 伝わってくるのは、激しい怒りに支配され、何もかも食らい尽くさんとする様な感情である。


 森に何が起きたのか、到底理解が及ばない。化け物の正体などわかりはしない。 

 只々、恐ろしかった。


 しかし、足を竦ませる様な恐怖より、生への渇望が勝った。そして、青年の命を懸けた逃走が始まった。


 化け物は、青年を追い立てる様に、軽快に左右へ体を動かす。そして残酷な事に、青年の体は直ぐに限界を迎える。


 心臓は痛い程に大きな音を立てて鳴る。呼吸が上手く出来ずに、苦しさが増す。足がもつれて、思う様に走れない。

 このまま走れば、死ぬんじゃないかとさせ思わせる程、どんどん体は悲鳴を上げていく。それでも、足を止める訳にはいかない。

 後方では化け物が青年をがなり立てる。時折、木の幹に足を取られ、転びそうになる。不格好な様子で態勢を立て直し、青年は懸命に足を動かす。


 村の事、冒険者の事、ゴブリンの集落が襲われた原因、木々をなぎ倒した原因、自分を追いかけている謎の化け物。様々な事が、青年の脳裏に浮かんでは消える。

 何よりも、目の前で食いちぎられた冒険者の姿が、青年の脳裏から離れなかった。

 それは、現実に迫る死の恐怖であった。


「死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない」


 背後に迫る化け物の餌食にならなければ、この苦しみは永遠に終わらない。足掻いても、もがいても、恐怖は治まらない。戦う術はなく、逃げる術もない。


 しかし、決して逃れられない死の定めに、青年は抗った。これまで大した目標もなく、ただ漫然と日々を繰り返してきた青年は、初めて生に執着した。


 巨大な爪が、枝を切り裂きながら青年へ迫る。青年の肩口を掠め、血が吹き出す。痛みが青年の全身に駆け巡る。それでも青年は、走るしかなかった。


 何度となく振るわれる化け物の爪は、否応なく青年に深い傷を作る。

 この時、森もまた青年の敵であった。小枝で体のあちこちが切り裂かれ、服はボロボロになり、至る所から血が流れだす。

 滝の様に流れる汗は、既に少ない青年の体力を、更に削り取っていく。


 どれだけの時間、走ったのだろう。

 心臓が痛い、息が出来ない。血を流し過ぎて、朦朧とし始める。意識が遠のき、青年が死を覚悟した瞬間、ようやくそれは訪れた。

 遠くに光が差し込むのが見える。背後に感じていた化け物の気配が遠ざかる。


 青年は朦朧としながら、光の差す方へ向かった。

 そして気が付いた時には、森を抜けていた。


 自分は助かったのだろうか。


 森を抜けると、青年は力尽きる様に倒れ伏す。

 化け物は、光を嫌うかの様に、森から出る事無く引き返す。だが、僅かに残る意識の中で、青年は聞いていた。ギイギイという呻き声を。


 仰向けに倒れた青年は、腕を動かす事も、首を僅かに傾ける事も出来ずにいる。

 青年は声がする方角へ、視線をほんの僅かに向ける。そこにはゴブリンの子供が二体、棒切れを持って立っていた。


 足を震わせながら棒切れを構えているが、近づいて来ようとはしない。ゴブリンの子供達からは、恐怖の意志が攻撃の意志よりも強く伝わってくる。


 近付かなければ攻撃される事は無い。問題は青年の体である。今なお、夥しい血を流したせいか寒気が止まらない。ようやく化け物から逃げおおせても、青年には死が迫っていた。

 

 ただ、奇跡というものは、起こり得る。青年の持つ母の形見が僅かに光る。その瞬間、誰も居なかったはずの場所に、老婆が立っていた。

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