また逢えて 5
植物園の大きな池に架かる橋の中程で、宏枝は手にした小さな包みを神妙な面差しで見つめていた。
中身は、男物のハンカチが1枚。──あの6月の京都で、良樹くんが貸してくれた、そしてそのまま借りっぱなしになっていたものだ。
今日彼に会うのは、これを返す、というのがいくつか書き出してみた口実のなかの一つ……。
なぜこれが宏枝の手元に戻ったのか、彼女は思い出すことができないでいた。
でも、思い当たることはある。
退院の日、新館受付の待合で、これまで見た覚えのない女の看護師さんに声を掛けられた。どこか猫を感じさせる目を細めた彼女に「──今日、退院ね。おめでとう」と云われたとき、なぜかわたしは、このひとを知っている、と感じた。大切な何かを、このひとから確かに受け取った、という記憶──。でも、その記憶はもう、思い出すことのできない記憶の中の記憶……。
そのとき、池の向こうに、彼の駆ける姿が目に入った。
宏枝は、ハンカチの包みをバッグに戻した。
植物園の北側の入口から園内に飛び込んだ良樹は、時計塔の針の位置をチラと確認した。10分を切ってるけど、まだ遅れてない。大きな池をぐるりと回るように西側から橋を目指す。
橋の中央部、クランクになったそこに、たぶん彼女だ、という人影がある。良樹は歩調を速めた。
約束の時間から5分前、そこはなんとか死守できた。
彼女は気付いていない。
橋の欄干に身を持たせるようにして、池の方を見やっている小柄な女の子の横顔に声を掛ける。
「……ごめん!」 良樹の息は、少し弾んでしまっている。「──待った?」
彼女の頭の動き始めたタイミングの早さに、彼女がもうずっと前から良樹に気付いていたことがわかった。
小さく首を振った顔が、笑顔を浮かべる。
「ううん。2、3分……」
京都の記憶の中のそれと比べ、少しやせてほっそりとしていたが、病床の彼女のそれからはずっと血色の良い、愛らしい顔がはにかんでいた。
明るい色のベレー帽からのぞいた髪が、つやつやと輝いている。記憶にある彼女の髪よりもずっと少ないと思うのに、あれだけの量の髪があのベレーの下に収まるものなのかと、まったく見当違いな感慨を持ったりしながらも、はじめて見る彼女の私服姿に、良樹は見惚れてしまう。
ボーダー柄のプルオーバーのトップにカーキ色のガウチョパンツという組み合わせが、やせた身体を隠すためのコーディネートだということは、あとから気付いた。
彼女の瞳が、自然とじんわりと潤むのに、良樹のこころは6月の、あの京都の夕暮れの頃に戻っていた。
「ひさしぶり、なのかな? ……この場合」
ぎこちない感じの良樹に対し、宏枝はぺこりと会釈して朗らかに返す。
「おひさしぶりです」
そのあと、どう会話を続けようか戸惑うふうな良樹に、少し間ができるより先に、ちょっと可笑しそうに宏枝が口を開いた。
「あはは……なんかへんですね──。わたしの方がお姉さんだったなんて……」
そう云うとちょっと不思議そうに笑って、まぶしいものを見るように目を細める。
「うん……」 肯く良樹。
彼女のお道化た空気が伝わって、良樹の顔にも笑顔が浮かぶ。
実際、良樹にそんな感覚は少しもない。けれど──
次の言葉が、照れ隠しも手伝って思わず口をついて出た。
「中里……さん、の方がいい?」
云われた宏枝の顔は、微かに曇った。
隠しきれない残念そうな色を、その瞳に少しだけ浮かべて、良樹の顔を見上げる。
──〝なかざと〟じゃないんだ……。
──日記では、〝ひろえ〟と〝良樹くん〟だったのにな……。
そんな思いを飲み込んで、肯いて返そうとした宏枝に、良樹が重ねて云った。
「やっぱり、ひろえでいいよな?」
「え……?」
もはや照れ隠しの上塗りとばかりに、頭を後ろ手に掻きながらそう云う良樹に、宏枝はちょっと幸せそうな顔になる。
「うん!」
彼女の目が思いっきり細くなる。
「じゃ、行こうか?」
二人並んで歩き始める──。
と、彼女が手を取って駆け出した。──トントン、と……、既視感のある情況。でも今日は、あのステップで勢いよく振り向くとき、足が縺れて転びそうになる。とっさに良樹は、握った手を引いて細い身体に腕を回していた。
「──だいじょうぶ?」
「うん……」
良樹がゆっくりと身体を離す。固まった宏枝が、まだどきどきしている自分を落ち着かせるように、目を瞑って、小さく深呼吸──。
「……だいじょうぶ」
それから上目で良樹を確認して、ちいさく云う。
「ありがと」
良樹の方は良樹の方で、赤らんだ顔を見られないように顔を逸らして、周囲を見ている。それで橋の上に飛んだベレー帽を拾うと、宏枝の頭のてっぺんに浮いた艶やかな輪の上にひょいと乗せて云った。
「気をつけろよ。まだ万全じゃないんだから」
そこで初めて気づいたふうに訊いた。
癖っ毛気味の髪を耳にかけたショートボブ。
「髪、切ったんだ」
「はい……それはもう、ばっさりと」
宏枝は顔をほころばせ、ベレーの位置を直しながら、軽くなった髪の前下がったサイドを良樹の方に向けてみせる。
──ああ、そうか……。こういうふうに言えばよかったんだ……
「おかしいですか?」
一瞬見惚れて反応が遅れたので宏枝は不安になったらしい。髪の後ろを気にするように、両手を頭の後ろに回す。
「いや、ぜんぜん──というか、すごく似合ってる…… ってか、その……かわいい、よ……」
その不安な声に、良樹は素直に答えた。
宏枝ははにかんで笑う。かわいいと言ってもらえたことが、すごくうれしい。
──約束された未来なんてないけれど……未来があれば、人はそうなることを希える……
そのときに宏枝は決めた。
あのハンカチは、いまはまだ返さないことにしよう、と。
良樹が左手を差し出す。──あの日の京都と同じように。
宏枝はその手を取った。
はじまったばかりの秋の空は、あの初夏の陽射しよりもやわらく、澄んだ色彩──。
そのあたたかな光の中、ふたりは、ふたりの時間を歩き出す。
やっとはじまった、出会いの物語だ──
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